郭公
身が軽くて足が以前とは比べ物にならない位格段に速くなってる。
父ちゃんと兄ちゃんが捕えられてる場所は分かってた。カランタ市警固隊庁舎の一画を使ってるはずだ。騎獣がないと時間が掛かるけど私の脚なら速い。障害物も獣の敏捷さで軽々飛び越えて進む。人を驚かせるのも気が引けるので、なるべく屋根の上や人通りの少ない道を選んだ。
力が解放されて細胞の一つ一つが歓喜してる。何処までも走り抜けたい欲求を抑える。
「ネーナ、止まってくれ!君は行っちゃあいけない」
転移でダンテさんが追って来た。止まらない私に、小刻みな転移で付いて来る。人間の脚では付いて来れないもんね。
「ちゃんと父さんと兄さんは助け出すから、後は俺達に任せてくれないか」
「出来る訳ないじゃん!家族をあんな目に遭わせられたんだよ!私自身の手で取り返すんだ」
そうでないと納得出来ない。
「ヘルダーリンの奴、只じゃおかないんだから!」
「巻き込んでごめん。それは俺達の責任でもあるんだ。俺と師匠で必ず連れて帰るから、ここは一旦身を隠してくれないか」
「無理⁉」
犬型のオラーツ氏が追い付いて来て、ダンテさんを背に並んで走った。
「オラーツ、ネーナを止めてくれ」
〔行かせてやれ、自分の選択の結果がどうなるか、彼女も自身で学ぶべきだ〕
人型の時と声の響きが違う。
そうだ、これも私の選択の結果なんだ。巻き込まれたんじゃない。先生が頼ってくれた時私は喜んだんだ。ドロテーにしても彼女にしてあげられることがあって嬉しかった。巻き込まれたのは家族だ。
遠話で連絡があったんだろう、バラバラと隊員が緊張した面持ちで警戒態勢に入ってる。
「ダンテさんこそ退いて。出張ったら色々と不味いでしょう?これは私の問題なの」
「そうはいかない。ったく!師匠は何してるんだ」
「ダンテさんは先生を待ってて、私は行くよ」
「ネーナ!」
身体が勝手に動く。ギムナジウムのスカートが邪魔だけど、気配を殺して足音も立てずに裏手に回る。誰にも気付かせやしない。皆さんそちらを警戒してますがね、正直に門から来る訳がないでしょが。
お誂え向きに肉付きのいい側近が指示を飛ばしながら姿を見せたから、トンと背後に立ってやる。反応は素早かったけど簡単にねじ伏せてやった。
「ネーナ・ヴィンクラーか」
「そうだよ。父ちゃんと兄ちゃんは何所?」
「中だ。やはりバーデンの奴は下手打ったんだな」
気色ばむ部下を制する。こいつの持ってる剣と短剣を奪うことも考えたけど、それは得策じゃない気がする。私が刃物を持っちゃったら連中は容赦をなくすだろう。
「そこに案内して、解放してくれたら私は素直に捕まるから、約束する」
「でしょうな、ったくあの野郎」
最後の方はバーデンって恐らく優男に向けたものだと理解する。
ほら、私はこいつの腕を後ろ手に捻り上げてるだけだから、部下達もどうにか出来そうだって顔してるよ。極限まで緊張してない。
けど父ちゃんと兄ちゃんの姿を認めた時、私は自制心が弾け跳びそうだった。小ホールみたいなとこで二人共椅子に縛られてて、顔が腫上がって人相が判んなくなってた。あれは目が見えなくなってるよきっと。
しかもそういう時にあの優男のバーデンが帰って来やがったんだ。服は乱れてるけど部下に護られてたんだから怪我をしてるはずはない。ムカつく。とってもとってもムカつく。
入口は一つじゃないんだけど、どうして正面から帰って来ないんの。私の連行に失敗したから裏から帰ったとか?
