中編
「呪術と、毒……? 魔法ならば王宮魔術師、毒ならばお医者様がお気づきになられるのでは……」
メイナード先生が去ったあと、フィオナが呟くように言う。
「精霊の力による魔法と、獣人たちが使う呪術は、仕組みが違うんだよ。呪術は呪具を取り除かない限り、終わらない。魔法で治せないのも当然だし、呪術と毒の組み合わせで症状の出方が大きく変わるから、医者も原因の特定が難しいんだ」
王族には暗殺の危険がつきまとうため、毒と呪術に関しては幼い頃より、しつこいくらいに叩き込まれている。
ハイエナの嗅覚のおかげもあって、僕は一度も毒も呪術もくらったことがなかった。
フィオナが盛られた毒と呪術はたしか、一週間で人を死へと誘うもの。
半年ほど前から体調が悪い、とフィオナが話していたから、どう考えても呪術の効きが悪すぎる。
効力が落ちた理由はわからないけれど、向こうの城の誰かが、わざわざ人間に馴染みのない呪術を用いてフィオナを殺そうとしていたのは明白だった。
「私は、治るのですか……?」
おそるおそるフィオナに尋ねられて、もちろんだとうなずく。
「よかった……」
緊張の糸が切れたように、フィオナはほっとした顔で笑った。
呪ってきた相手を恨むことを忘れているのは彼女の性格からか、それとも聖女として負の感情を押し込めているからか。
フィオナとは反対に、僕はぎりぎりと歯を食いしばり、こぶしを強く握りしめた。
カミツレの花のように強く優しく咲くこの娘は、呪い殺されていいような人物じゃない。
フィオナを呪おうとした者への怒りと恨みではらわたが煮えくり返る。
噛み付いて生きたまま肉を引きちぎり、腸を引きずり出して骨を砕き、原型がなくなるように殺してやらないと気がすまない。そう思うほどに。
アーウァ、と甲高い声が漏れ出て、慌てて右手で口を塞いだ。
「リュカ殿下……?」
「ごめん、いまのは忘れて……」
恥ずかしさのあまり、顔を上げられない。
無意識のうちにハイエナの本能が顔を出し、威嚇の声を発してしまうなんて。
しかも、幼い頃兄様たちに散々『気味が悪い』と言われ続けたあの鳴き声……。
絶妙なタイミングでメイナード先生が戻ってきたため、僕は逃げるように立ち上がり、ドアへと向かう。
「内服して一時間くらいはつらいかもしれないけど、絶対によくなるから」
それだけ言って、彼女の顔も見られないまま部屋をあとにした。
◇
翌朝、フィオナの部屋を訪ねると、きらきらと輝いた目で迎えられた。
「リュカ殿下、私、ちゃんとお腹がすいたのです! こんなこと、もう半年もなかったのに」
当然のことながらまだガリガリに痩せたままだけど、表情はにこやかで生気に満ちていて、明るい笑顔は太陽みたいだった。
「呪具を吐き出せたみたいだね、本当によかった」
にこりと微笑むと、フィオナは照れたように頷いたあと、悲しげに目を伏せた。
「錠剤のような丸い玉が出てきました。あんな小さなもので人を呪うことができるなんて、恐ろしいですね……」
「身につけているだけならまだしも、体内に入っているからね……。祖国では、毒見役はいなかったのかい? なにか心当たりは?」
他国のことだし、僕にどうこうできる問題ではないけれど、矢継ぎ早に尋ねる。
フィオナを傷つけるような不届きな奴の名を、知っておきたかったのだ。
「毒見は初めはいたのですが、途中からいなくなりました。力のない『偽物聖女』を殺そうとするやつなどいない、と。心当たりのほうは、半年前にあの玉を飲み込んだ記憶があります」
「それは、どんな経緯で?」
毒見をやめさせられることができる人物、という時点で犯人を絞ることができたけれど、確認のためにも踏み込んで尋ねる。
「確か、妃教育が始まる前に必要な儀式があると、王宮にある大精霊の泉へ連れられたのです。そこで、王妃殿下とセドリック王太子殿下の前で、あの玉と甘く苦い液体の入った聖杯を賜りました」
やはり、と奥歯を強く噛みしめる。
殺すつもりで呪術をかけたのに半年たってもフィオナが死ぬ気配はなく。
