6 あったわ
「少佐のそれ、やっぱり素敵ねぇ」
振り向くと予想通り、王宮の廊下でも行き会った女たちが三人、ルディウスの全身を舐めるように見て口角を上げていた。
「やはり我が国の黒い軍服は最高ですわ。サッシュとかいったかしら。赤がとても映えますもの」
「血の気の多い不良軍人も、今日は正装なのね」
「それはそうでしょうね。なにせ女王陛下の婚約発表式ですもの」
女たちの言葉に、王宮前広場を石段の上から見渡していたルディウスは笑ってみせた。隣に立ってさっきまで話していた男に「じゃあ」と言って肩を押して遠ざけて、異性の友人たちに向き直る。
「ようこそご婦人方。今日は皆様一段とお美しい」
わかりやすいお世辞にも、女たちは気を悪くすることなく「また適当なこと言って」とくすくす笑う。
「まったく、あなたにもカイル様のほんの十分の一の誠実さでもあればねぇ」
「陛下はお幸せですわ。家柄も人柄も申し分ない方に、一途に思われて結ばれるんですもの」
「人ってこんなにも両極端に分かれるものなのですわね。そんなだから左遷されるのよ。……ねぇ、ルディウス。あなた陛下を視線でたぶらかして、カイル殿の怒りを買ったって噂、本当ですの?」
ルディウスは笑ったまま答えず、流れるようなしぐさで芝生の上に並んだ椅子を示す。
「ご婦人方。もう始まりますから、あちらの席に」
「まあつれない」
「昼間は喧嘩か戦争しかしないってわけね。英雄だなんて言ってもつまらない人」
「国境を守れても、自分を王都に留めておくこともできないなんてね。まぁ知らぬ仲でもないし、わたくしが王都での夢のような思い出作りに一役買ってあげてもよろしくてよ?」
「あっ、この!」
「また抜け駆けして! 旦那にチクるわよ!」
女たちは前回同様、突然やってきたかと思うとかしましく立ち去っていった。ルディウスはそれを呆れつつも笑いながら見送って、広場に向き直った。
四つの塔に囲まれた広場だ。いまだ戦没者のための灰色の垂れ幕がかけられているそれぞれの窓だが、今日はその後ろに慶事の垂れ幕が準備されていて、式典の途中で上からそれがかけられることになっている。
暗いニュースを吹き飛ばす、喜ばしい告示のために。
青空に不似合いな灰色の布が風に煽られているのをしばらく見てから、ルディウスは聴衆がひしめく広場に背を向けた。
広場を迂回するように歩いて、一つの塔の下に辿り着く。兵士があちこちに立っているが、入り口となる地味な扉の前にいるのは一人だけである。ルディウスは堂々とそこに近づいた。
「少佐、ここは関係者以外立ち入り禁止です」
「グランディ中将の代理だ」
「なりません」
「なんなら一緒に来るか?」
衛兵は口ごもって引き下がった。ルディウスはことさらにっこり笑って扉をくぐる。
これで自分が中で暴れたら、見張りの彼は降格では済まないだろうに。わかっていても、立ち会えばいざというときルディウスを止めなくてはいけないのが怖いのだろうか。それともトロくさそうに見えて案外、応援を呼びに行っているかもしれない。
なら、用件は早く済ませなければ。
ひんやりとした、石のらせん階段を上っていく。
終わりの見えない階段だ。垂れ幕が準備されているだろう、係の人間が慌ただしく出入りする部屋も通り過ぎて、ようやく上る足を止める。
その階に作られた部屋の扉はひとつだけだった。衛兵はいなかった。そりゃいらないだろう。中にいるのは白鳥の見た目で熊より強い男なのだから。
加えて忠誠心は犬。逃げる心配もない。
ノックをすると、「どうぞ」と至極落ち着いた声が返って来た。
「わかっている。そろそろ時間だな。今下り……」
中にいた人物は、大きな窓のそばに椅子を置き、座って式次第をめくっていた。振り返って、扉口にいたルディウスを見て言葉を失う。式次第が床に落ちた。
「……殺して、入ってきたのか?」
「警備の兵士を? まさか」
おまえじゃあるまいし、とまでは言わない。
そうか、と息を吐くカイルの目は、今までルディウスに向けてきた鋭さを持ってはいなかった。
「なら早く立ち去りたまえ。見つかれば、また周囲に邪推されるぞ」
「女王じゃなくて、夫の方と逢い引きしてたって?」
