愛用のビーサン
「んで、だ。魔獣だとか覚えている範囲で戦闘経験はあるか?」
つい木剣を振る感触を楽しんでいた時だ。ロンジから戦闘経験の有無について問われた。記憶がないといっても俺は町の外から来たから、その時に魔獣などと戦った事があるのかどうかを聞かれているのだろう。
ロンジが部屋の中央に歩いていくのを追いながら何の気なしに俺は返答した。
「あぁ、饅頭ならあるぞ」
「…………饅頭?」
饅頭という言葉に何か引っかかったのか、振り返って聞き直される。
何か気になることでもあったかと不思議に思いつつも、俺は言葉を続けた。
「森で饅頭落っことしたから怒らせちゃって、それで追い掛け回され…………いや悪い。今のは昨日見た夢だった。俺に戦闘経験は無い」
饅頭と命懸けの追いかけっこについて説明をしていると、段々ロンジの目つきが細くなり、怪しくなったのだ。
不穏な空気を感じ取った俺は昨日見た夢といってしまった。
……俺には昨日の饅頭とのやりとり以外に魔獣とやらに遭遇した経験もなければ戦った記憶もない。
つまり俺にはまともな戦闘経験は無い。ともいえる。
「突然夢の話をするんじゃねぇよ。饅頭が襲い掛かってくるなんて現実じゃありえねぇって流石に分かるだろ。寝ぼけてねぇで頭切り替えろ」
「お、おう」
饅頭は怒ったりもしなければ襲ってくることも無いらしい。
……あれ? それでは昨日の出来事は一体何だったのだろうか。昨日、饅頭がモンスターになったのは稀に起こるだけの現象なのだろうか。きっとそうだ。そうに違いない。じゃあアイテムボックスみっちり詰まっている饅頭は落としてもモンスターにならない普通の饅頭なんだ。なんだ、安心した。
ロンジは手に持った木剣を俺に向けて構えた。どうやら今から手合わせを行うようである。
「ハンデくれてやる。何時でもかかって来い。相手し——」
あ、まだロンジが言い終わる前だった。まぁ良いか。何時でもかかってこいって言っていたのだ。
ロンジがかかって来いと言い終わった後、既に俺は駆けていた。俺が目の前に来てようやくロンジが俺を認識したらしい。ロンジは案外反応が遅い。ひょっとしたら冒険者じゃなくて受付だと戦闘はしていないのかもしれない。
けれど、俺がロンジとの距離を詰めた時。彼が俺を認識した瞬間だ。俺とロンジの間。彼の正面にうっすらと透明な板が突如出現した。ロンジがすぐさま木剣を斜めに構え直してそれが現れたのだ。この透明な板は一体何だろうか、全く分からない。このまま攻撃して触れていいものなのか不明だ。
回避が無難だな。
俺はロンジの左手側へ、ロンジにとっては右の木剣の持ち手側に回り込む。真っすぐ駆けた勢いをそのままに透明な板の張られていない横側へ。横手に回り込んだ時に砂で大きく擦れる音のまま足を踏みしめた。そしてロンジに向かって"拳"を振りかぶる。彼は横に回り込んだ俺に未だ反応できていない。
捉えた。
そう思った。しかし俺の拳を当てる瞬間。
ぶちり、と足元から嫌な音が聞こえた。
「ぇ?」
踏みしめた足元が突然ズレた。俺はバランスを崩し、掲げた拳が空を切る。
勢いを殺しきれない。
傾く上半身、眼前に迫る地面から両腕で頭を庇う。
俺はそのまま勢いよく地面をバウンドして転がり、訓練場の壁に叩きつけられることでようやく停止した。
「ぐっ…………い……ってぇ……」
少し訓練場の壁が凹んでしまった。完全に自滅してしまったようである。いやしかし、それよりも……
俺はふらふらと立ち上がり、足から離れて落ちた"ソレ"に向かう。
近づいて見ればあまりのボロボロさにショックを受け、俺は膝をつく。
「そんな……そんな、俺の……俺のビーサンっ……!」
昨日スワンに買ってもらったビーサン。新品だった俺のビーサン。二日目にしてようやく足に馴染んできたと思ったのに。
