婚約者、奪還作戦開始
「いいですか、アンナ。殿方の心というものは移ろいやすいもの。それをがっちり掴み、他の女に手出しをさせないようにすることが、まず淑女というものにおいて大事なことですよ」
と、今更ながら母の言葉を思い出し、アンナは小さくため息をついた。
浮かれすぎていた、と彼女は思う。
遊び人は父や兄のおかげで慣れており、男性という生き物は基本的にふらふらとした移ろいやすい生き物だという認識がある彼女にとって、初めての誠実そうな男性であった婚約者、マシューはとても素敵な男性であった。
可愛い子にも目移りせずにいたのに感動して、彼女はすっかりいい気分だったのだ。
しかし、最近、とても怪しい。
あれはよく知る恋の前兆。ぼうっとしてため息をついている。誰だろうと思い浮かべてみると、出てくる人物はただ一人、マリア・モローだけだ。彼女を見かけると、ふとそちらに顔をやるし、同じクラスでしゃべっているとうっとりしたような顔をしている。
隠しているつもりでも、私にはわかるのよ。恋多き男性が伊達に周りにいなくてよ。
と、彼女は鼻を鳴らして、さてどうするべきかと考え出した。
彼女の家は悲しいことにか、はたから見れば喜劇なことに、血縁の男性達は軒並み恋多き遊び人で、血縁の女性陣が選んでしまう男性も、なぜか大方が遊び人であった。
母親もその一人で、父と結婚して、苦労の連続である。
父は婿養子にやってきたのだが、とんでもない遊び人で、可愛い子を見るとすぐに口説く、社交界で綺麗な人を見れば、妻を片手に口説く、行きつけの看板娘が結婚すると言えば泣きながら結婚するなと迫る、そういう男であったのだ。
最初から、それをわかっていたが、母は父を選んだ。遊び人であっても誰よりも己を大事にしてくれる人だと思ったからだった。
そうして生まれたのが、彼女、アンナと兄、ケヴィンである。
兄のケヴィンもなかなかの好色男の遊び人。妹を片手に同級生の女の子を口説き、可愛い子を見ると追いかけて話かける、社交界の花には必ず声をかけて口説く、近所の女の子が婚約すると聞いて泣いて嫌だと駄々をこねる、そういう男である。
ちなみに、その兄は昨年結婚し、奥さんの尻に敷かれつつも、父と一緒に出かけて遊んで帰ってきたりする。
そのおかげかなんなのか、我が家に嫁いだり、婿に入ってくる人たちの間に意地の悪いものや、ギスギスとした仲の悪さはない。
それで別れればいいのに、なんて思わないわけではないのだが、父母や兄夫婦を見ていると、結局のところ、遊んでいても妻を一番に考え、なにかにつけて贈り物をしたり大事にしたり、口説いたり、回りの女性よりも入れ込んでいるのがわかる具合であるので、うまくいっているらしい。
そんなわけで、アンナは、遊ぶのが大好きな男性と本気になった女性の家に突撃するような気の強い女性に囲まれて育ったので「そうよ、その子に手出しするとどうなるか、教え込めばいいのよ!」という結論に至るのも致し方ないことである。
さて、そうと決まれば早速、母に相談する手紙を書かねばとニコニコ書き始めた。
その間のその婚約者マシューは学園の庭の片隅にて、恋しい相手と手を固く握り合いながら喋っていた。
「僕は、君が本当に好きなんだ」
「マシュー…」
「大丈夫、きっとアンナならわかってくれる。彼女の家は色々と…あるから、さ」
「本当?」
「ああ、きっと」
なんてロマンスを敢行している間に着々とアンナは、婚約者奪還作戦を考え出していた。母からの手紙を待つまでもなく、彼女はやり方を知っていた。
もちろん、母や親戚の姉、叔母、または兄嫁から教わった……というより、見て学んだことだ。
まず、第一に、その女性に対して圧をかける。
嬉しいことに彼女は侯爵、敵は男爵である。圧をかけることに関しては楽勝である。
第二に、相手を威嚇すること。
これはなかなかに難しい。アンナはまだそういうことをしたことがない。
娘をほっぽり出して、その日の社交界の宝石に一目散で行った父を咎めることをしなかったし、兄が自分をほっぽり出してその日の華に一直線にワイングラスを持って行っても、またか、と思うだけであった。そもそも、父と兄のそういう具合に関しては、これはもうなにかの癖とかそういう範囲だろうと家族の間では、その程度のことは見逃していた。
だから、まだ実践したことがないので難しい。
第三に、相手が本気になる前に追い払うこと。
