プロローグ
あの坂には、名前がなかったと思う。
裏山の、そのまた裏手。
うっそうとした木立の中に、ほとんど隠れるようにしてのびていた、細くて暗い坂道。
舗装もされていなくて、ぬかるんだ土の上に細い雑草がまばらに生えていて、どこからが道なのかよく分からなかった。
でも、子どもの頃の私は、なぜかその坂に“向こう側”の気配を感じていた。
誰も教えてくれなかったのに、そこを登ったら、もう戻ってこられなくなるような気がした。
──だからなのかもしれない。
その坂に、妙に惹かれてしまったのは。
「まどか。その坂だけは、絶対に登っちゃいけないよ」
最初にそう言ったのは、おばあちゃんだった。
まだ私が小学校に入る前、夏休みのあいだ田舎の家に預けられていた頃のこと。
庭から裏山を眺めていて、ふと草の隙間から細い道が見えた。
目を凝らすと、奥の方に鳥居みたいなものが立っていたような気がする。
足を向けかけたそのとき、おばあちゃんが声をかけてきた。
普段はとても穏やかな人なのに、そのときの声は低くて、硬くて、少しだけ震えていた。
「なんで? 神社とかがあるの?」
「行ったらダメ。昔から、あそこに登った人は……帰ってこれないって言われてるの」
その言い方が、冗談っぽくなくて。
私はうなずいて、素直に引き下がった。
でも──どうしても気になってしまった。
その数日後の夜、みんなが寝静まったあと、私はこっそり布団を抜け出した。
風のない夜だった。虫の声も、遠くの川の音も聞こえなかった。
空気がやけに澄んでいて、月の明かりだけが庭を照らしていた。
私は縁側からそっと外に出て、裏山の方へ向かった。
どうして、あの時あんなに強く惹かれたのか、今でもわからない。
ただ、あの瞬間は、本当に誰かに“呼ばれていた”ような気さえする。
坂道は、昼間に見たときよりもはっきりと形を持っていた。
足を踏み入れると、湿った地面がじくりと靴底に染みてきた。
坂は長くて、どこまでも続いていたように思う。
何度か足を取られそうになりながら、それでも私は登った。
登るたびに、空気が変わっていく。
温度じゃない。匂いでもない。
でも、確かに“違う場所”に近づいていく感覚があった。
坂の上には、赤い鳥居がひとつだけぽつんと立っていた。
錆びていて、触れたら崩れてしまいそうなくらい脆そうな鳥居。
でも、その奥には何もなかった。社も、祠も、石碑もない。
草が伸びきって、風も吹いていなくて、虫の声も聞こえない。
ただ、そこだけがまるで“時間の止まった場所”みたいだった。
私はしばらくその場に立ち尽くしていた。
そして、ふと我に返って、坂を下り、家に戻った。
何も起きなかった。
誰にも見つからなかったし、体調もおかしくならなかった。
夢だったんじゃないかと思うほどに、すべてが静かだった。
でも、今でもはっきり覚えている。
あの夜の空気、草のざわめき、あの鳥居の形。
そして、坂の上で、私を“見ていた何か”の気配。
──それから、九年が過ぎた。
高校二年の夏。
私は再び、おばあちゃんの家へ向かうことになった。