運命
泥の温泉の中へと落下して意識が途絶えた後のことだ。
俺はいつもの白い部屋、いつもの白い机に立ったまま齧り付いた。
そして今にも消えそうな光るナイフを握り、目の前の机に突き立てる。
これが初めの傷ではない。
今回突き立てた数で——
「13回目…………!」
「しっかり考えろ! 同じ事を何度繰り返してんだ!」
ヴェンジが焦り、空腹で死にそうな俺に詰め寄る。
何度も同じ事を繰り返しているなんて事、俺だって分かっている。
最初に戻った時はすぐに泥から這いあがろうとした。
けれど視界に泥が広がる中、上下左右など地上の方向さえ分からない状態で、いつの間にかまたこの白い部屋に来ていた。
次こそは、と地上の方向に適当に当たりをつけてがむしゃらに進んだ。けれどまたこの白い部屋にいた。
その次はと意気込んだものの、泥の中に大きくて重い何かが邪魔して碌に動けずにまた白い部屋にいた。
今度こそは泥から這い出てやると、そう決意を込めて部屋に来る度に何度も机に傷をつけた。
その傷の数も既に13回目にもなっている。
今度こそ最後にする。
タイミングを合わせるんだ。
「おい、何ぶつぶつ言ってんだ!」
でなければ、14回目だ。
またこの白い部屋へと逆戻りになる。
いや、逆戻りだけならまだ良い。
何度も繰り返す度に空腹が酷くなってきている。
段々と白い部屋から出る出口が出来にくくなってきている。
復活出来るか怪しくなっているのだ。
だから次で確実に使えるようにしなければ。
使えた時のことを思い出すんだ。
「聞いてんのか?!」
「うるせぇ!」
死ぬ前にもがいてもがいて、ようやく魔石を手に握りしめることが出来た。
次で決める。
「俺は今……ジャムの具なんだよ!」
「……は!? お前の頭大丈夫か?!」
スワンが触れたあの時の感覚を思い出す。
俺はあの時初めて魔術を使えるようになったんだ。
後は、俺が発動出来るかどうか。
規模は大きく。俺ごとまとめてだ。
「今度こそ……!」
ゆっくりと傾きつつある部屋。
ナイフを握り割り、背中から飛び込むように床を蹴り飛ばす。
ふわりと浮く体。
俺は後ろに手を伸ばした。
部屋の壁まで落下し、伸ばした手が部屋の壁に触れる。
壁には既に小さな穴があきかけていた。しかし人が通れやしない程のもの。
俺は小さな穴を瞬時に広げ、くぐれる出口をつくる。
そのまま広げた穴から身を滑り込ませる。
穴をくぐると周囲を闇が覆う。
どこかへと落ち続ける身体。
視界から遠ざかる白い部屋。
何度も何度も繰り返した光景だ。
繰り返したからこそ、俺は知っている。
周囲の闇が泥に変わるその瞬間も。
「っ、”天地の交差”!」
これが、これこそが。
スワンがくれた起死回生の一手だ。
俺が魔術を発動させる直前。
——君にこんな事をせず、私は私のままで終われただろうか?——
涙が落ちる音がした。
「っ、”天地の交差”!」
全身を包む泥の中で死んでも離さないよう、手の中の魔石を割れんばかりに強く握りしめる。
俺だけじゃない、周囲の泥ごとまとめて全て宙に浮かせてやる。
「ぐ、ぅ……!」
腹が減りすぎて意識が飛びそうだった。
けれどこの魔術だけは何があっても最後まで発動させる。
魔石に籠った俺の魔力を全て使い切ったって良い。
ジャムだろうが大量の泥だろうが、全部ひっくり返してやる。
電撃を含む泥が皮膚を焼く。
泥が離れて浮いてと不規則に繰り返す。
閉ざされていた視界が徐々に開けてくる。
泥でもみくちゃにされる中、見えたのは大量の人の体だ。
似たような人の体に何度もぶつかる。
そうして俺は周囲の泥ごと放り出され、容赦なく地面に叩きつけられる。
ぬかるむ地面を踏みしめてふらつく身体を無理矢理動かした。
顔にこびりつく泥が鬱陶しい。
生き返った後に増す不快感と泥をまとめて振り払う。
辺りを見る。
そこには俺が居た。
俺自身の顔を見間違えるはずなどない。けれども何故か上半身だけしかなかった。
