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5 英雄には心当たりが

 

 ルディウスはカイルの首元から手を離した。注射針も抜けるが、その拍子に内蔵されていた薬品が机に一滴二滴と散った。


 まずい。

 何か打ち込まれた。


「っ、何を」


 叫んだ声が途切れ、大きな音が部屋に響く。さっきまで見ていたはずの執務机が消え、視界を埋めるのは天井だ。

 ルディウスは急いで起き上がろうとして、脳がぐるりと回る感覚に固まった。仰向けのまま、どうすることもできない。かろうじて動く目が、上から見下ろしてくる金髪の男を捉える。

 立ち上がり、近づいてきたカイルは、そのままルディウスの腰をまたぎ、のしかかった。

 前回とは真逆の体勢だった。


「どけ……!」

「とはいえ、こちらも多少の申し訳なさはあるよ。悪いね少佐、回復直後に真っ先に会うくらい大事な男の危機だと聞いたら、私の言葉なんか思い出せないよな」

「ちがっ……」


 声を出そうとして気がついたのは、ひどく息が上がっていることだ。

 神経に作用する薬なのだろうか。身体が熱くなっていくのとは裏腹に、頭の一部が焦りで冷えていく。


 まさか、相手もこっちを殺しはしないだろうが――いや。

 緑の目は冷徹な光を灯してルディウスを見下ろしている。

 何をするかわからない。戦場で何度も命の危機に陥ったはずのルディウスは、目の前の青年の、感情を読ませない目にぞくりと肌を粟立たせた。


「違う? 何が? 事実、私と会ったあとも、宿屋で会っていただろう。ずいぶん慣れた様子だった。傲慢な男だ君は。華やかな女性たちで目をくらませて、男にも節操なしに手を出して。それで英雄? 大概にしてくれ、誰が君なんかに王都防衛を任せるものか」

「しっ……たことかよ」


 カイルの恨みごとは的外れだ。ハワードとはタイミングが良かったから会っていただけだし、英雄と呼ばれているのもルディウスが望んでのことではない。

 それなのに。

 ――いや。そんなことで、この男は、なぜこんなにも怒っているのだ。


「……そんなことはっ、」


 大きく息を吐いてから、ルディウスはもう一度声を出し直した。


「おまえに、関係、ないだろうが」


 罵倒としての効果はゼロに等しいように見えた。カイルは相変わらずの無表情だった。

 無表情のまま、手だけがルディウスに向かって伸びてきた。


「……そうだとも。かんけいない。関係ないんだよ、私たちは。住む世界が違う、付き合う人間が違う、求められていることが違う、私は」


 首に届いた手。

 締められると思った。


「私は、おまえとは違う」


 ぷつりと音がして。

 それが自分の軍服の一番上のボタンを外した音だと気がついた。

 ルディウスはそれで一瞬頭が真っ白になってから、愕然とした。


 意図が分からないわけがない。


「多少なりとも見直したと言ったな。興味深い、あの改革で私は君にどう見直されたんだろう」

「ハウゼルッ……」

「なんでもかんでも自分に都合よく変わっていくように見えるのか。私にはわからない感覚だよ。自分の意志のままな人生を歩んでいると、そう思えるものなのか」


 カイルの手はよどみなくルディウスの軍服のボタンを外していった。力の入らない腕での抵抗は難なく払われる。


「てめっ……」


 とうとう剥き出しになった素肌を、カイルの手のひらが滑っていく。戦場で負った傷のあとを撫でていき、それはやがて肩の銃創にたどり着く。


「怖いか。英雄でも」 


 ルディウスの目に怒りが灯ったのを見計らうように、カイルはその手に力を込めた。走り抜けた激痛にルディウスは悲鳴を飲み込み、歯を食いしばる。

 その一部始終を、緑の目は楽しむでもなく、静かに見下ろしていた。


()()か。笑わせるな。君のせいで、次はなんの力もないただの()が最前線に突っ込んでいくようになる。きっと君の真似をした、君じゃない奴らが出番を求めて、新しく作った国境の壁も突き崩す。わかるか、英雄はな、生きて帰ってきたらいけないんだ」