しびれを切らした王妃と王太子はなんやかんやと理由をつけて、プライディリオ王国にフィオナを棄てたのだろう。
「いただいたあれが、呪具と毒だったのですね……」とフィオナは悲しげに目を伏せて、再び口を開いた。
「ですが、王太子殿下や王妃殿下が私を疎ましく思われたのは、しかたのないことなのかもしれません」
「……魔法のレベルが低いから、そう思うの?」
怒りから、低い声で唸るように尋ねると、フィオナは困ったように眉尻を下げた。
「それもありますが、一年ほど前、偉大な魔術師様がお亡くなりになる直前にこう言ったのだそうです。『セドリック殿下がこの国を統治するには、フィオナ・カミツレを次期聖女とし、殿下の妻とする他ない』と。前王様は予言を信じて、子爵の娘だった私を聖女とし、セドリック殿下の婚約者としました」
「つまり、王妃や王子の意見の入らない婚約だったし、力のない自分は疎まれて当然、ということ?」
「はい。それに、私も華があるわけではありませんから……。セドリック王太子殿下には、治癒魔法のレベルも高く、華やかな侯爵令嬢の恋人ができました。私は王妃殿下と王太子殿下にとってお邪魔で、きっとこうするほかなかったのでしょう」
身勝手な婚約と婚約破棄にフィオナは怒ることなく、ただ悲しそうにしているだけ。
子爵令嬢が王族に歯向かうことができないのはわかっているけれど、自分を犠牲にしてまで他人の事情を考えるフィオナのことが少しも理解できなかった。
◇
フィオナが毒と呪術から解き放たれたその日から、僕の周りが大きく変わり始めた。
一つ目は、フィオナのこと。
彼女は問題なく食事を摂れるようになり、身体も次第に曲線を取り戻し始めた。
色白の肌はきめ細かく、珠のように滑らかに。
頬にはほんのりと赤みがさして、小さく可愛らしい唇は花開いたばかりの薔薇のように潤んでいる。
真っ白な髪とザクロ色の瞳の組み合わせは、どこか妖艶にも見えて。
いつしか彼女を骨女と呼ぶ者は誰もいなくなり、皆、清純な美しさに心惹かれるようになっていた。
二つ目は、王宮の庭にいきなり精霊の泉が出現したこと。
フィオナから聞いた話をまとめると、どうやら聖女の仕事は『精霊のご機嫌とり』らしい。
聖女と呼ばれていた頃は、王宮にある大精霊の泉に毎朝顔を出し、姿も見えない、声も聞こえない精霊相手に祈ったり、世間話をしたりしていたのだそうだ。
聖女との語らいで精霊たちは喜び、人間たちにさらなる幸福と魔法を授けてくれると、信じられていたらしい。
ただ、最近ではそんなのは古い伝承だと精霊を信じない者たちも多いようで……王太子と王妃がその筆頭だったとフィオナは話していた。
フィオナは大精霊の泉での時間が好きだったらしく、ここでは泉がないのが残念、なんて語っていたら、その数時間後にはフィオナの住む離れの庭に精霊の泉が湧き出るようになっていて。
呪術がかけられていた頃には微かだった『精霊の加護があることを示す香り』も、いつの間にかフィオナ自身の香りと混ざり合って香るほど、はっきりとしたものになっていた。
三つ目は僕のこと。
不思議なことに皆の、僕への態度が大きく変わった。
ライアン兄様とジョシュア兄様は相変わらずだったけれど、他国の獣人たちや宮殿内の使用人たちの僕を見る目が一変したのだ。
これまで他国の姫たちは、少年という歳でもないのに、背の低い僕を見て美少年だなんだとしつこく擦り寄ってきて。
挙句の果てに、その美少年がハイエナの獣人だったと知った瞬間から、皆ウサギのように逃げ出していたのに。
なぜか、いまになって僕に婚約の誘いの手紙を送り付けてくる姫が何人も現れたのだ。
もちろん、僕は婚約中の身だから、フィオナに気づかれないうちに破り捨てて、全て丁重にお断りしているのだけれど。
これは、もう何をどう考えたっておかしかった。
◇
フィオナと朝ごはんを一緒に食べたあとで外に出て、二人並んで精霊の泉の前に腰掛け、日向ぼっこをする。
いつしかこれが、僕たちの日課になっていた。
