バーにて
その夜は、朝に取材したロン爺ちゃんからの誘いを受けて飲みに出かけていた。
実を言うと、ロン爺ちゃんから誘われたのは今回が初めてではない。
既に何度も食事や飲みに行っていたりする。
今まではランチだったり、場末の酒場だったりした。
だから今夜もそれと似たようなものだろうと思っていたんだけどさ。
「なかなか雰囲気のいいバーですね」
「だろう? まあ小さいけどな、中央にはバンドが演奏するスペースがあって、生で音楽を聞けるんだぞ!」
「ははっ、それは素敵ですねぇ」
入り口がいかにも店らしくなく、一見すると普通の家にしか見えない隠れ家風のバー。
珍しく初めて入った場所ということもあったけど、正直、ロン爺ちゃんのチョイスとしても意外だった。
こんな小洒落たバーよりも、タバコの煙が立ち上るような男くさい酒場の方がイメージとしてはしっくりくるから。
でもその理由は至って単純で。
「ここでわしの孫が演奏しておってなぁ」
決まった時間になると、バンドが出てきて生演奏を披露してくれるんだそうな。
一回目の演奏予定時間はあと30分後に迫り、ステージ中央に楽器が運び込まれる。
ピアノ、ドラム、チェロと、後は五つの譜面台。
台の数からして、楽器は全部で五つってとこか。
大物の楽器は、今運び込んだあの三つで、残り二つは演奏時に手に持って登場するんだろうな。
「よう、爺ちゃん。来てくれたのか」
背後からかけられた声に振り向くと、ブラウンの髪の背の高い男性がロン爺ちゃんのすぐ後ろに来ていた。
「おお、テオか。こちらが朝お前に話した記者さんだぞ。なかなか気持ちのいい若者でなぁ。今日は自慢の孫の演奏を聞いてもらおうと連れて来たんじゃ」
「こんばんは」
「こんばんは。テオです。爺ちゃんがお世話になりました」
「いえいえ、こちらこそロンさんにはお世話になりました。ダンといいます」
テオを見かけた事がないのは、今は隣町に住んでいるから。
だけどさすが孫だけあって、人懐こい笑みが爺ちゃんによく似ていた。
「なんか爺ちゃん、やたら記者さんが気に入っちゃったみたいでさ。電話でもずっと記者さんの話ばっかしてたんですよ」
「恐縮です」
「孫のお婿さんになってもらうんじゃ~とかって騒ぎ始めたくらいです。あ、孫って俺の妹になるんですけど」
テオの妹って言うと、アンナだな。
そばかすの可愛い子。
「お世辞でも嬉しいですよ。ありがとうございます」
社交辞令を有り難がりつつもさらりと躱すと、横からロン爺ちゃんが割って入った。
「世辞ではないぞ? うちの孫はなかなかのべっぴんさんじゃ。なぁダンさん。うちの子を嫁にもらってはくれんかのう?」
ありゃりゃ、もう酔っ払っちゃったのか。
困ったな、なんて返事したらいいだろ。
何て返事しても、どうせ明日にはまた他人に戻るだけなんだけどさ。
なんて自分で言って、ちょっとへこんだりして。
「ちょ、爺ちゃん。あまりしつこく頼むもんじゃないよ。ダンさんが困るだろ?」
「だってなぁ、こんないい男、なかなかおらんぞ」
「でも・・・」
「テオッ! ここにいたのか!」
慌てた様に走り寄って来た人物が、テオの名を呼び、会話は中断した。
「あ、レックス。どうした、もう時間か?」
「まだジャネットが来てないんだ。アイツの車が故障したらしくて、今タクシーでこっちに向かってるって言うんだけど、最初の演奏時間には間に合いそうにないんだ」
レックスという人は、俺たちに挨拶する余裕すらないようで、そのまま勢いよくまくしたてた。
「マジかよ。どのくらい遅れるって?」
「さっき話した時にはまだトルン地区だって言ってたから、あと20分以上はかかると思う」
それを聞いて、テオも同じく青ざめる。
「一回目の演奏時間まであと6分。時間をずらしてはもらえないし」
「やらなきゃクビになっちまう。一回目はアイツ抜きでやるしかない」
「ジャネットのソロパートもあるんだぞ?」
「でも、やるしかないだろ?」
焦って余裕がないのか、ここで話す事ではないだろうに、それすらも気づかない。
小声で話してはいるけど、近くのテーブルに座っている俺たちには丸聞こえだ。
まあでも、お陰で何に困ってるのかがよく分かったけどさ。
「くそ・・・っ! やっと決まった仕事だったのに」
「あの、テオさん。それに・・・レックスさん、でしたっけ」
とにかく聞いてみよう。
何か出来るかもしれないし。
余裕のない顔が二つこちらへと顔を向ける。
「ジャネットさんって方は、どの楽器の担当?」
「え?」
「え~と。先に話に割り込んでおいて何だけど、アンタは?」
「俺はテオさんのお爺さんの連れの者でダンと言います。もし俺が弾ける楽器だったら、そのジャネットさんが到着するまで代役が出来るかなと思ったんだけど」
「本当か? アイツの担当はピアノだ」
「だったら俺が代わりに弾くよ」
「やった! そしたら・・・」
「ちょっと待て、レックス」
そのまま頼みそうになっていたレックスを制し、テオが真面目な顔で口を開く。
「ダンさん。申し出は有り難いし、正直言って頼みたいのは山々だけど、本当にいいんですか? 人前での演奏、しかもいきなり本番ですよ? 楽譜も初見で弾けます?」
「よほど難しい曲じゃなければ初見でいけるよ。俺の腕前は・・・あ、ちょっと前座で弾いてくるから聞いてみて」
「「えっ?」」
俺は立ち上がり、スタスタと設置されたピアノのところへ行く。
任せとけよ。
ピアノは、もうどれだけやり込んだか分かんないくらいだ。
ええと、なに弾こうかな。
ここはバーだし、クラシックとかポップスよりもジャズの方が無難かな。
よし、じゃあアームストロングを。
俺はお気に入りの一曲を弾いてみせた。