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ある魔王の献身について



あらすじに書いております、注意書きを心に留めて読んで頂けますと幸いです。




 魔王は生まれたときから魔王だった。

 気付けば魔王は目を覚まし、外の世界を視界に入れた。そのとき目の前にいた女魔族が魔王のことを魔王と呼んだから、魔王は魔王になった。

 生まれたばかりの魔王はなんにも知らなかった。何せ魔王は生まれたばかりだったから。けれど魔王は、何も困ることなどなかった。何故なら魔王には、いつだって女魔族がそばにいたからだ。


 女魔族はいつだって魔王の傍にいて、いつだって魔王の世話を焼き、いつだって魔王の為に心身を尽くした。魔王は女魔族によって、食べることを、眠ることを、成すべきことを教えられた。


 いつしか魔王は知った。人間の世界では、そういう存在を『ママ』と呼ぶらしい。だから魔王は、女魔族をママと呼ぶようになった。従順な女魔族は、魔王の意向に従って、魔王の立派なママになった。


 魔王は容姿だけならば、人間の年若い娘とそう変わりない容姿をしていた。魔王の長い黒髪を梳かすのはいつだってママの役目だった。魔王はママのことが大好きだ。だってママは、魔王にとっても優しいのだから。


 だから魔王は、ママに喜んで欲しい。にこにこって笑っていっぱい頭を撫でて、沢山沢山褒めて欲しい。その為に魔王は、ママの言うことをちゃんとよく聞くいい子になった。


「ただいま、ママ。今日も沢山あそんだの」


 ママは魔王が遊べば遊ぶほど、嬉しそうに魔王を褒めてくれた。魔王はママのそのときの顔が、一番大好きだった。だから魔王は沢山遊ぶ。人間の子どもみたいに無邪気に笑って走って、腕を振るう。


 ほうら、やったね。屍の山。


 ママが一番大好きで、魔王が一番得意なのは人間と沢山遊ぶことだった。ママは食器が壊れると魔王を叱るけど、人間が壊れることには手を叩いて喜んだ。さすが魔王様、とママは可笑しそうに魔王の頭を撫でた。

 だから魔王は沢山遊ぶ。魔王が色んな魔法を使えば、ママはもっともっと喜んでくれる。だから魔王は、色んな魔法を使って、また人間と遊ぶのだ。









 魔王がママに教えられたことはそんなに多くない。食べなければ死んじゃうこと、寝なければ疲れが取れないこと、人間を壊さなければ魔王が魔王でいられないこと。

 魔王が魔王であるからこそ、ママは魔王のことが大好きだった。魔王はそんなママが大好きで、だから魔王は魔王で居続ける為に、今日も人間を壊すのだ。









 魔王はいつもいつも、人間を壊している訳ではない。ママに呼ばれたら、呼ばれたところに駆けつけて、そこに集まった人間と一緒に遊ぶのが魔王の役目だ。それ以外の魔王は少しだけ暇を持て余している。ママがいてくれたらいいけれど、ママもいつもいつも魔王と一緒にはいられなかった。少し前はずっと一緒だったのに、ママは少しずつ忙しくなったようだ。


 そういうときの魔王は、ちょっぴり拗ねて、ちょっぴり寂しくて、ちょっとだけ嫌だなあと思いながらお出かけする。人間と遊んだことのある町に遊びに行くのだ。

 人間は怖い怖い怪物だから、普段は近寄ってはいけないのだとママが言っていた。ママが大丈夫と言った遊び場でなければ、万が一魔王が傷つけられてしまうかもしれないのだと。ママはとっても心配性で、とっても人間という怪物を恐れていた。


 だから魔王は、すでに人間がいなくなった元遊び場で遊ぶことにしている。

 魔王はそこら中に転がる腐肉や白骨の間をすり抜けて、人間の町の中をふらふらと歩く。何か面白いものはないかなあって、人間は時々キラキラとした綺麗なものを持っているから、そういうものを探して歩くのだ。


 その日も魔王は、この間の雨で血が流れてよかったなあ、と思いながらもう誰もいない町を歩いた。さすがに真っ赤なだけでは面白みがないし、腐臭がひどい。雨がそれを少しだけ洗い流してくれたようだった。


 ある路地に差し掛かったところで、魔王はキラッと輝くものを視界の隅に見つけた。一度通り過ぎかけて、前を向いたまま後ろ向きに二歩下がり、路地の奥を覗き込む。うーん?と首を傾げて、好奇心に誘われるままそこへ向かった。

