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『とこしえ坂』  作者: 血反吐P
第1章:夏休みと田舎
11/22

― 第10節:呼ばれない名前 ―


朝になっても、誰も私を起こしにこなかった。




 祖母の家では、いつも早起きが習慣だったはずなのに。


 味噌汁の香りも、食器が触れ合う音も聞こえない。


 耳に届いてくるのは、かすかな風鈴の音だけ。




 私はゆっくりと体を起こした。


 部屋の中は、昨夜と何ひとつ変わっていない。


 畳の匂いも、障子から差し込む光の角度も、完璧なほど同じだった。




 ……でも、胸の奥に残っていたのは、妙な空虚感だった。




 夢じゃない。


 でも、ここは“私の知っている現実”でもない。




 




 階下に降りると、祖母が台所にいた。


 湯を沸かしている。音も見た目も、まったく普段通り。


 けれど、私は一瞬ためらってから声をかけた。




「……おはよう」




 祖母は私のほうを見た。


 微笑んで、ふんわりと返してくれる。




「いい朝だねえ」




 それだけだった。




 “まどか”という名前は、口から出てこなかった。




 




 私は気にしすぎているのだろうか。


 でも、昨日まで祖母は、私のことを名前で呼んでくれていた。


 「おかえり、まどか」と。


 「まどか、疲れたろう」と。


 なのに今は、“あいまいな存在”としてしか扱われていない気がしていた。




 




 朝食の席に、母が来た。


 私の向かいに座ると、「いただきます」と手を合わせる。


 その動きも、表情も、何ひとつおかしくない。


 それなのに──私は、席に着いてから一度も「まどか」と呼ばれていなかった。




 




「ねえ」




 私は口を開いた。




「私の名前……覚えてる?」




 母は箸を止めた。


 一瞬、何かを考えるような顔になって──そして、笑った。




「なにを言うの。そんなの、決まってるでしょ」




 でも、その先がない。




「……だったら、言ってみてよ。私の、名前」




 空気が、少しだけ重くなった気がした。


 母は、ゆっくりと笑顔を崩さずに言った。




「あなたは、あなたよ」




 答えになっていなかった。


 そう言われた瞬間、足元がぐらついた気がした。




 “あなた”。


 誰にでも通じる言葉。


 名前ではない。呼び名ではない。




 




 私は顔を上げた。


 家族の誰もが、私を見ていた。


 でもその視線には、明確な焦点がなかった。


 まるで“こちらを見ているようで見ていない”──そんな感じ。




 




「おかしいよ。だって、私の名前は……!」




 私は声を荒げた。


 でも、そのときだった。




 喉の奥から、言葉が出てこなかった。




 




 まどか、って言いたかった。


 でも舌がもつれて、それがどういう音だったのか、一瞬わからなくなった。


 脳が命令しているのに、口が動かない。


 まるで、“自分の名前を忘れてしまった”ような感覚。




 




 私は自分の胸を押さえた。


 心臓が早鐘のように鳴っている。


 汗がにじみ、指先が震えていた。




 どうしよう。


 どうやって、この世界から抜け出す?




 どこに戻ればいい?


 私のいた場所は、どこにあった?




 




 ふと、視界の端に祖母の姿が見えた。


 彼女は、無表情で私を見つめていた。


 さっきまでとは違う、“何かを見定めるような目”だった。




「……まどか」




 その声が、やけに遠くから響いた。




 




 名前を、呼ばれた。


 でも、それは“私”のことを指していたのか?




 




 私は、私なのか?




 




 目の前の人たちは、家族なのか?




 それとも、“まどか”という存在を知っているだけの“何か”なのか。




 




 風鈴が、からん……と鳴った。




 名前を呼ばれる音ではなかった。


 でも、その響きの中に、“まどか”という響きが紛れているように思えた。




 ──そんなふうに感じてしまうこと自体、すでにおかしいのかもしれない。




 




 私は、立ち上がった。


 もう一度、あの坂へ行かなくてはならない。


 それが正しい行動かはわからない。


 けれど、今ここにいたら、私はきっと“私”じゃなくなる。




 




 戻らなきゃ。


 あるいは、確かめなきゃ。




 本当に私の名前を、誰も──




 




 呼んでくれなかったのかどうかを。





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