これには母でも苦労している。こういう場合は、乗り込んでキャットファイトをするしかない、と母は断固として言っている。最近になって義姉もそれを覚えたのか、母と祖母を師と仰ぎ、キャットファイト術を教えてもらっている。
相手に泣かれても正義は我にありと吊り上げ、叩き潰すだけの胆力と体力を持たねばならないらしい。
たとえ、愛しの彼にあれこれ苦言を呈されたとしても毅然と立ち向かい、二人きりになった瞬間になきべそをかけば良いのだ。まあ、これは父と兄が単純だから使える手なのだろう、とアンナは確信している。
実際には、父と兄は本気にそうそうならない質だから、そうなることはなく、相手の攻め込む勢いを落とすためだけに使われている。
第四に、愛しの彼に罪悪感をうませること。
これはアンナだってすぐにできる。なぜならば、相手はヘラヘラしてちっとも罪悪感など抱かずに「可愛い美人を見れば口説いたり挨拶するのは礼儀である」と思っている父や兄とは違って、相手は一応真面目なマシューなのだ。できないわけがない。
と、まあ、その他にも細かく陰湿な手立てがあるのだが、実際にこの母達から知り得た奪還作戦箇条を使って、マシューの気持ちをこちらに引き戻すべく、アンナは母の手紙を待ちつつも行うことにしたのだった。
さて、作戦の一日目、まずは、この隣にいる婚約者に罪悪感をいだかさねばならない。
それにちょうどいい話になるのが、昨年結婚したばかりの兄である。やつの浮気の云々と義姉がどれほど傷ついたかというのを喋ればいいのだ。
アンナは心の中で、お礼と謝罪をおこなった。
「そうそう、あと一年と数ヶ月ほどで卒業でしょう? そしたら、あなたの家に嫁入りするけど、うちって結構変わってるでしょ、公爵様たち、どう思ってらっしゃるかしら」
「あ、いや、ちっとも、問題には思ってないと思うよ。しっかりしてるから安心だと…」
「へえ、そうなの」とにっこりとアンナは確信を深めた。
言葉に詰まったのは、うちのことではない。なぜなら、前々から父と母や兄のことは言っており、それには多少なりとも慣れているはずだからだ。で、あるならば、嫁入りという方に意識がいったに違いない。
思い違いかもしれないという考えはアンナにはない。
幼い時分から鍛え上げた女の勘には自信があるのだ。特に浮気だのなんだのの時は。
「最近の話なんだけど、兄がいつもよりひどい浮気をしたの…」
「へ、へえ」
「いつもならなにか贈り物でおわるところを、あろうことか一日泊まって…。なにもなく、ただ酔っ払ってお世話になっただけだったけど、お姉様ったら一日も寝れずに随分と憔悴なさっていたわ。おかわいそうに…。お姉様、もちろん、吊るし上げられたけど、それから一週間くらいは元気がなかったわ。
私も兄に向かってね「そういう浮気は最低のすることよ。私、心底呆れるわ。ほんと、最低」って。兄もさすがに母や私にも吊るし上げられて反省したんでしょうね、そこから二週間はお姉さまとデートデートの毎日だったわ。
でも、マシューは真面目だもの、そういうことしないから安心ね。ね、マシュー」
「あ、ああ、あたりまえだよ…」
「そうよね、ふふふ」
嘘だな、とさらにアンナは思った。
廊下を歩いていると、体良く、おそらく彼の姿を見て目でも合わせたいがためにやってきたのだろうマリアがやってきた。彼はすっと目線をはずし、やってきた彼女の方を見た。
そこでアンナは圧をかけるべく「御機嫌よう、マリアさん」と微笑んだ。それから「あら」と言って、彼女のスカートをはたき「土がついててよ。どこでなにをやってたのかしらね」と意地悪そうな笑顔を見せた。
本当は土などはついていなかった。
マリアは「え、あ、あの…」とおどおどしている。
やっていることの自覚があるらしい、と内心頷いた。
「淑女として、笑われてよ。本当に…」
みっともないとは声には出さなかったが、それに顔を赤くした彼女は早足で去っていった。
彼は思わず怒ったような表情で「そこまでいう必要はなかっただろ」と強く腕を掴んだ。
「きゃっ…、私、ただ、注意しただけよ。彼女が誰かに笑われないように。どうしてそんなに怒るの? いつもならそこまで怒ったり、強く腕を握らないわ」
「そ、それは…」
「…ただの正義感よね」とにっこりとしてみせると、ほうっと息をついたのがわかった。
