第15話 現る影、消える影
教室に入ると、途端に埃臭さが僕の鼻にまとわりついた。まあ僕が入学する前から放置されていたとなれば仕方の無いことだろう。僕達が入った事で埃が舞い上がり、その埃をカーテン越しの日光が照らす。それはまるで、夏に降る雪のようだった。
「……本当にこんな所でやるのか?」
「でもでも先輩、こういうなんか汚い場所の方が霊が寄り付く気がしませんか?」
「……そういうもんなのか?」
「いや……分かんないですけど」
しかし流石にこの空間に閉じこもっていたら体調が悪くなりそうだ。僕はとりあえず窓を開けて換気だけしておく事にした。カーテンを開くが、あまり光は入って来ず教室は薄暗いままだった。
教室をざっと見回す。十脚程だけしかない机は雑に後ろに運ばれており、黒板には全体を覆い尽くす程の落書きがされていた。書かれている内容から察するに、ここを部室として使っていた人達の寄せ書き的なものだろう。それ以外には恐らくその部の部員が残していった物がちらほら置かれている。教卓に座っているピンクの熊のぬいぐるみは埃塗れになってすっかりくたびれてしまっている。
「先輩……すごい蒸し暑いんですけど」
「ああ、冷房付いてないからな」
「扇風機付けてくださいよ」
「扇風機なんて付けたら降霊術に使う紙が吹っ飛ぶんじゃないか?」
「本当にこんな場所でやるんですか?」
「柊がそう言ったんだろ」
「……むぅ」
それにしても、もう8月も終わるというのに酷く蒸し暑い。噴き出す汗がシャツに染み込んで不快だ。冷房のおかげで快適な空間だったPP部室とは大違いで、それが尚更不快さを助長させている。
「あーもう、暑すぎる!先輩、さっさと終わらせてさっさと戻りましょう!」
そう言うと、柊は着ていたベストを脱いで乱暴に近くの机に投げた。そして、ダンボールに入れていた用具を取り出して舞台の設置に取り掛かる。
「……む」
僕は手持ち無沙汰になり、近くに置いてある椅子に座って何となーく降霊術の為の舞台の設置をしている柊の背中を眺めていた。そう、何となーくである。他意は無い。決して、この蒸し暑さによって柊の身体から流れ出た汗によって肌に密着したブラウス越しに透けて見える水色のそれを見ようと思って眺めている訳では無いのだ。
「まあ……これくらいなら許されるよな」
僕はわざわざ忙しい中付き合ってあげているのだ。だからこれくらいのご褒美は用意されていて然るべきなのである。柊よ、将吾を連れて来なくて命拾いしたな。アイツがこんな状況に立たされたら既に柊の純潔は奪われているだろう。
「よーし、準備完了です」
僕が柊の背中を眺め回している間に、舞台の用意は整ったらしい。前回と同じく人型に切り抜いた紙を五芒星の配置で置き、正面に鏡を、反対側には蝋燭を。そして、その中央に柊が座った。
「それじゃあ先輩、蝋燭に火をお願いします」
「あ、ああ。分かった」
僕は柊から投げ渡されたマッチ箱をキャッチし、そこから一本マッチを取り出して火を付けた。
「……あ」
蝋燭に火を付ける際に、人型の紙に書かれている名前が見えた。そこにはやはり『かなと』と書かれている。この名前の主は誰なのか。柊が隠したがる理由は何なのか。どうしても気になって仕方が無かった。とは言え……柊は既に今から行う降霊術に向けて集中しているようで、迂闊に話しかける事は出来そうに無かった。
蝋燭に火が点くと、柊は一度大きな深呼吸をして、かごめ降霊術のルールを読み上げた。普段は感情を丸裸にしたような喋り方をするのに、今はどこか無機質で、それでいて何か強い思いが秘められているような、そんな話し方。
全てのルールを読み上げた頃には、明らかにそれまでの部屋の雰囲気とは異なる空気が部屋全体を包み込んでいた。僕は思わず固唾を飲んでいた。その間にも、柊は動じる様子も無しに淡々と降霊術を進めていく。ルールの書かれた紙を置き、もう一度深呼吸をして、目を閉じる。
かーごめ かーごめ
籠の中の鳥は いついつ出やる
夜明けの晩に 鶴と亀が滑った
後ろの正面……だぁれ?
