ひとりの時間
わたしは一人だ。でも独りじゃない。
一人と、独り。文字で書いてやっと分かる、その違い。ただ、いくら広辞苑で調べたって、その違いの意味というものは全く浮き出てこない。だからわたしはいくらそう主張しても、わたしは一人で決して独りじゃない、ということだけしか結局は自信を持って言えない。
本心じゃないけど言ってみれば、独り、のほうはなんとなく寂しい感じの雰囲気を持っている気がする。でも、わたしは自分が寂しいとか孤独だとかは思わない。だから、わたしは独りじゃなくて一人なのだと時々、思ってみたりもする。
たとえばいつも学校の休み時間中、わたしは誰とも過ごさない。過ごせないんじゃなくて、過ごそうとしない。一人でいることを独りでいる事としてわたしは考えないから、たぶん今まで休み時間をそんなふうにして過ごしてきたんだろう。
一人が好きな高校二年のわたし。好きで好きでたまらなくってしょうがないっていう程じゃないけど、まぁまぁ好き。その方が落ち着くし。
もちろん、一人で過ごしてばかりで困ることは、やっぱりある。授業なんかでグループを作らないといけない時が、それだ。理由は言わなくても分かると思う。でもいくら困ったってそれほど悩まないから、苦しむ事も無い。だから、わたしは最低限の人間関係以上を構築しないようにしている。
一人好きなわたしに、最近構ってくる子がいる。
一組の栄川香帆だ。
ちなみにわたしのクラスは八組なんだけど、一ヶ月前から香帆は休み時間になると必ず、香帆の教室から一番遠い教室にあるわたしの席のところに来るようになった。
いきなり「美夏。なんか話しよう」と声をかけてきた香帆にかなり驚いて目を見開きそうになるのを必死にこらえたあの感覚を、わたしは鮮明に覚えている。だって、普通あいさつも交わしたことがない相手に、そうなれなれしく話しかけたりはしない。いくらわたしでも、それくらいは分かる。しかも、なんか話しよう、だ。初めて会った子に突然そんなことを言われても、簡単に話題なんて思いつけない。ただでさえ、わたしは人と話さない人なのだから。
結局、その日は黙ったままのわたしに向かって、一方的に香帆が色々と話してくるだけだった。どんな話だったかはちゃんと聞く余裕がなくて覚えてないけど、香帆がものすごく必死だったのは覚えている。手を一生懸命動かす香帆。話を盛りあげようと、声に抑揚をつける香帆。まるで強がりの役を演じているみたいな香帆は、見ていると胸が痛くなった。
その後も香帆はわたしのところにやってきて、それでいつのまにかわたしは香帆の話を聞くようになっていて、そうしてたら、香帆が必死になる理由はおのずと見えてきた。
どうやら、香帆は自分のクラスに友達がいないらしい。それも、自ら一人でいることを好むわたし(つまり一人)とは違い、香帆は孤独が苦手なのに一人でいることしかできない(つまり独り)人らしい。
三週間前のこと。
わたしが、数学の教科書を貸してほしいと香帆に頼まれたことがあった。その時わたしの数学の教科書はあいにく後ろのロッカーにしまわれていたから、一番前の席のわたしはいちいち席から立って取りにいくのが面倒くさかった。それで、「同じクラスの誰かに見せてもらったら?」と言ったのだ。そうしたら、香帆の顔がひきつった。そしてしばらくの沈黙があって、「お願い。美夏しかいないの、そういう人」
そう。香帆は、自ら自分が独りであることを告白したのだ。
でも、だからといってわたしが香帆に抱く気持ちは変わらなかった。元々、わたしは香帆に対してこんなふうにとかあんなふうにとか、そういうイメージみたいなものを持っていなかったから、香帆が独りでも独りじゃなくても、別にどうでもいいと思ってた。
「美夏」
今日も香帆は午前八時五十五分に来た。
一時間目が始まる九時までの五分間、香帆はずっとここにいる。休み時間中はいつも空いているわたしの隣の席に、香帆は座ってここでわたしと時間を過ごす。
一人の時間。香帆と知り合ってから、それが少なくなってきた気がする。いや、気のせいじゃない。現実的に減っている。だってわたしは今まで、休み時間ずっと一人だったのだ。でも今ではそれ全部が香帆との時間になっている。そんなの、気がするなんて言えるわけがない。
「おはよ」
香帆のあいさつに、
「おはよ」
わたしもそう返すと、
「ねぇ知ってる?」
香帆はいきなりハイテンションで聞いてきた。何を知ってると聞かれてるのかいまいち分からなくて、わたしは「何が?」と聞き返した。
「三学期の体育の授業、バスケなんだって」
バスケ部の香帆が興奮して言う。今は二学期。中間テストがこの前終わって、今度は運動会の練習。そんな秋の十月の時期にもかかわらず、香帆はとても嬉しそうだ。さっきからずっと、口元を緩ませて笑ってる。それとはほぼ正反対に、「そうなんだ」とわたしは特に何も感じず答えた。
「そうなんだ、って。もうちょっと何か言ってよ。せめて良かったねとか、楽しみだね、とか」
「だって、わたし体育嫌いだし」
わたしが言うと、香帆は一瞬驚くようにふーんとうなずいて、それから斜め四十五度下を向いて、黙りこんだ。たぶん悲しいんだろう。わたしに共感してもらえなくて。香帆にとって、わたしは唯一の友達なのだ。香帆は傷ついただろう。いつもならここで香帆がどうなるか見てるだけだけど、今回はなんとなく罪悪感を感じて、謝ったほうがいいんじゃないかという気分になった。
「でも、わたしスポーツの中でバスケ一番好きだから、まあ少しは嬉しいかも」ダメだ、ごめんなんて言えるわけがない。それどころか、全然フォローにもなってない。
わたしがどうしようかと少し焦ってると、
「まぁ、別にいいよ。誰だって好き嫌いはあるんだし」
「そうなもんなのかな」
「そうだよ」
香帆に、無理してる様子は無さそうだった。わたしはそんな香帆を見て、言葉にならない疑問を抱く。どうして、の先が続かない。わたしも香帆もボーッと空のほうを見ていると、
その時チャイムが、授業の開始を告げた。たった五分間だった。香帆が一時間目の授業までにわたしと話す権利を得られるのは、その五分間しかない。香帆にとっては、少なすぎてたまらないだろうと思う。わたしは、と言えば別にどうとも思わない。
「じゃぁ、行くね」
チャイムの音を聞いてから黒板の上にかかった丸い時計を見て、香帆は言った。そしてあくまで笑顔で、わたしに手を振って教室に戻っていった。
数日後。
「美夏」
いつもと同じように、香帆はやってきた。
「おはよ」
とりあえず、いつものようにわたしはあいさつを返した。そしてしばらく香帆を何の気なしにながめていたら、香帆の様子がいつもと違うことに気がついた。
ものすごい変化。それなのに、とても小さい変化。あのモナリザの絵に似てる気がする。何を考えているのか一つも予測がつかない微笑み、それが真剣に悩み困惑してる感じ。香帆とモナリザを照らし合わせるなんてほんとに変だけど、でもわたしにとってこれが一番しっくりきた。
「わたし最低だよ」
