美しい犠牲者
「あいつのせいでさ、こんな目にあってんの。」
夕焼けのように赤かった顔は、いつの間にか嵐が過ぎた海のように青白く、凪いでいた。散々怒った後の脱力感に襲われて、声は弱々しさを増す。身振り手振りで暴れまわったシャツには、ところどころシミがついていた。点在する穴たちがどんどん広がって、周辺を食い散らかし、いつの間にか一つの大きなブラックホールとなって、宿り主すら飲み込んでゼロに戻る。
「聞いてんの?」
酒の匂いが強くなる。ずい、と顔を近付けられても嫌な気はしなかった。もう慣れた距離なのだ。いつかはゼロどころかマイナスにしたこともあったけれど、今はおよそ30センチを保っている。それ以上も以下もない。最適を見つけてしまった。開拓していく楽しさも、離れて行く寂しさも、もうない。あるのは永遠に感じられる安定。少しつまらない。けれど尖っていられるほどの若さは、とうの昔に失くしてしまった。
「うん。聞いてるよ。」
さりげなくお冷を勧める。喚くことなく受け入れるようになったのは、成長なのか退化なのか。挑戦することを無意識に恐れるようになった私たち。効くのは酒ぐらいだと言うのに。それすらも制御してしまうほどの何かを得てしまった。簡単には捨てられず、愛おしさすら湧くのだからたちが悪い。
奪ったグラスの水滴を撫でる。指先に伝わる微かな冷たさ。どうやら私の体温も上がっているらしい。同時に氷が溶けて、小気味いい音がした。
「何時もだよ、いつも。毎回。常時。恒常。」
同じ意味の言葉を繰り返し使うのも、並べるのも、彼の癖だ。読書家らしく、聞き慣れない言葉をよく耳にする。追求するのは辞めてしまった。向上心の欠落とか、話の腰を折らないために、などとかっこいいものではない。新しい言葉がもう、頭に入ってこないのだ。唯一万能な耳は全ての音を拾うけれど、脳がフィルターをかけ、理解する単語を紡いで話を読み解く。わからない単語が多少あれど、さして問題にはならない。特に、今日のような単純な話では。
「俺が庇ってやってんのに、上はちっとも気付かないし。」
「あいつはいい思いばっかりするし?」
「そう。いい思いするのはあいつで、吊し上げられるのは俺。」
奪ったグラスを舐める。視線を感じて、少し笑ってしまった。
心地よいジャズ、グラスを拭くバーテンダー、平日の店にしてはぼちぼちの繁盛具合、喋るのをやめた彼から雄の匂いがした。
非常停止ボタン。どこにでもあるそれは大概が真っ赤な丸い形をしていて、簡単に押せるようになっている。非常時以外は絶対に押さないでください。決まり切った文句は、何カ国語に翻訳されている。記憶の限り一番長いのは日本語だ。回りくどい風習。危険な時ですら敬意を忘れないように進化した私たち。それなのに、駄目と言われたらしたくなるのが性なのはきっと、昔から変わらない。
「犠牲になるのはもう嫌?」
「当たり前だろ。もっと評価されてもいいはずなのに。」
なあ。そう思うだろ、お前も。纏わりつく甘ったれた声。鼓膜にへばりついて、母性本能をくすぐる。奪い取ったグラスを空けた。
興醒めだ。
最適を見つけてしまったことは、解っていると思っていた。いや、解っているのだろう。彼はきっとそこまで鈍くない。それでもあえて近づこうとしている。また、同じことを繰り返そうとしている。
彼にとっては所詮その程度なのだろう。
過ぎた時間は戻らない。犯した過ちは消えない。持ち得る神はいないのだから、免罪符も存在しない。誰にも許されず、誰にも咎められず、だからこそ自分で業を背負った。投げ出すことはいつだって出来るけれど。
「お前、なんか変わった?」
口説き文句半分、本気半分。それはそうだ、最後に会ったのはもう半年も前になる。女の半年は男の1年くらいか。移ろいやすい女は、外見も中身も簡単に変わって行く。半年会わなければ、別人になっていても何ら不思議はない。
「綺麗になったな。」
照れもせずに賞賛を贈る彼は、何も変わっていない。時が止まったかのように無邪気で、天然で、賢くて、愚かで、可愛い。無垢な少年に戻ってしまった。先ほど感じた理性は、酒とともに手放してしまったのだろう。止めるのが少し遅かった。
「きみは、変わらないね。」
嫌味に聞こえたのだろう。唇を尖らせ、おしぼりを弄り始める。素直な反応に笑みが漏れた。
「綺麗なまま。」
「俺が?」
「うん。」
怪訝な表情。男の人を形容する言葉として相応しくないのは解っている。ただそれは、外見の時だけだ。中身の話をすれば、どんな形容詞さえ男女を厭わない。
「変なやつ。」
犠牲者でいられる彼はきっと、この世で一番美しい。かの太宰治ですら、賞賛を送るくらいに。