第9話 僕の現実、私の現実
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翌日、8月26日。
目が覚めると、僕の視界には馴染みの無い天井が広がっていた。暫く状況を整理出来ず、ボーッと虚空を見上げていたが、やがて昨日の出来事を断片的に思い出し始めた。
「ああ……学校に泊まったんだったか……」
僕は緩慢な動作で起き上がり、大欠伸をする。固い床の上をダンボール一枚敷いただけだったので身体の節々が痛む。それに、何度か悪夢のせいで目覚めてしまっていたのでほとんど寝た気がしない。
「……今日は帰ってちゃんと休むか……」
このまま学校に残ったとしても、この状態でまともに活動する事など出来ないだろう。だったら今日は休んだ方がマシだ。部をまとめる人がいないのは気になるが……一日ぐらいなら休んでも特に影響は無い。
そうやって自分に言い聞かせながら帰り支度をして、僕はふらつく身体を壁で支えながら部室を出た。正直、今日はオカルトとかに関わりたい気分じゃない。小学生の時からずっとオカルトを追いかけてきた僕にとって、こんな感情を持つのは初めての事だった。それだけ、あまりにも僕にとって衝撃の強い体験だったのだ。
僕はろくに眠れなかった分、家の柔らかいベッドで空が紅く染まり始める頃まで死んだように眠った。そして、僕はRUINの通知の音で深く暗い睡魔の渦から解き放たれた。
「誰だ……?」
覚醒しきっていない眼を強く擦りながら、近くに置いてあったスマホを取る。どうやら通知は将吾からのものだったらしい。トワからのメッセージは、やはり来ていなかった。
『お前何で休んだんだ?風邪か?』
『それはともかく、昨日は結局どうなったんだよ』
『幽月も部長も何も教えてくれないしよ。鍵は閉まってたのか?』
『ていうか、幽月の様子何かおかしいし……お前も急に休むし……もしかして、もしかしなくてもマジで幽霊出たん?』
『いや……それとも女子トイレ内でラッキースケベでも起こしたのか!?クソ、羨ましいなお前……』
『とにかく、ラッキースケベなのか、マジで幽霊が出たのか教えやがれ!』
将吾から来たメッセージはこういうものだった。全く、こいつはしょうもない事ばっか考えて……と少し苦笑しつつ、僕はどう返事したものか悩んでいた。昨日の一連の出来事については他言無用……そう蛇塚先輩は僕に言った。それは勿論、たとえ将吾だろうとは言ってはならないという事だ。昨日も結局、トワに真実を伝えることが出来なかった。
「……やめとこう」
やはり、将吾にも伝えるべきじゃない。蛇塚先輩に言われたからというのもあるが、何となく危険な気がするのだ。だとしたら、むやみに誰かを巻き込むべきではない。将吾なら寧ろそういう危険に喜んで突っ込んでいく奴だろう。だが……だからこそ黙っておかなければならない。
『昨日は特に収穫なしだ』
『まあ……ラッキースケベは無かったが、手が触れあってしまったりはしたな』
『もしかしたら幽月はそれでどうにかなってるのかもしれない』
『後、僕はただの風邪だ。明日には復活するから』
散々悩んだ末、将吾には無難にそう答えておいた。将吾の既読は光の速さで付き、すぐに返信も来た。
『手が触れただけであんなになるって……もしかしなくても幽月は処女か、処女なのか!?』
『まあそりゃそうか、あれは非処女では無いよなあ』
「ま、さっさと風邪治せよな。仕事は大量にあるんだからな』
その男子高校生特有のくだらない言葉とほんのちょっとの心配の言葉で、僕の澱み、沈んでいた心は少しだけ晴れた気がした。やはり持つべきものは親友というわけだ。
「……よし」
僕はスマホの電源を落としてベッドから身体を起き上がらせると、机の上にある愛用のノートPCの前に向かった。オカルト関連の事柄を調べる時は、なるべくスマホでは無くこれを使うようにしている。理由は特に無いが……強いて言うなら気合いが入るから、だろうか。僕にとってオカルトとは今までの人生のほとんどをそれに費やしてきた程に特別なものなのだ。そういう訳で、オカルト関連の事柄には真摯に向き合いたいのだ。
「心ヶ丘市……通り魔事件……と」
調べる事柄は勿論、昨日の幽霊に関する情報だ。通り魔によって殺害されたという当時高校一年生だった五十嵐という男子生徒。彼について、もう少し情報が欲しい。ざっと目立つ範囲で調べてみたが、知っている以上の情報が見当たらない。当然ながら、彼の幽霊を見たなんて話は出てくるはずも無かった。
「……そもそも、あれは本当に五十嵐って人の幽霊だったのか……?」
ふと、そんな疑問が浮かんでくる。僕が見た幽霊が五十嵐という人であり、彼が悪戯好きであったという情報は全て蛇塚先輩から提供されたものでしかない。ちゃんと当時の彼を知る人に取材する必要があるだろう。そんな事を考えているうちに、一つの根本的な疑問にぶち当たった。
「本当に、僕は幽霊を見たのか?」
てっきり本物の幽霊を目にしたら僕はこの上無く喜ぶものだと思っていたけれど。実際にあんなものを見てしまった僕は現実逃避を始めている。分かっているのだ。あれは幻覚では無い。三人も同じ幻覚を見るはずが無い。だからあれは紛れも無い現実。だが、どうしても受け入れられない。オカルトなんてものは文字通り天の上の存在で、だからこそ僕は際限なく追いかける事が出来た。そんなものが、いざ目の前に確かな現実として姿を見せてしまったら……僕はどうすればいい?