「ドスタル、無様な格好だな小娘相手に」
同僚の失態を悟ってそれで自分の失敗を帳消しに出来ると踏んだな。嬉しそうじゃん。あ~ムカつく。同僚の捕まった意味が解ってるはずなのに、ちゃっちゃと二人に駆け寄って人質を確保したんだ。
ドスタルって呼ばれた奴は舌打ちした。
「貴様がヴィンクラーの確保に失敗したんだろうが」
「それはその姿の言い訳にならんぞ」
「そんなものは閣下にする。娘が来たんだ、父と兄は解放してやれ」
父ちゃんと兄ちゃんのどっちが息を呑んだんだろう。分かんなかったけど私が来たことは判ったみたいだ。
「ネーナを拉致したのか!帝都警察とはいえ不当逮捕は訴えてやるからな⁉」
「黙れ」
「グッ」
バシッと音がして父ちゃんの口元を何かで叩いた。
「父ちゃんに手を出すな⁉」
手に力が入っちゃってドスタルが小さく呻いた。それでも我慢したんだろうな。直ぐ緩める。
「それはこちらの台詞だ。ドスタルを解放して大人しく捕まれ」
「父ちゃんと兄ちゃんが解放されたらな。この人がどうなってもいいの?」
優男は冷たい視線で同僚を一瞥した。
「その男に人質の価値はないぞ。こんな仕事をしてるんだ。命を落とすのは覚悟しているだろう」
(クズだ、こいつ…)
「貴様…」
ドスタルの部下らしい人達も無言の反応を示した。不服って。
「父親と兄はこの娘に口を割らせるのに必要だ。解放は出来ん。それに保護者同伴を主張したのはこいつらの方だ」
私に口を割らせる為に二人に何するつもりだよ。考えたくない背筋が寒くなった。
「じゃあ…二人を解放しなくていいよ」
我ながら声が凄く冷たい。
「父ちゃんと兄ちゃんには見せたくなかったけど、これからお前を八つ裂きにしてやるから」
「何⁉」
伴った部下が少なくて後ろに隠れたくても場所がない。
「出来ないと思わないでね。あんたの部下より私の方が数段早く動けんだから、そして素手でだって八つ裂きに出来る力が私にはあるんだよ」
ホントにあんたは無様だよ。想像力がなくて人の弱味につけ込むしかなくて今更青い顔してさ。
「止めろネーナ、そんなことする位なら逃げるんだ。父ちゃんと俺の事なら気にするな何とかする」
「口を利くな!」
バシィッ
「つああ…!」
兄ちゃんの悲鳴が上がる。部下が肘掛けに縛られた腕を棒で叩いたんだ。
死んじまえ!本気で思った。けどホントに死ぬなんて思ってもみなかったんだ。私に魔力は残ってないって、だから初歩の攻撃魔法《風刃》を使っちゃった。そいつは《風刃》に切り裂かれて血を撒き散らした。
「ヒアアァァ」
バーデンは情けない悲鳴を上げて飛び退った。逃げ足速いなお前。そこで腰を抜かしてへたり込む。
「貴様魔法も使えるのか⁉」
人を殺したショックでドスタルを放しちゃったから、奴は安全圏に離れた。
「こ……こうなりたくなかったら、誰も私の邪魔をするな!」
裏返りそうになる声を必死で保つ。弱腰になってるなんて思われたら喧嘩は負ける。
構えてるだけで誰も攻撃して来ない。父ちゃんと兄ちゃんを解放したけど何てことだろう。顔中腫上がってるから目は見えないだけじゃなくて、二人共どちらかの足を折られてる。
誰も憎みたくないのに、人も殺したくなかったのに、どうして引っ込みがつかない方に私を連れてこうとする!
「ネーナ、大丈夫だ。父ちゃん転移を使えるから、モーリッツ何処だ」
「父ちゃん」
父ちゃんの手を兄ちゃんの身体に導く。
「止せ!そんな状態で転移なんてするもんじゃない」
「あんた達がそうしたんだ⁉」
心配してくるドスタルに叫び返した。
「お前ら誰一人として許さないからな⁉」
「止せネーナ」
ごめん父ちゃん止さないよ。殺したい訳じゃない。本心では殺してやりたいけど、それは得策じゃないって判ってる。だけど奴らがそうし向けてくるんだ。
「約束する!二人は安全に返す。バーデンは好きにしてくれていい」
「ヒイイィ」
情けない悲鳴はバーデンのものだ。
「バーデンのしたことは謝るから転移は止すんだ親父さん」
「気安く父ちゃんに話し掛けんな!」
「ネーナ、ネーナ。この人は本当に俺らへの拷問を止めてくれたんだ」
声で判ったらしい。
ドスタルは肝っ玉が太い。バーデンの襟首を掴むと悲鳴を上げる奴を私達の方に引き摺って来る。
「生皮剥ぐなり一寸刻みにするなり好きにしろ。家族の安全は俺が保証する。だからお前だけはここに残ってくれ。それで済む」
魔法の《槍》が彼を貫くかと思われたが、ドスタルは直角にそれを逸らした。壁に刺さった《槍》が消えてく。バーデンだ。
「た、助け合うべき同僚を、き、貴様は売ろうとしたんだ」
どの口が言うか!しかしそれが合図になってバーデンの部下が私に襲いかかった。
(逃げるしかない!)