香帆は、いきなりそうため息をついた。香帆の顔は深刻そうに見える。それでもやっぱり、モナリザの曖昧な表情は変わらなくて、だからこそわたしは、さっきまで頬杖をついていた右腕を迷いながらもきちんとひざの上に置いてから、
「なんで最低なの?」聞いた。そしたら、
「バスケの朝練、遅れちゃったんだ。今まで一回も練習を休んだり遅れたり、なんてこと無かったのに」
香帆は真剣に言った。
「大丈夫だよ、遅刻くらい。どうってことないって」
わたしがとりあえずなぐさめようとすると、
「そんな言い方ないでしょ。わたし、自慢じゃないけど自分には厳しいんだから。バスケのことには、特に」
「だったら、普通遅れたりはしないんじゃない?」という言葉はのみこんだ。香帆はバスケが本当に好きだから。
香帆は、バスケに関してのプライドは高い。香帆のいうとおり、香帆はバスケのことでは自分を甘やかさない。バスケ命、というのは言い過ぎかもしれないけど、ただバスケ部に入ってる人の何倍も、香帆はバスケに対して真剣だ。その香帆からバスケを取ったら、ただの『人』になってしまうだろう。
まだ知りあってから一ヶ月。
香帆について分かるのは、それだけだ。でもわたしは香帆のことを知りたいとは思わないから、別に今のままでいいと思っている。
「ねぇ。目覚まし時計セットし忘れるのって、どう思う?」
香帆は、おもむろに問うてきた。
「え?」
「だから、バスケ部の部長として朝練に遅れた理由がそういうのって、どんな印象?」
「あぁ・・・・・・」
そうとりあえずつぶやいてみるものの、正直困っていた。
わたしはクラブに所属していない、つまり帰宅部だから、朝練に行くためだけに無理やり眠気を我慢して目をこじ開けた、という経験がない。ついでに言えば、集団生活、っていうのを極端に嫌うわたしは、同時に学校っていう存在があまり好きじゃない。同じ教室で同じ人と同じ授業を毎日受けて。まるで、いくら階段を上っても次の日にはまた元の場所に戻っているような。そういうのが、わたしはあまり好きじゃない。学校が嫌いなわたしは自動的に、いつも遅刻ギリギリの時間に登校することになる。
そんなわたし、目覚まし時計をセットした経験も実は無かったりするから、そのわたしに香帆がそういうことを聞くのは間違っていると思った。
「そんなこと聞かれても・・・・・・ていうか、バスケ部の部長としても人間としても、目覚まし時計をセットし忘れるっていうのは、許される範囲のミスっていうやつっていうか・・・・・・」
うまく言えないけど、とりあえずそう答えた。
ただ、少し気になった。
そもそも、香帆はバスケが大好きだ。わたしが一人で過ごすのが好き、というのとは違う感情で、たぶん香帆はバスケが好きだ。それは、普段の香帆を見ていれば分かる。「あぁ、早く授業終わらないかなぁ。クラブ行きたいなぁ。バスケやりたいなぁ」そうつぶやく香帆を見ていれば、分かる。わたしだって分かるんだから、きっと誰にでも分かるに違いない。なのに、その香帆が朝練に遅れるなんて。
気にしたくないけど、気になる。
その時、チャイムが鳴った。
「じゃぁね」
香帆は小さく手を振り、自分の教室に戻っていった。
一時間目が終わってすぐに、香帆はやってきた。
ただ、さっきと同じように、どこか様子がおかしい。
わたしはそんな香帆に、
「あのさぁ、ちょっと気になったからいうんだけど」
「何?」
「もしかして、体調悪かったりする?朝練に遅れたのも、ほんとはそのせいとか」
思わず、そう聞いていた。そしたら、
「体調っていうか・・・・・・。クラブに遅れたのは、ほんとのほんとに寝坊が原因なんだ。ただ・・・・・・ここが、ちょっと」
香帆は、自分の胸の真ん中辺りを指差した。
「心が、ね」
そして、そんな言葉をこぼしたのだった。
精神的な悩み・・・・・・。
わたしには、無い。
そもそも、悩みというのは二種類しかないと、わたしは思っている。外で繰り広げられる悩みか、内で繰り広げられる悩み。外、というのは人間関係のことで、内、というのは自分の性格なんかのこと。わたしは香帆以外とはあまり話さないから人間関係もものすごく単純だし、自分に欠点があるのかどうかも分からないから、あまり自分を嫌いだとか、そんなふうには思わない。
だから友達が少なくて孤独に苦しむのが嫌だから、いつも一人のわたしといることで、どうにかその苦しみを紛らわそうとすることしか出来ない香帆の気持ちなんて、わたしなんかに分かるはずがない。分かりたくもない、とも思った。
どうせわたしが唯一香帆について知りたいのは、香帆はバスケが大好きだ、ということだけなんだから、香帆の心の内をわたしが知ったってそれは瞬時に無意味なものになる、と思った。
「香帆。あのさ、」
「進藤加奈、っていう子が、いるんだけど、ね」
香帆はわたしの言葉をさえぎって、そうぎこちなく言った。
「わたし、聞いちゃったんだ」
「・・・・・・何を、聞いたの?」
わたしも思わず、ぎこちなく聞いた。
「・・・・・・」
「何を、聞いたの?」
答えようとしない香帆に、わたしはもう一度聞いた。
「・・・・・・」
香帆は、黙ったまま下を向いている。いつも笑顔で話している香帆とは思えないほど、暗い表情で。わたしはそんな香帆がとうとう心配になってきてしまって、
「香帆?」
香帆の顔をのぞきこんだ。すると、
「やめたっ」
ものすごく唐突に香帆はこっちを向いて、元気よく言った。
「やっぱり、美夏に話すのはやめたよ。もうちょっと、自分で考えてからにしたほうがいいかなって思って。これ、けっこう重大な話だから」
「ふうん・・・・・・まぁ、いいけど」
わたしはあくまでも、素っ気ない態度をとる。内心ちょっと動揺していたけど、わたしは極力感情を表に出さないようにしている。わたしみたいに一人でいることを好む人の場合、何よりも一番やっちゃいけないのは、「えーっっ」とか「うっそーっ、マジ?」って、大声で叫ぶことだ。そんなことをしたら、わたしはただでさえ我慢している登校さえも、できなくなってしまう。
「ごめんね。じゃぁ、もう戻るよ」
そう早口に言って、香帆は逃げるようにして教室を出ていった。
まだ、チャイムが、鳴っていない。いつもなら、次の授業が始まるギリギリの時間まで香帆はここにいるのに。
別に香帆が早く教室に戻ろうが戻らなかろうが、そんなのわたしはどっちでもいいけど、香帆にとってはどっちでもいいことなんてないはずだ。寂しさを紛らわせるためにわたしといるのなら、少しでも長い時間わたしといるほうが、香帆にとっても都合がいいだろうに。
それにしても、香帆が話す進藤加奈とは、一体誰のことなんだろう。そして香帆は、どんな話を聞いたのだろう。今朝からの香帆の異変とそれには、何か関係があるのだろうか。
結局、最後には疑問だけが残った。でもその疑問に対する答えを見つけようという努力はわざとしないでいたら、いつのまにか授業が始まっていた。
