― 第1節:もとの場所へ ―
再び坂を登ったとき、私は何も考えていなかった。
ただ、体が勝手に動いた。
あの家の空気があまりにも完璧すぎて、逆に怖くなった。
そこにいた“母”や“祖母”は、もう私が知っている人たちじゃない。
──そんな気がして仕方なかった。
夜風は冷たかった。
木々の間をすり抜けていく空気が、まるで私の輪郭を確認するように肌を撫でていく。
風鈴の音は、もう聞こえなかった。
坂を登る足音だけが、湿った土に吸い込まれていく。
鳥居の前に立ったとき、私は初めて“迷い”を感じた。
──この先に戻り道はあるのか。
それとも、もうすべては手遅れだったのか。
でも、ためらっている暇はなかった。
このまま家に戻ったら、私の名前は完全に“消えて”しまう。
私は、鳥居をくぐった。
その瞬間、胸の奥で何かが“ズレて”鳴った気がした。
気づけば、私は――祖母の家の前に立っていた。
さっきと同じ風景。
でも、少しだけ空気が違っていた。
夜明けが近かったのか、空がわずかに明るい。
草の匂いが生々しく、風は冷たいのに湿り気を帯びている。
玄関の引き戸を開けると、軋む音が響いた。
それは、以前と変わらない音だった。
でも、私の耳には少し“軽く”感じられた。
「おばあちゃん?」
私は、声を出してみた。
でも返事はない。
廊下を進み、居間をのぞく。
ちゃぶ台の上には、夕べ食べたはずの器がそのまま置かれていた。
誰も片づけていない。
人の気配が、すっぽりと抜けていた。
その瞬間、胸の奥でざわりと何かが動いた。
──あれ? おかしい。
私は昨日、食事をしたあと布団に戻ったはず。
それからすぐに、坂を登った。
なのに、食器はまったく同じ位置に置かれていて、箸の角度すら変わっていない。
まるで、時間が止まったままになっているみたいだった。
祖母の部屋をのぞいてみた。
布団は敷かれていたけど、人の気配はなかった。
枕元には湯飲みと本が置いてある。
読んでいたページは、昨日の夜に見たときと同じ。
まるで、昨日の夜から誰もここを動かしていないように見える。
私は、ひとつ深呼吸をした。
胸の中に広がっていた不安を、無理やり追い出すために。
けれど、その空気は重く、なかなか吐き出せなかった。
鏡を見る。
映っているのは、確かに“私”だった。
髪も、顔も、服も──全部見覚えのあるものばかり。
だけど、その瞳の奥に宿っていた光が、どこか“他人”のように感じた。
もしかして──
私は、元の場所に戻ったんじゃない。
“よく似た場所”に、入り込んでしまっただけなんじゃないか?
その思いが胸に灯ったとき、私は小さく息を呑んだ。
だとしたら、ここはどこ?
私がいるべき世界は、まだ向こう側にあるの?
私の“帰る場所”は──まだ、この先にあるの?