表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
<R15>15歳未満の方は移動してください。

美しい犠牲者

作者: れお

「あいつのせいでさ、こんな目にあってんの。」

夕焼けのように赤かった顔は、いつの間にか嵐が過ぎた海のように青白く、凪いでいた。散々怒った後の脱力感に襲われて、声は弱々しさを増す。身振り手振りで暴れまわったシャツには、ところどころシミがついていた。点在する穴たちがどんどん広がって、周辺を食い散らかし、いつの間にか一つの大きなブラックホールとなって、宿り主すら飲み込んでゼロに戻る。

「聞いてんの?」

酒の匂いが強くなる。ずい、と顔を近付けられても嫌な気はしなかった。もう慣れた距離なのだ。いつかはゼロどころかマイナスにしたこともあったけれど、今はおよそ30センチを保っている。それ以上も以下もない。最適を見つけてしまった。開拓していく楽しさも、離れて行く寂しさも、もうない。あるのは永遠に感じられる安定。少しつまらない。けれど尖っていられるほどの若さは、とうの昔に失くしてしまった。

「うん。聞いてるよ。」

さりげなくお冷を勧める。喚くことなく受け入れるようになったのは、成長なのか退化なのか。挑戦することを無意識に恐れるようになった私たち。効くのは酒ぐらいだと言うのに。それすらも制御してしまうほどの何かを得てしまった。簡単には捨てられず、愛おしさすら湧くのだからたちが悪い。

奪ったグラスの水滴を撫でる。指先に伝わる微かな冷たさ。どうやら私の体温も上がっているらしい。同時に氷が溶けて、小気味いい音がした。

「何時もだよ、いつも。毎回。常時。恒常。」

同じ意味の言葉を繰り返し使うのも、並べるのも、彼の癖だ。読書家らしく、聞き慣れない言葉をよく耳にする。追求するのは辞めてしまった。向上心の欠落とか、話の腰を折らないために、などとかっこいいものではない。新しい言葉がもう、頭に入ってこないのだ。唯一万能な耳は全ての音を拾うけれど、脳がフィルターをかけ、理解する単語を紡いで話を読み解く。わからない単語が多少あれど、さして問題にはならない。特に、今日のような単純な話では。

「俺が庇ってやってんのに、上はちっとも気付かないし。」

「あいつはいい思いばっかりするし?」

「そう。いい思いするのはあいつで、吊し上げられるのは俺。」

奪ったグラスを舐める。視線を感じて、少し笑ってしまった。

心地よいジャズ、グラスを拭くバーテンダー、平日の店にしてはぼちぼちの繁盛具合、喋るのをやめた彼から雄の匂いがした。

非常停止ボタン。どこにでもあるそれは大概が真っ赤な丸い形をしていて、簡単に押せるようになっている。非常時以外は絶対に押さないでください。決まり切った文句は、何カ国語に翻訳されている。記憶の限り一番長いのは日本語だ。回りくどい風習。危険な時ですら敬意を忘れないように進化した私たち。それなのに、駄目と言われたらしたくなるのが性なのはきっと、昔から変わらない。

「犠牲になるのはもう嫌?」

「当たり前だろ。もっと評価されてもいいはずなのに。」

なあ。そう思うだろ、お前も。纏わりつく甘ったれた声。鼓膜にへばりついて、母性本能をくすぐる。奪い取ったグラスを空けた。

興醒めだ。

最適を見つけてしまったことは、解っていると思っていた。いや、解っているのだろう。彼はきっとそこまで鈍くない。それでもあえて近づこうとしている。また、同じことを繰り返そうとしている。

彼にとっては所詮その程度なのだろう。

過ぎた時間は戻らない。犯した過ちは消えない。持ち得る神はいないのだから、免罪符も存在しない。誰にも許されず、誰にも咎められず、だからこそ自分で業を背負った。投げ出すことはいつだって出来るけれど。

「お前、なんか変わった?」

口説き文句半分、本気半分。それはそうだ、最後に会ったのはもう半年も前になる。女の半年は男の1年くらいか。移ろいやすい女は、外見も中身も簡単に変わって行く。半年会わなければ、別人になっていても何ら不思議はない。

「綺麗になったな。」

照れもせずに賞賛を贈る彼は、何も変わっていない。時が止まったかのように無邪気で、天然で、賢くて、愚かで、可愛い。無垢な少年に戻ってしまった。先ほど感じた理性は、酒とともに手放してしまったのだろう。止めるのが少し遅かった。

「きみは、変わらないね。」

嫌味に聞こえたのだろう。唇を尖らせ、おしぼりを弄り始める。素直な反応に笑みが漏れた。

「綺麗なまま。」

「俺が?」

「うん。」

怪訝な表情。男の人を形容する言葉として相応しくないのは解っている。ただそれは、外見の時だけだ。中身の話をすれば、どんな形容詞さえ男女を厭わない。

「変なやつ。」

犠牲者でいられる彼はきっと、この世で一番美しい。かの太宰治ですら、賞賛を送るくらいに。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