第五章 狩野遥馬1
狩野遥馬は一爽の出て行った扉が閉まるのを、不可解な気持ちでみつめていた。
赤みがかった短髪で、ノリの軽い少年だった。プラチナベビーズだときいてはいるが、能力はまだ見つかっていない。『能力未知』の葉月一爽だ。
彼が、すれ違いざま、自分の肩をなれなれしく叩いた。
そのときから、遥馬は、自分の足元にありえないものが見えていた。
(あいつがここにいることなどありえない。これは絶対に幻覚だ)
わかっていながら動揺していた。
ほとんど忘れかけていた男がいた。忘れかけていたはずなのに、その丸まった背中を見ただけで遥馬には誰なのかがすぐにわかった。
遥馬の目の前に、本部執行室の床の上に、彼に向かって土下座をする父がいた。両手を床につき俵のように丸まった、中年の背中だった。
※ ※ ※
九年前。
小学三年の社会科見学の日、遥馬はバスの窓際の席に座り、なんの気なしに車窓を流れていく街を見ていた。
幹線道路の脇に開店前のパチンコ屋が見えた。ビルの半分を覆うネオンサインはまだ灯っていない。造花の花輪をずらりと立てた店の入り口には、煙草をくわえて灰色にくすんだ男たちが並んでいる。
その列の中に、遥馬はもう長いこと素面では会ったことのない父親の姿をみつけた。無精髭をそのままに片手に缶コーヒーを持ち、くしゃくしゃになった雑誌を脇に挟んでいた。自分の父親が毎日早朝から通っているのは、会社ではなくここだったのだと、遥馬はその日初めて知った。
母親はパートをかけもちして、いつも金のことで苦労していた。いつしか、その母に優しい友人ができて、よく家を訪ねてくるようになった。いつも真珠の首飾りをして、ゆったりしたツーピースを着た、五十代ほどの上品な婦人だった。
タッパーにつめたおかずを何品も持ってきてくれて、母が仕事で遅い日は、姉と遥馬と深夜まで留守番してくれることもあった。遥馬はその人が、本当の祖母だったらいいのに、と何度も思った。心身ともに疲れきっていた母は、その人に愚痴をきいてもらえるだけで癒されているように見えた。
「あなたたちのことが心配だわ。どうにかしたいの。このままでは絶対によくないわ」
その人は何度もそう言って、母親の仕事が休みの日には、ときどきどこかに連れて行った。遥馬は勝手に、父親と離婚する準備でもしているのだろう、と想像していた。
遥馬が中学生になった時、母親が満を持してきりだしてきた話は、父との離婚話などではなく、とある宗教団体の施設に行って布教奉仕活動をしたい、という話だった。遥馬と姉の理央は衝撃で言葉を失った。例の女性に時間をかけてすっかり洗脳されていたのだ。まともな話し合いにはならなかった。
「もうふたりとも大きくなったから、普段の生活は大丈夫でしょ。私はこの負の運命を変えるために修行を頑張りたいの。徳を積めば、理央や遥馬もまっすぐ育つって言われたの。そのために今、動かなければならないときなの」
親子三人でさんざん言い争って、気がつくと遥馬は部屋の隅で眠っていた。起きて台所へ行くと、「生活費」と書いた封筒をひとつ残して母親は消えていた。
ひどく巧妙にやられた、と遥馬は思った。家賃も光熱費も毎月支払われ、ぎりぎりの生活費も置いていく。一週間に一度ほど顔を見せる。それで世間的には子供を遺棄したことにはならないのだ。
生活保護も児童養護施設への保護も認められなかった。遥馬の住んでいた行政区では、例に漏れずそういうものは定員いっぱいになっていて、さしあたって生活できている人間を受け入れる余裕などなかった。
理央と遥馬、ふたりの成長に従い、母親の持ってくる金はだんだん足りなくなっていった。教材費や学用品費を捻出するため、食費を削らなくてはならない。
中学生の遥馬は、給食のおかわりに何度も立った。もはや給食は彼の生命線だった。
「あのさあ、給食費滞納してる人が一番食べるって、どうなの?」
ある日、背中から投げつけられた言葉だ。
えー、ひどいよ、かわいそー、きゃはは、と嘲る笑い声が続く。
遥馬はかたまった。手にはクリームシチューをすくうレードルを持っていた。ついさっきまで肉片を探して容器をかき混ぜていたところだ。
遥馬の手はわなわなと震えた。
(どうしてだろう。どうしてこの世界はこんなに不公平なんだろう)
自分が何をしたというのだろう。ただ残って、捨てられてしまう残飯をお腹いっぱい詰めこんだところで、それを卑しいことのようにとがめられなくてはいけないのだろうか。
(俺たちは、生きてちゃいけないのか)
からん。レードルをシチューの入った容器に落とした。
手に持っていた食器が床に落ちる騒がしい音がした。
誰かが自分の名前を呼んだ気がした。でも、そのときはもうどうでもよくなっていた。
あのとき、何かが切れてしまったのだ。今までじっと我慢してきた遥馬の中で、とうとうなにかが決壊を起こしてしまった。
次の日から、遥馬は登校しなくなった。
「学校に行かなくったって、偉くなった人間はいっぱいいるだろ」
口うるさい姉にはそう吐き捨てた。
