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瀬里奈

1ー


 この街に来て4回目の春が来た、川沿いにはソメイヨシノの並木がある。ソメイヨシノは花を下向きに咲かせ、満開になって下を歩く人々を祝福しているようだ。ただ、その人々に私は含まれていない。


 地元ではいい大学と云われる大学に通い、普通に一般事務で就職するつもりだった。

 4年生になった時、既に就職戦線からこぼれ落ちていることを知った。みんなが3年生の時から活動していることは知っていた。でも高を括っていた、何処かあると。

 文系大学を出て資格もスキルもない身にはいくら学生有利の就職戦線といっても簡単に割り込む余地は無かった。

 それに私が考える一般事務というものはこの世に公務員くらいしかなかった。勉強もせずに受けた公務員試験は当然全滅、ここに至っては選り好みは出来なかった。

試験を受けては不合格を繰り返すばかりで、段々と無口になって行く私を母は何も言わずに見守ってくれた。そんな母の態度さえ気に入らず、早くこの街から抜け出したかった。

 幼い頃は保育園の先生になるのが夢だったのに、母からいい大学を出て、いい会社の事務職になりなさい、それが幸せの第一歩よ、と言われ、いつの間にか私もそう思う様になっていた。

 運良く故郷を遠く離れたこの街の中堅商社で契約社員の席を得た。


 初日、会議室で社長のあいさつがあった。

 契約社員でも成績の良い者は正社員への登用の道があります。皆さんの努力次第です。頑張ってください。

 はい、頑張ります!希望に満ちたスタートだった。

 配属された総務課は役職者を除くと職員は30名在籍している。内訳を見ると正社員は8名、契約社員18名で派遣社員も4名いた。

 正社員の補佐が契約の仕事のはずだが、これだけ人員配置が契約に偏っていると実際は正社員以上にこき使われる。

 3ヶ月も経つと仕事にも慣れ同時に中が見えてくるようになる。

 責任のある仕事も任される、といえば聞こえは言いが正社員がやりたく無い仕事が回ってくる。完全にヒエラルキーがあり正社員は契約社員を下に見ている。契約に拒否権はなく、失敗すれば責任を追及される。それでいて、給料は辛うじて高卒初任給よりちょっと上というレベルで、昇給もない。


 その頃、昼の社食で、今年3年目の先輩がFP(フィナンシャルプランナー)資格を取ったと話していた。

「FP位じゃだめだけど、ここにいるうちに色々資格を取って次の就職はもっと良い所に行きたいの。こんなところで彼奴等(正社員)の嫌味ばかり聞いてられないからね。」

 資格かぁ、大学の時も司書やTOEICなんか頑張っていた人がいたなぁ、他人事だと思っていた・・私は何か出来る事があるんだろうか?

「私はここで結婚相手を探すわ。」

 横にいた先輩は、

「あんたはきれいだし、若いし良いわね。で、誰を狙っているの?」

「内緒です。」

 池添さんはどう?

「あのぅ、この会社で正社員になるのは無理なんでしょうか?」

 ハハハッ、

「あんた、あのスケベ社長の話、まともに聴いたの?ここ10年正社員登用なんて一人もいないってよ。」

「そんなこと言ったら、かわいそうじゃない。」

 池添さん

「実は一人だけいたのよ。とてもきれいな人でね。でも結局辞めっちゃった、詳しいことは知らないけどね。」

 なんか自分の甘さが情けなくなってきた。


2ー


 正社員登用など夢のまた夢ね。5年経てば「はい、さようなら」で終わり。

 それが分かってから、仕事に対する意欲は減退した。

 1年目の秋頃から就職雑誌を見ながらエントリーシートを書き続けている。何社に出し断られて来ただろう。


 その晩、資格、就職などネットで調べていると、『あなたの夢応援しますコノハナサクヤ生命』というネット広告が目に入った。何となく気になって、クリックした。

 広告を開くだけなら危険はないよね。

 画面には、選択してください。と出ている。

 ○夢はありますか?