ルディウスの言葉に、カイルは頬を少し緩ませた。苦笑いだったが、穏やかだった。
「バーティクス侯爵の次男なら、とっくに釈放した。まさか知らないわけでもないだろう」
部屋の中の空気は凪いでいた。
黙ったままのルディウスに、カイルは憑き物が落ちたように寛容だった。
「今すぐ出て行くなら見逃してやる。早く」
「訓練所時代のことだったんだな」
沈黙が落ちる。ほんの少し目を見開いたカイルの表情が、すぐ元に戻るのを見届けて、ルディウスはさらに口を開いた。
「〝あの頃からそうだった〟。あったな。軍事大学の学生と実践演習したこと。おまえ、そこで俺を知ったんだな」
話したことなどない。接点などない。どうしてそんなにも恨まれているのかわからない。
そう思っていたのはルディウスだけだった。カイルの軍嫌いに心当たりのあるようなことを漏らした上司に訊ねれば、答えはあっさり掘り当てられた。
はあ、と息が漏れる音は、カイルの口から出た。
「……知ってるだろう。中退したこと。私は戦場には出ないし、学んでも時間の無駄だと悟ったんだ」
「女王がそう言ったのか」
カイル・ハウゼルは常に女王に付き従う。
彼は常に、女王のそばに。
全幅の信頼を寄せられる男は、いつも。
「あの方のせいのように言うな」
白い眉間に浅いしわが寄り、視線がルディウスに向く。この日初めて、カイルは少し強い言葉遣いをした。
「強制されたわけないだろう。そもそも私だって心底軍に入りたかったわけじゃなかった。……ただ、環境が変われば、戦いを知ったら、死を間近で感じられたら、何か変わるかと思っただけだ。この役立たずの身体が、他の人みたいになるかと。でも違った。決定的に、〝駄目〟なんだと思い知らされただけだった」
窓が揺れた。
風で何かが飛んだのか、外でひときわ大きなざわめきが起こった。
少しくぐもって届く地上の喧騒。こことは違う世界の出来事のようだった。
「あの演習の日のことは、今でも夢に見る。押さえれば絶対に勝てる抜け道があって、もともと学生側に有利なんだ。あんな、言い訳する余地のない惨敗、ここ数十年で初めてのことだったそうだ」
使われたのは大学側が所有する、もう使われていない砦跡。
砦を攻める側と、守る側。制圧できるか、守り切れるかを競う演習だった。攻撃側が制圧に成功したら空砲を撃つ。三日守り切れれば防衛側の勝ち。
訓練生側が先攻した。あっという間に空砲を撃ったのは、ルディウスだった。防衛側の学生を蹴散らして、屋上から外に出て、見せつけるように堂々と。
笑っていたかもしれない。
攻守交代後も守り切って、歓喜に沸く同期に肩を組まれたのはよく覚えている。ルディウス、おまえ未来の士官に恨まれるぞと、笑いまじりで言われたのも。
『なんで』
まだ十代だったルディウスも傲慢だった。
『むしろ、坊ちゃんたちには感謝されるべきだろ。負けたといえば殺されないここで、一度死んでおけたことに』
その発言は学生側にも伝わって、どんな苦情が行ったのか、ルディウスは数日間にわたり訓練への参加を禁止された。あまり思い出したくない、理不尽な記憶の一つだった。
「腹立たしかったな」
記憶を辿るルディウスの心情を読んだかのような、カイルの呟きが聞こえた。
だが言葉とは裏腹に、カイルの目は懐かしむように窓の外を見ていた。
「負けたのが?」
「自覚させられたのが」
自覚。
もしやと思い、まさかと否定し、目を背けていた自分の本質を、認めるしかなくなった瞬間。
その現実を突き付けたのが、まさしくルディウスとの邂逅だった。片方は出会ったとすら思ってない、一瞬の、完全に一方的な、袖すら触れないすれ違い。
「今でも夢に見る。勝利に酔って、きみの肩にやすやすと腕を回していた、きみの同僚たちが羨ましくて仕方なかった。……わからないだろう。目覚めたときに、死にたくなる感覚なんて」
情欲。嫉妬。絶望。それから憧憬。
それらすべてを飲み込んで、外にはおくびにも出さずに生きていく日々が、また続いていく。そんな目覚めの感覚。
「……私は、期待された、たったひとつの役目をこなせれば、他にはなにもできなくてもよかったのに」
なのに、よりにもよって。
他のことはいくらでも代わりがいるのに、代わりのいないことだけ、どうしてもできない。