俺の予備にしては多すぎる上に、自分が積み上がっている光景は恐怖を通り越してもはや理解不能だ。
しかし今はそんな事よりも優先する事がある。
俺は小さく震える彼女へ近づく。
目を腫らしたスワンは俺を呆然と見上げる。
そんな彼女の肩を掴んだ。
「色んな事を知っている所!」
「………………へ?」
「真面目な所! 常識がある所! いつも優しい所!」
「な、何を言って……」
「俺がスワンを好きな所だよ!」
「……」
スワン自身が己を嫌っていたとしても、俺が彼女を好きな所はいくらでもある。
スワンは驚いて赤くした目を大きく開き、しかし直後に表情を暗くする。
スワンか、と彼女自身の名前をポツリと呟いた。
「他には——」
「違う」
「私はスワンでは無い」
彼女の記憶があるだけ。
彼女の血肉が全て泥にすり替わってしまったモノがここにいるだけ。
何もかもが違うのだと、彼女はそう言った。
「今の私は純粋に騎士を目指した私では無い」
「ブルーローズでは俺を助けてくれた」
「たまたま騎士もどきの私だっただけだ。……何かが違えば、別の誰かがレストの助けになっただろう」
俯く彼女の表情は見えなかった。
「きっと……その方が良かった」
絞り出された言葉は今にも消えてしまいそうだった。
彼女の頬にそっと触れる。
手に触れた涙は熱かった。
「それでも……あの日あの時あの場所、俺の目の前に居たのは」
僅かに上げた彼女の顔を覗き込む。
合わせた瞳は揺れていた。
「紛れもなく君だった」
彼女の揺れる大きな瞳から堰を切ったようにぼろぼろと大粒の涙が溢れ出る。
俺の指だけではいくら拭っても拭いきれなかった。
「……仕事の一環……だった」
「知ってるよ」
「私にとっては何でもない日常の……いつもの事で……」
「俺にとっては特別だ。全部覚えている」
あの時は本当に右も左も分からない状態だった。
俺が誰なのか、手掛かりひとつ無かったあの時に手助けしてくれたのは目の前の彼女だ。
「俺の失いたくない大切な記憶なんだ」
何も覚えていない俺にとっての、かけがえのない記憶なのだ。
「だからさ、俺が知ってるスワンは目の前の君だけなんだよ」
「……っ」
スワンは俯き、涙に濡れた顔を隠すようにしてぐしぐし拭う。
その後スワンの左手が俺へと伸びて来て——
——泥に変化して俺の首に纏わりつく。
「ぁ……ぇ……?」
「スワンっ、な……にを……!?」
「何で勝手に!? 違うんだ! 手が勝手に動いてっ?!」
俺もスワンも何度も右手で泥を掻き分けるが、泥は指をすり抜けてまとわりつく一方だった。
「辞めっ……、辞めろ!」
スワンは魔術で大量の水を創り出し俺に向かってぶちまける。
纏わりついていた泥は大量の水に薄められ地面に流され、俺は鼻から入った水に咳き込んだ。解放されたばかりの首元はまだ少しざらついていた。それらを手で払いながら深く息を吸う。
スワンは立ち上がり、洗い流した泥の左腕を徐々に再生させていた。
その表情は苦痛に満ちていた。
「逃げてくれレスト、頼む……!」
「……何、を」
「魔術も、足も駄目みたいだ……コントロールが全く効かない……!」
スワンの悲鳴に被せるように背後から泥が波打つ音がした。
地面の泥がとぷん、とぷんと揺れた後、人の形をつくりだす。
「気持ち悪い感じがしたから来てみればさぁ。何なのそいつ?」
泥から女性に変化する。彼女は俺を睨みつける。表情は不愉快そうに歪んでいた。
見てすぐに分かった。彼女は魔族なのだと。
彼女はゆっくりとスワンに近づき、スワンの肩に手を置く。
そして口元をスワンの耳に近づけて一言呟く。
「"早くそいつを片付けて"」
その瞬間だ。魔術が発動され、地面に浅く水が張られた。
「なっ……何で、嫌だ……!?」
スワンの左手には水の刀が握られていた。
涙ながらに首を振るスワンを見る彼女は心底楽しそうに腹を抱えて笑っていたのだった。
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