 1、夢を持っています。

 2、いつか夢を持てるようになりたい。

 3、夢は要らない。

 選択のクリックをすると。

 ○仕事はどうですか?

 1、今に満足

 2、自分はもっとできる。

 3、早く辞めたい。

 4、仕事はしていない。

 再びクリックすると

『あなたにピッタリのプランがございます。』

 明日、当社社員がお伺いします。

 と表示されると、生命保険の画面から元の画面に切り替わっていた。

 えっ、住所も名前を入力していないけど?

 ただの悪戯だったのかなぁ?

 ちょっと気持ち悪い、今日はもうやめよう。


 翌日の昼前、配達された荷物の整理をしていると、

「池添さん、電話よ!」

 あ、はい!

「私用の電話は控えてね。」と嫌味付きで転送された

「池添でございます。」

 若くはなさそうな女性の声で

「お仕事中申し訳ありません。コノハナサクヤ生命の落合と申します。」

 あっ、私、会社まで教えていたの?仕事中にこの電話は困る。

「はい。今仕事中ですので・・」

 落合と名乗った声は

「では、夕方駅前のカフェ『織姫』でいかがでしょうか?」

 他人の目が気になって早く電話を切りたかった。で、つい、

「分かりました。」

 顔が見えなくても分かる笑顔で、

「お待ちしています。」

 相手の作戦だったのかなぁ。乗せられたような気がした。


『織姫』は駅前通りから一本中に入ったところにあった。手動の木の扉を押して中を見ると、正面にカウンター席が10席ほど、右側にテーブル席が5卓ほどのカフェだった。一番奥のテーブル席から手を上げながら立ち上がる2人の女性がいて、この人達だとわかった。

「コノハナサクヤ生命の落合です。」

 もう一人は30代だろうか、明るい笑顔が素敵な人で、

「担当の金沢と申します。よろしくお願い致します。」

 落合さんが、

「何かお飲みになりませんか?ここのエスプレッソは絶品ですよ。」

「じゃあ、それをお願いします。」

 落合さんが注文していると

 金沢と名乗った女性が、

「この度は当社の保険『夢を応援』にご加入いただきありがとうございます。」

 え、えぇ。

「あのぅ、私、保険に入ったんですか?」

 金沢さんは、しれっとした顔で

「はい、昨日ネットでお申し込みがありました。マイナンバーも登録頂いております。」

 いつの間に?どうしよ?断るつもりで来たのに。

「あのぅ、キャンセルは出来ませんか?」

 金沢さんは表情をかえず

「キャンセルですか?出来ないことはありませんが、内容を確かめてからでもよろしいのでは?」

 聞くだけならいいか。

「一番気になっているのは月々の掛け金でしょうか?」

 そうです、正解です。

「池添様の場合、死亡保障300万円で月々850円でございます。これに『夢応援』オプションを付けて955円のプランでございます。」

 1000円掛からないの?

「入院給付金のオプションもございますが少し値が張りますし、健康保険に加入されている方にはお勧めしていません。」


 夢応援オプション?

「夢応援は、池添様がホントの夢に向かって進めるよう応援させていただくものです。」

 何だそれ?

