最終話 美人元王配候補が、すれ違いざまにめっちゃ睨んできてたけど おまえ睨むだけで済むと思うなよ
外に落ちそうになる体を、ルディウスは窓枠を掴んで支えて事なきを得た。
「ルディウス・フェリル!! よくも、よくもやってくれたな!!」
窓から流れ込こもうとする幕が、窓辺に立つ二人を包む。怒りと殺気に顔を歪ませたカイルに、ルディウスも背中に風を感じながら声を上げて笑った。
「ははははははははいい顔だな! あったりめーだろなんでこのままで済むと思ってんだおまえ!!」
「ふざけるな、なんてことしてくれたんだ!! こんなっ……! 僕がっ、……」
襟を掴む手にさらなる力がこもる。自分よりも体格で勝る相手を窓枠に抑えつけるそれは、まさしくルディウスを昏倒させかけた男の腕力だ。
一瞬言葉を呑み込んだ、そのタイミングで風が止み、幕が一瞬下に落ちる。差し込む光で眩しさに目がくらんだのか、緑の目の表面が一瞬揺らぐ。
部屋の中いっぱいに日差しが差し込んだタイミングで、地上で悲鳴が上がった。号外に騒いでいた民衆の一部が、塔の窓で起きていることに気づいたのだ。
「……私が、どんな立場の人間かわからないのか!? 陛下が、どんな気持ちでっ、これをっ」
「あきらめわりーな! ドネコのくせに、あんな薬でなにをどうやって女とやるつもりだよ無謀すぎるわ!!」
「ドっ……、貴様ーーー!!」
叫ぶカイルにルディウスが怒鳴り返す。直截的な言葉に、カイルの手がルディウスの喉元をさらにきつく締め上げた。サッシュに深いしわが寄る。再び荒れた風に吹き上げられた幕が、また二人を地上から隠した。
「じゃあどうすればよかった!? 言えばよかったのか!? 男としかできないと!! 女みたいに抱かれることしかできないからあなたの夫にはなれませんとでも、僕っ、私が陛下に言えると思っているのか貴様ぁ!!」
「言えよ!! 思い余ってなんの罪もない片思い相手の人生ぶっ壊すくらいなら言えよ馬鹿かてめー!!」
「自惚れるな片思いじゃないっ、ただの、肉欲だ!!」
「カスの度合いが上がっただけじゃねーか! なーにが〝ようやく解放される〟だっ、てめえが勝手に思い詰めただけのくせに!! だいたいおまえ、結婚してからやっぱり駄目だってなったらどうするつもりだったんだ!? 別の男を陛下にあてがうつもりだったのか!?」
「考えてた! 駄目だったときのことだって!! そのときはちゃんと、」
風がやんだ。
「死ぬつもりだったか?」
先の言葉を奪われたカイルは、撃たれたように固まった。ルディウスは、それを醒めたまなざしで見つめた。
「呆れた。陛下はそのあと再婚だろ? 代わりなんかいくらでもいるって、自分で答え出してんじゃねぇか」
やめろ、という声にならない言葉とともに、ルディウスの襟を掴むカイルの手から力が抜ける。
だがルディウスは逆に、カイルの手首を掴み返した。
握りしめた手首が軋む。緑の目に明らかな動揺が浮かんだ。
腹立たしかった。
ふざけるなとは、こちらの台詞だ。
「どこでどんな理由で死のうがおまえの勝手だけど、……睨むだけ睨んで、それで済むと思ったら大間違いなんだよ」
ルディウスの右手がカイルの手首を掴んだまま、左手がクラバットを掴んで、自分の方へと引き寄せる。反動で、外に出かけていた自分の上体を持ち上げて。
重なったのは、ほんの一瞬。
触れるだけだった。
また強く風が吹いた。煽られた幕が二人を取り囲む。
地上の声と視線から隔絶された世界でルディウスが囁く。
「死ねるのは、俺に好きって言ってからだよ」
触れ合った唇の間に、僅かにできた隙間に差し込む、突き放すような声。
返事はなかった。代わりに、緑の目がこれまでにないほど大きく見開かれて、震えていた。
いつの間にか、灰色の幕と一緒に祝福の黄色の幕まで風に煽られて、二人を取り囲んでいた。
――静寂を、大きな音を立てて開いた扉が破った。
「何してるのカイル!!」
必死な声は若い女性のもの。名を呼ばれた男はハッと我に返り、自分のクラバットと手首を掴んでいた手を一振りで払って振り返った。
「陛下、私は」
焦りと罪悪感の混ざった声は、さっきルディウスに向けた激情とは異なるものが含まれている。生涯支えていくと誓った友人へ、傷つけることを恐れるもの。
――あまりに勢いよく女王へと向き直ったからか。
その手は、ルディウスの胸を、強く押した。
「は?」
虚を突かれて、間抜けな声が出た。身体が後ろにがくんと傾いて、平衡感覚が失われる。
思わず伸ばした手が目の前の男の襟首を掴む。
「――僕は、」