『この恐ろしさ、君はまるで興味ないんだろうからな!!』
カイルに現実を突き付けた本人は、カイルの苦悩をまるで嘲笑うように自由を謳歌している。
カイルの手の届かない場所で。
手を伸ばしてはいけないカイルに、忘れさせもしないで。
誰とどんな関係になろうとなんの関係もない自分たちは、唯一、相手が死んだときくらいしか接点を持てない。
名前しか知らない他人を悼む。
人生でたった一度、それがカイルが、堂々とルディウスのことを思って許される瞬間だった。
それなのに。
――言葉を切ったカイルは、おもむろに、ルディウスへ顔を向けた。
「心配しなくても、陛下は私の進言よりも君の功績を尊重された。君の南への左遷はあくまでも世間の熱狂ぶりが鎮静するまで。なに、ほんの二、三年だ。その後は中央への栄転が決まっている。命がけで働いた者への、少し長い休暇だと思いたまえ」
「補佐官殿は、」
やけに晴れ晴れとした顔に、ルディウスは眉をひそめて問いかける。
「……騙し続けるのか。周囲も、女王すらも」
「そうだ」
一切のためらいのない答えが、彼の取り巻く状況を示唆している。もう後戻りはできないのだと。
酒と一緒にしまい込まれていた注射の薬。本来なら、薄めて、四肢の自由を損なわずに使うもの。
あれは、きっとカイルが自分自身のために用意したものだ。
どうにか、役目を全うするために。
「私は投降できない。撃たれなかったのだから、勝つか死ぬまで、戦い続けるしかない」
ルディウスは表情を歪めた。
カイルが肩を噛んだのが、わざと上着の内側に銃を持っていることをルディウスに察知させるためだと、もうわかっていた。
『撃て。それで全部終わりだ』
今さら、男しか愛せない、なんて言えない彼が考えた、自分自身を退役させる方法。
女王と公爵家に傷をつけず。
発端となったルディウスの人生を道連れに。
ルディウスは、完全にカイル手のひらの上で転がされたのだ。
目の前の男の言う通りだった。軍神だなんて、名前負けもいいところだった。
――本当に、何も反撃できないなら、だが。
「……果たしてそうかな」
カイルが笑みを消す。きょとんと問いかける。
「……なにが」
「戦い続けるつもりなのはおまえだけで、もう勝負はついてるかもしれない。空砲が聞こえてないだけじゃないのか」
かつての勝敗に重ねた言葉に、カイルの表情がこわばる。
それを見て、ルディウスは、口角を上げた。勝ったつもりでいる敵を震撼させる、挑発的な顔になる。
「周りをよく見な坊ちゃん。本気で俺と戦う気なら」
窓が揺れる。
風に乗って舞い上がった垂れ幕が、二人の足元に影を作る。
躍り上がる、四角い影と一緒に。
「何……?」
幕と一緒に紙片が風に飛ばされていることに気づいたカイルが、確認するために立ち上がって、窓を開ける。
途端に、閉め切られていた部屋の中に風が吹き抜ける。
飛び込んできたのは、広場に集まった民衆から上がる大きな声と、――新聞の号外だった。
【カイル・ハウゼル補佐官、ルディウス・フェリル少佐との道ならぬ関係】
「な」
一瞬見ただけでも読めるほど、でかでかと書かれた見出しに、補佐官は絶句する。
【未来の王配殿下の裏の顔】
【お相手は東部戦線の英雄】
ルディウスは自分の足元まで飛ばされてきた一枚を拾い上げて、窓へと歩み寄った。
「カイル・ハウゼル補佐官。あなたこそ、俺の言ったことをなんも覚えていらっしゃらないようで」
ルディウスはその一枚を、硬直した男の鼻先にぶら下げてやった。相手は反射のようにそれを受け取り、愕然とした表情で文章を追っていく。
背後の、扉の向こうが慌ただしくなっている。破滅が近づいてきている。一瞬兄妹の顔が頭に浮かんだ。
しかしルディウスは、堪えきれなくて笑った。紙面を見つめて茫然とするカイルに、笑わずにはいられなかった。
「この借りは、高くつくっつっただろうが」
カイルの顔は青白い。
かつてルディウスに、秘めた欲望を言い当てられたときのように。
風の合間に、ヒュッと息を吸い込む音がした。
「――きっ…………さまぁぁぁぁ!!」
カイルはルディウスの胸倉を掴むと、反転して開けっ放しの窓枠に、その厚い身体を力いっぱい押しつけた。