「一月一回あるいは年12回まで、池添様の夢に関してご相談頂だけます。」

 何だ、人生相談みたいなものか?話し相手がいない時に良いかも。

「お支払い方法は、給与引き落とし、銀行口座からの引き落とし、クレジットカードと対応しております。」

 そのタイミングでエスプレッソが運ばれてきた。

「では、クレジットカードでお願いします。」

 えっ、何を言っているの?私。

 結局、加入させられてカフェを出た。始めて飲んだエスプレッソの美味しさだけが心に残った。


3ー


 平穏なそして平凡な日々が続いている。

 契約社員の何人かが辞めた。そして、新しい契約社員が採用された。私たちはただの駒だ、変わりはいくらでもいる。


 その出会いは、課の受付カウンターで起こった。

 呼び鈴がなり、私が窓口に出た。

 取引会社の社員で、確か『大山』さん。

 大山祐輔さん、私より少し年上かな、日に焼けてかっこいい。

「はい、今日は何の御用でしょうか?」

 彼は私の顔を見つめ、

「美人ですね、確か池添さんですよね。」

 平凡な顔をした大女(身長が168cmある)がそんなことを言われて悪い気はしない。

「そんなことは・・」

 間をおかずに、

「一度、食事して頂けませんか?」

「えっ、はい。」

 名刺の裏に電話番号を書いて渡された。

「お待ちしています。」

 丁寧で誠実そうで・・


 帰りに織姫に寄った。契約の給料ではそうそう何度も行けないんだけど。今日はどうしてもここのエスプレッソを飲みたかった。

 エスプレッソを飲んで気持ちを落ち着かせて、スマホを取った。そして貰った名刺に書かれた電話番号の電話した。


「池添さん、最近良いことがあったの?」

 瀬里奈の様子の変化に職場の契約社員の先輩である三橋が尋ねた。

「特にはないですけど。」

 ホントは大山のことを喋りたい、だけど本決まりになるまでは黙っていよう。

「ホント?明るくなったし、綺麗になったわよ。いい男が現れたのかと思ったけど?」

 そんなに私変わった?