 地面に転がる樽の陰、そこで何かが太陽の光を反射している。座り込んだ魔王は、それに手を伸ばし、確かめる為に空に翳した。


「わあ、きれい!」


 それは固くて透明で、石よりもつるつるとした何かだった。表面はつるっとしているのに、削れているところは少し鋭い。指を這わせればぷつりと皮膚が裂け、じんわりと血が滲んだ。


「いたい!」


 すると、魔王は先程までの笑顔をかなぐり捨て、途端に声を上げてその何かを放り投げる。魔王は痛いことが嫌いだった。だって痛いから。だから魔王は痛いのが嫌で、悲しくて、涙をぽろぽろ流しながら、切れてしまった自身の指を、きゅうっと反対の手のひらで握った。


「誰かいるのか」


 痛みに耐えていると、魔王は突然後ろから声を掛けられた。びっくりして勢い良く振り返れば、大きな人間の男がそこにいた。魔王はとっても驚いて、反射的に恐怖を抱く。人間の少女ほどの大きさでしかない魔王にとって、その男はとてもとても大きかったからだ。これが怪物なのだと、魔王はママの言葉を思い出した。


 魔王は怖くなって、我慢できなくて、涙がぽろぽろぽろぽろ溢れてくる。ママはいつも言っていた。人間は恐ろしくて危険なのだと。近づいてもいいのは、ママが用意した場所でだけ。そんな人間が、一歩一歩、魔王に近づいてくる。


 すっかり怯えきってしまった魔王は咄嗟に魔法を使おうとした。火の魔法がいいだろうか、もしくは風?ふっ飛ばしてしまうことができれば、その間に逃げられるだろうか。魔王は臆病で、怖がりで、逃げることだけを考えた。

 魔王が息を吸う。口から炎を出そうと口内に魔力を集めようとして、


「可哀想に」


 それよりも前に、目の前の人間の男が、魔王の前で両膝をついた。男の顔は両目から溢れかえった涙で濡れそぼっていて、びっくりした魔王はけふ、と炎になる前の空気を外へ吐き出した。









 魔王は魔族の頂点に立つ王だった。だから彼女の同族は魔族となるのだけれど、魔王はママ以外の魔族と関わったことはほとんどなかった。人間のことも、高いところから魔法を使って壊すから、まじまじとその顔を見たことはない。ママはいつも魔王ににこにこと笑ってくれるから、魔王は自分以外の生き物が泣いている姿など、そのとき初めて見たのだ。


 後にウィルと名乗った男は、可哀想に可哀想にと繰り返し、地面に膝をついたまま涙を流し続けた。呆然とその姿を見つめ続ける魔王に目を向けると、ゆっくりと魔王に向かって手を伸ばす。怯えて身体を捩り、背後へ這うようにしてその手から逃げようとする魔王に、ウィルはますます涙を溢れさせた。


「大丈夫だ。もう誰にも君を傷つけさせない」


 魔王はまた魔法を使おうとした。しかし、それと同時に魔王に触れたウィルの手のひらは、小刻みに震えていた。魔王の頬をなぞるように滑らされた手が、まるでママのように温かくて、魔王はびっくりして目を瞬かせた。

 人間は怪物なのだから、もっともっと、寒気がするくらい冷たいと思っていたのだ。


「俺が君を守るよ」


 ウィルはそう言って、魔王の身体を引き寄せた。怯える魔王を宥めるように背中に腕を回し、髪を撫でる。まるで泣いた子どもをあやすような仕草だったけれど、そんなこと、魔王には分からなかった。









 ウィルは魔王の手を引いて、魔王をその町から連れ出した。もう人間がいないその町は安全な場所だと聞いていたから、魔王はそこに残ると主張した。しかし、ウィルは危険な場所だから共に行こうと魔王の手を引いて譲らなかった。

 魔王にはウィルの言うことはよく分からなかったけれど、魔王は怖いことが嫌いだから、ウィルの言うことに従った。


「君の名前は何て言うんだい?」


 そう聞かれて、魔王は素直に答えた。


「魔王だよ。ママがそうよぶの」

「え?ああ、マオか。変わった名前だね」


 ウィルはずっとにこにこ笑っていた。ママより大きくて、ゴツゴツしてたけれど、笑う顔は柔らかかった。お話するときは身を屈め、小柄な魔王と目を合わせて話をした。ウィルは優しい。優しいから、魔王はすぐにウィルのことが怖くなくなった。

