小高い丘に建つ館(2)
廊下に通じる扉をやっと探り当てたジャックは、ドアノブを回す。寒々しい金属音が響くが、ドアを押してもビクともしない。――引くのだったかと眉根を寄せたジャックの耳元で、誰かがささやく。意味は不明瞭でその真意は分からないが、確かに何者かが囁いた。
「誰かいるのか? いや、居る訳がない……居る筈がないんだ」
家族は全員死んでしまったじゃないか。いや、何を言っている? 食われたのは旅人だけで、自分じゃない!
「違う! それは夢の……」
当たり前のことを口に出して、ジャックは愕然とした。自分の行動がまるで狂人のようだと思えたからだ。確かに、確かに、まとまった金を得て浮かれていたのかも知れないが、頭がおかしくなっている筈はない!
「そうだ、その筈だ――。落ちつけよ、ジャック。落ち付けって……」
そう独り言を呟くジャックだが、この時はまだ自分の状態がマシである事に気付いて居ない。ここからは加速度的におかしくなる一方であるとは、今はまだ気づかない。
ともかく、ドアを引っ張るもやはりビクともしない。不明瞭な囁き声が遠ざかり、或いは近づき、そして増えていく部屋の中に居るジャックは、部屋から出られないと言う一事に動揺した。
「おい! 嘘だろ!」
ドアノブを回したまま激しく押したり引いたりするが、一向に動く気配が無い。徐々に明瞭になっていくささやき声。ジャックの背には知らずに流れ始める脂汗。
「ふざけるなよ、開けよ! 開けって!!」
「永遠に――ましょう?」
声を荒げて扉を押し引きしていると再び聞こえたささやき声。――遂に、ジャックはささやき声の一部を理解してしまう。女らしき声で何かを告げている。永遠? 永遠に何だって言うんだ! 半ば恐慌状態に陥ったジャックは、猛然と扉に体当たりを繰り返すと、今まで動かなかったことが嘘のように扉は開き、勢い余ったジャックの体は廊下の壁にぶち当たった。
下手をすれば大怪我を負いかねない衝撃ではあったが、運良く大した怪我を負わずにジャックは部屋の外に出る。頭がふらふらとするのは衝撃の所為だろうか。ともかく、車に戻って――。そう考えた矢先、二階の廊下を何者かが歩く音が響く。ギィ、ギィと鳴り響くそれは、一定の間隔で階段に向かっているように感じた。
「誰か、居るのか。――浮浪者が入り込んだか? いや、都市部の空き家じゃあるまいに――」
呟く声は部屋の外に出られた事で少し冷静さが戻っていた。そして、ジャックは自身が光源となる物を所持していた事を思い出す。スマートフォンだ。ポケットに手を突っ込めば、スマートフォンは確かにそこに在る。取り出して、画面を一つタップすると浮かび上がったのはジャックの恋人のステファン。優しく微笑んでいる彼女の顔を見て落ち着きを取り戻すが、ある点に気付き渋面を作った。
「くそ、圏外だと? 改装前はアンテナ二本は立っていただろう?」
良く覚えている、こんな田舎でもアンテナの受信レベルが2を示していると驚いたのだから。内装工事の結果、受信レベルが0になる何て事はあるのか?
「ふざけやがって――」
酷く苛立ちを覚えながら、ジャックはスマートフォンで周囲を照らして出口へと向かう。スマートフォンの明かりが暗闇を照らしている間は、ささやき声も階上の歩く足音も聞こえない。何の抵抗も受けず、ジャックは玄関口まで辿り着き、苛立ちを抱えたまま玄関の扉を開けた。
そこには、闇に覆われた館の玄関ホールが広がっていた。
ジャックは呆然とその場に立ち尽くした。部屋の外には出られたのに、今度は館の外に出る事が出来ないと言うのか。慌てて背後を振り返れば、そこには玄関ホールが広がりを見せ。前を向いても同じ構造の玄関ホールが扉の向こうに見えた。
理解できぬままに先を見通そうとスマートフォンの画面を向けると、スマートフォンの画面は明滅を繰り返して、最後には消えた。
「おい……おい!」
光が消えてしまうと、再び闇の中に一人取り残された。周囲にはゲラゲラと笑う野卑な連中が飛び跳ねているように感じられ。二階には古めかしい姿の老いた家長が謝肉祭の開始を家の者に伝えているような妄想が、自ずと脳裏に過る。
「親父の言ってた事はこれか? こんな結果、分るかよ――! でも、まだ一人で良かったのかも知れない。ここで如何にかなるのは――」
ジャックは頭を抱えてしゃがみこみ感情を迸らせたが、家族や恋人には害はないと、自分を慰めた。その途端にスマートフォンの画面に灯りが灯りメロディが鳴り響いた。一瞬、ぎょっとしたがジャックは恐る恐る画面をタップして通話に出る。
「も、もしもし?」
「あ、ジャック? 私よ」
「ああ、ステファン――」
「如何したの? 疲れているんじゃない? 今、私もゴードンさんと一緒に新居に向かっているわ。もう、家は出てしまった?」
その言葉に、ジャックは一気に顔を青ざめさせた。不味い、非常に不味い! こんな場所に彼女を連れて来るなんて、不動産屋は何を考えている? いや、彼女とデキているのか? クソ、虚仮にしやがって!
ジャックは自身の妄想や邪推と言う負の感情が制御できず、怒りに偏っていくのを止める事が出来なかった。その衝動のままスマートフォン越しに怒鳴ってやろうと口を開く。
「実はまだ新居に居てね。少し疲れて眠ってしまったみたいなんだ。迎えに来て帰りは君が運転してくれると助かるな」
「分ったわ、ジャック。疲れているのね――でも、お父様もきっと分ってくださるわ」
口から出たのは酷く冷静で、思っても見ない言葉だった。彼女それに応え、心配そうな声音で励まして通話を切った。彼女が父との間を取り持とうとしてくれているのは知っている。だと言うのに、勝手に邪推して勝手に怒りをぶちまけようとした挙句に、こんな場所に彼女を呼び込もうとしている。自分は一体何をしているんだ? そう自問しながら光が消えたスマートフォンを握りしめていた。周囲は闇ばかりが蟠っている。まるで質量を伴っているかのような重々しさを感じながら、ジャックはわなわなと震えた。
「ここじゃ、俺の心は何かに操られるのか? 彼女が来る前に家の外に出なくては――」
そう言葉にして、改めて気づいた。自身が玄関の扉を開けたのに、再び館へと戻ってしまうと言う悪夢のような状況に。
「それでも、如何にかしないと――」
あと1時間もしたら彼女がこの家に来てしまう。何処かに脱出するべき場所は無いか、玄関から出る以外に方法があるかもしれないと疲弊した心にムチ打って歩き出す。その状況に、人間であれば舌打ちの一つでもしたであろう存在が、ジャックの様子を伺っていることに彼はまだ気付いて居ない。
だが、夜は深まるばかり。あと二人は来訪者が来るのであれば、何も焦る事は無いとソレは可笑しげに口元を歪めて笑う。百年以上前からそうやって暮らしてきた。これからもそれは変わらない……筈であった。ソレは大きな勘違いをしていた。今宵の来訪者はジャックやステファン、それに不動産屋のゴードンのみではないのだ。それが証拠に、けたたましくエンジン音を響かせて小高い丘を登り、館に迫るサイドカーの存在があった。