何も気づいていなかったカイルの声が途切れた。代わりに、部屋の入口から、甲高い悲鳴が響き渡る。
青空に、幕がはためく。
死者を悼む灰色と、今日祝福されるはずの二人のための、黄色い幕が。
*
「……わかりました。カイル様の謝罪はしっかりお受けしました」
黙って話を聞いていたリネットは、兄によく似た青い目で、しっかり相手の目を見て頷いた。
そのまっすぐさに、腕を白い布で吊り、病院の簡素な椅子に腰掛けたカイルはたまらずといった体で目を伏せた。
――ここは病院だ。
式典が始まる直前、塔の中で取っ組み合いながら怒鳴り合ったあげく、はずみで窓から転落した二人は、幸い塔の真下に作られていた重鎮用のテントに受け止められたおかげで命に別状はなかった。
人にも地面にも直にぶつからなかったのは、まさに奇跡である。
ルディウスの差し金で号外を撒いた新聞社は、そんな末尾で記事をまとめ、またちゃっかり売り上げを伸ばしているという。
「お兄様」
しばらくカイルの沈痛な面持ちを眺めていたリネットが、横の寝台に向かって声を掛ける。
ここはルディウスの病室だ。足を折った兄に、来るなと言われたのも無視して、リネットが花を手に見舞いに来てくれたのだ。
だが、リネットはどうやら看護師を通してカイルにも見舞いの花を届けていたらしい。カイルはわざわざ兄妹水入らずのところにやってきて、かつての身勝手を本人に詫び始めたのだ。
「見ての通りです。これから先はもう、私のことでカイル様と争わないで大丈夫」
「……」
ルディウスはなんと答えればいいのかわからなかった。
自分の妹であるせいで、自分の代わりにカイルに唇を奪われたあげく、『やっぱり女性とはこれ以上できない、強制的に性的興奮を煽る薬を手配するしかない』という結論を出すのに一役買わされたリネットに。
「……お兄様、自分が私にひどいことしたと思ってらっしゃる?」
黙ったままのルディウスに、リネットは少し不機嫌そうな顔を向けて、それからふっと大人びた笑みを見せた。
「ひどいのは、私や実家のお兄様たちに絶縁の手紙を送ってそれきりなことですわ。心中未遂なんて見出しの記事を見たみんなが、どれだけ心配したことか。……次の帰省、覚悟なさってね」
そう言うと、リネットはぎゅっと兄に抱きついた。王女の世話係を務める彼女にしては無防備な、けれどルディウスにとっては妙に大人びた、包み込むような抱きしめ方だった。
ルディウスは申し訳なさと寂しさ混じりの心境で、強く妹を抱きしめ返した。
しばらくそうした後、兄妹が離れる頃には、リネットはずいぶん晴れやかな顔をしていた。
「ありがとうございます。これで私もカイル様と疑似ハグ、いえ、疑似セックスをしたようなもの。もうなんの心残りもありませんわ」
「そうか……。え? ぎ、何?」
「リネット殿……、あなたが、それで気が済むなら」
「ええ。ごきげんようカイル様、きっとまたどこかで」
「あなたに、幸多からんことを」
「うふふ、どの口で。……ありがとうございます、小娘には過ぎたる、素敵な夜でした」
「何? ぎ、なんだって? 今何が起きてたことになった?」
最愛の妹が帰っても、その口から出たとんでもない発言に傷ついた兄の心は癒えないし、金髪の患者は自分の病室に帰らなかった。
「リネット殿は寛容だな」
「俺は今、あいつのことが何もかもわからなくなったところだ……ぎ、何?」
「良縁を結べるよう、私からも手を尽くしたいが。なにせ私は両親から連絡を絶たれているしな」
悄然として天井を見つめていたルディウスの目が、横の椅子に腰掛けたままのカイルに向く。
「爵位は遠い親戚が継ぐらしい。会ったこともない人だが、最低限家名に恥じないよう、父上がどうにかするだろう。しないといけないからな」
「……おまえ」
「ルディウス」
カイルは笑っていた。けれどその目はどこか空虚で、それまでの張り詰めたものとどちらがましなのか、ルディウスには判断がつかなかったが。
「好きだよ」
ぴしり、と空気が固まる。硬直したルディウスを見て、にゅうっと緑の目が細くなる。
「傷触られて、歯ぁ食いしばって痛がってたときの顔がね」
「…………で、しょうね〜〜〜〜」
片頬を上げて笑うカイルを前に、ルディウスも憎しみをこめて笑い返す。
そりゃそうだろう。二度も狙われた上、肩をえぐる前後で必ず発情していたのだから。そりゃ好きなんだろう、今まで必死に隠していた欲望が露出するくらいだから。
――そうだこいつ、人を痛めつけてる状況でも勃つ男なんだ。厄介な嗜好のやつには関わらないようにしてきたのに。
連鎖的に思い出した出来事に、ルディウスは知らず真顔になってカイルを見つめた。見られたほうが怪訝な顔をする。