 ウィルは魔王がいた町の様子を見に来ていたらしい。近くの村人に頼まれて、危険だからと誰も近寄らなくなったこの辺りの様子を見に来ていたのだ。そこで魔王を見付けたらしい。


「まさか生き残りがいたなんて………せめて君だけでも無事でよかった」


 魔王にはウィルの言っていることがよく分からなかった。けれど、分からなくて不思議そうに首をかしげれば、ウィルは悲しそうに微笑んで魔王の頭を撫でる。だから、魔王はそれ以上問いかけることができなかった。


 魔王はウィルに連れられて、小さな村へ連れて行かれた。付いていくことに躊躇う様子を見せれば、ウィルはとても心細そうな顔をする。そんな顔を見ていると、魔王は何だかそわそわと落ち着かなくなってしまう。寂しいのかなあって、思った魔王は、まあいいか、とウィルについていった。


「ウィル、ウィル。こわい」


 村に着いた魔王は、震える声でそう言ってウィルの陰に隠れ、彼の背中にしがみついた。背の高いウィルの腰に腕を回し、自分の顔を隠すようにぐりぐりと押し付ける。

 村に足を踏み入れた途端、沢山の人間たちが二人を取り囲んだ。こんなに近くで人間を見るのは初めてで、怪物に囲まれた魔王はすっかり怯えきっていた。

 そんな魔王の頭を、ウィルはゆっくりと撫でる。


「大丈夫だよ。皆優しい人だ」


 ウィルはそういうけれど、魔王には分からない。だって魔王は、人間たちの優しさなんて、見たことも聞いたこともなかったからだ。人間は時々魔王と遊んでくれるけど、基本的には恐ろしい怪物だとママが言っていた。ウィルは怯える魔王の腕を引き剥がして向かい合うと、屈んでぎゅうと魔王の手のひらを片手ずつ握った。


「マオのことは俺が守るよ。だからマオは、大丈夫だ」


 守るって、なんだろう。魔王にはその言葉の意味がよく分からなかった。だってそんな言葉、魔王は初めて聞いたのだ。


「マオを傷つけさせやしないし、マオを悲しませない。約束するよ」


 魔王は傷つくことも悲しい思いをすることも嫌だった。だから、守るってよく分からなかったけれど、いいことなのかな、と思った。

 不安な気持ちはなくならなかったけれど、魔王は恐る恐る頷いた。









 魔王はウィルに連れられて、その村から旅立つことになった。『いきのこり』は王都で保護される決まりらしい。

 魔王は人間の屍や白骨が転がっている町や村しか知らなかった。だから、人間が現れると怖くてすぐにウィルの背に隠れてしまった。けれど、道中の草木や花、太陽の光を反射するキラキラした川も、すべて物珍しくて嬉しかった。


 草木の陰に隠れた虫を見つければ、びっくりしてすぐにウィルに見せた。川の中を泳ぐ魚を指差してウィルに伝え、ウィルが魚を穫れば手を叩いてすごいすごいと歓声をあげた。道中に咲く花は可愛くて、嬉しかった魔王は見つける度に花を摘んではウィルにプレゼントした。


「こういうのは、君が持ってる方が似合うと思うけどなあ」


 花を渡すときだけ、ウィルは少しだけ苦笑した。けれど嫌がっている様子はなくて、眩しそうに目を細めるのだ。


「マオ、おいで」


 呼ばれて魔王がとてとてと歩み寄れば、ウィルはいつの間にか摘んでいた薄紅色の花を、魔王の髪に差し込んだ。ママがあやすような手つきで魔王の髪を撫でて、ウィルはどこか得意気に言う。


「ほら、やっぱり!こういうのは、君みたいな可愛い女の子が持つ方がいい」

「かわいい?私、かわいい?」


 魔王は嬉しくなって、その場でくるくると回って見せた。魔王は『可愛い』がとっても嬉しい言葉だと知っていた。だってママが魔王をほめてくれるとき、繰り返し『私の可愛い魔王様』と言ってくれるからだ。