すでに黒板に、昨日出た宿題の答えが書かれていて、みんな近くの席の子と話をしながら、のんびりと答えあわせをしている。先生が「早くしろよー」少しだるそうに注意している。だんだんみんなが答え合わせを終えていくのを確認した先生は、早速授業を始める。先生は、最初生徒のペースに授業のスピードをあわせるけれど、途中からは自分のリズムでチョークを動かしていく。先生なんて、どれも一緒だ。画数が多くて複雑な漢字。見ただけでノートに写すことにやる気を無くす、難解な図形。「ここテストに出るぞー」さりげなく言う。
わたしはそんな授業風景をまるで他人事みたいにボーッとながめているばかりで、丸つけをするどころか、ノートを写す気さえ出ない。そこで、机の上にいつのまにかあった別に興味のない教科書のページをパラパラとめくりながら、ヒマを潰していた。
チャイムの音と同時に、ハッとした。目を開けると、だいたい四十五度くらい傾いた教室の風景が、突然目の前に現れる。ぼんやりと見える黒板の文字が、変に斜めになった形で、さっきまで行われていたらしい授業の跡を残している。人もいすも机も、みんな傾いて不安定にバランスをとっている。
どうやら、わたしは、寝ていたらしい。やっと状況がつかめて早速顔を上げようとしたら、頬に張りついている教科書のページが、しつこくいっしょに上がってきた。横目で見たら、47というページ番号と、ネルギー、という太文字がチラリと見える。そこで勢いよく首を傾けたら、教科書のページはかすかにかゆい感触を頬に残しながら、パリッという音をたて、ゆっくりと頬からはがれていった。
「美夏」
首を上げたら、香帆がいた。
「あのね、美夏」
「うん」
わたしはまだ寝ぼけた頭で、うなずいた。
「昼休み、屋上に来てくれる?」
「え?」
「あそこ、誰も来ないでしょ。二人だけのほうが、個人的に話しやすいと思うんだ。教室だと、わたし余計話すのきつくなっちゃいそうで」
今朝の話のことだと、すぐに分かった。
「だめ?」
「ううん。そんなの別にいいよ。屋上でもどこでも」
この言葉に嘘はなかった。それは本当。
でも、ほんとにわたしでいいのだろうか。わたしは、人に相談したことも人から相談されたこともない。アドバイスしたこともされたこともない。なのに、香帆の相談が最初なんて。
わたしは、初め香帆のことを気の毒に思った。わたしにしか相談できない香帆をかわいそうだと思い、そして、同時にうっとうしく思った。これ以上わたしから、一人の時間を奪うな。わたしは香帆に対して、苛立っていた。
「なんか、急でごめんね」
「ごめんって・・・・・・謝ることないよ。わたしヒマだし」
自分で自分のことをヒマ、と言ってみたら、なんとなく心が締めつけられた。一人で生きるわたしの人生に、何の意味も無いような気がして、心が痛くなった。
「じゃぁ、昼休み。屋上ね」
「うん。分かった」
今回も、チャイムが鳴る前なのに、香帆は自分の教室にそそくさと戻っていった。
それを一瞬見送ってすぐに机に突っ伏したわたしは、もう全身がだるくなっていた。
香帆には悪いけど、わたしはたぶん、いや絶対に、香帆の力にはなれない。というか、今まで最低限の人付き合い以外は自分からしたことがないわたしが、誰かの人生に構う余裕なんてない。構いたくもない。
できれば、香帆にはバスケの話だけをしていてほしい。わたしが無理に会話に入る必要のない、香帆が話していればそれで成立する話題は、バスケしかない。言葉をろくにしゃべれない赤ちゃんに親が『あいうえお』を教えるみたいに、香帆はバスケに関して無知のわたしに、バスケのことだけを教えてくれていたらいい。それ以上の関係を、わたしは香帆と作りたくない。
本音。
自分でも気づいていながら見ていなかった、本音。
一人が好きな人特有の自己中な性格は、時々こんなふうに表れてくる。そのほとんどは自分の中だけで展開されるから、誰かに迷惑をかけることもない。でも、いつか誰かを傷つけてしまうような気がしてならない。今までは一度も無かったけど、今日がその日のような気がする。香絵の異変。それだけが、ひっかかる。
その時、チャイムが鳴った。
ほぼ同時に、古典の先生が教室に入ってくる。生徒たちが、いすにガタガタと座り始める。さっきまでいろんな声や音で騒がしかった教室は、一気に一つのまとまりとなる。学級委員が、授業開始の号令をする。みんなが、バラバラのリズムで「お願いします」と言う。
これから始まる、五十分の授業。まだまだ続く、七時間の学校。そして、いつ終わるのか定かでないほど遠く感じる、二十四時間の退屈な毎日。一体どうやったら、変わるんだろう。太陽が昇って、いつのまにかどこかに沈んでいて。そして月が夜空を征服する。世界はそんなふうにして淡々と毎日周っているけれど、わたしはそれ以上に退屈な日々を過ごしているんじゃないだろうか。一体、わたしは何をしてるんだ。一人が好き、っていう自分の思いを変える気はさらさらない。でも、せめてこの平凡な一日だけ、どうにかしてもらえれば・・・・・・。
そんなことを無意識に考えているうちに、わたしは授業そっちのけでながめていた。空の遠くを、どこまでも無駄に続いている白と青だけのだだっ広い空間を、ながめていた。
わたしは給食を食べるのが、極端に遅い。そのくせ全部食べる。なのに、今日はどうしてだか早く食べないといけないような気がして、無理矢理口に押し込んだ。でも結局無理は長続きしなくて、給食のほとんどを残すことになった。
そのため昼休みは余るほど時間があって、ちょっと早いかもしれないと思いながら、わたしは香帆に言われたとおり、屋上に向かうことにした。向かってる途中、もしかしたら給食を早く食べようとしたのは、これが原因なのかもしれないと思った。
階段を上る。果てしなく上る。やっとたどりついたそこは、まさに、静寂としか言いようがないところだった。誰もいないし、何もない。ある、と言えば転落防止のために取りつけられている、五メートルくらいの高く立つ、緑色のフェンス。フェンスから見える景色は、この前立てられたばかりの新品なビルや、緑色した山で彩られているから、まだマシ。でも、向こうから見える屋上は、さぞかし殺風景なものなんだろう。
殺風景といえば、ここ、異常なくらい薄暗い。まだ昼間なのに、全然太陽の光が当たってこないみたいだ。ふと上を見上げたら、もうすぐ雨が降ることを予感させるような、厚く黒い雲が空一面を覆っていた。
香帆は、まだ来てない。
香帆がいないことに、わたしは安心感を覚える。香帆に相談されなくてすむ、という安心感。香帆を傷つけてしまうかもしれないというゼロではない可能性がゼロになる、という安心感。
香帆に来てほしくないと思っていた、その時だった。
香帆が来た。
「進藤加奈っていう子がいるんだけどね」
香帆は、話し始めた。
わたしはそれを、ぼんやりと聞いていた。
「その子・・・・・・美夏をいじめようとしてる」
いきなりの香帆の言葉に、わたしは思わず「えっ」って驚いていた。
「わたし、聞いちゃったの。進藤加奈が、そんな話してるの」
