2 王配候補がめっちゃ睨んでくる(2)
当世一の美形ともてはやされた男が、大きな音を立てて床に倒れ込む。
なおもルディウスは、その胸倉をクラバットを掴んで引き上げて、睨み下ろした。
「心当たりはありますね?」
低い声には、怒りが満ちている。ルディウスに殺意のこもった目で見下ろされれば、たいていの男は最悪の事態を予感して、青ざめ、震えた。
けれどカイル・ハウゼルは、乱れた前髪の間から億劫そうに睨み返している。それどころか、切れた唇から血を流したまま、落ち着き払った声で告げたのだ。
「……第二師団の予算を削るのは、今後は第四師団のほうが仕事が増えるからだが?」
ルディウスはためらわず逆の頬を殴った。
「った……」
「今をときめく補佐官殿は、その場限りの女のことなんかもうお忘れで? なら思い出すまでお手伝いいたしますよ下衆野郎!!」
カイルの端正な顔が痛みに歪んでいた。しかし、この瞬間まで抑え込み続けたルディウスの怒りは収まるところを知らない。
相手は宮廷の寵児。女王の婚約者候補。大貴族の嫡男。
あらゆるストッパーが、“リネットが弄ばれた”という事実の前では無意味だった。
「侯爵家で声かけた女、あれが俺の妹だと知らなかったとは言わせねぇ」
起き上がりかけたところでまた一発、最初と同じ頬に埋め込む。周囲が褒め称える白皙の美貌がどうなろうと知ったことではない。むしろこんなものがあるから哀れなリネットが釣られたのだ。この兄がいるのに。
「女王の唯一無二の右腕? 笑わせんな! 陛下に愛想振りまくことだけ一丁前で、実態は遊んでいい相手の選別もできてねぇ屑野郎じゃねぇか!」
引きずり上げるように立たせて、そのまま背後の壁に叩きつける。バンと大きな音がした。
人が来るかもしれないが構わなかった。どうせ家は兄が継ぐし、この機会に実家から勘当されたっていい。
「後悔しな。この借りは、高くつくぞ」
再び、上等な刺繍がされた上着の襟を掴む。無抵抗の相手を前に、また拳を握った右腕を後ろに引いた。
「多少顔がいいからって調子乗りやがって。男爵家の女に何したって大騒ぎにはならないと思ったか!? 残念だったな怖いもの知らずが身内にいたもんでな!! てかなんでうちの師団の予算削ってんだてめぇぇァ!!」
ついでに頭の隅にひっかかっていた懸念とともに顔面に打ち込もうとした。
が、そこでようやく、相手が待ったをかけるように片手を上げた。正直、怒りが収まる気配はちっともないが、ルディウスはそれを見てとっさに動きを止めた。
反射だった。降伏のサインを送る相手には、それ以上攻撃しない。兄弟喧嘩から戦場まで、共通の規範だ。
興奮した獣のように息を吐いたルディウスが手を離せば、カイルは大きく息を吐きながら、胸ポケットのチーフを出して口に当てた。布が赤く染まる。中が切れて溜まっていた血を吐いたらしい。
荒事から縁遠そうな男が、髪を乱し服に血を垂らし、肩で息をしながら壁に寄りかかって立つ様子を、ルディウスはまったく同情せずに眺めていた。――自力で立ち続ける様子に、思ったより頑丈だな、とは少しだけ思った。
「確かに、彼女のことは覚えている。……キスしただけだ、触れるだけの」
「それが遺言でよろしいな?」
押し殺した低い声。だが、カイルは待ったをかけた以外に臆する様子は見せなかった。
金糸の隙間から上目で見上げて、ふっと笑う。
「……もしかして君とは片親違いだったりするのか? 妹君はいかにも世間知らずでおっとりしていて……まさか、自分の兄が、夜会の片隅で主催者の次男とよろしくやってるなんて、夢にも思ってなさそうだった」
拳を握りなおしていたルディウスは、後半の言葉に瞠目して固まった。
その瞬間、ぐんと身体が前に傾いで、腹部に重い衝撃が走る。