「嬉しいっ」


 そう言って、魔王はウィルにしがみつく。魔王はウィルのことが大好きだった。優しくしてくれて、魔王のことを可愛いと言ってくれる。好きにならない訳がなかった。

 その度に、ウィルは少しだけ困ったように苦笑した。








 王都への旅は、ウィルとの二人旅だった。魔王の道草に付き合いながら、二人の旅はゆっくりゆっくりと進んでいく。町があれば立ち寄って宿を取り、村があれば食料や装備などを、旅の道中で拾った物と交換していた。


 その途中で、魔王は見覚えのある場所に辿り着いた。そこは魔王の遊び場の一つだった。少し前に遊んだそこはもうすっかりぼろぼろになっていて、辺りにはごろごろ白骨が転がるばかり。家もほとんど崩れていて、野は焼かれて朽ちたまま。生き物の気配など欠片も感じられなかった。


「…………そん、な。どうして…!」


 その町に着くと、いつも魔王のそばに着いててくれるウィルが呆然と呟き、魔王を置いて駆け出してしまった。魔王はびっくりしてウィルを追いかけたけど、ウィルは構わず走るばかり。


「誰かっ!誰かいないのか!なあ!誰か返事をしてくれ!」


 駆けずり回りながらウィルはそう叫ぶ。魔王はウィルがどうしてそんなに必死なのか、声を上げているのか、全然分からなかった。やがて、町を隅々まで調べたウィルは、壊れた人間みたいにがくん、と膝から崩れ落ち、地面に両膝をついて握り拳で地面を叩いた。


「……っくしょう!ちくしょう!ちくしょうちくしょうちくしょう!」


 聞いたことのない大声で叫ぶウィルに、魔王はびっくりして身体を震わせる。けれど怖くなかった。大きな身体で大声を出しているけれど、目の前の彼はウィルなのだから。それよりも、ウィルの目から涙が溢れかえっていることが気になって仕方なかった。魔王は涙がどういうときに出るのかを知っている。痛いときと、怖いときと、寂しいときだ。


 だから魔王は、叫び声を上げて泣くウィルに駆け寄って、その大きな身体をぎゅうぎゅう抱きしめた。魔王が泣いているとき、ママはいつも抱きしめてくれる。そうしてもらえれば、すごく安心できるのだと魔王はよく知っていた。


「ウィル、ウィル、ウィル。泣かないで」


 魔王は力を込めてウィルを抱きしめて、心の底からウィルの涙が止まることを願った。ウィルが泣いていると、魔王もとっても泣きたいような気持ちになってしまう。

 ウィルはもどかしいくらいゆっくりと魔王を振り返った。その目がぎょろりと見開かれていて、魔王は少しだけびっくりして、少しだけ怖かった。


「ぁ…………」


 掠れるような、吐息のような声がウィルから漏れる。一方的に抱きしめられていたウィルの腕が地面から持ち上がり、魔王の身体を勢い良く抱きしめた。


「あぁ………、ああ、どうして………っ」


 苦しいくらい、ウィルは力を込めて魔王を抱きしめた。ぎゅうぎゅう力が籠もる度、魔王の口からぷすっと空気が抜けていく。ウィルは沢山の人を呼んで、沢山どうして、と呟いていた。どうしてどうしてと、そう呟く度に温かい雫が魔王の肩を濡らした。


 魔王には、どうしてウィルが泣いているのか、ちっとも分からなかった。けれど、ウィルが泣いているのは嫌だなあ、と何となく思った。









「ママがまっているかもしれない」


 魔王は唐突に思い至った。そういえば、もう随分と長い間、ママの元へ帰っていない。こんなにママから離れたことは初めてで、魔王は途端に不安になった。

 魔王がママの話を口にすれば、ウィルはいつも苦しそうな顔をした。眉間に皺を寄せ、痛そうな顔をする。魔王は何かよくないことがあるのかと、不安になって泣きそうな気持ちになってしまう。その度にウィルは魔王をなだめるように、頭を撫でたり緩く抱っこしてあやしてくれた。


「早く王都に行こう。そうすればきっと、もう怖い思いもしなくて済むから」


 途中まではよかったけれど、王都の直前にある、人の住まない森に足を踏み入れてから、魔物によく遭遇するようになった。ウィルはどんどん怖い顔になって、沢山の返り血を浴びながら、持っていた剣で魔物を斬り倒していった。魔王は魔法で全て吹き飛ばしてしまえばいいのに、と思ったけれど、ウィルが抱き上げては大人しくしているように、木陰に隠してはそこからけして動かないように、と言うので魔法を使うことができなかった。