「そんなことはありません。」

 そう、と言って自分の席に戻って行った。


 夜は10時に必ず電話が架かって来た。次第に心待ちにしている自分があった。

 今日もどうでも良いような話を11時までして電話を切った。

 でも、気持ちがおさまらず眠れなかった。

 そうだ、夢応援に電話をしてみよう。

「コノハナサクヤ生命、夢応援でございます。」

「私、夢が出来たんです!今、付き合っている人と結婚したいんです!」

 優しく穏やかな声が、

「それはよかったですね。どのような方なのですか?」

 上ずった頭で上ずった声の私は

「私より1歳年上で、とても気配りが出来る人なんです。とても優しいんです。」

「優しい人に出会えてよかったですね。どのような優しさをお持ちの方なんですか?」

 とても、とても優しいんです。

「私の何もかもを受け入れてくれるんです。自分のことを後回しにして大事にしてくれます。」

「よろしかったですね。」

「はい、彼が二人だけでハワイで式を挙げようと言ってくれました。」

「おめでとうございます。羨ましいです。実は私もそうするのが夢なんですよ。一つ参考にお聞かせ願いたいのですが。」

「何でしょう?」

「ハワイの挙式費用は幾らぐらいかかるものなんでしょうか?」

「彼が言うには諸々全てで800万円ほどだそうです。でも彼が600万円出してくれるので私は200万円で済みます。」

「800万円ですか!凄く羨ましいです。」


「不躾ですが池添様の200万円はご用意出来たのですか?」

「私の様な契約社員に200万円は無理です。そう彼に言ったら貸してくれる人を紹介してくれるって言うんです。返すのも2人で返そうって言ってくれました。」

「金利は聞かれましたか?」

「確か12パーセントだったと思います。」

「当社ではご契約者様を対象とした貸付制度がございます。金利は住宅ローン並みの2パーセントでございます。ご利用なさいませんか?」

「2パーセントですか?彼と相談してみます。」

「その時に旅行会社の名前と振込先をお聞きください、当社から直接振り込ませて頂きます。決まりましたら担当者が伺います。」

電話して良かった、この金利なら祐輔さんも喜んでくれるよね。

「また電話します。」


 彼の車の助手席でその話をすると彼は、イライラし始め、前の車にぶつかりそうになった。

「もう、申し込んだんだ。後は君がサインするだけなんだよ。」

 運転席の彼を覗き込むように、

「でも、金利がこれだけ違うと返すのが相当違うと思うの、2人で返すんでしょ?楽な方がよくない?」

「イライラするなぁ!誰が2人で返すんだ?お前が返すんだよ!」

 というのと祐輔の左の拳が飛んで来るのが同時であった。

「痛い!」

 痛いより、びっくりした。右の頬に手を当てて、「なにするの!」

「お前は俺の言う通りにしてればいいんだ!」

「降ろして!車を止めて!」

「うるさい、お前は黙って言うこと聞けばいいんだ!」

 そう言うと、車を乱暴に運転し始めた。

「怖い!怖い!やめて!」

 叫んでもどうにもならない。信号待ちの時にドアを開けて降りようとしたが、ドアが開かなかった。

「お願いです、降ろして下さい!」

 車は瀬里奈を乗せたまま、隣町のビルの地下駐車場に入った。

 乱暴にドアを開け閉めして降りた大山が助手席のドアを開け、瀬里奈の腕を掴んで

「降りろ!」と引きずり出すように降ろした。エレベーターの前に来ると先に待っていた2人の女性を押し退けてエレベーターに乗ろうとした。


4ー


「あら、池添さんじゃないですか?」

 コノハナサクヤ生命の外交員、落合と金沢がそこにいた。

「助けて下さい!」

 瀬里奈は二人に向かって叫んだ。

 金沢が、瀬里奈を抱え込むようにして2人の間に割って入った。

 チッと舌打ちが聞こえ、

「覚えてろよ!この街を出歩けなくしてやるからな!」

 というと祐輔は地下駐車場を車の方に去って行った。

「なにがなんだかわかりませんが、良かったですか?」

「はい、助かりました。ありがとうございました。」

 落合はバッグからハンドタオルを取り出すと瀬里奈に渡した。

 金沢が、

「警察を呼んだ方が良くありませんか?」

 涙を拭いた目を懸命に見開いて、

「いえ・・そこまでは・・」

 家までお送りますね。

 保険会社の10年選手の営業車でアパートまで送って貰うことになった。


「何が何だか分からないんです。突然、怒りだして、お前が借金を払うんだ。とか訳がわからない。」と言うと今度は声を上げて泣き出した。

 瀬里奈が泣き止むまで車を走らせ、少し落ち着いてから、アパートに送り届けた。

「ほんとにありがとうございました。お二人に会わなければどうなっていたことか?」そう思うとホント恐ろしい。

 降り際に落合が、

「話聞くくらいしか出来ないけど、いつでも連絡下さいね、」

 と言ってくれた。

 エレベーターが6階に止まり、ドアが軋みながら開いた。


 エレベーターホールに男性が立っていた。

 一瞬、たじろいだがスーツを来たサラリーマンだったので、軽く会釈をして急いで自分の部屋へ向かった、ナンバーロックに番号を打ち込んでいるとさっきのサラリーマンがこちらを見ていた。

 怖い、と思いながら急いで部屋に、入った。

 生まれて初めて、他人が怖いと思った。


 その日は夕食も喉を通らず、早々とベッドに入った。

 結局、遊ばれただけってことよね、保険屋さんのおかげで、お金まで盗られることはなかったけど。はぁ。とため息が出た。

 疲れているのに眠れない。もう、涙も出ない。あんなに好きだったのに、好きだとおもったのにと思いながらどこか醒めている自分がいるのも感じていた。


 翌朝、1~2時間寝ただろうか?

 トイレに行って、何か食べなきゃと思い冷蔵庫を開けると豆腐が一つあった。

 後で食べよう、またまたベッドに潜り込むとただ、ぼーとしていた、何も考えない、考えられない。

 昼が過ぎても起き上がる気力がわかない。


 ピンポーン!

 誰だろう?出るの億劫だなぁ。

 出なくてもいいか?

 ピンポーン!

 うるさいなぁ・・

 身体が重たかった。ベッドから降りて重たい身体を引きずるようにインターホンに出た。

「駅前交番の速水と申します。」

 小さな画面が警察手帳の影像で一杯になった。

 警察?助けに来てくれたの?


「なんでしょうか?」

 どういう表情をすればいいんだろう?