香帆の話によると、進藤加奈っていう香帆と同じバスケ部の子と他数人が、わたしをいじめようとしているらしい。理由は、わたしが教室でいつも一人でいて、浮いてるように見えるからで、そのくせ、それをなんとも思ってないみたいな態度を取っていて、目障りだからだそうだ。
わたしは香帆の話を聞いて、こんなにバカな話はないと思った。
もちろんいじめられるのはものすごく嫌だ。どうして嫌なのか、と聞かれても答えられないくらい、とてつもなく嫌だ。
それもそうだけど、ただ、進藤加奈、なんていう見ず知らずの人間に勘違いされていることが、バカらしいと思った。確かに、わたしは一人でいることを何とも思っていない。でも同時に、自分が教室で浮いているとも思わない。
好きで一人でいるのだ。一人で見た目寂しくいようと、集団でげらげら笑いながら固まっていようと、そんなのは自由。なのに、その進藤加奈という人は、そんなわたしに勝手にムカついたのか知らないけど、わたしをいじめようとしている。
これ以上に、バカな話はない。でも、それと同時に恐怖感がこみ上げてきた。わたしが、いじめられる。ぞっとした。想像しようとするだけで、怖かった。といったって、それは所詮想像上のことであって、実際そんなふうになるかは決まっていないことを、わたしは冷静に理解していたのも確かだった。
「でも、どこでそんな話聞いたの?」
わたしは聞いた。
「バスケ部の部室・・・・・・」
香帆はそう答えたきり、黙ってしまった。でも、しばらくしてこう話し始めた。
「実はね、今日朝練に遅れたほんとの理由はね、目覚まし時計をセットし忘れたからじゃないんだ。ほんとはね、わたし、ちゃんと時間通りに登校した。でも、部室には進藤加奈がわたしより先にいて、進藤加奈を中心に、五人くらいが話し合ってたの。見つからないように聞いてたら、進藤加奈たち、美夏を学校から追放しちゃおうって、そんなことを言ってたから。わたし、怖くなって・・・・・・。それで、わざと行かなかったんだ、朝練に」
「それで、わたしに教えてくれたの?」
「うん」
「それにしても、まだわたしが寝てる時間から、見ず知らずの子がそんな話してるなんて。なんか、嫌だね」
「・・・・・・うん」
「で、香帆の相談って、何?」
「え?」
「だって、そのためにここに呼んだんでしょ」
わたしはまさか・・・・・・と思いながらも、ほぼ香帆の相談がまだ始まっていないことを断定して、言った。でも、香帆は何も言わずに黙っている。
「違うの?」わたしは、上靴のつま先で床をトン、トンと屋上の地面を打っている香帆に聞いた。
「・・・・・・だから・・・・・・今してるじゃん」
しばらくして、香帆は弱くつぶやいた。
「今って、今?」
「うん」
「ていうことは、もしかしてもしかすると、香帆の相談ってこのこと?」
「うん」
香帆の当然、とでも言うようなうなずきを見て、さっきのまさかは当たってたんだ、とわたしは少し驚いてみた。でも、正直内心はすごくホッとしていて、いけないことだとなんとなく分かっていながら笑顔になっていた。
だって、この話ならわたしは香帆にアドバイスをせずにすむ。相談に乗らずにすむ。というか、そもそもこの場合、相談、というのだろうか。どう考えたって、これは香帆が悩むよりかは、わたしが悩むべき問題であるような気がした。
といったって、わたしはそれほど香帆の話を聞いて、悩むことはなかった。確かにいじめられるのは相当怖いけど、いざとなったら登校拒否すればいい。元々学校は好きじゃなかったんだから、いじめが嫌になれば、休めばいいだけのことだ。楽観的に考えれば、これで学校を休む理由ができたようなもの。相当大げさだけど、さっきムカついた進藤加奈に、少しばかり感謝したいくらいだ。
「なんだ、そんなこと。大丈夫だよ。心配してくれてるなら、そんなの別にいいよ。確かにいじめは怖いけど、嫌になったら不登校児になれば良いことじゃん。学校に行かなかったら、いじめられることなんてないんだし。わたし、元々学校そんなに好きじゃないから、別に不登校になったって辛くないよ。ただ、その進藤加奈っていう人にはいらつくけどね」
わたしがちょっとふざけて言うと、
「・・・・・・何それ」
急に香帆は、そう怒って言った。
「美夏が学校に来なくなったら、わたし独りになるじゃない!」
香帆はわたしを目の奥からにらむようにして、怒鳴った。
初めて香帆がそんな表情をするのを見て、わたしは進藤加奈からいじめられることよりも断然、今の香帆のほうが怖い、と思った。でも、いつのまにか涙を流している香帆に、一瞬戸惑ったのも確かだった。
言う言葉が見つからなくて、口を閉じたり開いたりしていると、
「独りで学校生活送るなんて・・・・・・そんなの嫌よ。せっかくもうすぐいじめられるって教えてあげたんだから、もっと真剣に考えてよ。もし本当にいじめられたら、どう対処しようとか、どうやって身を守ろうとか、誰に相談しようとか・・・・・・。そんな簡単に登校拒否なんてされたら、こっちが困るわよ。ていうか、なんでいつもそうなの?」
香帆は、急に話題を変えて強く言った。
「美夏には、プライド、っていうのが無いの?いじめられて悔しいとか、苦しいとか、そういうのが無いの?感情っていうのを、持ってないの?おまけに、せっかくわたしが友達になってあげてるのにそれを当り前、みたいな顔して。とにかく嫌だからね、独りで休み時間過ごすの」
「・・・・・・何それ」
わたしも、今回ばかりは香帆に言い返したくなった。
「ずっと前から思ってたけど、やっぱり香帆、わたしじゃなくてもいいんだね。寂しさを紛らわすことができたら、それでいいんでしょ。ま、わたしは別にそれでもいいけど。わたしは一人が好きなんだから、いつだって香帆と絶交しようと思えばできるんだし。あっ、ていうか、そもそも絶交するほどの関係なんて、わたしと香帆の間には無いか。ごめん、勘違いしてたわ、わたし」
今度は、香帆が下を向いて黙った。それにつけこんで、わたしはさらに香帆に攻めていった。そのうち、今まで我慢していたことを口に出すことに、楽しみと興奮を感じてさえいた。
「香帆は、めんどくさいんだよ。わたしがいつも一人でいるからって、友達面して近づいてきて。そんなのに、感謝するはずないじゃない。わたしは一人が好きなんだから。それどころか、あの日から、わたし我慢してるんだから。何の得にもならない、無駄な我慢よ。まぁどうせ、一人でいたいのに一人でいられない辛さは、寂しがりやの香帆になんて到底、分からないんだろうけど」
そしてわたしは、とどめの一言をついた。
「ほら、よく考えてみてよ。一人が好きなわたし、一人が嫌いな寂しがりやの香帆。どう考えたって、つりあうわけないんだよ」
全部言っていた。
胸にたまっていたこと、全部言っていた。
ふと香帆を見たら、香帆の表情が、何とも言えないほど痛々しくなっている。見ているだけで、体中から水分が抜き取られていくように、全身がふやけていくのを感じた。
