― 第10節:呼ばれない名前 ―
朝になっても、誰も私を起こしにこなかった。
祖母の家では、いつも早起きが習慣だったはずなのに。
味噌汁の香りも、食器が触れ合う音も聞こえない。
耳に届いてくるのは、かすかな風鈴の音だけ。
私はゆっくりと体を起こした。
部屋の中は、昨夜と何ひとつ変わっていない。
畳の匂いも、障子から差し込む光の角度も、完璧なほど同じだった。
……でも、胸の奥に残っていたのは、妙な空虚感だった。
夢じゃない。
でも、ここは“私の知っている現実”でもない。
階下に降りると、祖母が台所にいた。
湯を沸かしている。音も見た目も、まったく普段通り。
けれど、私は一瞬ためらってから声をかけた。
「……おはよう」
祖母は私のほうを見た。
微笑んで、ふんわりと返してくれる。
「いい朝だねえ」
それだけだった。
“まどか”という名前は、口から出てこなかった。
私は気にしすぎているのだろうか。
でも、昨日まで祖母は、私のことを名前で呼んでくれていた。
「おかえり、まどか」と。
「まどか、疲れたろう」と。
なのに今は、“あいまいな存在”としてしか扱われていない気がしていた。
朝食の席に、母が来た。
私の向かいに座ると、「いただきます」と手を合わせる。
その動きも、表情も、何ひとつおかしくない。
それなのに──私は、席に着いてから一度も「まどか」と呼ばれていなかった。
「ねえ」
私は口を開いた。
「私の名前……覚えてる?」
母は箸を止めた。
一瞬、何かを考えるような顔になって──そして、笑った。
「なにを言うの。そんなの、決まってるでしょ」
でも、その先がない。
「……だったら、言ってみてよ。私の、名前」
空気が、少しだけ重くなった気がした。
母は、ゆっくりと笑顔を崩さずに言った。
「あなたは、あなたよ」
答えになっていなかった。
そう言われた瞬間、足元がぐらついた気がした。
“あなた”。
誰にでも通じる言葉。
名前ではない。呼び名ではない。
私は顔を上げた。
家族の誰もが、私を見ていた。
でもその視線には、明確な焦点がなかった。
まるで“こちらを見ているようで見ていない”──そんな感じ。
「おかしいよ。だって、私の名前は……!」
私は声を荒げた。
でも、そのときだった。
喉の奥から、言葉が出てこなかった。
まどか、って言いたかった。
でも舌がもつれて、それがどういう音だったのか、一瞬わからなくなった。
脳が命令しているのに、口が動かない。
まるで、“自分の名前を忘れてしまった”ような感覚。
私は自分の胸を押さえた。
心臓が早鐘のように鳴っている。
汗がにじみ、指先が震えていた。
どうしよう。
どうやって、この世界から抜け出す?
どこに戻ればいい?
私のいた場所は、どこにあった?
ふと、視界の端に祖母の姿が見えた。
彼女は、無表情で私を見つめていた。
さっきまでとは違う、“何かを見定めるような目”だった。
「……まどか」
その声が、やけに遠くから響いた。
名前を、呼ばれた。
でも、それは“私”のことを指していたのか?
私は、私なのか?
目の前の人たちは、家族なのか?
それとも、“まどか”という存在を知っているだけの“何か”なのか。
風鈴が、からん……と鳴った。
名前を呼ばれる音ではなかった。
でも、その響きの中に、“まどか”という響きが紛れているように思えた。
──そんなふうに感じてしまうこと自体、すでにおかしいのかもしれない。
私は、立ち上がった。
もう一度、あの坂へ行かなくてはならない。
それが正しい行動かはわからない。
けれど、今ここにいたら、私はきっと“私”じゃなくなる。
戻らなきゃ。
あるいは、確かめなきゃ。
本当に私の名前を、誰も──
呼んでくれなかったのかどうかを。