1 王配候補がめっちゃ睨んでくる(1)
タグとあらすじご確認のうえで、どうぞよろしくお願いします。
「フェリル少佐!」
王宮の廊下に響いた己の名前と階級に、ルディウスは凭れていたバルコニーの柵から身体を離した。
振り返れば、そこには色鮮やかなドレスをまとった貴婦人が三人ばかり。厄介ごとの予感を胸に隠し、笑顔でごきげんよう、と言ってはみたが、眉をはね上げた女たちの反応は芳しくなかった。
「なにがごきげんなものですか。あなたったら、ちょっと笑って挨拶すればわたくし達がなんでも許すとお思いのようね」
「見つけたからには逃がしませんわよ。この前の夜会、どうして途中でいなくなってしまわれたの?」
「わたくし達、あなたが来るって聞いてたから楽しみにしていたのに、話せたのは最初にほんのちょっとだけ!」
三人の女たちはそれぞれ口を尖らせ、じろりと恨めしそうに見上げてくるが、その手には既婚者特有の指輪。そこにルディウスが贈ったものなど一つもなく、それだけでも彼女らの苛立ちに謂れがないことは明らかだった。そもそも、あらかじめ夜会で会う約束をしていたわけでもないので、勝手に期待されて落胆されても知ったことではない。
だが、そんなことは口が裂けても言わない。ルディウスは自分が男女ともに非常に人当たりのいい陽気な男と捉えられているのを良しとしていたし、彼女たちの身勝手さも、面倒に思いこそすれ嫌ってはいなかったからだ。
それに今、この王宮では女性に恥をかかせるものではない。
「それは申し訳ありませんでした。久しぶりの夜会で、すこし疲れてしまったもので」
見え透いた弁明に、女性たちが視線を互いにかわし合い、扇の影で聞えよがしに囁き合う。
「お聞きになった? 疲れたですって。日がな一日戦場を駆けまわっていた〝英雄〟ルディウス・フェリルが、夜会ごときで?」
「ま、しらじらしい。それで侯爵家の休憩室で、いったい何を癒してたんだか」
「わかってましてよ。どうせ、そのご立派な軍服姿でひっかけた女を連れ込んでいたのでしょ。……叙勲式でつけてたかっこいい赤い布も、今日は見当たらないみたいだけど。まさか、その女にあげちゃったのかしら」
ルディウスは苦笑いした。貴婦人の一人が残念そうに言った布は、さすがにいきずりの相手にあげるようなものではないし、そもそも女は連れ込んでいない。
女は。
しかし、〝愛人の浮気をなじる遊び〟において、そんなことは重要ではない。暇な貴婦人たちの遊びに付き合うルディウスは悩まし気に眉をひそめて黒髪をかきあると、大げさなため息を吐いた。
「あの布はもともと公的な式典などでしかつけないのですよ。しかし、困りましたね。あなた方に誤解されてしまっては、謂れ無い醜聞が女王陛下にまで伝わりそうだ」
「あら、そんなのわたくし達が何か申し上げるまでもないわ」
貴婦人の一人がさらっと言うと、他二人がしたり顔で後に続く。
「ええ。あの日の夜会には、あの方がいらしてたもの」
「あなたと入れ違いでホールにご到着なさったから、ご存じないのね」
ねーっと頷き合う女たちを見て、さすがにルディウスは表情をひきつらせた。嫌な予感がする。
「……まさか、陛下がいらしてたんですか? バーティクス侯爵の夜会に?」
まずい挨拶しそこねた。一転して表情を険しくして訊ねたルディウスだったが、女たちはあっさり否定した。
「そうじゃないわ。さすがにそれなら事前にお触れが出るでしょう」
「でも実質、女王陛下がいらしていたようなものよ」
「あ、見て。噂をすれば」
貴婦人のうちの一人が指し示した廊下の奥から、一組の男女が歩いてくる。ブルネットの巻き毛に黒曜石の瞳の、豪奢なドレスの女性。そしてその横に随伴するのは、金髪に緑の目も涼やかな、端正な容貌の貴公子。
中央を通るのが無作法とされる王宮で、唯一の例外とされる女王と、その隣に寄り添う補佐官だ。周囲を圧倒し注目を集める二人が連れ立って歩くさまに、誰かが感嘆の吐息を漏らす。
一方ルディウスは、(げ)と思って口角を下げたのだが。
「女王陛下、来週の病院慰問はお時間が取れないということですが……」
居合わせた者は、男女問わず二人に向かって次々に頭を下げる。女王は若い補佐官の話に二言三言返事をして、彼らの間を通り過ぎていく。
バルコニーでたむろする四人も例外ではない。女王達からはやや離れているが、三人の貴族の女たちはそろってきっちり頭を下げた。もちろんルディウスも、渋い顔を隠すように一度はそれに倣った。
――けれど、ほんの少し、視線を上げれば。
(まただ)
遠ざかっていく補佐官の目が、ルディウスを見ていた。
見る者を凍らせるような、冷ややかな眼差し。時間としてはほんの一瞬、しかし憎しみすら感じられる緑の目に、ルディウスは今日も、気がつかないふりをして視線を下げる。
「……私が代わりに向かい、陛下にご報告いたしましょう。戦傷兵への聞き取りも――」
女王が頷く。二十歳の君主は、隣に立つ美しい男に全幅の信頼を込めた眼差しをおくり「助かります、カイル」と瑞々しい笑みを浮かべた。
二人が階段を下りて見えなくなるのを待って、貴婦人たちはルディウスへ同情するような、それでいてからかうような眼差しを向けた。