歌が終わり、訪れたのは完全なる静寂。その静寂の中で、僕は身動きひとつとるのはおろか、呼吸すら許されないのでは無いか。そんな錯覚すらした。
「……」
ここはまるで、現世から隔絶された空間の様。五感すらも曖昧になっていくのを感じる。僕はその異質さに恐怖すら感じていた。しかし柊は未だ目を開こうとはせず、更にこの違和感にも一切動じる様子を見せなかった。
「……」
更に数分が経った。壁に掛けられている時計は動きを止めており、実際に何分経っているのかは知りようが無い。
ふいに、窓からそよ風が吹き込み、蝋燭の火が揺らめく。このままだと消えてしまうのでは無いか……そう思いながら、僕はボーッと蝋燭の火を眺める。火はまるで生きているかのように、楽しげに踊り、その踊りは僕の眠気を誘った。やがて僕が堪えきれずに、つい欠伸を漏らしてしまった時。
「……あ!」
ふいに柊が大声を上げた。あまりに突然の出来事に、僕の眠気は一瞬にして吹き飛んだ。柊は声を上げるだけでは無く、更に鏡の元へと這い寄り、それを両手で掴んで思いっきり目を見開いて凝視した。口も呆けたように半開きになっていて、明らかに只事では無い。きっと、何か視えたのだろう。
「ど、どうしたんだ柊」
僕が立ち上がると、再びそよ風が吹き込んで蝋燭の火をかき消して行った。
「先輩!早く火を付けて!」
「え!?あ、ああ」
僕はその剣幕に少したじろぐも、すぐに言われるがままにマッチを取り出してもう一度点火した。
「ねえ、お願い。もう一回出て来てよ。ねえ、ねえ!」
それから柊は、ひたすらに鏡に向けて誰かに向けて呼び掛け続けた。その姿を見て、声など掛ける事が出来る訳も無く。次に蝋燭の火が消えるまで、教室の中を柊の悲痛とも思えるような叫びがこだまし続けた。
●●●
「え、お兄さんがいなくなった?」
「はい……そうなんです」
体操服姿の香澄ちゃんが突然部室に戻ってきたかと思えば、何とお兄さんがどこかに消えてしまったと言うのだ。最初は何かの冗談かと思ったけど、香澄ちゃんの普段見せないような涙目に、青ざめた表情からしてそういう訳では無さそうだった。
「とりあえず落ち着いて、いなくなる前の状況とかを整理した方がいいんじゃない?」
「ああ、俺もそう思うぜ」
部室で部新聞製作をしていたヒナ先輩と将くんも話に入ってくる。うん、部新聞製作で忙しいけど、香澄ちゃんは大切な部員の一人だ。ここは話をしっかり聴いてあげなきゃ。
という事で、私達は一度部新聞製作を休憩して香澄ちゃんから詳しい話を聴く事になった。ソラ以外の全員の部員が集まって長机を囲む。てっきり紅楼絵先輩はどこかに行ってしまうかと思ってたけど、今日はその様子は無かった。とは言え、やっぱりスマホは弄っているけれど。
「それじゃあ香澄ちゃん、詳しい事を教えてくれるかな?」
「はい……」
私が尋ねると、香澄ちゃんはお兄さんが消えてしまうまでの状況を沈み切った声で語り始めた。
「いつも通り、お兄ちゃんはサッカーの練習をしていて、私もマネージャーとしての仕事をしてました。それで休憩時間になった時……お兄ちゃんは友達3人くらいと話していました。それが私が最後にお兄ちゃんを見た時です。お兄ちゃんはその休憩時間の間に急に消えてしまったらしくて……」
「おいおい、ちょっと待て」
香澄ちゃんが説明している時に、突然将くんが割り込んでくる。でも、そうしてしまうのも当然だ。
「そんな……急に消えてしまうなんて事があるの?」
「ああ、トワの言う通りだ。そんな馬鹿な事が……」
「私だって信じられません。その時、私はスポーツドリンクの用意中で実際にお兄ちゃんの消えた場面を見たわけじゃないですから」
「なんか怖いね〜。これは事件の予感がするよ」
いたって真剣に話している香澄ちゃんと対照的に、美観ちゃんは何とも適当な調子で言う。言葉とは裏腹に、全く怖いとは考えてなさそうだ。
「ねえ香澄、実際に消えた所を見た人はいないの? その一緒に話していた友達は?」
「それが……何かお兄ちゃんは用事があるって言ってどこかに行ってしまったらしくて」
「それは何時間前の話?」
「えっと……1時間前です。用事なら数分で戻ってくるだろうと思ってたのに帰ってこなくて……今はお兄ちゃんの友達も探してくれてるんですけど、見つからなくて」
香澄ちゃんは今にも泣き出してしまいそうな表情になり、声も尻すぼみに小さくなっていった。それを隣に座っていたヒナ先輩が頭を優しく撫でて慰める。
「なあ……もしかして、これ本当に事件なんじゃねえか?」
「将くん! まだそうと決まったわけじゃないでしょ?」
「う……わ、悪い」
私だってそう考えた。でも、今は思っても口に出すべきじゃない……。それに、今の香澄ちゃんの沈んだ姿を見ると、とても言える気分にはならなかった。
「事件じゃないとしたらぁ……うん、アレに違いないね」
「アレって……何?」
部室内の重く、沈んだ空気を壊すような溌剌とした声で美観ちゃんはそう言った。こんな状況だというのにどこか悪戯そうな笑みを浮かべながら。そして、彼女は想像もしなかった可能性を口にした。
「それはぁ……神隠しだよ、神隠し」