原野に近い村(2)
村の近くにある原野は、バーンドエリア――焼失区域と呼ばれていた。二百年程前に何かが起きて、豊かな自然が炎に消えた場所だと言う。近隣区域の古老たちは、幼き日に伝え聞いた伝説、或いはお伽噺を信じて、決して近づこうとはしない。空よりの来訪者が、未だに原野に潜み、人を喰らうのだと信じているからだ。
多くの噂がその原野付近には飛び交っている。焼失から何年経とうとも捻じれた草木しか生える事が無い大地だとか。人気のない原野に飛び交う謎の光源だとか。揺らめく様に佇み無数の人影だとか。そして、狼男の伝承も古くからあった。少なくとも、狼男の伝説はこれで終止符が打たれた――訳では無い。過去に五度、狼男を討伐したという報告が狩人協会にもたらされている。
それを知るが故に、黒衣の狩人は気を抜く事はない。狩人は生気の薄い姉と弟に気を失っている牧師の手当てを任せた。止血のやり方だけは教え、関節圧迫を行うべき場所を指示してから電話を借りる。傷の程度は無茶をせねば明日迄には持つだろう。安静にして止血を行えば、失血死は免れる。そう判断した狩人は、次の展開を相談するべく、まずは己の師に狼男を倒したことを報告する予定だったが……。
「不通か」
短く言い捨てて受話器を置けば、受話器は大層不服そうな音を立てていた。それが狩人の苛立ちを表しているのは明白だ。電話線を切断されている。あの狼男が切った訳では無い。何故ならこの家の持ち主テッド・ヒースこそが狼男であったのだから。自身の城は万全にしておく筈だが、現に電話線は切られている。と、言う事は――彼は村の支配者となったと考えていたようだが、実情は違ったのだろう。
「良くある事だ、真の黒幕はやはり原野に居るか」
黒衣の狩人は小さく呟きながら、少し離れた場所で教えた通りの止血作業を行っている姉と弟を見やる。資料によれば14歳と12歳。名前をアリシア・ヒース、リチャード・ヒースと言う。そう、あの生気のない姉弟はテッド・ヒースの姪と甥である。二人は事故死した父母の親族を頼って――と言うよりは、テッド自身が招き入れてこの地で生活を始めたのだ。
その事故からしても原野絡みであったらしい。当時は幼かった二人の子供をシッターに預けてテッドと姉弟の両親は車で原野に赴いていた。詳しい事は分からないが、原野には奇妙な草木があり、それを研究するためのフィールドワークだったらしい。そこで事故が起きて、姉弟の父母は死亡、大怪我を負ったテッドは驚異の回復力を示して回復し、兄と義姉の遺志を継いで奇妙な草木を調べるために、この村に移住を決意したのだと言う。
「事故の際に感染したか? ライカンスロープは感染力が高い。だが……」
一人呟きながら、狩人はこの家に侵入する際にかなぐり捨てていた荷物の場所に戻り、鞄を片手に居間へと戻った。大穴の開いたテレビは既に何も映していない。時計を見やれば、まだ二十二時を過ぎたばかりだ。だと言うのに、夜の闇は深く原野から何かが迫る様な異様な圧迫感を、狩人は覚えた。
それでも、彼は行動を止める事は無い。不安に思うならば、まごまごせずに対策を講じねば死ぬのだ。今回の狩りは、自分一人が死ねば終わりではない。幼い少年少女の命と、今時珍しいまでに実直な牧師の命も掛かって居るのだ。帽子を脇に置き、コートの襟元を寛げてから古びたノートを取り出して、ページをめくる。
「――獣性を与える光――これか?」
呟いてから、鞄の中に納めてあったスマートフォンのケースを取り出して、充電器を取り出した。
「電気を借りるぞ」
最早、電気代を支払う筈の男は死んでいるが、姉弟に声を掛けてから反応を待たずに充電を開始した。バイクの燃料ばかりに気を使って、スマートフォンの電池の残量が残り少なかった事に気付かなかったのは迂闊である。また師にどやされると、ため息をつきながらもノートの記述を読み進めた。
さて、時間にしてどの程度そうしていたか。不意に牧師が声を掛けてきた。いつ目覚めたのか気付かなかったが、それほどノートの集中していたのだろう。
「――ラムレイ卿は一緒では無いのか、アキヒト君」
「師は別件で急ぎの狩りがありましてね。スミス牧師、今はお休みください」
アキヒトと呼ばれた狩人はノートから視線を外して、サイモンや姉弟を見やって笑って見せた。黒い髪に黒い瞳、想像以上に若い姿に生気薄い姉弟は再び驚いたように狩人の顔をじっと眺めた。
「日本皇国人は珍しいかい? ――まあ、ウェールズで狩人をやってる皇国人は珍しいな」
可笑しげに笑いかけてから、狩人は自身の言葉に納得してしまい、一つ頷いて再びノートに視線を戻そうとした。その矢先である。充電しているスマートフォンがけたたましく鳴り響いた。先日デビューしたシンフォニックメタルバンドの壮大な音楽と戦士を称える歌唱が響き、狩人はノロノロとスマートフォンに手を伸ばした。
何やら話し込む狩人を見ながら、この家で搾取され続けていた姉アリシアは、鮮烈な音と歌唱と、眼前で対策を講じている黒衣の男を見たまま、何故にか涙を流している自分に気付いた。弟のリチャードは、牧師の傷口、動脈を切った個所を関節圧迫し、時には緩め、壊死しない様に必死に看病を続ける事で生きている事を実感し始めていた。
サイモン牧師は、如何にか、如何にか狩人が到着するまで子供たちを守れたことに満足を覚えていたが、アキヒトの話しぶりからまだ終わった訳では無い事に気付き、気を然り持とうと、自身を叱咤した。ここで投げ出しては、神の国に等おこがましくて向かえないではないかと。
三者が三様に生への取っ掛かりを見出した時、それを断ち切らんと原野が牙を剥いたのか、電気の供給が不意に止まった。一瞬で暗闇が支配する中、変わらず冷静に会話を続ける狩人の言葉だけが響いていた。
「マスター。如何やら敵さんは本気で攻めに来るようです。西暦1758年スイスの事件に似たケースがあるそうです。至急調べて頂ければ。――馬鹿を言わんでください。私は貴方に鍛えられたんだ。全員を無事に生きて返すのは当然、元凶だって狩ってやりますよ」
最後の言葉に込められた思い。周囲憚る事無く放たれる殺意が、暗闇に只中にある三人にも感じられた。うすら寒くなるような強烈な意志。その意志は続く言葉にも明確に込められていたが、だからこそ、彼等は希望が持てたのだ。
「私は、魔神すら狩る、魔物狩人だ」
その言葉に恐怖したように、原野からヒース家に忍び寄り、包み込もうとしていた霧が霧散した事を知らなくても。彼等は狩人に命を賭ける事を選んだのである。