強がりだ。自分たちの生きている国がまだまだ学歴社会なのは遥馬もわかっていた。ただこうして当たり散らす以外に、さまになりそうなポーズを思いつかないのだ。
※ ※ ※
ある日、夕方になっても理央が学校から帰ってこなかった。遥馬は嫌な予感がした。
日付が変わる頃になってやっと帰ってきた理央は、まるで酔っているようにうかれていた。いや、本当はうかれているフリでもしなくては、自分が保っていられなかったのかもしれない。
「遥馬、お小遣いあげる」
小さなハンドバッグから封筒を出すと、そこから一枚紙幣を出して、アパートの玄関に立った遥馬の鼻先につきつけた。一万円札だった。
「姉ちゃん、これ……」
「遠慮しないで。私ももう服買っちゃったから」
理央は体のラインもあらわなニットワンピースを着ていた。ミニ丈で首回りはゆるいタートルネックになっている。ほっそりした理央の肢体は、雑誌のモデルそのままのようだ。なんとなく遥馬は事情を察した。
「来週も同じ額あげる。いや、もっと稼げるかも。これからは我慢しなくていいよ。携帯電話の契約もできるかもね。あ、未成年だからそれはダメかー」
けらけらと理央は笑う。
「何? 何やらかしてきたんだよ」
「ちょっと、お仕事してきたんだ。紹介してくれる子がいてさ」
遥馬は怒鳴りつけたいのをこらえて、理央を台所の椅子に座らせ、「お仕事」の内容を聞き出した。
四畳ほどの台所には作業台代わりの細長いテーブルがあり、折りたたみ椅子を置いていた。遥馬はコップに水をくんで置いてやる。理央は少し酒の匂いがした。
「同伴者派遣ビジネスっていうの? ほら、友達の代わりに一緒に遊園地行ってあげたり、彼女の代わりに食事につきあってあげたりするやつだよ」
「それってデートクラブってことだろ?」
「ううん。ホテルには行かないよ。そういう規約になってるし。あくまで飲食店止まり。あのね、そういう職域に手を出すと、怖いおじさんたちの縄張りとかあって、いろいろ大変らしいよ」
姉は、自分を子供だと思っているのだろうか。
「それだけでそんな稼げるわけがないだろ」
理央は言いたくなさそうに、しばらくあちこちに視線を飛ばしていたが、やがて口を開いた。
「あのね。一番稼げる行き先はハプニングバーなの。バーにつきあう分は前金で。そこからあとはオプションで」
「なんだそれ」
「バーの中は衆人環視だし。基本的に同意の行為しか認められてないから、嫌がってるのに余計なことされることはないし。盗撮はお店側が禁止してるし。フロアが盛り上がれば、バーのほうから内緒でチップもらえることもあるし。むしろ、密室でサービスするようなお仕事なんかよりずっと安全なんだよ」
遥馬はしばらく憤怒をおさえるのに格闘していたが、なんとか感情を抑えこんで、長いため息をついた。
プライドとか、尊厳とか、今まで大事に抱えてきたそういったものが、バラバラとめっきのように剥がれ落ちていきそうなため息だった。もはや悪びれた様子もない理央を見て、自問する。
(姉貴がこうなったのは誰が悪い? 俺か?)
胃の中が煮えるような怒りはたぶん、自分の無力に対してだった。
未熟で愚かで何もできない。何もわかっていない。
理央だって、とっくに限界だったのだ。崖っぷちの前に立って、自分が落ちるであろう暗い崖下をのぞいていた。それでも後ろに遥馬がいたから。守らなければならない存在がいたから。自分がここで持ちこたえなくてはいけないんだと、必死で自分を鼓舞していたのだ。
その姉を崖っぷちから突き落としたのは、誰でもない遥馬だった。自分がすてばちな態度で学業も放り出し、理央の忍耐をたちきってしまったのだ。
十五歳と十四歳で。手を握りあって、守りあわなくてはいけなかった。それなのに、どうして自分は、みずからを切り売りするような仕事から、姉を守ってやれなかったのだろう。
理央は長い長いシャワーを浴びたあと、疲れたのかすぐに布団を敷いて横になった。
遥馬と理央は幼い時から和室で寝起きしていた。アパートにはキッチンと畳のはがれかけた和室、あとは狭い洋室が一部屋あるだけだ。洋室のほうは嫁入り道具だったという母の衣装ダンスとドレッサーで占領されていた。
足先の出る子供用の布団の中で、遥馬が眠れずに展転していると、理央が手を伸ばしてとなりの布団にいる遥馬の手を探りあててきた。
きゅっと握りこまれた。少し汗ばんだ手の平は、懐かしい感触だった。
「ねえ」
暗い部屋の中で姉の声がした。
「私たちがもっと可愛い子供だったら、父さんは真面目に働いて家に帰ってきてくれたのかな。母さんも、変な宗教に入れあげたりしなかったのかな」
姉の声はかすれていた。
「私たちが悪かったのかな。私たちが両親の期待に応えられるようないい子じゃなかったから、こうなっちゃったのかな」
「姉貴」
遥馬は理央の声をさえぎった。
卑屈な思考だが、そう思うことでしか運命を受け入れることができない理央の気持ちは、遥馬も痛いほどわかっていた。
(私、生きていけなくなるのが怖いよ)
姉の手は、世の中の不条理に脅えているように感じた。
遥馬は言葉もなくそれを握りかえすことしかできなかった。
(……俺も怖いよ)




