喜びは婚約破棄と共に
学期末パーティー、婚約者がいようがいまいがどうしても張り切ってしまうパーティーである。
アンナはその中でも一段と美しかった。
父や兄がいれば、すぐにでも、その美しさを褒め称え腕を組ませて友人たちに自慢しただろうし、母や義姉がいれば褒めちぎって一緒に歩き回っただろう。
だが、隣のマシューはいつも以上に険しい、少しピリついた雰囲気が漂っていた。これはアンナにとって初めてのもので、そのピリ付きが一体なにを示すのかわからなかった。ただ、なにか重要なことを起こす気らしいというのはよくわかった。
彼は紳士らしくエスコートをしたが、誰かを、もちろんマリアを探していた。友人たちはそれを見て、少しばかり眉をひそめつつ、自分のパートナーと談笑していた。
「んんっー、えへん」と今年卒業する先輩がわかりやすい咳払いをした。
「今日はお集まりいただき、ありがとう。あれこれと挨拶をしたり、感謝を述べたいところですが、そうすると時間がもったいないので省きます。それでは、後輩も先輩も関係なく、もりあがろうぜ!」
わっと生徒たちが湧き上がり、歓声をあげる。そうして、まずは先輩からダンスとなり、途中からアンナ達も入ることになった。
もちろん、アンナは彼と踊った。マリアはこの場にまだいない。
そうして少しばかりパーティーも落ち着いてきた頃にマリアがやってきた。
彼女はいつもとは違うシンプルながらもシルエットの美しいドレスを着ており、何名かが息を飲むほどだった。アンナは、眉間にシワを寄せつつ、隣を見上げた。彼はポカンとしながらも、どこか嬉しそうに頬が少し染まっている。マリアはキョロキョロと見回すと、彼を見つけたのかふんわりと笑ってみせた。それにフリーの男子生徒が近寄った。
マシューはここでそんなことをする勇気はないだろうと思っていたが、予想に反して、彼女を置いて、マリアの元に向かっていった。
「マリア、綺麗だよ」
「マシュー…」
なんてお互いキラキラした目で見つめ合う二人をアンナはぽかんと見ていた。
「なんて当て馬なの、私…」と屈辱的な気分で二人をゆるく睨みつけた。
二人はアンナの方に向かってきた。そこでやっと、今日のマシューの様子に合点がいった。この勝負は己の負けらしいと嫌々ながらもマリアを見てわかったのだ。
周りの生徒達は三人のことをじっと静かに見守った。
「アンナ」
「…言い訳なら聞きましょう」
「いや、言い訳なんかはしない。僕は彼女が好きなんだ。だから、婚約を破棄したい」
予想はしていたが、ガツンと脳みそを直接殴られたような心地がした。マリアは申し訳なさそうにしつつも勝者らしい幸せそうな顔をしていた。アンナは至極真っ当に素直にムカついたが、今までの頑張りを思えば、そうなっても仕方がないような気がした。
彼らは本気だったんだわ。それじゃあ、私が彼を引き止められるわけがない。
「素直に言うと、あなた、最低よ」
「な…、そうかもしれないが、君だって、彼女に意地悪をしていたじゃないか!」
「それのなにが悪いの? 婚約者を取られそうになってても指をくわえて見てろっておっしゃるの? そもそもの話をすれば、あなたが悪いとは思わないこと、マシュー?」
「だとしても好きになったんだ。仕方がないだろう」
「ええ、そうね」
「じゃあ、僕らの婚約はなかったことにしてもいいんだね!」と彼は思わず彼女の手をとった。
それをアンナは払いのけた。
「アンナ!」
「アンナさん、お願い…」と懇願の表情で涙を浮かべている。
「図々しいわ…」
「君が彼女にしたことはもうとやかく言わない。かわりに破棄させてくれ」
アンナは黙りこくって二人を静かに見比べた。
なんといえばいいのか、わからなかった。
それを手助けするように、今年で卒業する第三王子がやってきて「パーティーに中々のサプライズだが、できれば笑えるものがよかったな。どうかな、外でやっては。仲立ちが必要だろうから私も行こう」と自分の婚約者に断って、廊下に三人を出した。