「父ちゃん兄ちゃん我慢してね」
二人を両肩に担いで逃げる場所を探した。出入り口には人がいる。窓に体当たりして空中で一転、足から降りた。よし!
重い四つ足動物の走る振動が伝わって、リースマンさんがスモテリドンっていう荷運び用の獣に乗って現れた。足も割と速い。
(何ていい人だリースマンさん)
何て勇気なんだろう、自分にだって火の粉が降りかかってくんだよ。いくら感謝してもし足りない。リースマンさんの所まで辿り着けたら二人を任せられる。
しかしそこには小ホールに居た以上の数の隊員がいる。脚力だけで辿り着けるだろうか。
「そいつらを捕えろ!仲間が殺されたぞ!」
その声に一斉に殺気立って武器が構えられた。
(ままよ⁉)
走り出した私と襲い来る連中を石畳に奔った亀裂が止めた。
「お止めなさい⁉」
マルガレーテ皇女殿下がヘルダーリンとグラッツェルを従えて現れたんだ。
助けが現れたとでも思ったのか、バーデンがぴゅぴゅぴゅって速さでヘルダーリンの下に走った。何その速さ!
「閣下この娘は紛れもなく獅子人です!部下が一人殺されました」
いい大人が何て様さ!まるで大人に泣きつく子供じゃないか。
「殺してない!」
ダンテさんの声だ。気分でも悪くしたのかへたり込んでる。
「大丈夫だからネーナ。君は誰も殺してない!」
オラーツ氏が私が怪我させた男を咥えて外に運び出す。血塗れだけど動いてる。
「生きてピンピンしてる。大丈夫」
(感謝します)
治癒魔法を使ってくれたんだ。
「ちっ」
バーデン奴が舌打ちした。あんたの部下じゃないか!ホントこの地上から跡形もなく抹殺したいわ。爽快な気分になること間違いなしだ。
「それでも部下を傷付けたんだ、この娘は」
父ちゃんと兄ちゃんが意識を失っててくれて良かった。こんなの聞いたら舌戦になってこんがらがっちゃったろう。
身体を人並まで縮めたオラーツ氏が傍に来た。
「黙れ下郎、マルガレーテ皇女殿下の御前だぞ、許しもなく口を利くな」
冷厳とグラッツェルが告げた。
「ライムント卿、これはどういうことなの?彼女は私や兄上様の命の恩人なのよ!」
「お見苦しい所をお目に掛けること心苦しい限りです。しかし僭越ながら私の役目は皇族の方々を守ることと同時に、不正あらば正すことにあるのです。その為に必要なことはなさねばなりません」
「それ位承知しているわ。けれど方法を選べなかった訳ではないはずよ」
「お言葉通りです。ネーナ・ヴィンクラーにはあることで聴取が必要だったのです。素直に聴取を受け入れてもらえなかったと報告は受けておりました。それが縺れたのでしょう。部下を信頼して任せていた私の失態です」
しれっと答えやがった。
「つまり貴方は部下を見る眼がなかったと告白するのね」
気に入らない、とヘルダーリンは眉を顰めた。自分への誹謗には敏感なんだ。
「獅子人の血が混じっておりますから、部下が過剰になってしまったのでしょう」
「それを制御出来なかったのは、やはり貴方が無能だからよ。部下の為人を把握していれば防げたわ」
「命の恩人、お友達であることは理解しますが、酷いことを仰られる」
「そうね、この状態は酷いわね。恩人にこの仕打ちとあれば私達だけでなく皇室の評判がガタ落ちよ」
「……」
「庶民の評判なんて気にしない?貴方達の欠点はそこね。自分の得た権力を振り翳したくて仕方ないの」
兄ちゃんが呻いたんで一旦肩から降ろした。痛かったでしょ二人共!治癒魔法が使えないことがこんなに辛いだなんて。
気分悪そうに這いずって来たダンテさんが二人を治療してくれる。
「しばらく眠らせておくから」
それがいい、私は頷いた。リースマンさんが殿下の話を邪魔しない様近付いて来て、魔法で担架を作って二人を乗せてくれた。
「大丈夫かい?ネーナ、二人を連れて帰りなさい。私が話してみるから」
「ありがとうリースマンさん。けどもう後延ばしに出来ないんです。父ちゃんと兄ちゃんをお願いします。私は残って皇女殿下とお話ししますから」
心から訴えるとリースマンさんは皇女殿下を振り返り溜息を吐いて頷いた。
「本当に感謝してます。どうなったってこの気持ちはきっと忘れません」
「必ず帰って来ると、それだけは約束しておくれ」
「はい。薬局を大きくしなきゃ」