わたしは一体、何を言ってたんだ。何のために、こんなこと言ったんだ。けんかしたいわけじゃなかったのに。後悔が、胸を締め付けた。
その瞬間、わたしは思った。
やっぱり今日だったんだ。今日が、誰かを―香帆を―傷つけてしまう日だったんだ。でも、わたしは悪くない。香帆がうまく友達を作るくらいの基礎的な技能を持つある程度器用な人だったら、こんなこと起こらなかったんだから。それに、香帆は孤独を紛らわす道具としてわたしを使ってきたんだから、それと比べたらわたしは全然悪くない。さっき香帆は、わたしにプライドが無いとか言ってたけど、わたしだって人間なんだから、ちょっとくらいはある。感情だって、あるんだ。
雷が、遠くで大きな音をたてて鳴った。
雨が降る。霧みたいに降ってきて、視界を曇らせる。
妙に冷たく湿った風が、渦を巻くように吹いている。
屋上には、もはや一筋の光も照っていなかった。
昼休みが終わってから、授業が始まる。授業が終わって、休憩時間がある。また授業が始まる。その日最後の授業が終わって、ホームルームがあって、それも終わったら、放課後という長い長い自由時間がある。
でも、その間一度も香帆は来なかった。
別に悲しくなかった。よく心にポッカリと空洞ができる、なんていうけど、そういう感じもなかった。
それよりも、久しぶりに訪れた一人の休み時間が、わたしは懐かしくてたまらなかった。でもその究極に一人の時間を、香帆と知り合う前みたいに、わたしは楽しめることができなかった。
なぜかはよく分からなかった。
ただ、人はすぐに慣れちゃうものなんだな、と思った。
香帆が休み時間に来て、わたしは香帆の話を聞いて、時々わたしも話したりする。一人好きなわたしにとって、それは最初嫌なものだったけど、そのうちどうやら、それが日常生活の芯に染みこんでいたらしい。いくら嫌だと言っても、それがどれだけ自分にとって不要なものだとしても、それ無くして、毎日は飾れないようなものとして根付いてしまったらしい。
翌日の朝。
香帆の言ったことは、現実のものとなった。
いつものように時間ギリギリに登校してきて、通学靴を脱ぐ。それから上靴にはきかえるために靴箱を開けたら、中に紙があった。『死ね』と書かれた紙があった。
果たしてこれが進藤加奈の仕業なのかは分からないけど、でもどう考えたってこれはいじめの始まり、もしくは嫌がらせなんじゃないかと思った。
傷ついたかと聞かれれば、まぁまぁ傷ついた。そりゃ、いつも開ける靴箱にそんな紙が置かれてあったら、まず驚く。そして、徐々に現実が見えてくる。それからやっと、心が痛んでくる。
ただわたしは、いじめがこれ以上ひどくなることがあったって、不登校児になっちゃえばいいや、といまだに思っていた。プライドなんて、やっぱりわたしには無いのかもしれない。まぁ、一人で生きてきたわたしにはプライドなんて必要ないんだから、そんなのあっても無くてもどっちでもいい。そう吹っ切れるくらい、心には余裕がある気がしていた。
ただ、香帆が昨日わたしに言ったことだけが、気がかりだった。
そんな簡単に登校拒否されたら、こっちが困るわよ。
嫌だからね、休み時間独りで過ごすの。
あの時は香帆がどうして怒っているのか分からなかったけど、今になって冷静に香帆の側に立って考えてみたら、なんとなく分かる気もする。
でも、やっぱりなんとなくじゃ、自分の意思が勝ってしまう。香帆に向き合いたくない、という気持ちが先に出てしまう。それは、他人の気持ちなんて、本人以外には到底分かりえないことだから。対立しあったお互いの気持ち。その中で一番共感できるのは、自分の気持ち。結局そっちに、心は傾いてしまう。
人間なんて、それくらい弱い生き物なんだ。自分を肯定してるんじゃない。現実逃避に近い考え。今までずっと見てきた。一人で生きているぶん、周りの変化が手に取るように分かる。彼氏横取り。人間関係の絡み合い。そんなちょっとしたすれ違いで、今までの時間なんて無かったことになってしまう。それを見るたびに、わたしは自分の生き方を変えまいと決心してきた。突然の裏切り、人の悪い心、欲望に傷つくくらいなら、一人で生きたほうがいいに決まってる。
感情を押し殺す。寂しいや悲しいなんて、全部自分から消す。
傷つきたくない。周りのみんなと同じように、傷つきたくないだけなんだ。
もう三日くらい、香帆の姿を見ていない。
いくら香帆がわたしに会いたくないとしても、廊下とかで偶然にすれ違ったりしないものなのだろうか。もしかしたら、香帆はわたしを見つけたら、見つからないように避けているのかもしれない。だとしたら、香帆を見かけない理由も説明がつく。
まさかそこまで嫌われてるなんて、思ってもみなかった。でもわたしは変わらない。一人が好きなんだから、香帆がいなくたって平気なんだ。
翌日も、香帆は一度も来なかった。その次の日も、次の日も。やっぱり廊下ですれ違う、なんてこともない。
それでわたしは、勇気を出して香帆のクラスにいってみることにした。香帆を求めているんじゃなくて、いちいちわたしを避ける理由を聞きたかった。
でも、いくら探しても香帆はどこにも見当たらなかった。それで初めてその教室にいた子に「香帆、知りませんか」と敬語で話しかけてみたけど、「何あんた、あいつの後輩かなんかなの?」っていぶかしげな目で見られるばかりで、わたしが聞いたことに答えてくれる様子なんて全くなかった。
急に自分がかわいそうになってきたのは、わたしが一人休み時間を過ごすようになってから、一週間後のことだった。
十分間の休み時間。わたしは香帆とその時間を過ごさないようになってから、もうヒマでヒマでたまらなくなっていた。今までも毎日が退屈だと思っていたけれど、今以上にそう感じたことはたぶん無かった。それが一日に幾度となく繰り返されるのだから、わたしはもう本気で学校に行きたくなくなっていた。いじめはあれ以上ひどくなる様子は無かったけれど、そんなの関係無しに、登校を拒否しようと考えていた。
そんなある日、わたしは香帆と過ごした時間のことを思い返していた。あんなことしたなーとか、こんなことしたなーとか、そんな感じで。でも、わたしが香帆としてきた事をよくよく思い出してみたら、ほとんどがくだらないものだった。
その中でただ一つ。香帆がバスケについて話している時だけが、唯一輝いているように思えた。香帆の笑顔が、この前まではものすごく近いところにあったのに、今では遠く感じる。届きそうなのに届かない、夜空の星みたいだ。
そしたら、なんだか泣けてきた。そしてその涙と共に、わたしは思ったのだった。
香帆とまたやり直したい。たとえ傷ついてもいい。せめて今を楽しみたい。香帆といる、っていうことだけを確認したい。このままじゃ嫌だ。中途半端は嫌。香帆といなくても大丈夫と思う自分と。香帆といたいと思う自分。どっちかじゃないと、嫌。ほんとにそれだけ。それ以上は、望まない。望もうとも思わない。
思った瞬間、わたしはなんだか、虚しさらしきものを感じずにはいられなくなった。