「さあ、好きなだけやりあってくれていいよ。まあ、本来はもう少しまともな場所でやるべきだろうけどね。災難だったね」とアンナを見て苦笑した。それに彼女は肩をすくめた。
「アンナ、僕も悪いとは思ってる。でも、彼女と一緒になりたいんだ。それだけマリアのことが好きなんだ」
「そう……」
「両親にはまだ言ってないが、許してもらえると思う。だから、頼む…」
アンナはなんて言ってやろうか、恨み節でも言ってやろうか、釣り上げてひっぱたいてやろうか、と色々考えたが、なにも出てこなかった。そもそも彼を好いているとは言え、マリアほどのものはない。ものはないが、それでもなぜだか辛かった。悔しいと思ったし、悲しかった。母は義姉もこれを時折に感じていると思うと、父と兄ではあるが、なんて最悪な男だ、と思わないでもない。しかし、彼らならきっと、こんな惨めな思いはさせなかっただろう。
パーティーで注目されている時に、きっとあんなことは言わない。
廊下はシンと静まって瞬きの音も聞こえるような気がした。本当は扉の向こうの喧騒がするのだが、それが聞こえないような気がした。
「素直に話すのが一番いいと思うけど、私、心底、あなたのことを恨みに思うわ、マシュー。どう吊り上げてやろうか、どう最後に傷を残してやろうかって考えてるけど、どれも実行できそうにないのよね。うちの家族って変に情が深いでしょう? だからできないんだと思うの。これでも傷ついてるのよ、わかってるの?
まあ、破棄するのは好きにしたらいいわ。だって、私なら、きっとすぐに関係をきっぱり切るもの。それほどのものなら、もうしょうがないじゃない、ムカつくけど。だから、好きにしたらいいわ。この後も二人でいるといい。ただ、私だってパーティーを楽しみにしてたから、普通に居座らせてもらうけど」
「ああ! ありがとう、アンナ!」
と彼が手を握ると、パシンと振り払って「婚約者じゃないから、みだりに手を握らないでくれる? これからは友人の距離を保っていきましょうね」と微笑んでみせた。実際は微笑むような気分でもなかったし、なぜだか泣きたかったが、そんなことをしたくなかった。
叔母が「いいこと、フラれた時はいつもより気高くいること。泣くのは後でいいの。その人の前では、あなたなんかこれぽっちも気になんかしてないんだからってフリをするのよ。そのフリが大事なの。そうすることで、少しだけ自分を騙せるのよ」と言っていた。
たしかに、少しだけではあるが誤魔化せている気がした。
「殿下、お騒がせして申し訳ありませんでした。さ、お戻りになられてください。私も堂々と戻りますから」
王子はにっこり「それはいい。婚約者ではないが、一緒に戻ってはくれないか」と手を差し出したので「まあ、嬉しいですわ。光栄です」とその上に乗せた。手前の二人はポカンとしている。
まさかあっさりこうもうまくいくとは思っていなかったのだ。
ドアが開いた時、生徒達はざわめいた。
こそこそとマリアとマシューが手を取り合っているのを見て、眉をひそめ、あれこれと言い合った。友人は悔しそうにマリアを睨みつけた。
アンナはゆっくりと周りを見回して「皆様、お騒がせいたしましたこと、深くお詫び申し上げます…」と綺麗にお辞儀した。
それからマリアの前に立ち「あなたには本当に負けましたわ。どうぞ、これからお幸せになってちょうだい。それから、一つ、忠告しておけば、殿方の心というものは移ろいやすいもの。それをがっちり掴み、他の女に手出しをさせないようにすることが、まず淑女というものにおいて大事なこと。頑張ってくださいましね」と余裕のしかも美しい笑顔で手を差し出した。
本当は差し出したりはしたくなかったのだが、ここで無言で立ち去るなんていうことをしてしまっては、きっと自分はこの学園で肩身が狭くなるに違いない。
譲ったわけではないが、そのように見せた方がいいに決まっている。やせ我慢だと言われてもやらないよりましだ。
マリアは根っから素直な質なのか感動したような表情で目を潤ませ「ありがとう、ございます」と手をしっかりと握りしめた。マシューも同じように握手しようとしたが、アンナが睨みつけたのでできなかった。
