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泉にかかる月の色  作者: うっかりメイ
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泉にかかる月の色─前編─

夏の終わり

遠い記憶たより

詩を紡ぐ

 小学三年生の時の夏休みに起きた出来事ついて話をしよう。

 その年に弟が生まれるため、僕は田舎の祖父母の家に預けられた。父方の家系は大昔からある豪農の家らしく、東京の狭いマンションに比べて屋敷と呼べるほど広い。初めて行ったときはその広さに驚いて数日は隅々まで探索に勤しんだことを覚えている。毎年来ている従姉妹や近くのH市に住んでいる親戚の子は飽きていたようで、庭でメンコをやっていたり裏山で虫を採りに行っていた。それでもひとりだけ僕についてくる子がいた。名前は「セイ」とだけ名乗ってくれた気がする。その子の服装は妙に古めかしいというか。その家にいた子は揃いもそろってTシャツに短パン、ワンピースなのにセイだけは薄水色の浴衣のような和装だった。いつもついてくる彼を従え、僕は毎日学校の宿題を放っぽり出して遊ぶ毎日を送っていた。屋敷の探索が終わった後は庭に落とし穴を掘り、親戚の子が嵌って泣いていたのを助けることなく観察して叔父さんから怒られたり。テレビで見た徳川の埋蔵金の特集に感化され、部屋の畳を手当たり次第にひっくり返したのがばれて祖母からこっぴどく叱られたり。木に登っていた年下の子を脅かそうと揺らしたら落ちて腰を傷めたとかで病院送りにしたおかげで彼の父親からしこたま殴られたり。今にして思えば、とにかくろくでもないことを平気でしでかすクソガキだった。

 本題に戻ろうか。

 いつものようにいたずらをしたかどで屋敷の奥の方の一室に閉じ込められた僕は本当に退屈していた。いたずらと言ってもどうしようもないもので、ごみ拾いのボランティアの人に道端で拾ったフンを木の枝に刺して持って行ったり、刈った草をまとめた山を蹴ってばらばらにしたという二点だった。山を蹴っていたことを近所の──といっても何百メートルも離れているが、おじさんに見とがめられ、説教をうけた上に祖母の許へ突き出された。彼女も親戚内にとどまらず他所へ迷惑をかけ始めた僕に心底あきれたらしく、昼ご飯を食べさせた後は古臭い座敷牢に閉じ込め放置することにしたようだった。初日に行った屋敷の探検の時に牢屋のような部屋の存在を見つけてはいたが、カギがかかっていて入れなかった。そのため、入れられた時はまだ未踏の地を探索する高揚感があり、進んで入った。今にして思えば古くからある屋敷の座敷牢など真っ当な理由で作られたはずもないのだが、その頃の歴史の「れ」の字も知らない浅学な子供にとってその一室は豪華な旅館の一室にみえたらしい。汲み取り式のトイレとドラム缶風呂が置かれた狭い中庭に六畳一間の机が置かれた居室。他の親戚やその連れ子の声もしなければ、誰かの生活音もない。ただ裏山のセミの声と時々聞こえる梁や柱のきしむ音。今にして思えば田舎の空気を最も肌身で感じた瞬間だった。当然、当時の僕にはそんなことなど感じ取る教養も経験もないのだが。小一時間で隅々まで部屋の観察を終えた後、渋々手を付けた宿題は早々に放り出し、その一角からどうにか抜け出せないか試行錯誤していた。

「兄ちゃん、わしにいい案があるよ」

 そんな僕を見かねてか、セイが声をかけてきた。

「何だよ、いい案って」

 彼が自分から意見をいうことは珍しく、というかこの時が初めてだったかもしれない。僕はずいぶんと呆けた表情でオウム返しをした。

「反省の意味を込めて掃除をすりゃええんじゃ」

 本当にそんなことでここから出してもらえるのだろうか。

「あのクソ婆とクソ爺がそれっぽっちのことでここからだしてくれっかな? そもそもどこを掃除すればいいのさ」

 厳格な祖父母の性格からして翌日まで出してもらえなさそうだった。12時の昼飯から約3時間、いつもなら縁側でアイスやスイカを食べている頃なのに誰も来ていないことが証左だろう。