二人を連れたリースマンさんは近くを通る時に殿下に一礼する。こんな緊張した場面なのに殿下もニコッと手を軽く上げられた。
「マルガレーテ皇女殿下」
急いで上司の下に駆け寄ったドスタルは深々と頭を下げた。
「これは閣下の責任ではありません。点数を稼ごうとしたバーデンめの失態なのです。どうぞご理解下さい」
「しないわ」
強く殿下は断言して、ハッとドスタルは面を上げた。
「本当に有能な人間ってね、部下に罪を押し付けたりしないものなの。心ある部下が離れていくから」
真っ直ぐヘルダーリンを見詰めてる。庶民を軽んじ部下を軽んじた。
「私は彼女が誰であれ忘恩の徒になるつもりはないわ。友達としても誠心誠意、力の限り助けさせてもらう」
大人が子供の青臭い言葉を聞いた時みたいにヘルダーリンは苦笑した。
「失礼ながら殿下はかの者が自宅の地下に何を隠していたのかご存知でない。そして彼女がどんな危険に首を突っ込んでいたのか。それは国家的な事態なのです。殿下の為に私の一存で握り潰せる事ではありません」
命の恩人を助ける為に動いてるだけで、訳を知らないとみて勿体ぶってるよこいつ。
「あらご存知よ。私を舐めないで。大人しく田舎に引っ込んだのは兄弟で相争う事態を避けたかったからよ。臆病で無能だからではないわ」
「ご存知でしたか…」
疑ってる。私を助ける為に虚勢を張ってるんじゃないかって疑ってるんだ。私もそうだから分かる。
「捜し者は美しい郭公のアルヴェルティーネ・シュメルツァーでしょう?」
殿下が優雅に指を舞わせると、車椅子に乗せられた女性が運ばれて来た。項垂れて長い髪が顔に掛かって見分けがつかないけど、髪色や背格好はドロテーだ。
(スヴェン!)
車椅子を押していた彼は私を見て強く頷いた。
「アルヴェルティーネ、本物ですか?」
「失礼だな。調べてくれて構わないよ」
スヴェンの顔が険しい。全然似合わないよスヴェンには。
「残念ながら偽物を用意する時間はなかったわね」
「彼女をこちらに引渡して頂けるのか?」
喜色が浮かんだ。
グラッツェルがスヴェンに変わって車椅子を押す。そのことに何故か不吉な物を感じた。けどスヴェンが傍に来てくれたんで心細さが半減したのは確かだ。
「彼女は自分が厄災として使われるのを防ぐ為に自殺しようとしたの」
「はい、殿下がヴィンクラーに命じて彼女を救って下さったのでしたか?これは確かに私は無能者と断じられても仕方がありませんな。殿下とヴィンクラーの関係がそこまでとは。騙されました」
ヘルダーリンを見る殿下の瞳が哀しそうだった。
「これならば私としても否やはございません。しかしよろしいのですか?彼女は兄殿下の不利になる証拠でもあるのですよ」
本当に?ギッティ先生本当に殿下にドロテーを渡してしまったの?横丁に現れたのはオラーツ氏と恐らくイスメトだ。そして殿下にも連絡してくれたんだろう。それは解かるし感謝するけど、本当にドロテーを殿下に託したの?先生は何所?姿を見せないなんて卑怯だ。
「彼女は、もう…」
「しっ、ネーナ黙って」
スヴェンが耳元で囁いた。
「兄上様なんて好きにすればいいわ。バカな人達の言葉ばっかり信じて、私に何も相談してくれなかった。二人で力を合わせ様としてくれればこんな事態にはさせなかったのに。一度ならず二度までもよ」
「お労しいことです」
恭しいけど見下してバカにしてるのが丸見えだ。
「彼女を手に入れてどうするつもり?ライムント卿」
「それは申し訳ございませんが殿下と謂えど申し上げられません。陛下のお考えもございます」
「怪しいものだわ。陛下が誰を意味するのか、ということも含めてね」
「失態を重ね、殿下の信頼を揺るがせてしまったことは返す返すも不徳の致すところです。もう一度ご信頼頂けますよう、今後は誠心で務めさせて頂きます」
(おうおう貴様、優雅に頭を垂れてんじゃないよ!面の皮ぁどんだけ分厚いのさ)
生皮剥がして厚みを計ってやりたかった。
「貴方を信じられない。そしてこの厄災は誰の手にも渡せない」
言葉から感じ取れた決意が私をドキッとさせた。
(え?殿下?え?殿下?それは止めよう)