心の中身がスカスカになって、直接そこに冷たい風が無音で入りこんでくる、あの何ともいえないやるせなさ。そう、心にポッカリと空洞ができたような感覚。そして体中がしおれていくような脱力感。それを初めて体験して、あぁ、わたし香帆がいたから、このやるせなさを今まで感じずにいられたんだと気づいた。
気づいたら、本気で香帆に会いたくなった。
向こうがどれだけわたしを避けているとしても、そんなこと関係無しに会いたくなった。
ホームルームが終わるのを待てなくて、わたしは授業をさぼってある場所に向かった。その場所は、バスケのゴールが設置されている体育館。そこに、走って向かった。あそこに行けば、いくら自分の教室にいない香帆にでも、会えるような気がしていた。
確信を最後まで持てないまま、わたしは廊下を走って階段を上って下りていた。自分がどうしてその体育館に今になって行こうとしているのか、それさえもはっきりとしないでいた。そしていつのまにか、体育館の前に着いていた。
わたしは、これまで何度か授業をしたことがあるその体育館に続くドアを、初めて友達の家みたいに上がるみたいに(推測だけど)微妙な緊張感を感じながら、ゆっくりと開けて入っていった。
直方体の中みたいな形をした、体育館。ドアからみて右の奥に、ボールやマットなんかが置いてある倉庫が、静かに置いてある。左側には、体育の先生が使う職員室みたいな小さな部屋。四隅にそれぞれある白い塗料がぬられた階段をのぼってゆくと、縦が長くて横が短い長方形のたくさんの窓が、体育館の壁にそって並んでいる。ボールがどれだけ激しく上に飛ばされても余裕のあるくらい高い天井には、円形の大きな電球。そして三つのバスケのゴールが、設置されている。
その体育館のどこにも、香帆はいなかった。でも、わたしは引き返す気にはなぜかなれなかった。
ふと横を見ると、壁に『上靴のまま入るのは禁止』と太く堂々とした赤文字で書かれた紙が、誇らしげにドーンッとガムテープで貼られている。たぶんバスケ部の顧問が書いたものなんだろうけど、その隅には『どーでもいいじゃん、そんなのーっ』と、黒ボールペンの丸文字で、小さく落書きされている。
わたしはその丸文字に特に共感したわけじゃないけど、そんなこと言われたってもうとっくに上靴はいたまま中に入ってしまってるんですけど、って顧問の先生に対して思っていた。
でも、ここで毎日香帆がバスケをやっているのかと考えたら、この体育館に香帆のバスケに対する熱い思いが隙間なく凝縮されているのかと考えたら、その場所を上靴で汚している自分がまるで悪い人みたいに思えてきて、変な罪悪感が胸に生まれてきた。
そんなわけで、わたしはいちいち上靴を脱いだ。両方の手で一足ずつ持って、そのままもっと中に入ることにした。
香帆は、ここでどんなふうにバスケをプレーするんだろう。わたしとは比べ物にならないほど、香帆はバスケがうまいんだろう。
体育館の中心に立ちながらそう考えていたら、まるで体育館が香帆の思いをわたしに伝えようとしているかのように、クラブでの香帆の様子がすんなりと浮かんだ。
ボールを、まるで自分の一部分であるかのように、すんなりと操る。バスケ部のメンバーのガードを、次々とリズミカルにすり抜けていく。ピアノの鍵盤の低いドから、それより一オクターブ高いドまで、一歩一歩ていねいに。そして最後には、軽やかにトンッとジャンプして――
ゴールを決めた香帆は、これ以上に無いというほどの笑顔になる。でも、それはほんの一瞬のことで、すぐに表情は暗くなる。部員全員が、ゴールを決めた香帆を、冷たい目で見ていることを、香帆は知っているからだ。
クラブが終わって部室で制服に着がえたら、みんなはいくつかのグループに分かれて下校の準備を始める。でも、香帆だけはどのグループにも入っていない。
「あれぇ、香帆、今日独りなんだぁ」
「やめなって。いつも独りなんだからさ、香帆は」
「かわいそうだねぇ、友達いないんだぁ」
部員の口から冷たく鋭い言葉の刃が、足早に部室から出ていこうとする香帆の心に突き刺さっていく。そのたびに香帆は目にぐっと力をこめて、懸命に涙を我慢している。
一歩も動けず、肩を震わせビクビクしている香帆。
香帆が抵抗しないのをいいことに、部員たちは容赦なく香帆を傷つけていく。
「でも、わたしは香帆の友達になってあげるよ。だからさぁ、今度カラオケいっしょに行こうよ。もう喉がかれちゃうくらいまで歌ってさ。あ、もちろんお金を払うのは香帆だからねぇ」
香帆は、一歩も動けず唇をかんでいる。一人の部員が、ゆっくりと香帆に近づいてきた。そして香帆の髪を、その部員が引っぱる。香帆の顔がゆがむ。
「香帆。もしそれが嫌なら、言ってあげるよ。人生なんて、最初から決まってるってこと。友達の数だって、生まれたときから決まってる。香帆は、友達に縁がないことを前提として今いるんだからねぇ」
肩や足など全身をビクビクと震わせて、香帆は後ろから浴びせられる言葉を必死に無視しようと、耳をふさぐので精一杯だ。
「生きてるだけで感謝しろよ、っていうやつ。分かるかなぁ?」
ゆがんでいた香帆の顔から、だんだん生気が消えていく。髪を引っぱられて感じる痛みさえも分からないくらい、香帆の精神は限界が達しているようだった。
「そうそう。あんたはねぇ、一生誰とも共通点が見つからずに死んじゃうの。だからさぁ、変な期待しないほうがいいよ。あんたの人生なんて、所詮何の価値も無いんだから。いくら生きてたって、あんたと共感できる人なんて一生出てこねーんだよっ」
一人が好きなわたし、一人が嫌いな寂しがりやの香帆。
どう考えたって、つりあうわけないんだよ。
バスケ部員の言葉が、この前わたしが香帆に言い放ったこの言葉と似ていること。わたしの言葉は、香帆の心をぐちゃぐちゃに握りつぶすのと同じくらい相当なダメージを与えていたことを、今初めて知った。
香帆は、進藤加奈がわたしをいじめるかもしれないって、教えてくれたのに。それなのに、わたしは全くその香帆の優しさに気づくことができなかった。
後悔したって遅い。今さら、「わたしには香帆がいないと困る」なんてありきたりな言葉を言ったって、香帆が信じるわけがない。でも、香帆に一回でもいいから会って、何かを言いたい。一体どんなことを言うのかは分からないけど、とにかく会いたかった。
体育館の真ん中で三角座りをして、どこを見るともなくボーッとしている。そんな姿勢で、香帆が来るのを待っていた。
それにしても、静かだ。
場所って、人がいて初めて成立するものなのかもしれない。ここでバスケをする人がいるから、この体育館も、意味のあるものになる。人がいて、初めて場所は生きてくるのかもしれない。だからこそ、誰もいない体育館は死んだように静かになる。
そのことを、香帆はきっと知っているのだろう。だから、あんなにバスケが好きなのかもしれない。自分が生きていることで、体育館が盛り上がることに、興奮を覚えているからこそ、香帆はバスケが好きなのだろう。だからこそ、部員からのひどい嫌がらせにも、なんとか耐えてきたのかもしれない。バスケがやりたい。その一心で。