「ウィル、ウィル」


 怖い顔をしたウィルは、魔王が名前を呼べばほっとしたように表情を和らげた。魔物にはあんなに怖い顔をするのに、自分には優しく微笑んでくれることが、魔王は嬉しかった。


「この先、沢山危険なことがあるかもしれない」


 あるとき、焚き火を前に寄り添うように座っていたとき、ウィルがそう言った。うとうととしている魔王が寄りかかれば、ウィルは魔王を抱きかかえてもたれやすくしてくれる。


「それでも、君を守るよ。マオのことだけは、必ず俺が守るよ」


 魔王には、どうしてウィルがそんなに真剣な声を出すのか、よく分からない。ただ、ウィルから聞こえる心音が心地よくて、睡魔に抗うことなく目を閉じた。









 王都は沢山の人で溢れていた。ウィルのことは大好きだけど、魔王はやはりまだ、人間が怖い。ウィルの腰にしがみつくようにしてその陰に隠れ、恐る恐る道を進んでいた。すれ違う人と肩が当たるだけでびくりと震え、その度にウィルに引き寄せられながら歩いた。


 『役所』と言うらしいところに連れて行かれ、ウィルが書類にサインをしたりするのを眺めていた。けれど、あまりに長いその『役所』での手続きに早々に飽きてしまった魔王は、ふらふらとその場から離れてしまう。人の多い所は怖いから、人気のない場所を求めて、ふらふらと足を進めた。

 『役所』から出て、角を曲がったところで、


「探しましたよ、魔王様」


 よく、聞き慣れた声がした。振り返れば、魔王の大好きな人がそこにいた。


「ママ!」


 嬉しくて、魔王はすぐにママに飛びついた。ウィルがずっと一緒にいてくれたから寂しくなかったけれど、ママに会いたい気持ちはもちろんあった。抱きとめてくれる腕も、頭を撫でる手も知っているものと変わらなくて、魔王はますます嬉しくなった。


「早く帰りましょう。このような所にあいてはなりません。人間は恐ろしい怪物なのです。魔王さまを傷つけようとすることでしょう」


 ママは魔王を抱きしめたまま、魔法の力でふわりと浮き上がった。ママは一瞬で場所を移動する魔法が得意だから、そうして共に移動することは、魔王にとっても慣れたものだった。

 しかし、はっと魔王は大切なことに気付く。このままでは、ウィルを置いていってしまう。


「待って!待って、ママ。ウィルが、ウィルも一緒に行くのっ」

「なりません。あれは人間でしょう」


 しかし、ママはちっとも聞く耳を持ってくれない。ふわりと宙に浮いたまま、ママはいつも身に着けているマントを翻す。


「マオっ!」


 そこに、ウィルが現れた。このままお別れなんて寂しくて、悲しくて、魔王はママの腕の中でもがきながら、必死にウィルへ向かって手を伸ばした。


「ウィルー!」


 次の瞬間、魔王は見慣れた部屋に着地した。マントに包まれることで移動魔法が発動する。どんなにもがいても、今更あの場に戻ることは、魔王にはできなかった。

 ウィルの名前を呼びながら、ウィルが恋しくて恋しくて泣き続ける魔王を、ママはその場に膝を付いて抱きしめた。それから、優しい、ママらしい甘い声音で囁くのだ。


「お可哀想な魔王様。人間などに惑わされて」


 ママの言葉が、魔王には分からない。だってウィルは、ただただ、魔王に優しかっただけなのだ。









 それ以降、ママは魔王を一人で遊びにも行かせてくれなくなった。その代わり、これまで以上にずっとそばにいてくれた。だから寂しくなかったし、一人でいるよりもずっとずっと楽しかった。けれど、ウィルに会えないことだけがどうしても寂しかった。

 そんなあるとき、ママがにっこりと笑った。


「あの人間に会わせてあげますよ」


 魔王はもちろん、とってもとっても喜んだ。ずっとずっとウィルに会いたかったから。歓声を上げる魔王に、ママはこう続けた。


「でもその為には、魔王様にはいい子になって頂かねば。ママのお願い、きちんと聞いてくれますね」


 魔王は当然、勢い良く頷いた。









「どうしてっ……!」


 喉が裂けてしまうのではないかと、心配になってしまうような声でウィルが叫んでいた。魔王はウィルのことが心配になって、おろおろとしてしまう。近くでは魔法によって火柱が上がり、火の粉や煤が舞っている。あれが喉の中に入れば熱くて痛いのだと、魔王は知っていた。