「あんね、裏山に神社があるの知っとる?」

 彼の口から出た神社の存在は僕も知っていた。古くから存在する村の守護神ということで祖父と親戚の伯父さんがよく出入りしている場所だ。詳しくは知らないが、明日行われる納涼祭に向けて他の家の人たちと準備をしているらしい。今日も行っているはずだ。

「あそこがどうした?」

「あの神社で祭りが行われるんじゃけど、境内を掃き清めなきゃならんの。じゃけん、兄ちゃんがそれに志願すればええんじゃなあかな」

「いやいや、それは大人がやるだろ」

「それがよ、どのくらいの年の子がやるか決まっとるん。兄ちゃんならちょうどその年齢だと思うけえ」

「へえ。まあ、ここから出られるんなら何でもいいや」

 単純な僕は早速声を張り上げて祖母を呼んだ。今にして思えばなぜあの時、年を召していて耳が遠かったはずの老人がすんなり来たのか。しかし先述の通り、まだ考えの足らない時分のことだ。内心、遅いなあと思いながらもセイの助言通り裏山の神社の境内の掃除を申し出た。しばらく祖母は目を瞬かせ、僕の顔をまじまじと見つめた。そして「こがんジャリが……」と呟いたかと思うと、

「ちぃと待っときんさい」

 その一言だけ残してどこかへ行ってしまった。退屈でしょうがなかったのでセイとお喋りをして時間をつぶしていると再び祖母が姿を現した。しかし彼女ひとりではなく、父親くらいの年齢の男を連れてきた。彼の出で立ちは独特なもので、綺麗に剃った頭と対照的な豊かなあごひげ、夏でも快適に過ごすことができる薄手で紺色の作務衣を着ていた。セイは僕の後ろに隠れていたが、彼は気にせず声をかけてくる。

「ユウト君、というんだね。僕はハギモトアツシというんだ。アツシと呼んでくれ」

 彼の表情は今まで見た大人で見たことのないほど穏やかなものだった。祖父母を始めとした親戚の大人たちは初めて会った“よそ者ん”僕に対してどこか警戒しているような雰囲気だったのに対し、目の前の人はそんなものを超越したどこか遠い眼をしているというか。全てを包み込むような眼をしていた。

「どうも……」

 会釈と共に挨拶とも言えない言葉を漏らす。祖母は座敷牢の扉を開け、僕を外へ連れ出した。その後はアツシさんについて行く形で屋敷の裏手にある神社へ入った。山の中腹に建てられたそれは自然の中にあることを忘れ去るくらいに綺麗に整備されていた。周りを木々に囲まれているせいか薄暗いが、空気は思いの外湿気が少なく澄んでおり、箒がけなど必要ないと思えるほどに清潔な境内をもつ空間だった。

「ではユウト君。この服に着替えてくれ」

 彼に渡されたのは白い奇妙な服だった。長方形を組み合わせたようなフォルムで肩の所に切れ込みが入っていた。アツシさんが言うには昔の人が着ていた狩衣と呼ばれる服らしい。そして塵ひとつ落ちていなさそうな砂利を箒で掃くように言いつけられる。周囲には大人たちが祭りに備えて出店の準備をしていたり、夕闇に備えて提灯を方々の柱などに括りつけていた。その中でただ箒を片手に境内をぶらぶらする少年。当然、居心地悪さが心の中にもたげてくる。彼らもふたりを一瞥して声をかけるでもなく作業の手を進める。セイが興味津々に何をしているのか尋ねたりしたが、彼らはぶっきらぼうに答えるだけで会話をしようという気がないようだった。少年は境内を一通り巡ると小声でセイに声をかける。いつもの声量では必ず周囲の大人たちに聞こえる。蝉の声がけたたましいほど鼓膜に突き刺さるのに大人たちの話し声や鉄パイプ同士の擦れあう音までもがはっきりと聞こえるからだ。