「なんだその顔。もうほだされたか?」
「引いてんだわ。手に余る変態を前にして」
カイルがピクリと目元を震わせる。けれど怪我をしているからか、すぐに手を出してはこない。
手は。
「よく言う。拒否できる状況だったのに、拒まなかったのは誰だっけな」
「あ?」
「好きでもない男とも勃てばやる、その器用さは羨ましい。ああ女ともやれるんだっけな。無節操も、役立たずよりはよほど有用だ」
ルディウスへの悪意がこもった言葉ながら、そこかしこに自虐が覗く。
めんどくせぇ男だな。こういうの一番嫌いなんだけどな。ルディウスは胸の内をはっきり表情に出しながら、要点だけを口に出す。
「……おまえ、仕事辞めたんだろ」
「はっきり言え。解任されて廃嫡されたと」
もちろん、発表直前だった婚約は完全になかったことになっている。
あれほどまでにこだわった役目はあっさり彼を捨てた。
当事者の思惑が処断とは別なのが、せめてもの救いだろう。ルディウスのもとにすら、今朝方届いた匿名の花があるのだ。リネットが置いていった花の隣に生けられたそれを見つめる男の横顔に、ルディウスは投げかける。
「じゃあ一緒に来いよ、南」
カイルが驚きをあらわにルディウスを見る。あまりにも無防備な表情を、ルディウスは意外に思ってまじまじ見つめたが。
「やっぱりほだされるの、めちゃめちゃ早いな、君……」
「ぶっとばされてぇのか?」
カイルが立ち上がり、ルディウスが拳を握ったところで、ノックの音がした。呼びましたか〜?と言われたがそんなわけはない。
看護師が去ると、カイルは「丸聞こえなのか?」と言いながら、病室の窓辺や壁の薄さなんかを一通り検めた。
「それで、来んの来ないの」
「……行かないって言ったら?」
「引っ張っていく。捕虜みてぇに」
カーテンの閉じ具合を確かめながら、カイルが小さく笑う気配がした。
「……君、もう三年じゃ王都に戻れないかもな」
「そりゃ平和で、健全な治世で結構だ。英雄も、女王の幼馴染もいなくてもいいんだから」
そうだな、とカイルが小さな声で肯定したとき、表情はこれまでより複雑で、しかし顔色はやや赤みを帯びて見えた。
「じゃ、ついて行こうかな。その同情に甘えて」
ルディウスは横目でその様子を見ていた。
誘ったのは、ほだされたからでも、同情したからでもない。
監視だ。
思い詰めたら何をしでかすかわからない男から、女王というストッパーを奪ってしまったのだ。ルディウスには、恋愛のマナーも降伏のルールも喧嘩の手加減も知らないこの男が、他人をこれ以上振り回さないよう監視する義務があると感じている。
彼が取り返しのつかないことをしたときには、今度こそ引き金を引いてやろうと思うのだ。
英雄と呼ばれたからには。
本人が望まない感情を、空砲で呼び起こしてしまったからには。
――でもそのとき、まだ聞いてないのではさすがに癪ではないか。
目をつけられたが最後、人生を目茶苦茶にされるしかなかったルディウスには、せめて、その言葉をちゃんと言わせる権利があるはずだ。
死なせる前に、絶対に。
「……南は、海がきれいで、時間がゆっくり流れるって聞いた。楽しみだな」
ルディウスの決意もどこ吹く風で、カイルはまた花を見て微笑んだ。
そうして穏やかな顔で前向きなことを言っていると、彼は本当に美しかった。
「……勘当されかけのくせに余裕じゃん」
「ああ、君がいるからな」
ルディウスは口を開けたまま固まった。それを見て、カイルは小さく「ほだされてる……」とつぶやいた。なんでおまえが若干引き気味なんだ。
「君こそ、私を好きになったら言いたまえよ正直に。意外と、簡単に手に入ったら気が済んで、どうでも良くなるかもしれない」
「俺がおまえを? 老衰で三回死ぬほうが早いぜたぶん」
「……祈れ。今日が一回目の命日だ」
「おまえを弔った後でな。早く好きって言っちまえよ楽にしてやるから。……仮にだが、気が済んだら、宮廷に戻る気か?」
カイルはにやりと口の端を上げた。ルディウスの問いかけを、まるでありえないことだと決めつけているかのように、ふてぶてしい顔だった。
「安心したまえ、そのときは君も連れていく。ひとりで新聞社の餌には絶対ならない」
「あ? やだね。俺は海辺でゆっくり過ごして、白い砂浜に骨埋めっから」
「……ふーん。なら、きみの兄上たちを秘書にして、片っ端から誘ってみよう。一人くらいは引っかかるかも」
「殺す。祈れ」
病室に、からりとした笑い声が響き渡った。
「まだ好きって言ってないのに!」
ここまでお付き合いくださり、ありがとうございます。