「……触れるべきじゃないのかもな」
僕はそっとノートPCを閉じ、またベッドの上に寝転がった。この事件は追うべきじゃない……。僕はいつも通りPP部の連中と嘘か本当かも分からない噂について探るだけでいいんだ。蛇塚先輩からもああ言われたんだし、きっとこれが正しい選択なのだ。
そう無理矢理思い込むことで、少しずつ肩にかかっていた力が抜けていくような感覚を覚えた。同時に、さっきまであれだけ眠っていたにも関わらず、再び僕の身体を睡魔が包み込み始め……やがて完全に僕の思考は停止した。
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「は〜あ……」
つい、私は部室内で大きな溜息を漏らしてしまった。そして、それに気づいて慌てて口を両手で押さえる。部室内にいやーな雰囲気を持ち込まない、私はそう決めているのだ。とは言え、やはり折角期待していたオカルト現象が結局ただの悪戯だと知ったらやはり落ち込むものだ。
「……はあ〜あ……」
また、無意識のうちに溜息が出てしまった。
……今日もソラは来ていない。今日にはいつも通り登校してくると思ったけど、やっぱりまだ熱が下がって無いのかな。昨日はドタバタしてて結局お見舞い出来なかったし、今日は行ってあげなきゃね。
ソラがいない事で、私の胸の中のどこかにぽっかりと穴が空いてしまったみたい。風邪で数日会えない、なんて事は十何年一緒にいれば何度かあった。でも、今日は……いつもと違う変な胸騒ぎがして。早く会いたい、そんな思いが私の心に溢れて弾けてしまいそうだった。
「……トワ、大丈夫?元気無いん?」
ポンポン、と後ろから肩を叩かれる。このハキハキした中にも慈愛の情が込められた声音はヒナ先輩のものだった。
「……ヒナ先輩、いえ、何でも無いんです」
「あ、分かった。永崎くんがいないから寂しいんでしょ」
いつの間にか優しい声音は、悪戯っ子のようなからかいのそれになっていた。私は何だか心の奥をあっさり覗かれてしまったような感覚に捕われて、頭が急速に沸騰を始めた。
「ち、ち、違いますって!私はただ……」
「あははっ、そんな顔真っ赤にして否定しなくていいのに。いいのいいの、分かってるからさ」
「何を分かってるって言うんですかぁ……」
その全てを見透かしているかのような言葉に、私は駄々をこねる子供のように頬を膨らませて呟く。身体の温度の上昇は止まる所を知らない。
「ま、とりあえず元気出そう。大丈夫、ただの風邪だろうし明日か明後日には復活するからさ」
「……そう、ですよね」
「その復活の日までにさ、頑張って作業して、永崎くんを驚かせるぐらいの完成度まで持っていこうよ」
ヒナ先輩は今度は私の両肩をポンッと一回強めに叩く。その喝で、私の心のモヤモヤはいつの間にか綺麗に晴れていた。ヒナ先輩が私の先輩でいてくれて良かった……そう強く感じた。
「よし……じゃあ、私頑張ります!」
「そうそう、その意気その意気!」
そうだ、ソラがいないなら、ソラがいない分私が頑張る……ただそれだけなのだ。そして沢山私が頑張って、ソラをびっくりさせてしまおう。
私はそう心の中で決意し、勢いよく立ち上がる。そして早速、白紙の新聞の前に向かったのだ。