さすがにマシューとは握手しようと言う気にはならなかった。
さっと裾を翻してニコニコと「本当にお騒がせしました。ぜひ彼らに祝福の拍手をしてやってくださいませ」と言い放ったと同時に「よっしゃー!」という雄叫びが群衆の中からした。
それに驚いていると、人波をかき分けるように金髪碧眼の強面の青年が出てきて、アンナに駆け寄り「万歳!」とにっこりと言い放った。
「は……?」
その顔面が凶悪な猛犬だとか狂犬だとかと称されそうな金髪碧眼の青年はニコニコとアンナの手を取り「と、いうことは、あんたは、今、フリーってことだよな!」と興奮気味に言った。
「え、ええ、まあ…」
「やったー!!」とまたしても青年は万歳をして「この時を待ってたんだ。ありがとう、誰かしらないけど、元婚約者の人! ありがとう、奪ってくれた人! ありがとう、ありがとう! 感謝してもしきれない! 本当にありがとう!」とぐずぐず鼻を鳴らして握手する始末。会場の全員がポカンと見ている中、この青年は意にもかえさずに、アンナの目の前に座り込み「俺、あんたが好きでこのフリーになるのをずっと待ってたんだ! 今すぐにっていうのは難しいかもしれないし、まあ、俺は案外気長な方だから全然待てるんだが、とりあえず、嬉しさと勢いが余って言うが、結婚しよう」と一息に言い放った。
「え?」
「あ、俺のこと知らないよな! いや、本当は俺たち、面識があるんだぜ。昔さ、十二かな、それくらいの時にしょっちゅう一緒に遊んでたハリスだよ。覚えてないかなあー、海外からきて、また海外に行って離れちゃったんだけど、一緒に子猫拾って育てたりしてた…。覚えてない?」
「お、覚えてる…か、も?」
「ははは! 本当か! やったー!」と彼は立ち上がったかと思うと、彼女をお姫様抱っこしてぐるぐると振り回し始めた。喜びの舞である。
「嬉しいなあ、俺、ずっと待ってたんだよ! やったー! はははは! 今日は祝いだ、ドンチャンやってくれ! はははは、アンナ、好きだぜ。会った時からそうだった。ふふふ、嬉しいなあ。幸せだなあ。ふんふんふーん」と鼻歌までやりながら、サクサク王子と二人を残してバルコニーに向かっていった。
彼以外の会場の全員は、一体なにが起こったのかわからないまま、パーティーを再開させたのだった。
さて、バルコニーに出てきたハリスは、アンナを庭先にあるベンチにそうっと下ろした。それから自分も隣に腰掛けた。
「さっきは悪かったな。ついつい、こう嬉しくって! 本当はもう少しまともなところで、まともに両親を通じて申し込むところなんだろうが、ついつい。本当だぜ、俺って案外常識人なの。ところでさ、本当に俺のこと覚えてる?」
「覚えてるわ…。たしか、そのご近所に越してきた外交官の人がうちにやってきて、一緒にお庭で遊んだりした」
「そうそう! なんだ、覚えてるじゃないか。忘れられてるかもって不安だったんだ」とヘニャリと笑った。
顔面が凶悪なのにどこか可愛らしい大型犬のように見えた。錯覚だろうか、とアンナは少し目をパチクリした。
「覚えてるかどうか、私に声をかけてくれればよかったのに」
「いや、そうなんだけどさ、今年の秋に転入してきたばっかでさ、あんたがいるのは知ってたけど、婚約者がいるって聞いてて、その、近づけなかった。近づいたら、確実に好きだのなんだの言って、言い寄ってた。そうしたら、迷惑だろ? だから、もう我慢に我慢を重ねて話しかけなかったんだ」
「な、なるほど…」
「でも、さっき婚約破棄したんだろ? だから、堂々と言い寄れる」
ピカピカの笑顔でそう言われて、彼女は腹が立つどころか、先ほどまでの緊張や張っていた肩の力が抜けた。
「ところで、会場に戻りにくいだろ? 俺と今夜はここにいるのはどう? 腹が減ったら、俺がとってくるしさ。どうだ?」
「ええ、いいわ」
「よっし! 実は俺がアンナと二人きりでいたかっただけなんだけどさ」
「そうなの?」
「そうそう。ところで、いつ、彼と婚約したんだ? 俺、こっちに戻ってきたら、まず、アンナに会おうと思ったのに、おじさんに「全寮制の学校に行っててな」だけだし、婚約者がどうのとか言ってるから…」
