空の旅
次はイースを、始祖竜グラフォリオンを海に連れて行く。催涙弾の嫌な臭いを洗い流してしまえば落ち着くだろ、とアールが言っていた。
それならば海が最適だ。ドラゴンを丸洗い出来る広さがある上に、大量の水が存在している場所など海以外に無いのだ。
しかし、海に突き落とすにあたって問題がある。その問題とは、俺が巨大なドラゴンを海に突き落とせるかどうかだ。そもそもドラゴンと人の体格差など比べなくても分かるほど明らかなのに、力比べなどしても全く歯が立たないのは間違いない。ではどうするか。
今のところ、解決策はひとつだけ考えた。
俺と始祖竜が走っている時の勢いを保ったままで、俺が後ろから蹴り上げる。
勢いを利用して海に突っ込ませるのだ。
その場合は俺が後ろを取る必要がある為、海岸間際まで誘導した瞬間に立ち位置を入れ替え、ドラゴンの背後を取れば良い。
海岸まで辿り着ければ、入れ替わりはどうにでもなるだろう。
今の俺がやる事は、アールの用事が終わるまでにグラフォリオンを遠くへと引きつける事だ。
引きつけた後の道案内はアールに任せた。
目の前のドラゴンは未だに俺を仇だとばかりに睨みつけ、剥き出しにした牙をギラつかせる。怒っている事は間違い無いだろうが、動作に荒々しさが消えて妙に洗練されている。過去に獲物を追い詰めていた時はこんな風だったのだろうか。俺は始祖竜グラフォリオンの挙動をしっかりと目に焼き付ける。
ゆっくりと羽を広げる始祖竜。俺は街灯を大きく一度揺らして未だ怒りの収まらないドラゴンに見せつける。
「こっちだ」
ドラゴンは揺れる炎に目もくれない。ただひたすら俺だけを見つめ、俺が油断する瞬間を待っている。
グラフォリオンが反応する前に、と俺は先に背を向け駆け出した。
イノ入りの街灯を肩にさげながら、俺は綺麗な石畳の道から外れ、ただ広がる草の平野を踏み締める。そんな俺を逃すまいかと背後から猛スピードで追いかけてくる轟音がすぐ近くで聞こえてきており、直後。
真後ろにまで、追いついてきた。
「あれ、さっきより速くなってないか?」
『も、もっと急いで!!』
そんな焦った声を受け、今俺が出来る限界まで速く駆ける。真っ直ぐ進んだら、たまに曲がって、フェイントをかけて。変化を繰り返して、追いつかれないように引きつける。
今の始祖竜グラフォリオンの速さが本来のモノなのだろう。町中では怒りに任せて俺へと攻撃ばかりしていたのだ。今は広い平野で俺に追いつく事だけを考えればそりゃ速くなる。咆哮は無く、風を切る音が聞こえ、土が揺れる振動が足の裏から伝わってくる。
駆け回りながら、思わず笑みが溢れた。
俺は後ろで追ってくるイースにも聞かせるように大きな声を上げる。
「ははっ、次は海まで持久力勝負だな!」
『何を悠長なことを言っているのよ!?』
「燃えてくるだろ? 古代の最強ドラゴンと競争出来るなんてさ!」
『っ、もう良いわ! なんでも良いから追いつかれないで頂戴!』
やっと始祖竜が俺に本気を出してきたのだ。殺意に任せるだけでは補足できない獲物だと思われた。本気を出すに値すると思われている。こんなに喜びを感じる事は無いだろう。
しかしそれも正気に戻るまでの束の間だけ。
長引けば俺が不利になり、イノを危険に晒してしまう。
頭の後ろでは、角灯の中で悲鳴が段々と大きくなっている。
俺は肩に掛けた街灯を引き、角灯を少し揺らした。それに反応して、イノの炎が一度細く広がる。
「イースが正気に戻るように声を掛けててくれ!」
『っ、どうせ聞こえていないから意味ないでしょう!』
あんな風に、心まで呑まれている状態で聞こえるはずなんてないじゃない。そんな諦めた苦しそうな声が俺の耳に届く。
何故そこまで無理だと決めつけるのかと考えて気づいた。俺は外から見ているから分かるのだ。きっと当事者同士では気がつかない。お互い見えていない時の行動なんて、見えていなければ当然気づかない。
消えかかっていた時のイースの行動を。
側から見ればあんなにも分かりやすい様を。
「絶対っ、聞こえる! 饅頭を百個掛けて良い!」
『……なにを根拠に』
「俺は詳しい事情は知らないけどさ、見ていれば俺でも分かるんだよ!」
大切なものならば、壊れないように見えない所に隠せばいいのだろう。
けれど、イースは大切だからって、大事だからって閉じ込めたり隠したりなどしていなかった。
返事が返ってこないと分かっているだろうに退屈しないように会話をして、外の世界がしっかり見えるように角灯を綺麗にして。
「いつも! ずっと! 君だけを気にかけていたんだ!」
見つめた先の炎は、細くなり揺らいでいた。
今のイースは怒りで何一つ見えていなかったとしても、ずっと怒りが続くわけでは無い。
「だから絶対届く!」
ほんのふとした瞬間で良い。
待ち望んだ声なら必ず届く。
背後からは轟音が迫り来る。俺に食らいつく程のとんでもない速さでドラゴンが迫っている。それにも関わらず、今やイノの悲鳴は消えていた。
俺の背後では風を切る音だけが聞こえ、ほんの少しの沈黙ののち、吹っ切れたように俺へと告げる。イノは気持ちの整理をつけたのだろう。