「なあ、ちょっと奥の方へ行ってみようぜ」

 小さなお堂と一回り大きな神殿、その向こうに見える細い山道。長い間行き交う人々に踏まれて形作られる白い地肌が蚯蚓のように山肌に沿って上へと伸びていく。

「え、でも境内の中を掃除しんさいって……」

「大丈夫だろ。だってしめ縄で囲われてないじゃん。だからこの山全体も境内なんだって」

 セイは困り顔でユウトの言葉に抗するも小学生特有の屁理屈の前に渋々承諾する。箒を適当にその辺に放り出し、山道を登っていく。木造の地味な色の社はすぐに木々の枝葉に阻まれて見えなくなり、大人たちの作業しながら話す声も風と木々のざわめきでかき消されていく。日光が木陰に遮られていると言っても盛夏の気温は高い。山の中でも歩き続ければ汗が出てくる。涼しい風が吹き抜けるだけ村のなかよりはましだろうか。道ははじめ一本だったが、時どき細い道が枝分かれして立ち止まってしまう。そのたびにセイが

「こっちに行くとええよ」

「あっちは獣道じゃけえ」

「こっちいこ」

と勧めてきて、しまいには彼が僕に代わって山道を先導しだした。後ろから改めて見ると決して動きやすい恰好でないはずなのに自分よりすいすい登っていく彼をみてため息をつく。やがて勾配が緩やかになり、平らになる。その時眼前に現れた光景に数秒間目を奪われた。

「兄ちゃん。ここじゃ」

 やや開けた場所にぽっかり空いた穴。その中は底まで見える澄んだ水で満ちている。僅かに水面が揺れていることからどこかから水が湧いて出ているようだ。

「へえ、こんなとこがあるんだ」

「ここ、わしのお気に入りなんじゃあ」

 彼は泉の傍に静かに歩み寄り、両の手で水を掬い上げ飲み込む。僕も彼に倣って清水で喉を潤す。初めて祖父母の家で井戸水を飲んだ時の感動が霞むほど美味い。

「それにしてもずいぶん奥まで来ちゃったな。帰れるかな?」

「やっぱり帰るん?」

「? そりゃあ飯食いたいし、布団で寝たいし」

「ほうか……ほうじゃな」

「?」

 彼のどこか寂し気な表情がひっかかったが、僕は気にせず立ち上がる。早めに下山しないと真っ暗になってしまう。傾きから日没まで一時間ほどしかないだろう。

「おい、セイも帰るぞ」

 泉の淵でじっと動かない彼に声をかける。先ほどまでの表情から打って変わって嬉しそうな顔の彼に少し安堵し、その手を引く。

「あ、そうだ。せっかくだからこの泉にコインでも入れよ」

 ズボンのポケットから小銭入れを出し、丁度あった五円玉を取り出す。

「兄ちゃん何しよるん?」

 僕のやろうとしていることを止めようとするセイ。

「いや、こういう綺麗な水たまりにお金いれるとな、神様が願い事叶えてくれる、ってかあちゃんが」

「なんじゃそれ。聞いたことないわ。そがぁなことしたら水が汚れるけえやめて」

「そんな一枚でなるかよ」

「じゃかしい! そんなよそ者ん決まり事しらんけえ」

「……お前、今なんて言った」

 疎外感を感じる言葉。親戚の大人たちが口にする言葉。はっとした表情を浮かべるセイを俺は突き飛ばす。

「お前はしらんだろうけど俺の地元ではやってるの! 神様もお金もらえてうれしいだろ!」

 今にして思うとずいぶん身勝手な理由とちっぽけな尺度で言葉を発したものだと思う。しかし親友だと感じていた人物からの拒絶にも似た言葉で僕は制御が効かなかった。しりもちをついた彼の横から叩きつけるように硬貨を泉に沈める。水面に飲み込まれ、沈むと同時に風が吹き、周りの木々が揺れ始める。振り返るとセイはもういなかった。先に帰ってしまったのか。夏の日差しが分厚い雲に覆われ、雷が鳴り始めたことに危機感を感じ、山道を走って下る。夕立は毎日のように訪れるが、屋根のない場所で大粒の雨に打たれることになぜか恐怖を感じた。這う這うの体で神社の境内にたどり着き、本殿に駆け込む。中では作業を中断した大人たちがあぐらをかいて麦茶を飲んでいた。

