甘い果実
私の隣に寝ころんだ、華奢な体つきの黒髪の男。
今夜私は、この男と眠る。
『甘い果実』― Three Pieces ―
「で、最後にはヤっちゃうんでしょう?いつも」
そう切り込んでくるのは、同級生で無二の親友。
私と彼の関係を唯一知っている人物。
私は肩をすくめ、彼女を見る
しぐさから察するに、と彼女からはため息がもれた。
「もう、まさかまた…」
その矢先、ガラガラと音を立て担任の教師が入ってきて、この話は終わった。
彼女の言葉に続く意味が分かるのは、私だけだろう。
彼女にはすべてを話してきたから。そして耳タコといっていい程語り、聞いてきたそれは、もう私にとって“ 当たり前 ”や習慣に似た何かになりつつあった。
その男が話す、3つに切られたりんごの話。
食べられるのは2つまで、のまるでおとぎ話のような、偏屈な話。
彼が眠る前に語る話。
私は決まって夢を見る。
「りんごは禁断の果実でしょ?だから最後まで食べちゃいけないんだって」
そう教えられたんだよ、と彼は笑う。
目の前には赤く熟れたりんごがいくつか並び、彼はそのうちの1つをとる。
「必ず3つに切って、最後の1つは残すんだ」
ふわりと風が吹いて、それにまでかき消されてしまうようなほど細い声。
はじめて彼に会った時に聞かされたこの屁理屈を、当時の私は冗談と軽くあしらっていたが、彼はいたって真面目で、昔おばあさんに言われた話を今でも律儀に信じていた。
彼は近くにあった果物ナイフでするすると皮をむき、慣れた手つきでりんごを3等分にしていく。
「2つあるりんごは僕と、そして君のだよ。」
確か神話では一口かじるだけで禁忌とされたはずであったが。
私は普段食べるよりだいぶ大きめのりんごの欠片を頬張った。
「甘いかい?」
しゃりしゃりと音を立てて飲み込めば、さわやかで甘酸っぱい香りが口の中に広がる。
彼も食べ始めるが、口が小さいのか食べるスピードは遅い。しかし私にはその光景が一口一口味わっているように見えていた。
食べ終わるまで、私たちは一言も話さない。
しゃくしゃくしゃくしゃく、しゃくしゃくしゃくしゃく。
ごくりと最後に飲み込めば、そこには生暖かい感触と、甘酸っぱい香りをしたものが口内に入り込んでくる。彼が手を伸ばしてくるのが見え、そして私は瞳を閉じる。
完成したのは、禁忌に味を占めた、アダムとイヴ。
彼と私の関係がしばらく続いたある日、彼が突如連絡を絶った。
1ヶ月、2ヶ月、3ヶ月、半年、1年。
わたしは蟠りはあったものの、生活に支障をきたすことは何もなく、ましてや泣くこともなく日々を過ごしていた。親友は私から悪い虫がようやく去ったと喜んでいた。
「新しい、もっといい恋をしよう。」
彼女は私にそう言い、購買へと駆けて行った。
私は母が作ってくれたお弁当を取り出し、広げ始める。
いくつかに分かれたお弁当箱の蓋を一つ一つ開けていき、最後にあけた小さな箱からは、ウサギの耳をしたかわいらしいりんごが現れる。
小さくてかわいらしい。
そうなのだ、食べやすいし、私にはこれくらいが丁度いい。
そして私は、そのりんごをつまんで口元に運ぶ。
『甘いかい?』
彼の声が反芻される。
私は構わず、音を立てりんごを頬張った。
しゃくしゃくしゃくしゃく、しゃくしゃくしゃくしゃく。
しゃくしゃくしゃくしゃく、しゃくしゃくしゃくしゃく。
しゃくしゃくしゃくしゃく、しゃくしゃくしゃくしゃく。
しゃくしゃくしゃくしゃく、しゃくしゃくしゃくごくり。
過去に一度だけ聞いたことがあった。
最後の一つを食べたらどうなるのかと。
『それはわからないな。』
にこりと笑って見せたその顔がやけに印象的で、それ以上聞くのをやめた。
含みがあるように見えたのは気のせいかもしれないし、実際何もないわけだから気にしなくてもいい筈なのに。
なのに、聞くのをやめた。
気になったのは、彼がそのことについてどう感じているか。
たったそれだけだったのだ。
「あまいよ、りんごはあまい。」
今まで答えなかった問いを今返す。
そのとき、机の隅にあった携帯電話が激しく揺れた。
親友からだろうか、そっと持ち上げて見れば、知らない番号。
取るのをやめるボタンを押そうとして、その動きが止まる。
そして少し考えてから、通話ボタンに指をあてる。
「はい。」
一言目でわかる、懐かしい声。
わたしは少しだけ深呼吸をして、またすっと息を吸い込んだ。
「ねぇ、最後の1欠片まで、一緒にりんごを食べてみようよ」
クスクスと聞こえる笑い声に少しだけ緊張する。
彼は言った。いつか、と。
いつか言われる日が来るんじゃないかと思っていた、と。
それを恐れもしたし、楽しみにもしていたと。
しかし、
『口にしたらもう、離してあげられなくなるよ』
禁断の果実だからね、と。
彼は、またクスクスと笑っていた。
踏み込んでしまった世界。
これがどういうことになるのか、今の私にはわからない。
だけど、どんな味がするのだろうか。
彼の食べるりんごの味。
どんなふうに、感じているのだろうか。
Fin.