第7話 潜む闇、真なる怪奇
午後8時。
既に陽は沈みきっており、世界は完全に闇に支配されている。心ヶ丘高校の校舎の窓からは、ポツポツと光が漏れ出している。普段はとっくに最終下校時間を迎える時間なのだが、心緑祭の直前は届け出をすれば、翌日の朝まで学校から出る事は出来なくなるものの、泊まり込みで作業をする事が出来るのだ。
そして、電灯が灯っているのはここ、PP部の部室も同じだ。部室にいるのは僕、蛇塚先輩、幽月の三人。蛇塚先輩は机に足を置くという行儀の悪い格好でスマホを弄っており、幽月に関しては部屋の隅っこにしゃがみ込んで、爪を噛みながら呪詛の言葉をボソボソ吐き続けている。よっぽど残りたくなかったのだろう。
「……さて、そろそろ行こうか」
静かに言うと、僕は椅子から立ち上がり、ここからの行動を二人に説明した。やり方は単純で、蛇塚先輩には三階と四階の全ての女子トイレをチェックしてもあり、幽月には一階と二階を同様に調査する。そこで、女子トイレの個室のロックが全て掛かっているような事があれば僕らの勝ちだ。新聞にデカデカとそのネタを載せる事が出来るだろう。
二人は僕の説明など全く聞いている素振りを見せなかったが、蛇塚先輩はおもむろに立ち上がると……PCの置かれているデスクに立て掛けられている模造刀を握ると、部室から出ていってしまった。
それにしても一体あの模造刀は何なのだろうか。僕が入部した時には既に置いてあったから蛇塚先輩か明里先輩のどちらかの所有物だとは思っていたが、実際にこうやって誰かに使われているのは初めて見る。一度、置いている理由を蛇塚先輩に訊いた事があるが、適当にかわされてしまって用途は知らない。
「……おーい、行くぞ」
僕は部屋の隅に溜まっている埃と化している少女の元に歩み寄る。幽月は体操座りで俯きっぱなしだったが、僕が目の前で佇んでいると、やがて壊れかけのロボットのようにギシギシと首をゆっくりと上に向ける。
「……頼むって」
僕は困り果てて首を少しばかりさすり、渋々幽月に向かって手を差し出す。幽月は暫くボーッと僕の差し出した手を眺め続けていたが、一分ぐらい経つと諦めたのか、これまた壊れたロボットのようなぎこちない動きで僕の腕を握った。
一段、また一段とゆっくり、ゆっくりと階段を下りていく。夜の静寂に包まれた校舎に、二人分の足音が反響する。まだ夏休み最後の一週間の初日というだけあって、まだ泊まり込むような生徒は少ないのだろう。人の気配をまるで感じられない。一応それでも生徒は数人ぐらい残っているはずなのだが……普段は明るい校舎がこうも暗闇に支配されていると妙に不気味に感じてしまう。それに、僕の隣にも不気味な女がいるので尚の事、だ。
「とりあえず、最初はここからだな。幽月、頼む」
「え……あ、は、はい……」
僕らはまず校舎一階の一番北側のトイレを確認させる事にした。幽月はトイレの入り口の目の前まで来ても尚躊躇している。正直、どうせ他に誰もいないのだから僕自身が女子トイレに乗り込んでしまってもいいのだが……一応僕にも男としてのプライドがあるのでそれはなるべくやりたくない。……などと考えていると、幽月が遠慮がちに僕のカッターシャツの袖のをくいくいと引っ張ってきた。
「あ、あの……その……こ、ここから離れないで……」
幽月は俯き加減で、少し震えた声でそう言った。長い前髪のせいで表情が確認できないが……これが幽霊の仕業なのかもしれない事を恐れているのだろう。いつも散々幽霊が出たとか言って部員を混乱させているのに……。とは言え、後輩の女の子が怖がっているのだ。ここは先輩らしく何か言ってやるべきだろう。
「大丈夫だから。まだ幽霊の仕業と決まったわけじゃないし、そもそも何も起こってないかもしれないだろ?」
「そ、そう……?」
わざわざ泊まり込むというのに鍵が閉まっていないとかだったら困るのだが、ここは幽月を安心させる為にもそう言っておくべきだろう。
「それに、離れたりしない。ちゃんとここで待ってるからさ。頼むよ」
ここで肩でもポンポンと叩いてやるのが男らしいってものなのだろうが、生憎僕にあまり話したことのない女の子に触れられる程の勇気は備えられていない。だが、それでも幽月は少しは気持ちが落ち着いたようで、コクコクと頷いた後、慎重な足取りで単身女子トイレの中へと入っていった。
それにしても……幽月が離れた瞬間、僕の脳は途端に孤独感を覚えた。廊下に取り付けられている蛍光灯はいつもと違って一か所しか照らされていない。そのうえ、その蛍光灯は既に切れかけており、不規則に点滅を繰り返している。一年生は流石に全員帰っているようであり、教室から漏れる光も音も無い。暗黒と静寂に包まれ、どうしようもない閉塞感に包まれる。まるで、世界から僕以外の全ての人が消えてしまったかのように―。
「いやあああああ!!!!!」
孤独に支配され、深淵の世界へと誘われてしまうと思い始めていた時、突然耳をつんざく悲鳴によって、僕は何とかこの世界に存在を取り戻す。
「た、た、た……たっ……!たすけ……」