「どうして、どうして君が、そんなっ………」


 信じられない、というように目を見開いたウィルが、どうしてどうしてと叫び続ける。そんなウィルの前に、四人の人間がウィルをかばうように立った。


 魔王は訳が分からなかった。せっかく久しぶりに会えたのに、ウィルは喜んでくれると思ったのに、ウィルは苦しそうな顔で叫び続ける。久しぶりに会えたから、ぎゅっと抱きしめてもらおうと思ったのに、よく出来たね、ってきっとウィルも褒めてくれると思ったのに。


 だから、いつもより張り切って、人間と遊んだのに。


 魔王は悲しかった。ウィルに喜んでもらえないことが寂しかった。せっかく会えたのに、魔王はこんなに会いたかったのに、ウィルはそうでもなかったのかもしれない。

 魔王は泣いた。我慢できなくて、寂しくて、ぽろぽろぽろぽろ涙を流した。ただただ、ウィルに会いたかっただけなのに。


「私、上手にできたでしょ?どうして、ウィルはほめてくれないの?」


 目を見開いて、石のように固まっていたウィルの目の焦点が、ゆっくりと魔王へ絞られた。口元が歪み、う、とか、あ、とか言葉にならない声が漏れ始める。唇から始まった震えがウィルの全身に行き渡り、やがて獣のような咆哮を上げた。


「ぅあああああああああああ!」


 前に立つ人の間をすり抜け、両手に握られていたウィルの大剣が魔王に向かって振り下ろされる。すんでのところで避けた魔王はびっくりして、心臓がばくばくと物凄い勢いで脈打った。


「よくも騙したな、俺を。魔王め!」


 血走った目から涙を流して、ウィルはそう言って尚も魔王へ剣を向けた。魔王にはもう、何も分からなかった。魔王はただ、もう一度『マオ』と呼んで笑って欲しかっただけなのに。









 その次の日、魔王の知らない人間の国で、勇者一行が魔王と対峙したと報道された。








 魔王はそれ以来、黙々と人間を壊し続けた。沢山遊んで、楽しい訳ではない。何にもやる気がしないから、ただママに言われるままに人間を壊し続けた。

 あれから、何度ウィルに出会っても、ウィルはちっとも笑ってくれない。『マオ』と呼んでくれない。抱っこもぎゅうっともしてくれない。いつも怖い顔をして、怖い声を出して、剣を向けるのだ。


 魔王は悲しくて悲しくて、もう何も楽しくなくなってしまった。キラキラの石を見つけても、褒めてくれるウィルはいない。川の中で魚を見つけても、食事にしようかと獲ってくれるウィルはいない。可愛い花を見つけても、魔王の髪にそれを差し込んで、気恥ずかしそうに笑ってくれたウィルはいない。


 もっともっと頑張れば笑ってくれるのかな、って魔王はとってもとっても頑張って人間を壊してみたけれど、ウィルはちっとも褒めてなんてくれなかった。


「魔王様、次へ向かいましょう」


 部屋で拗ねて膝を抱えていた魔王は、ママのその言葉でのろのろと立ち上がる。分からないけれど、魔王は人間を壊し続ける。

 だってそれ以外、魔王はどうすれば喜んでもらうことができるのか、分からなかったからだ。









 

 魔王が人間の町で魔法を使っていると、ウィルはいつも大慌てで駆けつけてくれた。それだけが嬉しくて、魔王はどんなに拗ねていても、ウィルに会いたい一心で人間と遊ぶのをやめることはしなかった。気付けば魔王は遊ぶ為でも、ママに褒めてもらう為でもなく、ウィルに会うために人間の町に赴いていた。


 その日も魔王はウィルとその友達から向けられる剣や魔法をいなしながら、魔法を使う。ウィルはずっとずっと怒っているけれど、それでも少しだけお話してくれることが、魔王はとても嬉しかった。


「ねえ、どうして、ウィルは怒ってるの?」

「黙れ!」

「どうやったら、また笑ってくれるの?」


 魔王は魔王だから、魔法を使うことが得意だった。力はそんなに強くないけれど、魔法の盾と、魔法の刃でウィル以外の人間に攻撃する。だってそうしなければ、相手の魔法が届いていずれは魔王が痛い思いをする。魔王は痛いのが大嫌いだった。