 傷から離れたカイルの手が、別の傷をなぞる。ルディウスはされるがままになりながら、自由になる目だけを休みなく動かして周囲を確認していた。


「なんで死んでこなかったんだルディウス・フェリル。……あんな激戦地に行ったのに」


 ルディウスは答えなかった。意識は机の上の酒瓶に向いていた。


 机を蹴れば。

 この男の頭に、落ちてくるんじゃないか。

 当たらなくてもいい。一瞬でも気を逸らせれば。破片はそのまま武器にもなる。


「前線なんて維持でよかったんだ。どうせ進軍したって、国境を引く位置は変わらない。無駄に荒らして後処理をややこしくしやがって、隣国との調停に誰が苦労したと思ってる。せっかく取った土地ならそのまま接収しろと騒ぐ国内の貴族たちを、誰が説得したと思ってる」


 もう少し、机に近く寄れないか。


(ああくそ、それでも力が入らねぇ) 


 悔しさとは異なる理由で奥歯を噛み締める。カイルの手はルディウスの腹や胸を探るばかりで、下半身には一向に向かわない。

 いずれはルディウスに力が戻るのだろうが、それまでずっとこうして焦らされ続けるのだろうか。


 腹立たしさと飢餓感で、脳が焼き切れそうになる。下半身の反応は肌を滑る手のせいではないし、まして自分の意思でもなんでもない。

 薬の正体は、ルディウスにももうわかっていた。


「なぁ少佐。おまえたちが酒を浴びてバカみたいに騒いでいる間、誰が、過去の栄光にばかり縋り付く年寄りたちを宥めすかして金と名前を出させたと思ってる?」


 ルディウスを抑えつけたまま、カイルが身をかがめる。固い生地の上着が肌にすれて唸り声が出そうになり、――激痛でそれどころではなくなった。

 カイルが肩を噛んだのだ。傷の上だ。情人などよりよほどわかりやすい弱点に、味を占めたのだと思った。


「……全部私だよ。でも別に大変なんかじゃなかった。全部女王陛下のためだ。私を信じ、私の存在価値を確かなものにしてくれる、あの方のために、私はなんでもやってやるんだ」


 身を起こすと、カイルは口元を拭った。その手が、次にどこに伸びるのか、ルディウスには予想がついていた。

 屈辱的ではあるがいっそ。

 相手の好きにさせて、油断を誘って。

 

「……だから、勘違いするな。断じて、おまえみたいな、身勝手な人間のためじゃない」


 身勝手、という言葉に合わせるように、カイルの手がルディウスのズボンにかかった。

 胸の内がどす黒い怒りで煮え滾るが、一方で脳内は冷静に、状況を逆転させる好機を待ち構えていた。


 ――時間の経過で薬効が落ちて、力を少しでも取り戻せるようになったら、首の動脈を抑え込んで落とす。

 それで憲兵に突き出してやる。


「東方戦線に第二師団を向かわせると聞いたときは歓喜した。これでようやく私は解放されるんだと思った。だって君の連隊はきっと最前線に行くだろう。事実その通りだった。確信した、ルディウス・フェリルはきっとここで死ぬ」


 突き出してやる、が。

 ルディウスは、カイルの話に眉を寄せた。

 

 なんでこんなにも睨まれるのか。疎まれるのか。

 その理由が今、明かされている。


 聞いておきたかった。

 公爵家の弁護士に、それらしい言い訳を用意される前に。


「君はきっと自ら、いや周りにも望まれて、敵の目の前に出ていくに違いない。()()()からそうだったものな。指揮官が銃撃されたという一報が入ったとき、陛下がそれを聞いて顔を覆い肩を震わせたのを見たよ。私はその肩を隣で支えて、その場にいたみんなが君の死を予想していた。おかげで私も、そのときだけは堂々と、人前でも堂々と、君を……それなのに」


 固い音がした。

 ルディウスの顔の両脇に、カイルが手をついた音だった。


「……それなのに、貴様なんで生きて帰ってきたんだ」

 

 ルディウスは動けない。

 絞り出すような声に、追い詰められた瞳に、四肢を射抜かれたように。


「……ここは、陛下が治める国だ。英雄なんていらない。私には、その()()()()()()()()義務がある。ハウゼル家に生まれた瞬間からそれを、最低限度、それだけでもいいと望まれてきた。政治なんてわからなくてもいい、戦場なんて行かなくていい、でも世継ぎだけはと、なぁわかるかこの重圧が、わからないだろうな住む世界が違うんだから、望まれる戦果は上げられているんだから、結婚なんてしなくて良いのだから! 一番期待されてることだけどうしてもできないこの恐ろしさ、君はまるで興味ないんだろうからな!!」