「……わざわざ私たちが言わなくても、ハウゼル公爵家のカイル様が、女王陛下にご進言なさいますわ。先の戦争の英雄は、女漁りが趣味の好色漢だと」
「カイル様、短い時間とはいえ、夜会にお顔を見せるのは珍しいのにね。次期王配となられる方への挨拶もそっちのけで女遊びに興じているのでは、フェリル少佐の出世街道も、この先はどうなることやら」
「ま、気を落とさないで少佐、わたくしはそういう不真面目で色気のある殿方の方が好きよ。次はわが家の休憩室をご案内してさしあげる、夫のいないときにね」
「あっ、この!」
「抜け駆けしないって言ったじゃない!」
突然やってきた貴婦人たちは、去っていくのも急だった。少女のように騒ぎながら離れていく三人を見送ったルディウスは息を吐き――そして、眉間にしわを寄せた。
脳裏には、先ほど通り過ぎていった金髪の男。
(なんだあの目)
ルディウスはしかめ面のまま、また遠くに視線を向けた。広場に立つ四つの塔から揺れる灰色の幕を見つめる。
たった今すれ違った男、カイル・ハウゼル。国の要職を代々担う公爵家の後継者で、この国の女王のお気に入り。
正式な婚約発表はされていないが、幼馴染みでもある彼の存在感に、国中の誰もが女王にアプローチすることを諦めきっているという、実質的な次期王配。
男爵家の四男に生まれて軍人として身を立てたルディウスとは、生きる世界がまるで違う。
そんな時代の寵児に、あろうことかここ最近、自分は疎んじられているらしいのだ。睨まれるのは、さっきが初めてではない。
だが、心当たりはまるでない。
何せ、話したことなんてないのだ。
それとも彼女たちの言うとおり、下半身の軽薄さが目に余るというやつだろうか。そんな人間は自分だけではないはずなのに、不運にも目をつけられてしまったのかもしれない。
憎まれる心当たりはないが、この頃すこし、世間でもてはやされた自覚はあったから。
だとしても。
「めんっどくせ。こちとらちゃんと、相手選んでやってるってのに」
一応、ひとを選んで遊んでいるのだ。相手はともかく自分は独身だし、誘うときも応じるときも、後腐れがない相手に絞っている。
性別問わず。
(しかしマジで仕事に関わるなら、しばらく清らかに過ごしてた方がいいかもしんねぇな)
家に頼らず生きていけるのは気楽ではあったが、出世の如何はそのまま生活に関わる。
結婚相手という後ろ盾もまだいないのだから、余計に。
(……せっかく、生きて帰ってきたところだってのに)
話したこともない相手への苛立ちが胸の内に立ち込め始めたとき、弾ける果実のような瑞々しい声がルディウスの耳に届いた。
「お兄様、お待たせしてごめんなさい」
振り返れば、ルディウスと同じ黒い髪に青い目の、朗らかな笑顔の娘が駆け寄ってくるところだった。
妹のリネットだ。
ルディウスの不機嫌な顔がとろける。普段は女王の末の妹に仕えている彼女に呼び出されて、ルディウスは病み上がりの仕事を午前で終えるなり、直接王宮に寄ったのだ。
「気にすんなよ。それより、話ってなんだ」
兄三人にもみくちゃにされて育ったかたわら、目に入れてもいたくないほど溺愛してきた妹だった。優しく用件を訊ねる。
だがリネットは一転して表情に翳りを浮かべて俯いた。意外な反応に、ルディウスは怪訝に思って声をかける。
「リネット?」
「……お庭に行きましょう。ここは、人が多いから」
嫌な予感が、背筋を伝う。
「お兄様、ハウゼル公爵家のカイル様とは面識がおあり?」
否定すると、リネットはすっかり花の散ったアーモンドの木の下で「そう」と暗い声を出した。
「カイル殿がどうかしたのか?」
不安を押し殺し、なるべく優しく催促すると、リネットは大きな青い目にじわりと涙を浮かべた。
「あの方、女王陛下と婚約なさるって、本当なの?」
ルディウスはピンときた。そして絶望した。
何ということだろう。この可愛い妹まで、あの優男に惚れこんでいたなんて。
この兄を前にその男の趣味はなんだと言ってやりたいのを堪える。しかもかの男と女王の関係なんて、今さら聞く方が愚かといえるくらい暗黙の了解のはずなのに、王宮勤めでそれを知らないとは情けない。
が、ルディウスは妹に甘かった。知らなかったなら仕方ない。果たしてどう答えれば、この世間知らずな妹を傷つけずに済むだろうか――……。
「この前の侯爵様の夜会で、……私、あの方にキスされたのに」
その呟きで、ルディウスの思考が一時中断した。
「は?」
「お兄様が会場からいなくなっちゃって、もしかして肩の傷が悪化したのかと探してたら、……カイル様が、お声をかけてくださって。……こちらにいるかも、というから、お庭の奥までついていって……そこで私のこと、いつも見てたって……とても魅力的だって仰ってくださって……なのに……」
リネットの目から、ぽろぽろと大粒の涙が溢れて頬を伝う。
うら若き十代。大人の作法に馴染むにはまだ幼さの残るそこは、羞恥と悲しみで赤く、痛々しく染まっていた。
*
あくる日。
「ハウゼル卿、少々お時間よろしいでしょうか」
ひとりでいるところを見計らい、真面目くさった声かけで人気のない部屋に連れ出した相手の横面を、ルディウスはその鍛えた腕で力いっぱい殴り飛ばした。