 一度体勢を立て直す為に魔王から距離を取ったウィルが、顔を顰めて笑う。


「おまえが死んでくれれば、ざまあみろって笑ってやるよ」


 その瞬間、ウィルの後ろの魔法使いの魔法で、水竜が魔王へ襲いかかった。それを魔王は盾で受け止めて、生み出した炎で蒸発させる。その間に距離を詰めたウィルの剣が、魔王の胴を薙ごうと一閃された。その刃の上に飛び乗って回避し、後ろ向きに一回転して着地した魔王は、再び振り下ろされるウィルの大剣を前にして、閃いた。


「そっかあ!」


 ようやく分かった。理解して、嬉しくて、魔王は思わず笑顔になる。飛んだり跳ねたりしたいくらい、嬉しくて仕方なかった。


「…………っし、て」


 次の瞬間、呆然とウィルは声を漏らした。肺から絞り出したような声はか細く、ひどく頼りなく響いた。

 魔王はにこっと嬉しそうに笑った。手の力をぶらんと抜いて、足の力もかくんと抜けた。魔王の胸には、ウィルの持っていた大剣の刃が刺さっている。そこから溢れだす魔王の血が、魔王の全身を真っ赤に濡らしていた。

 上手く呼吸が出来なくて、ごほっと咽れば、血の塊が口の中から溢れてきた。


「よかったぁ………」


 ひゅーひゅーと漏れる不快な呼吸音の合間に、魔王は一生懸命呟いた。きっとこれで大丈夫。魔王の願いは叶えられる。

 魔王は、痛いのが嫌いだった。苦しいのも大嫌いだった。ちょっとの傷でも大声で泣いて、その度にママに慰めてもらった。指先を少し切るだけでも、大泣きするほど、魔王は痛いのが大嫌いだった。けど、でも、だけど、


 ウィルに嫌われるのは、もっともっと痛いから。


 これで笑ってくれるかなあ。褒めてくれるかなあ。マオって呼んで、ぎゅうぎゅうしがみつけば、いいこいいこって頭を撫でてくれるかなあ。

 そう思っていれば、魔王の胸からは大剣が引きぬかれ、地面に崩折れたその体を、ウィルが抱き起こした。魔王は嬉しくなってにこにこ笑う。ウィルに抱っこしてもらうなんて久しぶりだなあ、なんて。とても嬉しくなってしまった。


「…………ごほっ、ウィ、ル。ねえ……」


 ウィルのごつごつとした指が、ゆっくりと魔王の頬を撫でた。指が温かくて、やっぱり魔王はますます嬉しくなってしまう。


「これで……私の、こと。好きになって、くれるかなあ」


 ねえ、いい子でしょ。ちゃんとウィルのお願いを叶えてあげるの。ウィルのことが大好きだから、ウィルに喜んでほしいから、魔王は痛いのも苦しいのもへっちゃらだった。

 ウィルの喜んだ顔が見たいのに、どうしてだか魔王は目の前が霞んでよく見えない。目を擦ろうとしたのに腕が持ち上がらないことに気付いて、魔王は急に悲しくなった。


「もう一回、ウィルの顔、みたかったのになあ」


 どんな顔をしているのだろう。笑っているかな、もしかしたら眩しそうに目を細めているかもしれない。ウィルはよく、そんな目で魔王を見ていたから。前が見えないのに、顔の上に温かい水が沢山降ってきていることに気付いて、魔王はくすぐったくて少しだけ笑えた。


 次に目を開けるとき、ウィルが笑ってくれていればいいのになあ、と思う。

 そうして、魔王は意識を失った。








 こうして、魔王がいなくなったその日、共に勇者も表舞台から姿を消した。

 勇者が何を思い、世界を救ってどうしたのか、ついぞ知られることはなかった。





読んでいただき、誠にありがとうございました。



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― 新着の感想 ―
[一言] 半年に一度くらい読みたくなって読みに戻ってきてしまう・・・。
[良い点] 悲しくて涙腺突破するほど心が動かされました。 [気になる点] シリアスのまま終わらないでくださいっ悲しすぎる [一言] 続編で生まれ変わるとかやって幸せになってほしいです。
[一言] うん。結果がわかっても(前読んだ)泣けるって素晴らしい
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