― 第9節:無傷の家族 ―
目の前にあるのは、見慣れた家だった。
瓦屋根の平屋。木の格子。縁側に吊るされた風鈴。
玄関脇の草木の配置も、窓の雨戸の具合も、すべてが記憶通りだった。
──でも、私は一歩踏み出せなかった。
その“完璧さ”が、逆に怖かった。
寸分の狂いもなく再現された家。
それはまるで、私の記憶を元にして造られたレプリカのようだった。
けれど、私はゆっくりと玄関へと足を向ける。
戸を引くと、いつもの音がした。
ギギィ……と、古びたレールが木の滑りを受け止める感触。
その音すら、妙に“整っている”ように思えた。
「……ただいま」
私は小さく呟いた。
返事はなかった。
しかし、奥から足音が近づいてくる。
現れたのは、母だった。
──いや、母“のような”人だった。
姿は間違いなく母そのもの。
顔も、髪型も、部屋着のくたびれた感じまで完璧に一致している。
でも、笑顔がほんのわずかに“硬い”。
目元に生気がなく、ピントがぼやけて見えた。
「おかえり、まどか。遅かったね」
その声。
口調まで、いつもの母だった。
だけど、私は胸の奥に小さな疑問を抱いた。
──“まどか”って、いま、呼んだ?
たしかにそう聞こえた。
けれど、どこか機械的な、音を鳴らしただけのような不自然さが混じっていた。
居間に入ると、祖母がいた。
湯呑みにお茶を注ぎながら、私のほうを見て微笑んでいる。
「顔色が悪いね。ちゃんと食べてる?」
それは、優しさのこもった“言葉”のはずだった。
だけど、目が笑っていなかった。
人形みたいな目。
見えているのに、見えていない。
私を“認識しているようで、していない”。
私は言葉を失った。
けれど、それを不審に思う様子は誰の顔にもなかった。
父もいた。
新聞をめくりながら、「おかえり」とだけ言った。
新聞は、紙の質もフォントも本物そっくりだった。
でも、日付がなかった。
記事も、見出しも、妙に曖昧な言葉ばかりが並んでいる。
見ているようで、何も読んでいない気がした。
私は、自分の口から出そうになった質問を押し殺した。
「ここって、本当に……うち?」
それを言ってしまえば、戻れなくなる気がした。
いや、もう戻っていないのかもしれない。
坂を越えた時点で、“元の世界”には帰れなくなっていた。
それでも、私は最後の一線を保とうとしていた。
夕食の時間になっても、誰もおかしなところを指摘しない。
食卓には、私の好物ばかりが並べられていた。
鮭の塩焼き、冷やしトマト、だし巻き玉子、冷奴──
それらすべての“味”が、完璧すぎる。
再現された理想。
けれど、舌の奥で感じる塩気は、どこか薄い。
味はあるのに、温度がない。
調味料が揃っていても、“作った人間の体温”が感じられなかった。
「ねえ、まどか」
母が、私の名前を呼んだ。
でも、次の言葉が続かなかった。
呼びかけただけで、目的がなかったように見える。
「……なに?」
私が返すと、母はまた笑った。
そして、「ごはん、冷めちゃうよ」とだけ言った。
あまりにも自然すぎるやりとり。
けれど、“心が通っていない”。
ご飯のあと、祖母が私の手を取り、こう言った。
「おかえり、まどか。もう、だいじょうぶだよ」
その言葉が、妙に耳に残った。
──“もう”?
──“だいじょうぶ”って、なにが?
私が聞き返そうとしたとき、祖母はすっと手を離した。
そして、まるで“役目を終えた人形”みたいに立ち去っていった。
その夜、私は布団に入っても目を閉じられなかった。
部屋の天井は、昔とまったく同じ模様。
だけど、空気のにおいが違っていた。
畳の匂い。木材の匂い。夏の夜の湿気──
どれも正しい。正しいのに、“本物じゃない”。
目を閉じると、風鈴の音が耳の奥に響いた。
もうどこから鳴っているのかわからない。
──これは夢じゃない。
──だけど、現実でもない。
その確信だけが、胸の奥で冷たく膨らんでいった。