あんなに分厚かったサンダル底は紙のようにぺらぺらになって黒く焦げている。鼻緒の部分は無残に千切れて到底履けそうにもない。もう片方のビーサンも踏み込んだ足のビーサン程は酷くはないもののかなりの損傷だ。
「俺のお気に入りのビーサンが……」
"ようこそ! ブルーローズへ!"と書かれたビーチサンダル。この文字を見ると記憶の無い俺でも歓迎されているようで嬉しかったのだ。それがこんなボロボロに……思わず少し目が潤んできた。
「そのビーサンはこの町ならどこでも売っているからな?」
ロンジが呆れた顔でそう言って近づいてきた。
何処にもあるらしい。希望の光が差し込んだ気分だ。俺はこの後すぐに買いに行くことに決めた。
「それよりお前。俺が渡した木剣どうした?」
「すまん、俺のビーサン…………え、木剣? 長いし走るのに邪魔だったから捨てた。木とはいえあんなものを振り回して当てたら怪我するだろ?」
俺は走り出す前に居た場所を指さした。俺の指に沿ってロンジは顔を向ける。落ちている木剣を確認した彼はしゃがみこんで俺に目線を合わせた。
「……寸止めって知ってっか?」
「寸止め」
相手に当たる寸前で止めるらしい。大怪我しないように。天才か。
「……模擬戦はもういい。それよりもお前は装備を整えろ」
実践では武器を絶対に手放すなよと凄まれた俺はビーサンの残骸を握りしめたまま必死に頷いた。ロンジは大きなため息をついて立ち上がる。
「本来なら適当に依頼受けさせて評価するんだが、お前は冒険者としての知識はおろか一般常識まで無いからな……他の奴と一緒に受けてみろ。俺が一時的な同行パーティー斡旋してやる」
「分かった。ありがとう!」
ロンジから斡旋された同行パーティーが俺の行動から適正冒険者ランクを見るそうだ。もし今後パーティーを組みたい人物が居るなら、一緒に俺の試験に同行しても良いらしい。
「詳細が決まればまた話す。お前がギルドに居れば俺が声かけるからお前は準備済ませとけよ」
そう言ってロンジは去っていった。
いつもの受付に戻りながら先ほどの出来事を思い出していた。もしあの時ヴェンジが木剣を手にしていたのであれば、あの時ヴェンジが履いていたビーチサンダルが破損していなければ、ロンジはただでは済まなかっただろう。振り返って思い出せば肝が冷える。今のロンジはギルドの受付だが元Aランク冒険者であった。その為、ブランクがあろうとAランクのヴェンジが記憶喪失であれば問題ないと思っていた。実際は問題しかなかったわけであるが。
「何だあの速さは」
ヴェンジの情報は冒険者ギルドの登録情報から事前に確認もしていた。何より有名人であるため以前から耳に入ってくるので知っていた。女神デザイアの慈悲であるスキル——ヴェンジの場合は"復讐の炎"。所持者の憎しみが増せば増すほど身体能力が上がるスキルだったはず。ヴェンジの復讐の炎の発動時はオーラのようなものが外から可視化される。記憶を失っているあいつはおそらく復讐の炎が未発動。それにも関わらずあの速さ。
「記憶を失ってスキルが変容したか……?」
スキルの取得には洗礼を受けて授かる場合と自然にランダムで取得する場合がある。洗礼の場合はそれまでの性格や思考から女神デザイアにより選んで頂いて授かるものだ。スキルはひとりにつきひとつの為、殆どの場合が洗礼による取得である。
そしてスキルの変容はありえない話じゃない。自然取得した後に初めて洗礼を受けた時や、頭の怪我で性格が変わった時などの状況は様々だが変容自体はないことも無いのだ。
しかしそれにしても速さに関するスキル持ちでもあそこまで速い人物はロンジの記憶には無かった。
「さっぱり分からん」
とにかく冒険者にとってあの速さはメリットだ。もしスキルの変容ならばそのうち登録情報の修正が必要になるだろう。急ぎではないにしても再洗礼をヴェンジに勧める必要がある。しかし今はヴェンジの冒険者適正ランク判定の依頼を受けるパーティーを探すことだとロンジは頭の中で候補のパーティーを挙げていった。