ここで兄なら「だって意地悪そうなこと言う君を見たくなかったんだ。だから思わず…」だとか「君がもしかして彼女についていくんじゃないかと」とかうろたえもせずに言うだろうし、父なら「俺はかわい子ちゃんに弱いんだ! 感情が高ぶるんだよ。もちろん、お前にもだよ、ハニー」なんて頬に手を添え、腰にも手を添え微笑むだろう。
しかし、そうならないマシューが少しいじらしく彼女には感じられた。
これだけ真面目な人なんだから、兄と父と同じような対応はしちゃいけない気がする、と思われた。
さて、その日はそれだけで終わり、次の日になると、マリアの方はもしかしてと思い始めたようで、警戒するような眼差しを投げかけてくるようになった。
アンナは、ともかく挨拶をすることから始めた。含みをもたせた表情でじっと見つめるのだ。わかってるからな、という目をして。彼の方はマリアが目を合わせてくれないからとシュンとなっている。
その日の昼はマシューとは別れて、友人と一緒にご飯を食べた。
母から聞かされた言葉に「味方はつくるべし」というのがあった。
すべからくアンナも実践しており、友人はそれなりにいる。
ランチで庭に行こうなんていうのは珍しいと友人たちは不思議そうにしていたが、アンナの「実はマシューとマリアが…」との一言で合点がいった。
「私も怪しいと思ってたの!」
「まあ、やっぱり? 信じたくないと思ってたけど…。でも、マシューは真面目だし」
「そういう男に限ってハマると大変なのよ」
「そうそう。マリアさん、おとなしいふりしてやるじゃないの…。とても淑女とは思えないわ」
「ねえー」
「勘違いだって思いたいんだけど、最近、廊下でしょっちゅう会うし、彼の挙動も不審だし、私…」と頬に手を当てて憂い顔をしてみせる。
遊び人として口説いたりしつつも、なぜか不思議と人望を失わない愛嬌のある父と兄や、それを厳しく強く制しつつも周りにあれこれと下品だとか言われぬ母や祖母、叔母なんていうのを血縁に持つだけあって、アンナのこの憂い顔は友人たちの胸に深くつきささった。
「私、アンナのために全力をつくすわ!」
「大丈夫よ、私たちがついてるじゃないの」
「そうよ、しっかりなさい」
「まあ、みんなありがとう」
「いいのよ」
なんていう女の友情を強固にし、アンナはマリアへの嫌がらせを開始させる準備を着々と固めていた。
さて、その次の朝に母と義姉、祖母や叔母の手紙がやってきており、すべてにおいて、彼女たちは「叩きのめすべし」と異口同音に叫んでいた。
具体的な案をあれこれ出してもらった中で、アンナは彼に嫌われなさそうな陰湿な手立てを採用することにした。友人の手が必要ではあるが、すでに布石は整えてある。
彼女はすぐさまお礼と、必ず奪還してみせる旨を書いて手紙を出した。
ともかく、陰湿な手立ては確かに陰湿であった。
彼から見えない場所でやるのだから当たり前だ。人々に後ろ指をさされそうなことではあったが、彼女もある意味必死であったのだ。なにせ婚約者を取ろうという相手だ、必死にならずというのはおかしい。それになにより、なんだかんだで彼女はマシューのことを好いていたのだから、余計である。
彼女が根をあげて諦めるまで、執拗に計画的にしっかりと吊るし上げるべく、頑張った。服をわざと汚す、ノートに罵りの言葉を書き連ねる。男女別の授業の時にわざと失敗させて恥をかかせたり、噂を流した。友人らと協力して彼女に向かって、脅すようなことを言いながら、別れろとせまったりなどということもした。
マリアの方も、奪還作戦のたびに、なぜか意固地になり、堂々と「彼が好きでなにが悪いの!」と宣言し、キャットファイトは苛烈を極めはじめた。
とは言っても、わかりやすいものではなく、水面下でのことではあった。
意断固首を振って諦めないマリアにアンナは段々と面白いものを見るような目をなげかけるようになってきた。よくもここまでやって諦めないわね、と認めているようであった。
その旨を母に送ってみると「そういうこともありますが、あなたが本気であるならば、必ず奪還はうまくいきます。なぜなら、母も一度そういうことがありましたからね。最終、男をひっぱたいて、目を覚まさせなさい。お父様はひっぱたく前に手を切っていましたがね。あの人はなんだかんだで冷静で理性的なのよ。お母様はお父様を信用しているのです」なんて惚気と共に返事がきた。
おかげでアンナは元気に今日も奪還作戦を遂行させるのだった。
破棄は次の次です