「リュカ殿下、これはご存知ですか? ハイエナは怪我をした仲間を気遣って、餌を分け与えたりもするようですよ。知能が高く、社会性のある動物だと本に書いてありました」
フィオナはいつものように、図書館で仕入れたハイエナの豆知識を披露する。
なんでも、ライアン兄様たちのように、ハイエナについて誤解をしている人がいたら、こうやって正しい情報を伝えられるようにしておきたいらしい。
おかげで僕も、ずいぶんとハイエナという動物について詳しくなった。
「ハイエナの獣人さんだから、殿下はお優しいのかもしれませんね」
なんて、フィオナは照れたように笑う。
優しいのは、フィオナのほうだよ。
自信がなくてヘタレな僕は、たった一言が口に出せない。
情けない自分と向き合いたくなくて、僕はずっと気になっていたことを、ここぞとばかりに尋ねた。
「ねぇフィオナ。君は僕に何か魔法をかけている?」
僕の問いかけに、フィオナは小鳥のように首を傾げる。
「魔法? いいえ、何も。誰かに魔法をかけるときは、必ず了承をとってからかけるようにしていますよ。それに、元聖女なのに魔法はあまり得意ではなくて」
何かリュカ殿下のお疲れを癒せるような魔法をかけられればいいのですけど、とフィオナは寂しげに言うけれど、僕からするとそれ以上の魔法がかけられている。
ここ最近、身体が軽くてすこぶる調子がいいし、頭もさえて、兄様と剣術の稽古をした時もめずらしく僕が圧勝した。
人からのいただきものもなぜか増えて、フィオナが元気を取り戻してからというもの、僕の能力値が上昇し、運の巡りがやたらよくなっている気がしてならない。
だけど、フィオナが僕に魔法をかけている様子は見られないし、何がなんだかよくわからなくて困惑が止まらない。
ちらと、フィオナの横顔に視線を送る。
彼女は、痩せこけていた頃とは別人のように美しくなった。
隣から花のような甘やかな香りがして、思わずごくりと喉が鳴る。
さっき朝食を食べたばかりだというのに、フィオナを見ているとお腹がすいたような気持ちになって、そわそわと落ち着かなくなってしまう。
真っ白な髪が骨のようで、ザクロ色の目が血肉を彷彿とさせるからだろうか。
フィオナのみずみずしい肌に噛みつきたくて、欲しくて欲しくてたまらない。
僕になんらかの魔法がかけられているのかも結局のところよくわからないし、謎の食欲も止まらないしで頭を抱えて唸っていると、ふわりと精霊の香りが強く漂う。
「リュカ殿下、私はそろそろお勉強に行って参ります」
フィオナが立ち上がると、ぶわりと強い風が吹く。
バランスを崩したフィオナは「ひゃっ」と小さく声を出して、僕に向かって倒れ込んできた。
僕も慌てて手を伸ばし、怪我をしてしまわないようにフィオナの身体を抱きとめる。
「何ともない?」
僕の問いかけにフィオナは無言のまま頷く。
「精霊のいたずらかな、さっきフィオナのそばから精霊の香りがした」
なんて話しながら、いまの状況を再認識する。
腕の中にはフィオナがいて、甘い香りがすぐ近くから漂う。
未だかつてない距離にどくんと大きく心臓が跳ねて、僕から離れようとする華奢な身体を、思わず両腕で強く抱きしめた。
幼い頃に見た海の潮騒に似た音と鼓動とが同時に耳の奥で鳴る。
彼女の温度も、柔らかさも、香りも、全てが僕の理性を狂わせて、本能が抑えられない。
ふと目に入った美味しそうな色白のうなじに血がのぼり、フィオナの首に噛み付くように口付けた。
温かくて柔らかな肌が心地よくて、もっと欲しいと思うのと同時に、フィオナがふるりと身体を震わせたのがわかる。
ようやくそこで我に返り、さっと血の気が引いた。
僕はいま、いったい何を……。
両腕を緩めて慌てて離れると、フィオナは顔を真っ赤に染め上げて、ザクロ色の瞳をうるませていた。
「フィオナ、僕は……」
慌てて謝ろうとしたけれど、フィオナは「勉強の時間なので、失礼いたします」と、少しかすれた上擦った声で言い、ドレスを着ているとは思えない速さで走り去っていったのだった。