「おお、ユウト君。無事でしたか」

 作務衣を着た神主、アツシさんが出迎えてくれる。ずぶ濡れの僕の頭にタオルをかけ、ぬるめの麦茶を差し出す。僕はそれを受け取り、一息つくことができた。その間、彼はずっとそばで様子を見てくれていた。

「ごめんなさい」

 口から言葉がついて出てきた。

「何かあったのかな?」

「その……境内の掃除をサボって……山で遊んだことを謝りたくて」

 彼は穏やかな表情で首を振る。

「大丈夫だよ。本当はその仕事も形だけのものなんだ」

「それってどういう意味? セイが……友達がいってたんだけど俺くらいの年の子が神社を清掃する決まりごとがあるって」

「実際にそうさ。だけど重要なのは君がその話を知っていることなんだ。君の親戚の子でそのことを知っている子は他にいるかな?」

「たしかに聞いたことないけど」

 彼の言いたいことがわからない。神社を掃除することが重要なことではなく、神社を掃除する話を知っていることが重要? 口を開けて首を傾ける僕に彼は苦笑気味に話を始めた。


 日本が外国と戦争をしていたころ、この村の近くにある大きな都市に特殊な爆弾が投下された。全てが灰と化し、多くの人が亡くなった。生き残った人の一部が水と食料を求めてこの村に流れてきた。当時の村長であり、大地主であるユウトの曽祖父による指揮のもと、貯蔵している食料などをどうにか工面することとなった。

 しかし問題となったのが水だった。ちょうど爆弾が投下された直後、見たこともない黒い雨が降り、井戸が使用できなくなってしまっていたのだ。幸い田圃のコメは八割がた収穫がおわっており、残りの実ったイネはそのまま火をつけて処分することになった。しかし上下水道の未発達な村ではきれいな水を確保することが難しい。ただでさえ雨に交じったヘドロが田畑や家屋、河川に残留しそれに触れた者の皮膚がただれたり、体調を崩して急死することがあったのだ。真夏の暑い日差しの下、日射病で倒れる者もあらわれ村には烏の声が響き渡るようになった。

 飢えは我慢できるが、渇きはどうにもならない。ひとり、またひとりと老人や子供、身体の弱い者が真夏の暑さに耐え切れず息を引き取る。都市から流入してきた人の中には絶望して自ら命を断つ者もいた。しかしひとりの少年が山で泉を見つけたことにより事態が好転した。ようやくまとまった量の水が確保でき、村の人々は一息つくことができた。それを面白く思わない人物がいた。その泉がある山の持ち主である。仮にAとする。彼はこの状況を利用して一儲けしようとたくらんだ。泉に至る山道を封鎖し、水を採りに行こうとする人から入山料を取り始めたのだ。これには誰もが怒りを抱き、村長もAにやめるよう説得する。しかし村で二番目に広い土地を持つ彼は正当な権利だとして歯牙にもかけない。

 その状況を打破したのはまたしても例の少年だった。いまだ知られていない道を開拓し、Aの封鎖した道を素通りして泉へのアクセスを可能にしたのだ。それを家族や友人に教え、困っている人には無償で水を提供した。しばらくしてそのことに気付いたAは考えた。少年やその周囲に道を教えてもらおうにも教えてくれないだろう。ならば泉に見張りを立てよう。そんなことは露知らず、少年は水を汲むために訪れた泉でAの雇った男に捕まってしまった。Aは早速、秘密の道を聞き出そうと少年を拷問によって精神・肉体の両面で追い詰めていった。その結果、死なせてしまった。遺体は山のどこかに埋められ行方知れず。少年の家族が村長に直談判し、Aの山を捜索したが戦争末期の人手不足の中、満足に行えず捜査は打ち切り。Aは証拠不十分で罪を負うことはなかった。

