エピローグ
メアリーは一人、街中を歩いていた。ライブハウスでついつい話し込んで帰りが遅くなってしまった。こんな夜更けに一人で街中を歩くなんて無謀ではあるけれど、距離にすれば其処まで遠い訳でも無い。そう判断してライブハウスから歩き出したのだ。
彼女はその事をすぐに後悔する事になる。冬が近づくこの季節。二十二時と言う時間帯は夏であればまだ薄明るい時刻だが、生憎と冬が近いこの時期では闇夜。パブやクラブに人は多いのだろうが、生憎と寒い街中をふらつく者は少ない。いや、それ所か人の影が一つとてない。
流石におかしい。何とも言えない奇妙な心地を覚えて、メアリーは急ぎ足になる。そこの角を曲がって近道を通れば、十分は早く部屋に着く。先程までは月すら見えていた夜空は、曇天に覆われたのか月どころか星の影すら見えず。黒々とした闇が空を覆っている。
「一雨来るのかしら?」
ウェールズ地方の天候は変わりやすい事でも有名だ。買い物の最中に雨が降ってくる事だって良くある。それ故に、メアリーにとっては天候が変わったのかと思う程度の事だった。それよりも人に出会わない事の方が、何故だか恐ろしかった。
恐怖に煽られ、近道に普段は使わない裏路地を使ったのが間違いであった。否、彼女は既に魅入られていた。人の営みに紛れ込み、人に害なす幻想、怪異に。恐るべき者は、音もなく彼女の背後に立ち、獲物を弄ぶように後を付いて回った。そして、裏路地に差し掛かった際に牙を剥いたのだ。
路地裏も半ばまで進んだ頃、メアリーは背後から奇妙な息遣いが聞こえる事に気付く。ひたひたと先程まで聞こえていなかった足音にも。何処となく獣臭さをも感じて、喉を鳴らして湧きあがった唾を飲み込む。体が勝手に震えだすのは何故か、分からない。分らないままに振り返り鳶色の双眸を見開いた。そこに居たのは、鋭い牙と爪を備えた二足歩行の狼――狼男だった。
狼男は、にたりと笑みを浮かべて見せた。あり得ざる伝説上の怪異を目前にして、メアリーは悲鳴すら上げられずへたり込む。しかし、生き長らえようとする本能が立てぬままに這いずる様に逃げ出そうとした。
「逃げろ、逃げろ。もっと絶望した後に食ってやるよ――ああ、でもその前に」
「アンタが死ぬのね」
不意に割り込んだ女の声。メアリーは聞き慣れた何処か無機質で平坦な女の声。
「ア、アリシア?」
彼女の名を呼ばわると、曇天が割れて月明かりが路地裏を照らし出す。浮かび上がるのは狼男とへたり込むメアリー。そして、ギターケースを担いだ金色の神のメイドであった。確かにアリシアは住み込みメイドである事は知っていたけれど。先程までライブハウスに居た彼女は大学で会う時の様に普段着であった。それが今はクラシカルなメイド服に身を包んでいる。
「へへ、獲物が二人に」
「アンタが私の獲物よ――レッツ、プレイ!」
普段のダウナーさはそのままに、しかし一声叫ぶとアリシアはギターケースを肩に担ぎ片膝をついて……トリガーを引き絞った。思いの外鈍い音が響き、ギターケースから放たれたのは――無数の弾丸。ギターケースから弾き飛ぶ薬莢が石畳に落ちてメロディを奏でる。
「ごっ! がっ! げっ!」
上半身を無数の弾丸で撃ち抜かれた狼男は、それでも死ぬことが出来ず呻きながら倒れ込み、悶え苦しむ。ギターケースを担ぎ直して迫るアリシアは、さながら映画に出てくる殺人鬼のような足取りだと、銃弾が頭上を過ぎていく状況だと言うのに、メアリーは思った。
「大丈夫ですか?」
呆然とするメアリーの背後から、平坦ながら優しげな声が響く。振り向けば其処にも知った顔があった。
「弟君?」
「ええ、リチャードです。」
執事姿のリチャード。アリシアの弟は優しげに笑みを浮かべながらそう告げた。そして、今まさに狼男に止めを刺そうとしている姉に視線を転じて、呆れたように言った。
「姉さん、その武器だと旦那様以外は生き残れないんじゃ? 三分位で倒された最強の助っ人が使ってたやつだよね」
「真のマリアッチなら大丈夫」
「姉さんが目指すのはシンフォニックメタルバンドで、マリアッチじゃないだろう?」
「――そもそも、狩人になるのにバンドも何もないわ」
「あ、逃げた」
何とも軽妙なやり取りの最中、足掻きもがいていた狼男に止めを刺したアリシアは、光宿らぬ暗い瞳を友達に向けて言った。
「夜道は気を付けなさい、メアリー」
無機質な物言いでそう言って、少し躊躇した後に左手を差し伸べる。右手は狼男の血でまみれていたから。差し伸べられた手を、メアリーも一瞬躊躇した後に取った。そんな彼女たちをリチャードと月明かりだけが見つめていた。