その時、不意にドアの開く音がした。
音のする方向を、誰が入ってくるのかと構えて見ていたら、
「香帆・・・・・・」
開いた口から、その名前を呼んでいた。
といっても、あまりにもその声は小さくて、まるで息みたいに弱くて、香帆にはとても聞こえそうになかった。でも、香帆はわたしに気づいたようで、香帆はこっちを見た。
香帆の手が、ドアノブから離れた。重く固いドアが閉まって出た大きな音が、狭い体育館に響く。音が壁と壁を反射して、そして一瞬その場を揺るがす。それがあまりにも大きなせいで、その後やってきた沈黙がやけに重苦しく感じた。
「どうしたの?」
しばらくすると香帆は、わたしがこの前ひどいことを言ったのを忘れてしまったかのように、こっちに歩み寄ってきた。まるで、わたしを避けようとしようなんて全然考えてないみたいだった。
「なんかあった?誰もいない体育館に、一人でいるなんて」
「うん・・・・・・ちょっとね。香帆は、どうしたの?」
「わたし?わたしは、なんとなくボールに触れたい気分だったから。ほら、今日からテスト週間でしょ。どのクラブも活動禁止でもちろんバスケ部もやらないから、ここを独り占めできる。だから、思う存分遊べるかなって」
「うん・・・・・・」
何か、言わないといけない気がする。なのに言えない。
香帆がこっちに一歩近づいてくるたびに、心臓がドキドキする。
渇いた口の中に、生唾があふれてくる。喉でゴクリと飲んだら、胃の底に沈んでいくのが実感できた。
前ならこんなことなかったのに。どうしても、緊張してしまう。
「あのさぁ美夏。これから体育館に来る用があったら、専用の靴を持ってきてね。あるでしょ、授業で使うやつ。あれでいいから、持ってきて。ま、今みたいに上靴を脱いでくれるだけでもいいのはいいんだけど」
何か言わないといけない。
わたしが一人焦っていると、香帆は言った。
「ただ、この体育館はわたしの大切な場所だから。自分が一番輝いて生きれる場所だから。だから、傷つけてほしくないの」
「ねぇ香帆」
香帆とわたしの距離が、数メートルになって、
「バスケ、楽しい?」
わたしはできるだけ自然に聞いた。
すると、
「今さら何言ってんの、当り前じゃん」
わたしの質問にそうさらりと答えた香帆は、倉庫に向かった。何をするのだろうと見ていたら、そこからバスケのボールを持ってきた。そして、その場からドリブルし始めた。
香帆の体、ボールがゴールに近づいていく。ボールと香帆はみごとに調和して、一体感を漂わせる。香帆の顔が、引き締まる。軽くジャンプする。まるで自由な動きが利く翼を羽ばたかせる鳥のように、香帆の手からボールが飛ぼうとした。その時、
「バスケ部は?」
一瞬香帆の手とボールが、止まったように思えた。でも、ボールはきれいな弧を描き、ゴールへと向かっていく。入るかどうか見ていたら、ボールはゴールの金属部分にガーンと激しい音を立てて当たって、こっちに跳ね返ってきた。ドン、ドンドン、とはずむボールは、やがて転がり、そして止まった。
ボールの狙いがはずれたことに戸惑っているのか、それともわたしの質問に動揺しているのか、香帆は呆然と立ちつくしている。
「ねぇ香帆」
わたしは香帆に聞いた。
「バスケ部、楽しい?」
そしたら香帆は、何も答えなかった。バスケが楽しい、と言ったときの香帆の顔とは、全然表情が違っていた。わたしのほうは見ずに、どこか遠くのほうをながめている。その視線の先には何もなくて、ただ何かを思い出しそして、何かを決心しようとしている感じだった。
香帆のそんな表情を見て、わたしは確信を持った。香帆はバスケがとても大好きだけど、バスケ部は嫌いなんだ。というよりかは、バスケ部の部員が嫌いなんだ。
「進藤加奈は、わたしと同じようにバスケが大好きなの」
香帆は、遠くのほうをながめたままの体勢で、重い口を開いて話し始めた。
「バスケのためだったら、なんでも我慢できる。バスケのためなら、辛くてもがんばれる。進藤加奈は、そんな人なの。だから、今までバスケをやってこれたんだと思う。でもね、進藤加奈は孤独なの。唯一自分のことを話せる人も、違うクラスの美夏っていう子しかいなくって、だからバスケ部ではいつも独りで過ごしてる。それに進藤加奈は、部員のみんなから嫌われてるの」
まさしく香帆が今言ったそれは、わたしがさっき見た香帆のバスケ部での様子といっしょ。それに、香帆が言った美夏とはもちろんわたしのことだ。
それが何を意味しているのか、わたしはなるべく自分の中で考えないようにした。でも、無意識にそれは砂浜を打ってくる小さな波みたいに、ゆっくりと見えてくる。
「進藤加奈は、辛かったんだって。寂しがりやのくせに友達が少ないから、いつも心が痛かったんだって。でもね、ある日考えついたの。まだある程度仲のいい美夏と、友達になれば寂しさも紛れるんじゃないかって」
わたしは、一旦口を閉じた香帆の、次の言葉を待った。少しずつ迫ってくる波の音は、あえて気にしなかった。
「でも、なかなか美夏は進藤加奈のほうを見てくれない。どれだけおもしろい話をしても、聞いてるようで聞いてないし。それで進藤加奈はあせってきた。このままじゃ、美夏と友達になるどころかどんどん離れてしまうって。そんなある日、進藤加奈は計画をたてたの。美夏に一人じゃ到底耐えれないくらいの悩みができたら、さすがの美夏も誰かに相談したくなる。きっと、その相談相手はわたし以外に無いんじゃないかって、進藤加奈は思ったの」
それでも波は、着実にこっちに近づいてくる。わたしは目を閉じた。意外と、まぶたは正確に閉じてくれた。波の音が、一瞬遠くに消えていくような気がした。暗闇の中で、わたしは香帆の話をもう一度聞いた。
「進藤加奈は、自分から美夏に嫌がらせをすることにした。いくら美夏でも自分がいじめられていることを知ったら、さすがに動揺するんじゃないか。それで、わたしに相談してくるんじゃないか。そう考えた。でも、想定外だった。美夏は全然進藤加奈の思うとおりの反応をしてくれなかった。最初、美夏にいじめられるって忠告したとき、全然美夏は怖がっていなかったし、靴箱に『死ね』って書いた紙を入れても、美夏は傷ついたような表情をしたけど、それ以上深く考える様子はなかった。それどころか、進藤加奈に相談してくる気配なんて、全然無かった」
わたしはそれから、ずっと目を閉じたままだった。香帆の話を、耳だけで聞いていた。でも、その先香帆は何も言おうとしない。そのせいか、波がまたゆっくりと迫ってきた。ただ、さっきよりも穏やかな波のように、わたしには思えた。
いつのまにか、目を開けていた。光が入ってくる。前では、香帆がじっとわたしを見ている。でも、わたしが香帆を見たのを確認すると、香帆は話を再開した。
あのね、美夏。進藤加奈が、美夏に謝りたいんだって。
香帆が言う。
何を?
