心の変化
もはや無我の境地に入りつつあった頃。
最早、ルーティンと化した取材に出かけようとして。
外に出ようとフロントの前を通り過ぎた時。
ふと、ジョンと目が合った。
ループ初日に、新しい新聞を持って来い、と、俺が怒鳴りつけたホテルマンだ。
そういえば、こいつ、新婚さんなんだよな。
そう思って。
奥さんのために、俺がやった訳わかんないクレームにも我慢して対応してんだよな、なんて思って。
「おはようございます。今朝は、新聞、ありがとうございました」
そう声をかけた。
多分、夜シフトで徹夜だったのだろう。
眠そうで、眼がしょぼしょぼしてた、のに、突然。
ジョンは嬉しそうに笑った。
「ありがとうございます。お客さまはこれからお仕事ですか? 気を付けて行ってらっしゃいませ!」
にこやかに、そう返された。
・・・。
なんだろう。
ちょっと吃驚した。
ジョンの笑った顔を初めて見たからかな。
明日の今日になれば、今のやり取りも、ジョンの中ではまた無かったことになる。
でも。
それでも。
なんだか、嬉しくて。
少しだけ、気分が上がった。
通りに出る。
向かいのコーヒーショップが目に入った。
あー、ウェイターのダリルだ。
また眠そうな顔してるな。
もう少し夜中のゲームを控えないと、いつか体壊すぞ。
そんなことを思って、少し心の中でほくそ笑んだ。
角を曲がって、大通りに入る。
「お疲れさまです」
ゴミを拾ってるローレンに声をかけた。
ゴミ拾いのボランティアって、お前、俺より若いのに偉いな。
角のシンディの店でデニッシュを買って。
ぱくつきながら歩いて行った。
シンディんとこの店は、良い小麦粉を使ってるから、香りが凄くいいんだ。
海の方に向かって、砂利道をてくてく歩いてく。
最初の頃はずっと、タクシー使ってさっと行ってさっと帰って来たけど。
こうやって歩くと、少し湿った風がいかにも海辺の町らしくて、なんだか気持ちがいい。
右側の林から、急に白浜と水平線がひらける景色がじっくり見えるんだ。
ええと、確かもう少し先に、ロン爺ちゃんの家がある筈。
そんで、その手前に、爺ちゃんの孫娘の家があるんだって言ってた。
赤ちゃんを産んだばかりなのに、よく働く元気で明るい娘さんなんだとか。
お、いたいた。
赤ちゃんおぶって洗濯物干してる。
爺ちゃんが自慢してた通り、働き者なんだな。
軽く会釈して通り過ぎた。
なんだろ。
どうせ何をやってても今日のままなんだから、ゴロゴロしてようが、遊び惚けようが、仕事さぼろうが、本当、何やったっていいんだけど。
実際、今まではずっと、そうしてたんだけど。
何か、今までの中で、今日が一番ほっとしてるような気がする。
ループし始めた最初の頃は、ただただ焦って。
いつか戻れると心の中で念じながら、毎日ここで取材をしてた。
毎日毎日、俺を必ず忘れてく人たちのことを、最初はどうとも思ってなくて。
それから、自分だけが相手をどんどん知ることが恨めしくなって。憎たらしくて。
なのに今は・・・会えると、嬉しい。
たぶん、今の俺が一番よく知ってるのって、ここの人たちなんだよな。
仕事場でも、別に会話らしい会話って誰ともしてなかったし。
そもそも、誰かを深く知ろうとさえしなかったし。
だから、ここが初めてなんだよ。
こんなに、よく知ってる人がいるとこなんて。
潮風に吹かれながら、そんなことをぼんやりと考えてたら。
向かい側を走ってた男の子が、思いっきり、ド派手に、すっ転んだ。
おお、これは痛そう。
案の定、男の子は大声で泣きだした。
この子は初対面だな。
ひざが真っ赤にすりむけてる。
あまりひどい傷ではないけど、こういうのが地味に痛いんだよね。
カバンをごそごそ探る。
お、あった。ラッキー。
「大丈夫か? ほら、これ使え」
そう言って絆創膏を渡して先を行こうとしたけど、その子はえぐえぐ泣いてて一向に受け取る気配がない。
・・・仕方ないなぁ。
男の子の前で膝をつくと、俺は絆創膏をぺりりと剥してその子の傷のところに、ぺたりと貼ってやった。
・・・うん?
視線を感じて前を向くと、目の前の男の子がピタリと泣き止んでいる。
なんか俺をじーっと見てる。
・・・なんだ?
そしたら、突然。
大声でお礼を言われた。
「おじちゃん、ありがとう!」
・・・いや、おじちゃんじゃねーよ。
これでもまだ、23だよ。
あ、お前くらいからしたらおじちゃんに見えるのか。
そんな問答を心の中で一人でやってる間に、その子はすくっと立ち上がり、「おじちゃん、ばいばい」と言ってまた走っていった。
「だから、おじちゃんじゃねぇっつーの」
ぶつぶつ言いながら立ち上がって、また歩き出す。
まったく、元気のあり余ったクソガキめ。
性懲りもなく、また走って行きやがって。
俺は、ふっと笑いともつかない息を漏らした。
もう転ぶんじゃねーぞ。
そう心の中で呟きながら、ガキを見送った。
あーあ。なんか不思議。
ループが始まってから、ずっと鬱々してたのに。
なんだろ。
なんか清々しい。
あそこの角を曲がると、目の前に一気に水平線が広がる筈。
「・・・もう、ロン爺ちゃん、漁から戻ってるかなぁ」
今日は爺ちゃんとなんの話をしよう。
最近、腰が痛くなってきたって言ってたけど、あまり重たい物は持たないように気を付けてるかな。
それに、もうちょっと酒を控えるように、さりげなく言っとこう。
そんなことを考えながら、ゆったりと曲がり道に差し掛かった。
もう十分知った。
そう思ってたけど。
このとき俺は、まだ分かってなかったんだ。
今日というこの日には、まだまだ俺が知らないことがたくさん残ってるってことを。
だって俺は、彼女がこの世界に存在していることすら、まだ知らずにいたんだから。
もう数えることすら嫌になるくらい、無限に過ごし続けた今日という日。
俺の運命を変える出会いまでは、あと12時間と30分。
まだ、11315回ほどこの今日というループを繰り返してからのことだけど。