完全に油断していた。痛みと反射的な吐き気で思わず前のめりになったところで、続けざまに顎に一撃が加えられる。掴まれていた襟が解放されて、体がふらつく。
「……王宮内での軍人の暴力行為は本来厳しく処罰されるべきだが、本件に限っては」
衝撃で揺れていた頭に、さらに回し蹴りが綺麗に命中した。
「……これで目を瞑る。妹君への無礼と、陛下の心の安寧に免じて」
それまで一方的に殴られていたのが嘘のように、カイルの拳は明確にあばらの下を穿ち、顎骨を捉えて頭蓋を揺らした。
耐えきれず、ルディウスは俯いて壁に手をつく。嘔吐感に負けて口を開ければ、唾液と混ざって血が床にばたばたと落ちた。
こいつ。
睨みつければ、カイルと視線がぶつかった。すれ違ったときと同じ、強い感情のこもった眼差しが、ふらつくルディウスを貫いている。
しかしカイルはすぐに目を逸らした。乱れた服を手早く直し、髪を整えると、あとはもうルディウスのことなど見えていないかのように踵を返す。
その冷たい一瞥が、ルディウスの怒りを再燃させていたというのに。
「待て!」
「ぅわっ!」
ルディウスは去ろうとする相手の襟首を掴んで力任せに引き寄せた。虚を突かれたカイルがあっさり仰向けに引き倒され、したたかに背中を打つ。
「かはっ」と短く息を吐いたきり、悶絶しているカイルの腰に、ルディウスは馬乗りになり、がっちり動きを封じた。
「はなっ……降りろ貴様ァ!」
「話は終わってねんだよリネットのことも予算のこともォ!」
「修正予算の件は追って師団長に説明する! そこを退けっ、裁判沙汰にされたいか!!」
取っ組み合いの殴り合いになるのは必然だった。互いの血が服に擦り付けられ、見るも無残な有り様になっていく。
体勢はルディウスの方が有利なのだが、いかんせん相手も急所への攻撃に躊躇いがない。目を潰すように伸びてきたカイルの手を避けたルディウスが、相手の額に頭突きを見舞ったところで、歯を食いしばったカイルの手はルディウスの左肩に食い込んだ。
「――っ!」
戦場で受けた傷が残る場所だった。少し前まで日常生活にまで影響を及ぼした大けがだ。そこに遠慮なく指が食い込んで、ルディウスは声を失った。
はからずも無防備な上体が相手方の上半身に折り重なるように倒れ、『まずい』と脳裏に警告音が鳴り響く。――とどめを刺される。
けれど絶好の機会なのに、相手はそれ以上なにもしてこなかった。冷や汗を堪えて相手の様子を窺おうと顔を上げかけ。
はたと、ルディウスは目を見開いた。
(は?)
その瞬間、ルディウスの身体はぐいっと押し退けられた。
敵の右の肩を押したカイルが、強引に立ち上がったのだ。
「……勘違いさせた妹君には、近いうち謝罪の品を贈る。……だが、人に怒る権利が果たして自分にあるか、その胸に手を当ててよく考えるんだな。罰当たりな節操なしめ」
怒りも露わに吐き捨てると、大股でその場を離れ、先程は届かなかった扉に手をかける。
が、背後のルディウスが鼻で笑った気配に、ぴくりと眉を上げて動きを止めた。
「……何かね」
「よく言うよ。罰当たりはお互い様だろ」
冷えた視線で人が殺せるなら、ルディウスは床に座り込み、左肩を押さえた状態のまま死んでいただろう。
血まみれの顔に、酷薄な嘲りを浮かべたまま。
「男も女も食う俺が節操なしなら、その俺の下で喜んでたお前は、いったいなんなんだよ」
今度はカイルが固まった。
視線を交わしたまま二人とも、そのまま数秒間、何も発しなかった。
――張り詰めた部屋の空気を裂いたのは、天の恩恵のように美しい男の、地の底をさらうような声だった。
「……二度と、私の前に現れるなよ。輝かしい勲章を、軍服ごと剥ぎ取られたくないならな」