次に現れる光景に予感があって、私の心は止めて止めて止めて止めてって叫んでた。もし動いてたら止められたかもしれないのに、予感はあっても間違いであって欲しくって、思考が付いて行かなくて動けなかった。
「信じられないのは父上様や兄上様だって同じだもの。ヴァルター」
魔法の広刃がドロテーの胸を貫いて血が迸った。
「いやあぁぁぁぁぁっ」
耐えられない。人の命が簡単に壊れていく。
叫ぶ私をスヴェンが抱留めてくれた。
「何てことを⁉皇女、赦されませんぞ!誰か治療を⁉」
「これは無理です。心臓を一刀両断されております閣下」
無情にドスタルの声が響いた。
「これが彼女の希望だったの。誰の厄災にもなりたくない、と」
怒りのままに行動しようとして、殿下の涙と言葉に力が抜けてその場にへたり込んだ。ダンテさんはどうしてか意識を失ってるみたいだ。
厄災の悪霊は彼女から抜取られた、そう言ったところでヘルダーリンは信じないだろう。厄災を孕む呪物として彼女はどんな手を使っても狩り出されるんだ。正直私だって父ちゃんと兄ちゃんを傷付けられて口を閉ざしていられる自信はなかったから、先生が彼女を何処かに逃がしてくれることを願ってた。
「私は、私は、何にも…、ホントに何一つ何にも、出来なかった。うっうっうう~~」
自分に腹が立って力一杯石畳を叩いた。
誰かに利用される位なら殺してくれとドロテーなら願うだろう。だろうけどこの結末はないよ。彼女に寄り添って助けたいって思ってたのに、私ばっかり色んな人に助けられて、彼女に何もしてあげられないままにみすみす殺させてしまった。ドロテーとして新たな人生を得たのに、アルヴェルティーネとして、郭公として死なせてしまった。
自分が不甲斐なかった。この涙は何?泣いたところで彼女は戻って来ない。泣くんじゃないバカ!悔しい悔しい。
「止せって⁉ネーナ、お願いだから止めてくれ」
石畳を叩く腕にスヴェンが縋り付いてる。何て軽いんだろう。これが命の重さなんだろうか?哀しくて堪らない。
「スヴェン。私何も出来なかったよ…」
「君は出来た方じゃないか!お願いだから自分を責めたりしないでくれ!人一人が出来ることになんて限りがあるんだよ」
「思い上がりだって分かってる。だけどこんな風に人の命が軽いなんて嫌だ。生きてて欲しかったんだ」
「分かるよ。分かる、どうにも出来なくて悔しい気持ちは僕にもよく分かる」
血だらけの私の手を強く握った。痛かったけどどうでもいい。
「こうするしか方法がなくて」
いつの間にか殿下が傍まで来てた。
「殴ってくれてもいいのよ。能無しよね。下手に介入したら騒ぎが大きくなるって考えて、結果がこれよ」
「殿下」
「命の恩人なのに、それに報いるどころか苦しませてばかりで。守りたい人にも助けたい人にも、何もしてやれずに指を咥えて見てるしかないのは、私も同じよ」
理屈では理解出来る。誰もが、皇女と謂えどもその場で出来る事には限りがあるって。その中で殿下は自分に一番利益になる道じゃなく、多くの人に恨まれてもドロテーの願いを叶える道を選んだんだって。そしてそれはこの状況では一番の懸命な方法なんだろうってことも。それでも殿下を恨めしく思う気持ちをなくせない。
この場から逃げたかった。スヴェンだって振り払って世界で一番遠くに全力で逃げたかった。なのに私の身体は動かなくて、立つことすら出来ずに慟哭するばかりなんだ。
「皇女殿下⁉これは問題ですぞ⁉陛下には隠さず報告させて頂きますからご覚悟されよ!」
「どうぞ、何処にも逃げやしないわ。だから陛下にお伝えして、その時はご自分で告げにいらして下さい、と。それ位してもらってもいいと思うのよ。一度位私という我が子を目にして頂きたいの」
全てが哀しくて心が壊れそうだった。
壊れた命、潰えた欲望、それぞれの哀しみ。みんな負だ。やるせない思いが充満して、力持ちの私だって背負いきれないよ。
血溜まりを残して車椅子が動き出した。
「待たれよ。それを何処にやるのです?」
それ、ってものみたいに言うなヘルダーリン!
「シュメルツァー家に。抜け殻が必要?遺体だけでも戻して上げていいでしょう?」
奪われるばかりだった家族に、せめて遺体だけでも。
邪魔する様なら今度こそ八つ裂きにしてやったのに、ヘルダーリンは部下達に「放っておけ」と忌々し気に吐き捨てて、靴音高くいってしまった。