依然として女子トイレの中からは声が漏れ出している。その助けを乞う言葉により、ようやく僕の意識は覚醒する。あの幽月があれ程の大声を出すなど只事では無い。助けなければ、と僕は足を動かそうとするが……
「しまった、ここは女子トイレだった……」
お馴染みの女子トイレのマークが目に飛び込んできて、僕は足踏みしてしまう。が、今は四の五の言ってられる状態では無い。それに何度も言うように今は誰も見ていないのだ。将吾がいたりすれば延々とからかわれ続けるだろうが、今はいない。優先すべき事を考えろ。
僕は一度大きく深呼吸をし……見えない境界を突き破るかのごとく、女子トイレ内部へと突入した。それにしても、空気はすぐ隣にある男子トイレと大差ないはずなのに、何故か凄まじい違和感を覚える。拒絶反応。やはり、男にとってここは足を踏み入れてはならない禁断の聖地だったのだろうか……。
「あ……あ……あぁぁぁぁぁ……」
暫く女子トイレに蔓延する強烈な違和感に頭をやられていたが、やがて聞こえてきた言葉にならない声で僕の意識は再びこの世界へと戻ってくる。床の方へと目を向けると、そこにはぺたりと座り込んでいる幽月の姿があった。目は大きく見開かれており、口は慌ただしく震えている。そして、真っ直ぐ前に指されている人差し指……。その先にはトイレの個室があった。
「し、閉まってる……」
鼓動が早鐘を打ち始める。女子トイレに初めて突入した事による興奮及び高揚感は、一瞬のうちに恐怖心に書き換えられる。
女子トイレの個室の鍵は、全て閉まっていた。六つある個室のうち、六つだ。普通、こんな夜中に全ての個室が閉まっているだなんてある訳が無いのだ。寒気を覚える。空気も異様に重い感じだ。ただの錯覚かもしれない。だが、明らかに女子トイレ特有の空気とは全く別種の『違和感』が僕の身体をじわりじわりと締めつけている。
「だ……誰か……いる、のか?」
閉まり切っている扉に向かって声をかける。声をかけたつもりだった。うまく声が出ていたかは分からない。震えすぎて言葉として成り立っていなかったかもしれない。
返事は無かった。ならば、と恐る恐る扉の一つに二度ノックをしてみる。やはり、返事は無い。そもそも扉の向こう側からはまるで人の気配を感じない。代わりに、生きてきた中で一度も感じた事の無い異様な雰囲気が、扉の奥からこちら側へと侵食してきている。静寂の中、鼓動の音と唾を飲み込む音だけを僕の脳は認知する。五感というものが、一気に脆弱なものに思えてしまう。ならば、今僕の感じるえも言われぬ危機感は第六感によるものなのだろうか?
「で、出た……出たの……」
「……何が出たって?」
「幽霊……」
「またいつもの妄想か?」
「妄想じゃない!本当に出た……!」
さっきまで目の焦点も合わず、ただただ震えていただけの幽月だったが、僕が軽く疑ってかかると彼女は真剣な目とはっきりとした口調で訴えかけた。さっきの叫び声も、今の表情も今日初めて見るものだった。これは只事じゃないと確信する。とにかくここに居座ってはダメだ。重さも軽さも感じさせない静かなる波動によって心も身体も蝕まれてしまいそうだ。
「立てるか?」
僕は震え切った脚をどうにかして抑え、幽月に手を差し伸べる。幽月はコクりと頷いて、僕の手を握る。そういえば、さっきは腕を掴まれたのに今度は手……。普通は恥ずかしさが湧き出てくる所だが、今はただただその手の温もりが有難かった。
「ほ、本当に……出た……さっき……!」
幽月はどうにかして立ち上がるが、相変わらず身体も声も震え続けていた。おまけに涙目だ。普段は少し電波の入った少女だと思っていたが、今はただのか弱い女の子だった。ブレザーを着込んでいても分かる身体の線の細さが余計にそう感じさせた。
「本当に出たって言うなら、とにかく一度ここから離れよう。ここは……あまり長居していい雰囲気じゃない」
無論、僕は男子だから女子トイレに長居していい訳が無いのだが……今は、ただただ得体の知れぬ恐怖心から早いとこ逃げたいという一心だった。
「う……うん……」
幽月も同じ思いなようで、声こそ震わせ続けていたが首の方ははガクガクと激しく縦に振っていた。それにしても、彼女は未だに僕の手を強く握り続けている事に気付いているのだろうか。細身のはずなのに、その手は妙に柔らかい。マズい、意識し始めると段々と恐怖心を羞恥心が上回ってきた。ここ数年、女の子の手なんて握っていないのに。勿論、トワもだ。かと言って、ここで手を振りほどくなんて出来る訳が無い。だったら、さっさとここを離れよう……と、出口に向かって足を進めようとした時だった。
「……!!」
突然、僕の腕が鉛を埋め込まれたかのように重くなる。何が起こったのか確かめるべく振り向くと、そこには僕の手をきつく握ったまま、再び幽月が床に倒れ込んでいた。さっきと同じように、目を見開き、口を震わせ、握っていない方の手で扉の方を指差しながら。
恐る恐る、扉の方に目を向ける。
そこには扉から刺さるように突き出ている半透明の生首が浮かんでいた……。