 不思議なことにその日を境に村の人々の間に奇病がはやり始めた。足先や指先から皮膚に薄く切れ込みが入り、血がにじむようになる。やがて中心に集まるように全身が切り刻まれたようにズタボロになっていくのだ。即座に人命を奪うものではなく、長く続く耐え難い苦痛をもたらすそれは陰惨な拷問を思わせる。病の流行は精神を病んでAが自殺した後も続いた。医者も匙を投げた苦しみに当時の村の神主が解決を図った。村では『続水千魂命ツヅミチタマノミコト』が古くから祀られてきた。先祖から続く土地と水源地を守るその信仰は村の発展に寄与した人物の魂が拠り所を求める祖霊と同一視されてきた歴史がある。例の神主はそこにかの少年の魂を送り、荒ぶる魂を鎮めようと試みた。彼が行方不明となった日に近くの山の泉の水と収穫した米を捧げ、Aの山に臨時で拝殿を設け、村人総出で鎮魂祭を執り行った。祭祀の結果か、はたまた偶然によるものなのか。奇病は徐々になりを潜め、村には平和が戻った。市に戻ることなく村に留まった者もおり、以前より活気が出たと言っても差し支えない。臨時で設けられた拝殿には徐々に本殿から機能が移され、今では村の唯一の神社となった。


「じゃあここがその例のAの山だってこと?」

 長い話を語り終えたアツシさんに質問をする。彼はうなずく。

「少なくとも僕はそう思う」

「村人の中にはそう思わない人もいるってこと?」

「ふふふ。そうだね。実際に当時生きてた人はこの村にはもうほとんどいないんだ。君の所のおばあちゃんくらいじゃないかな。でも肝心の彼女に聞いてもロクに答えてくれないんだ。いつもはぐらかされる」

「いや、おじいちゃんは?」

「おじいちゃんはもともと村人じゃないんだ。市内の方から婿入りしてきたんだよ。村の運営には積極的に関わってきたから認められているけどおばあちゃんほどじゃないんだ」

 なぜ祖母は答えたがらないのか。そして目の前の男は周りの村人から明らかに浮いたところがあるのになぜここまで詳しいのか。僕には皆目見当がつかなかった。そんな様子を笑ってみていたアツシさんは窓の外をちらりと見てようやく話を切り上げた。

「さてユウトくん。そろそろ陽が落ちるころだ。普段ならお屋敷に帰るところだろうけど今日は僕の用意した場所に泊まってもらうよ。君のおばあちゃんにも了承してもらっている」

「どこにいけばいいんだよ」

 彼は微笑みを浮かべるが何も答えず、代わりに休憩していた大人たちに声をかけて帰らせていく。大人たちの中には“がんばれよ”などと励ます意味の言葉をかけてくるが、僕にはさっぱり理解できなかった。やがて本殿にアツシさんと二人きりになったとき、彼は立ち上がり外に出た。その場所は意外にも近く、境内に並ぶ屋台の中のひとつ。店番が立つであろう場所の足元に木の板があった。それを持ち上げると地下へ続く階段が見えた。

「木を隠すには森の中ってね。神社の中じゃ神様も慢心するってことさ」

 そうつぶやく彼の微笑みはどこか悪戯好きな側面があったように感じる。その暗い空間に僕を押し込め、彼は注意点を述べていく。

「まず重要なこと、声を絶対に出さないこと。聖域である山の中に入ってしまった君をツヅミ様は探しにくる。捕まったらこの世に戻ってこれないだろう」

「見つかったらどうすればいいんですか?」

 僕の質問に彼は何も答えることなく悲しそうな眼を向けただけだった。生き延びるには見つからないことが前提なのだろう。僕はこの時初めて取り返しのつかないことをしてしまったと思い知った。

「ふたつめ、絶対に寝ないこと。人の夢は入り口として使われる。この世ならざる者にとっては侵入しやすいことこの上ない」

 つまり、徹夜をしろということだ。親にいつも『早く寝なさい』と口酸っぱく言われていることを考えるとその体験は僕の好奇心を引き立てるものだった。そして最後。

「この時計を渡そう。ちょうど7時になればここから出てきて神社の本殿に出てきなさい。あ、わかってると思うけどそれまでにここから出ちゃだめだよ」

 そういわれて彼が巻いていた腕時計を僕に持たせてくれた。ゼンマイ式の金属製でどこか高貴さを感じられるものだった。

「あの、アツシさん。俺は無事に生き残れるでしょうか」

 その質問に彼は再び曖昧に笑って何も答えなかった。

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