『…………饅頭は百個も要らないわ』
「え」
突然饅頭を拒否された。いや、そういえばさっき饅頭百個掛けると言ったのは俺だったか。
俺の間抜けな返答を聞いたイノはクスリと笑った後、角灯から炎をより一層周囲に膨らませた。
『聞こえてる!? わたしを無視するんじゃ無いわよ!!』
遠くまで聞こえる、よく通る声だった
怒った口調だったが、必死さが隠されていた。
何度かの繰り返した声かけを聞いていると、グルルと唸り声が急激に増えていく。
やはり声掛けには効果があったのかもしれない。しかし。
ふっ、と背後からの轟音が小さくなったかと思った時だ。
アールの警告が聞こえた。
『右に避けろ! レスト!』
「っ!」
即座に右へと無理矢理に方向転換する。足を踏み締め、地面の土が大量に舞い散る中を左方向からのグラフォリオンの鋭い爪が空振りをした。
「あっぶねぇ!」
『そのまままっすぐ向かえ! レストの足ならじきに着く!』
『了解! アールは追いつけるか!?』
『問題ない。疲れるがやり方はいくらでもあるんだ』
「助かる!」
アールの方は用事を終えたようだ。ドラゴンと俺の追いかけっこにアールは本当に追いつけるのだろうか。
アールが来るという安心感から、ほんの一瞬だけ気を緩めてしまったようだった。
『屈め! 攻撃くるぞ!』
若干いつもよりも反応が遅れる。
「っ!?」
『きゃっ!』
風という風が全て縦横無尽に入り乱れ、突風が絶え間なく吹き荒れる。もみくちゃにされる中振り返ると、ドラゴンの太い尾が横薙ぎにされるのが見える。振り返りながらの屈む動作が少し間に合わず、さらに風で体勢が崩れた。そんな状態で背を竜の尾が掠る。
ほんの少し掠っただけで背中を切り裂かれ、吹っ飛び地面を転がる。転がっている内に手に持つ街灯は取り落としてしまったようだった。焼け付くような背中の痛みを感じながらも立ち上がり、視線を巡らせ炎を探す。
街灯は始祖竜グラフォリオンの向こう側に転がっていたのが見えた。
今の俺たちの位置はとても良い。
俺の真後ろでは海の匂いがした。
ドラゴンは転がっていった俺を探して睨みつけ、突進してくる。
俺も向かってくるドラゴンを正面から走って迫る。始祖竜は俺から目を離さない。俺が飛び上がる動きをしたのに釣られる。直後に体制を低くして竜の足元へ走り、地面に体を滑らせ、巨大なドラゴンの影に入る。急に止まれないドラゴンはそのまま前へ突進し、俺たちは上下ですれ違った。
「っ、よし!」
巨大なドラゴンの真下を潜り抜け、背後に転がる街灯をすかさず拾った。今がチャンスだ。
「真後ろ取ったぞ」
ドラゴンの目の前には海岸があり、そして俺が後ろにいる。
しかしグラフォリオンの動きは崖のギリギリで完全に停止してしまっていた。
しまった。走る勢いを上手く流して海に突き落とす予定が完全に狂った。
こうなれば俺の蹴り上げのみで、この巨大なドラゴンの体制を崩してやると意気込み、力を込めたその時だ。
じっ、と始祖竜グラフォリオンは真横を睨みつけていた事に気づいた。視線をたどって横を見ると、遠くに見知った町が小さく見えた。
港町ブルーローズだった。
嫌な予感で背筋が凍る。そんな俺を気にも留めないドラゴンが目の前で羽を大きく開き、浮上し始める。
「おい、飛ぶなっ! 待てって!!」
浮いているドラゴンに俺が今更蹴り上げたところで海には落とせないのは確実だ。
飛ぶのを引き止める為には、と思い出したのはレッドドラゴン討伐時の事。あの時は蔦で地面に縫い付けていた。俺は咄嗟に手からロープを創り出し、始祖竜グラフォリオンの足に巻きつける。幅が均一で頑丈なロープが出来た。俺は光るロープを握りしめる。
そして地面に固定を。
……固定?
「あれ? どうやっ——」
『何してんのよ!?』
『レスト、気をつけろ! 飛ぶぞ!』
ぐん、と腕が持っていかれる。
踏ん張ろうとした足は空気を蹴っただけだった。
「——ったらいいぃぃぃぃ!?」
引き止めようと手はロープをしっかりと握りしめていたのだ。
俺は木々にぶつかり、枝葉の合間を無理にすり抜ける。
「っぶわ!?」
ふわりと浮く体。
木々から上へ放り出された先は。
「————空だ」
浮いている。
視界に広がる青い空。
地面と体がどこにも接触しない不思議な感覚。全方向にどれだけ手を伸ばしても、掴めるのは空気だけだった。
果てしない空間に魅入られたのも束の間。
腕が外れそうなほどの力でロープが引っ張られ、大気を置き去りにして俺の体が空を引きずられた。
落ちたら死ぬ。
轟々と耳元で風が鳴り、目を碌に開けられない中、ロープを両手で力一杯体重を支える。
「くそっ、イノっ……ぁ」
心配して声をかけようと俺は気づく。俺の両手は今ロープを掴んでいる。
イノ入りの街灯を俺は持っていないのだ。
間違いない。
恐らく飛び立った時だろう。
「落としたぁぁぁぁああ!?!?」
イノは地上に落ち、イースことグラフォリオンと俺の2人っきりで空の旅行が始まった。