「少し調査にご協力ください。」

 何だ、私の事じゃないんだ、

「なんでしょう?私で分かることでしたら?」

 女性警察官、ええぇと速水さんだっけ?

「お名前を教えていただけますか?」

 名前ですか?私の?

「池添瀬里奈27歳です。」

 年齢は要らなかったかな?

「ありがとうございます。池添さんは何時からこちらにお住まいでしょうか?」

 えぇと、いつからって?

「確か4年になると思います。就職が決まってからですから。」

 速水巡査がちょっとビックリした表情をした、

「失礼ですが、住所を証明出来るものをお持ちですか?」

 ここに住んで居るじゃない!

「証明出来るもの・・ですか・・」

 何かあったかなぁ?ああ、そうだ、

「免許も持たないので、ここの契約書で良ければありますけど。」

 ちょっと取ってきます。

 後ろから、

「そんなはずはない!」

 何、誰。

 確か、この書類入れの中にあったはず、

 契約書を持って玄関に出ると警察官に両腕を掴まれたまま男が足掻いていた。その顔を見た時、背中をヒア汗が流れた、怖いという感情に怒りが勝った、

「なんですかあなたは!昨日の夜もそこにいてストーカーみたいにこっちを見ていた気持ち悪いオジさんですよね!」

 速水巡査が私の前に立ちはだかり、

「後でお話しますから。」

 その間にその男は男性警察官に連れて行かれた。


「びっくりさせたみたいでごめんなさい。」

契約書を確認して、「ありがとうございました。確認できました。」

契約書を返してくれて、あと一つだけいいですか?

「シューズボックスの横にコンセントがありますか?」

池添さんは、確認するように目を落とすと「あります。」

「下側のコンセントは使用不能ですか?」

えっ、

「そんな事はないと思いますけど、ちょっと待ってください。」

と言うと奥からスマホと充電器を持ってきて差し込んだ。

「あっ、ほんと使えないみたい。」

 申し訳なさそうに、

「我々にも良くわからないのですが、先程の方がこの部屋の住んでいる。というものですから確かめに来たのです。少し記憶の混乱があるようで、自分の家がどこか思い出せないようなのです。昔、この辺りに住んでいたのかも知れませんね。」

 それで、先程の男性が

「そこのコンセントが使えないというのは・・よくわかりません。」

 あの人がここに住んでいた?もしかして4年前に?

 この人に話して大丈夫?バカにされない?

「あのぉ、聞いてもらいたい話があるんですけど。」

 速水巡査は、笑顔で

「何でしょう?」

 喋ろうとして、その場に泣き崩れてしまった。まだ、出る涙が残っていたんだ。

「大丈夫ですか?」

 背中を擦りながら、優しく聞いてくれた。

 しゃっくりをしながら、これまでの出来事を喋っていた。

「そう、大変でしたね。完全に傷害事件ですね、詐欺の被害がなくて不幸中の幸いでした、その男が姿を見せたら迷わず110番して下さい。私たちもこのアパートに注意するようにします。」

 ほっとして、

「ありがとうございました。」


5ー


 速見巡査が帰ると無性にお腹が空いてきた。冷蔵庫にあった豆腐を冷奴で食べると呼び水になったようで、空腹が我慢出来なくなった。

 仕方なく、さっと着替えて化粧をして外に出た。

 定食屋で日替わり定食を食べると気持ちが落ち着いてきた。

「私、何してたんだろう?ただ、ただ逆上せてしまっていた、私の夢はあの人と結婚する事じゃなくて『結婚』だったのも知れない。」

 そんな事考えながら、エレベーターを6階で降りた。そして、驚きのあまり声が出た。

 自分の部屋のドアに寄りかかっている祐輔がいた。

 慌てて、エレベーターのボタンを押すと、その階にいたエレベーターは直ぐに開いた。

 乗り込むと同時に

「待て!待ってくれ!瀬里奈!」

 彼がたどり着く前にドアが閉まり、エレベーターが動き始めた。

 1階に着きドアが開いた。階段を誰かがかけ降りて来る音がする。

 鼓動が高鳴り、動悸がし始めた。

 とにかく逃げなきゃ。

 街の中を走った。どこへ・・

 そうだ!駅前交番、速見巡査!