わたしが聞く。
今までの全部。
香帆が答える。
その時、波の先っぽが、足元に触れた。
「進藤加奈は、わたしなんだ」
波が優しく触れて引いていくのと同時に、わたしは時間が止まったような感覚を覚えた。その証拠に、空気のゆっくりとした流れを感じることができそうだった。
「それにしてもさ、バカだよね、わたし。美夏の悩みを無理に作ったって、別にわたしの悩みが解決するわけじゃないのに。ていうかそれより、美夏はあれくらいで悩むほど、弱くなんかないんだよね、わたしと違って。わたし、分かってたのに・・・・・・ほんと、バカだよ・・・・・・」
力無く言う香帆の頬には、涙がつたっていた。
「わたし、謝りたい。美夏は道具なんかじゃなくて人なのに、わたしは美夏のことを孤独をごまかすためとか、悩みを解決するためとかに使おうとしたことを、謝りたい。進藤加奈としてじゃなくて栄川香帆として、謝りたい」
わたしは、たぶんいくら香帆に謝られても、香帆を許すことはできないと思う。といったって、別にわたしを利用していた香帆を許せないんじゃない。ただ、まるでわたしが完璧な被害者みたいな、何も悪くないみたいな言い方をしている香帆が、どう考えても間違っていると思ったのだ。
「ちょっと・・・・・・ひどくない?」
わたしは、俯いて言った。
「うん。そうだよ。わたしは最低だよ」
香帆は、また目から流れてくる涙をふいた。
「わたし最低だよ。自分でも分かってる。美夏には、ものすごく悪いことをしたって思ってるの。ほんとに、ごめんね。充分ひどいのは分かってるから。許してくれなくてもいいから」
「違う」
わたしは、そう強く言うのと同時に、顔を上げた。
「なんか、香帆一人だけが悪いみたいじゃん、この展開」
そして小さく笑って、
「わたしだって、香帆を傷つけたんだから」
自分でこんなふうに自分の否を認めたのは、初めてかもしれなかった。
「わたしは残念なことに一人が好きだから、今まで寂しさなんて感じたことなんて、全然なかった。だから、香帆の痛みがどうしても分からなくって、それで、わたしと香帆がつり合わない、なんて言っちゃったんだと思う。わたし、ほんと香帆がそこまで傷ついてたなんて、考えられなくて」
そんなことを言っている途中、なんだか目と目の間がほんのり熱くなってきた。あぁ、今からわたし泣くんだなぁ、と思いながら、わたしは続きを言った。
「誰かといる大切さを知ったのも、香帆のおかげなんだし、そんなふうに、自分だけが悪いみたいに言わないでよ」
ここまで人に正直な心を開いたことがなかったせいか、とてつもなく恥ずかしかった。全身が熱くなって、顔全体がほんのりと赤くなっていくのを感じる。無性に首の辺りがくすぐったくてしょうがなくって、同時に、大きな喜びが胸を満たした。
「香帆。バスケ、続けて。わたしも応援するから」
そう。
ほんとに言いたかったのは、これ。
香帆には、バスケが一番よく似合う。バスケ部の部員からたとえ色々言われたとしても、香帆にはバスケをしていてほしい。この体育館で。この、香帆の熱い思いがつまったこの場所で。初めて、心の底からそう思えた気がした。
「ねぇ香帆、こんな時に言うのも変なんだけど」
わたしがおかしく笑うと、
「変?だったら言わないでいいよ」
「いや、言う」
「じゃぁ言えば」
「香帆って、バカだよね」
「バカーっ?」
香帆は、大げさなほどすっとんきょうな声で言った。
「だって、香帆、わたしなんかと友達になろうとしたんでしょ。いくらなんでも、もうちょっとマシな選択肢、あったと思うんだよね。自分で言うのもなんなんだけど、わたし、けっこう扱いにくい人間なの。一人が好きなんて変わってるんだろうし、自分でも、たまに何考えてるのか分からくなるくらいなんだから」
「何言ってんのよ」
クスクス笑いながら、香帆は言った。
「どう考えたって、美夏のほうがわたしよりバカだよ」
「何それ」
「ほら、一週間かそれくらい前に、わたしが昼休みに屋上に来てって、美夏に言った休み時間あるでしょ」
「うん。あったね」
「その時の美夏、やばかったよ。授業中寝てたのかしらないけどさ、もう、髪ボッサボサ。何日寝たらそんな寝癖になるんだよ、っていうくらいすごかった。わたし、あの時腹筋の辺りにすっごく力こめて、笑いこらえてたんだから」
「うっそーっ。笑うの我慢してるくらいだったら、教えてくれたらよかったじゃん」
「だって、あのままの方がおもしろいと思ったんだもん」
「こら。勝手に人の髪を、おもしろいとか言うなっ」
香帆は思い出し笑いをしているらしい。お腹を押さえて、クククッと笑っている。その香帆につられて、だんだんわたしもなんかバカらしくなってきて、自然とおもしろさがこみ上げてきた。わたしと香帆は、二人いっしょになって笑った。
なんか、楽しい。人と会話するのって、こんなに楽しい事だったんだと、改めて気づかされる。
どこからか、やわらかい風が入りこんでくる。
体育館全体を、優しく包みこむようにして吹いてくる。
その時香帆が照れくさそうに「美夏ありがと」って言った。わたしはそれを受けて、「そんなの言わないで。言われたら、こっちは相当恥ずかしいんだから」言ってから、そこに転がっていた、さっき香帆がゴールしようとして外したボールを手に取った。
「ゴールしてみて」
「うん。いいよ」
香帆が、わたしの手からボールを受け取る。数秒目を閉じてから香帆がジャンプして投げたボールは、体育館の窓から入ってくる日の光を浴びて、鮮やかに光った。わたしはそれを見て、あ、これは入るな。そう自信を持って、次の展開を待つことができた。
(完)
これは僕が一年前に書いた作品です。
改めて読んで変な部分などもあったのですが、
あえてそのままの形で投稿してみました。
直すところがあるのになんで直さないんだよ、と思う方すみません。
一年前に伝えたかったことを、ありのままで伝えたかったのです。
それってサボりなんじゃないか?と思う方、すみません。
僕なりに選んだ投稿のしかたです。
ちょっと話に無理があるんじゃないか、というところも多々ありますが、
そこはこうしたほうがいいなど、評価よろしくお願いしますw
こちらから言うのはなんですが、できれば詳しく評価していただけたら嬉しい限りですw