「そうだったの。あなたこそ、いつ戻ってきたの?」
「今年の夏の中旬から下旬くらいかな。親父と母さんの仕事がひと段落したんで、俺もこっちの生活に馴染んだ方がいいだろうってので、少し経ってから転入させてもらったんだ。今まで行ったところの図鑑とか集めてあるから、今度暇になったらうちにこいよ。母さんも親父も待ってるからさ! あ、婚約の申し込みは正式にさせてもらうぜ、いいよな」
「好きにしたらいいと思うわ。でも、私、今は気分じゃないから」
「ま、そうだろうな。でも、安心してほしい。きっと、その気になると思うから。あと、俺、親父と母さんに似て一途だから信用してくれてかまわないぜ。他の女子に優しい時は困ってる時。俺、親身になって助けてやるのが好きなんだ。人だすけってなんか、こうスッキリするよな。あ、喉乾いてないか?」
「じゃあ、お願いしようかしら」
「わかった! 昔と同じりんご系だろ?」
こっくりうなづくと、彼はすぐさま立ち上がって、ダッシュで中に入っていき、これまたダッシュで戻ってきた。その間に、友人だろうだれかに声をかけられ、快活に笑うと、戻ってきた。
「お待たせ。ボトル一本もらっちまったから、しばらくここでのんびりできるな」
「まあ、ありがとう。中は、どうだった?」
「さあ、あんまりしっかり見てなかったからな。あの二人も見てないからどうとも言えないが、まあ、いいじゃないか。今は俺に集中してほしい……が、まあ、普通に難しいだろうから、考え事しててもいいぜ。俺は俺でおしゃべりするから。得意なんだ、相手を無視して喋り続けるの。これも外国に行ったおかげだな、はははは!」と楽しそうにハリスは笑った。
実際、彼は今とんでもなく楽しかった。
もう 最高 !! って感じだ。
なにせ、初恋の乙女がフリーで二人きりの独り占めである。これで喜ばないでなにが「俺は不治の病にかかっている。そう、こいわずらい!」といい放てるか、という話だ。
まあ、ハリスの話は後に置いておこう。
このとんでもなく浮かれた青年はわかりやすくニコニコと彼女にあれこれ話しかけてはいたが、不躾にも、あのテンションが爆上げした時以外はけして触ろうとはしてこなかった。多分、マシューより紳士である。
彼女の様子を時折に観察して、ペラペラと喋りまくり、腹が減ったとつまみをとりに行き、飲み物をボトルごと持ってきて、ニコニコと喋り続ける。
その間、アンナは気持ちの整理が少しばかりできていた。が、やはりなにかとチクチクしていた。
ハリスはあの二人が出て行ったのを確認して、彼女をエスコートしながら会場に出てきた。
「アンナ、悪いが、俺、これを戻さなきゃいけないんだ。待っててくれ。あ、それか、王子たちにお礼を言うとかな」と言うとたったか、持ってきたものを戻し始めた。
王子にお礼とか、と言われて、アンナはハッとして王子たちを探した。
「あ、殿下!」
「ああ、君か。今日は災難だったね」
「いえ、助けていただきありがとうございました。私、きっと殿下の助け舟がなければみっともない醜態をさらしていたでしょう。ありがとうございました」
「いいんだよ。ね、テレザ」
「ええ、これから先、いろいろとあるでしょうが、頑張ってね。あなたの姿、とても堂々としていて素敵だったわ。一緒に帰る人はいる?」と王子の婚約者が聞くと、ハリスがすっとんできて「俺、俺! 俺です!」とピッタリ彼女の隣に滑り込んできた。
「あら、まあ…」と彼の顔を見て「これなら、なんの心配もないわね」と微笑んだ。
「へへ、強面もたまには役に立つもので。それじゃあ、先ほどは俺も醜態みせました。彼女を送ったら、綺麗になにもせずに帰ります」とウィンクすると、自然な動作で彼女の肩をそうっと押して退室を促した。
彼は本当に紳士的に部屋まで送り届けると、少しキザに「また」と手をとってうやうやしく口付けるふりをするとにこやかに帰っていった。
アンナはよくわからないが、ともかく疲れていたのですぐに眠りについたのだった。