 とにかく走った。生まれて一番走ったかもしれない。

 交番が見えて来た。

 助けて・・

 足がもつれ、前のめりに倒れた、いや、転けた。

 付近にいた人達が遠巻きにしている。

 そこに祐輔が追い付いた。

 祐輔がうつ伏せになって、ゼイゼイと息を切らせている瀬里奈の襟首を掴み、

「この女ぁ!こっちへ来い!」と言った瞬間、交番から飛び出して来た警察官が祐輔の目の前に立ち、「何をしている!」と祐輔の手首を掴んだ。祐輔の手が瀬里奈から外れた。

「ちょっと交番まで来て貰おうか。」

 その場から逃れようとする祐輔のベルトを握って交番に連れて言った。

「大丈夫?」

 30位だろうか、眼鏡をかけた女性警察官が、

「もしかして、池添瀬里奈さんかしら?」

 はい!

「速見巡査から引き継ぎを受けていますよ、安心して。」

 すぅと力が抜けて、女性警察官に倒れかかった。


6ー


 その夜、今岡巡査部長から言われたことを思い出していた。

「警察官の面前で暴行されたんだから証拠は十分よ。あなたの前に二度と顔を出せなくしとかないとね。」

 はい、お願い致します。

 興奮が治まらず、今日も眠れない夜だ。

 そうだ、夢応援に電話してみよう。

「コノハナサクヤ生命夢応援でございます。」

 あっ、この前の声だ。

「夢が破れました。」

 相変わらず落ち着いた声で、

「それは残念なことです。」

 そのおかげで、

「御社からお金を借りずに済みました。」

「それは、当社の融資担当が落胆いたしますね。」

 何となく気持ちがほっこりしてきて、

「その夢はホントの夢じゃなかったみたいなんです。」

 左様ですか。

「そうなんです、その人の事が夢じゃなくて結婚が夢だったんです。」

「あら、私もその夢は持っています。中々難しいんですけど。」

「ほんと、難しいですね。」

「池添様の覚えておられる限りで、一番古い夢は何でございましょう。」

 えぇ、古い夢ですか?

 何だったんだろうか?大学に行く夢?就職する夢?いやいやもっと古くて・・そうだ、

「幼稚園の頃、保育士になるのが夢だったんです。」

「その夢はもうあきらめられたのですか?」

「いつの間にか忘れてしまっていました。」

「いい夢ですね。」

「そうですよね。」

 なんかすっと心が落ち着いた。

「今日はありがとうございました。」

「池添様からのお電話またお待ちしております。」


 なんか、ほっこりした気持ちでベッドに入った。

 疲れた体が眠りを欲していたんだろう。

 朝、起きると既に始業には間に合わない時間だった。

 あっ、と思ったが直ぐにいいやと思った。

 そして、故郷の母に電話を掛けた。

「母さん、元気してる?」

「何よ、急に。」

「帰るね、直ぐに。」

「何時でも帰っておいで、待ってるから。」

「そっちで仕事探すから。」

 えっ、

「そうなの、大歓迎よ!」

「怒らないの?」

「何で怒るのよ、あなたが考えて決めた事でしょ?」

「私ね、保育士目指そうと思うの。」

「あなたの小さい頃からの夢やったものね。」

「覚えてくれてたの?」

「学校も保育士の学校に行くものだと思ってたぐらいだもの。」

「えっ、いい大学に行っていい就職をして欲しかったんじゃないの?」

「私、そんな事言ったことある?」

 ??

「早く帰っておいでね。駅まで迎えに行くわ。」

 電話を切った後、そういえばいい学校、いい就職って誰から言われたんだろう?世の中がそういう風潮だから勝手に思い込んでいただけだったかも・・

 明日、退職届を出そう。最期に速水巡査にだけは挨拶したいな。









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