 空気が震えた。間近で叫ばれて、耳がびりびりと麻痺するようだった。


 誰が信じるだろう。

 宮廷一の麗人と謳われた男が、ただいっとき世論に持て囃されただけのルディウスに、薬を打ち、がなり、すがりついている。


「……生き延びた英雄なんてこの国にはいらない。陛下との婚約が内定したあの日、私は君に退役を進言しに、わざわざ侯爵邸まで会いに行ったのに、なのに貴様ときたらそんなときまで……!」


 喉が潰れそうな声だった。

 緑の目には、憎しみが宿っている。

 彼自身が唾棄する者への。

 ルディウスの瞳に、鏡のように映る者への。


 無言のルディウスに、蒼白のカイルは震える唇で歪に笑った。


「……リネット、とかいったか。髪と目の色が、君にそっくりだったな。……彼女なら、いけるかもしれないと思ったのに、それでもやっぱり、だめだった」


 今にも消え入りそうな声だった。耳に入ってきたのは最後はほとんど息だけで、それでもはっきり聞き取れた。


「……死んでて欲しかったよ、ルディウス・フェリル。君のために泣いて良かったのは、あのときだけだったんだ」


 ――言葉が終わるなり、ルディウスは相手の襟を強く掴んで引き、反動で身体を起こした。ぐんと近くなったカイルの額にしっかり頭突きを食らわせる。

 膝立ちのままふらついた相手が背後の机に手を伸ばした。と思うと、大きな音がして拳が机に叩きつけられる。

 酒が、床に落ちて瓶が割れる。欠片にルディウスが手を伸ばす前に、カイルの足がルディウスの顎を蹴り上げる。

 まだ頭が酩酊していた。座り込み、床に腕をつくのがやっとだった。暗転していた視界が開けた頃、ルディウスの目の前には割れた瓶の切っ先が突きつけられていた。ぽたり。琥珀色の雫が垂れる。だがルディウスはもう怯まない。


 ルディウスが右手で掲げた銃は、カイルの眉間にぴたりと狙いを澄ましていた。

 カイルはそれを見つめた。ややあってから、声を出さずに笑った。

 眉間に突き付けられた銃が、自分の懐にあったものだとわかったのだろう。あっさり酒瓶を床に落とした。


「撃て。それで全部終わりだ」


 瓶を振り上げたときに、残っていた中身がかかったのか、カイルの頬を酒の雫が伝い落ちた。


 二人とも床に座り込んだまま、腕一本分の距離でにらみ合う。


 引き金は動かない。

 カイルは笑うのをやめた。


「……そんな人生でも惜しいか」


 答えないルディウスの、半端に脱げた軍服に手を伸ばす。


「撃たないなら、続けるからな」


 




 執務室に、自分で置いておいた着替えだろうに、男はずいぶん緩慢な動作で服を着ていると思った。


「おまえ、このまま女王陛下と結婚するつもりか」


 執務机の側面に背を預け、気だるさに任せて座り込んだまま、ルディウスは問いかけた。それを無視して、カイルは酒で濡れた服をまとめ、クローゼットに押し込んだ。

 行為のあとから、一瞬も視線を合わせないまま、カイルはルディウスに背中を向けた。


「……君のことを、陛下に進言したよ。南方の国境警備部隊への転属を」


 ここのところ何度も聞いた、落ち着き払った声だった。ルディウスへの軽蔑と見下しを理性で包み、けれど中がそうだとわかるように完全には隠していない、冷たい、激情とは程遠い声。


「ろくな戦いもない土地で、死ぬまで無為に過ごせばいい。……そうして今度こそ、二度と()の前に姿を現すな」


 歩き始めの一歩のみ、男は平衡感覚を失ったようにふらついた。けれどそれ以降はまるで何事もなかったように、カイル・ハウゼルは部屋を出ていった。



 ルディウスは窓を開けて、煙草の火をつけた。

 風でカーテンが煽られる。どこかの回廊からの話し声が聞こえてきた。

 ハウゼル様を見ていないかと。

 陛下がお呼びだとしきりに繰り返す声は、やがて足音とともに聞こえなくなった。

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