もう一人のターゲット 美咲
[一]
継続調査中の、遠藤美咲の調査報告書が探偵社から送られて来た。結局裏付けとなる確証を掴むに至らなかったが、信憑性は高いと結論付けていた。
六本木のクラブMISSANGAのママ。源氏名は凛。
藤木は報告書に添付された写真を見て、清楚な中にほのかにあでやかさを感じさせるイメージが残っていた美咲の変貌振りに驚いた。
洗練されたメークと、華やかな衣装により輝きを増したあでやかさ。アップにした髪型と着物と言う、藤木のクラブママのイメージとは違うドレススタイルだが、こんなママがいるクラブなら自分も行ってみたいと思った。
クラブは常連客が多く、経営は順調で経営者としての力量はあり、何人かのホステスを独立させ、ホステスのモチベーションを高めている。
ある時期から売り上げ至上主義経営に変わり、ノルマは過酷で未達成の罰金も厳しく、勢い客と一夜をともにする枕営業や、常連客化する為に枕をした客に、犯罪にならない程度の脅迫に近い行為を仕掛けるようなことが常態化しているようだが、辞めたホステスの話だけで確証は掴めていなかった。
アメとムチを使い分け、ノルマを達成したホステスには高給が支払われ、脱落したホステスの入れ替わりも多い。脅迫に近い行為がママの指導によるものと思われるが、これも確証は掴めていなかった。
クラブナンバー2のチーママは樋口恵子。
源氏名は綾乃。着物が似合う日本的美女で、控えめで上品な所作による、ママの美咲と相反する魅力で常連客も多いようだ。
二人の関係はぎくしゃくした所が見られ、余り良好ではないと思われると付記してあった。
脅迫まがいな行為の確証を得る為に恵子が利用出来ないかと思った藤木は、経歴を含む恵子の調査を探偵社に再依頼した。
調査の結果、詳しい情報は得られなかったが美咲と恵子の関係は分かった。
会社の情報収集部門に調査させればより細密な情報を得られると思ったが、私的に利用することは出来ない。
藤木は美咲に会ってみよう、美咲と旧知と知れば恵子も警戒しないだろうと思い行動に移した。
怨念の対象者である美咲に会うことに藤木は不安を感じていなかった。今の自分は爬虫類のような冷血動物に化している。目的達成の為には何でもする。たとえ美咲に会っても感情は振幅しない。クラブママの美咲の写真を見て客観的にいい女と思えた。藤木は感情の抑制に自信があった。
自分一人では美咲に対するインパクトが強すぎると思った藤木は、緩衝材として酒井を誘いクラブを訪れた。
美咲のクラブは東京メトロ六本木駅近くのビルの地下一階にあり、赤茶をベースとした内装に、豪華な調度が絡み合いエレガンスを演出している店だった。
客は多く、調査報告の通り店は繁盛しているように見えた。
案内されて席に座ると数人のホステスが二人に付いた。すると、初めての客である二人の席へ、すぐにママである美咲が挨拶に来た。サッカーのリベロのようなフットワークの良さから、藤木は繁盛の一因を見た気がした。
「いらっしゃいませ。遊びに来ていただき有り難うございます。凛と申します」
美咲は前面に置いてある一人用の椅子に座り、ホステスを紹介してそれぞれ名刺を藤木達に渡し、三人声を合わせ、よろしくお願いしますと言った。音程があるようには思えないのに、藤木にはハモって聞こえた。
美咲の、饒舌にさり気なく藤木達の自負しているであろうと思われる美点をくすぐり、おだてとは思えない言い回しに、藤木達は心地よく楽しい気分にさせられた。否、酒井は美咲の会話に酔ったが、藤木は浮かれそうになる気分を押しとどめた。美咲の接客能力の高さを実感した藤木は、美咲に脅迫まがいの営業を仕掛けるような必要性があるのかいぶかしく思った。
美咲は藤木達を忘れてしまったのか、高校のクラスメイトと気付いていない。
「ごゆっくりお楽しみ下さい」
美咲がテーブルを離れようとした。藤木は酒井の脇をつつき、自分達のことを話すように促した。
「ああ、ママ。俺達のこと覚えていない?」
美咲は座り直し二人を見直したが思い出せない。
二十代は数知れぬ人間が自分の前を通り過ぎたがほぼ記憶している自信はあった。この二人は。覚えていないのでは客の二人を失望させる。楽し過ぎた十代の 記憶は意識的に忘れようとして来たから高校時代か。
美咲は記憶をたどるような表情をして言った。
「高校の時だったかしら?」
「思い出してくれた。高校三年の時の同じクラスの、俺、酒井、こっちは藤木」
酒井のイメージは蘇らなかったが、藤木の名前を聞いた瞬間フラッシュバックしたように高校生の藤木の歪んだ表情が蘇り、印象が変わった現在の藤木の表情に重ね合わさった。
美咲は感情の表出である驚愕と恐怖の入り混じった表情を隠せなかった。藤木は予想を超えた美咲の変化に、自分は当時の奴らの心に、いまだに悪党の記憶としてこびり付いているのかと思い、理不尽さが込み上げて来た。
美咲は動揺を取り繕うように笑顔を作り、いつものママに戻ろうとした。
「ごめんなさい。久し振りでびっくりしちゃって」
「無理もないさ。あの忌まわしい事件の張本人が現れたんだからな。だけど、もう十二年も経ってんだ。遠藤が気付かなかったくらい俺も変わったんだよ。忘れてよ」
「そうよね、大昔のこと。二人とも大人の男になっちゃて、すぐに気付かなくてごめんなさい」
美咲は平静を装っていたが、内心では藤木が何で今自分の前に現れたのか、何か害意があるのではないのか、長年の接客経験で培われた客の心中を洞察する能力を全開にして、穏やかな表情を見せる藤木の些細な仕草も見逃さず、藤木の真意を探ろうとした。
美咲の意識が藤木に集中して自分の存在が薄くなっていると感じた酒井は、麗しい女になった美咲の気を引くように、ことさら声高にジェスチャーを交え自分を誇示した。
「ねえ、昔のまだ青い、がきの頃の遠き思い出はさっぱりと水に流してさ。遠藤さんが六本木でクラブやってるって聞いてね。懐かしくなって二人で来たって訳。久し振りに会えて元気な姿を見れてハッピーだよ。それにしても遠藤さん綺麗になったね。面影は残ってるけど、俺も最初は分からなかったよ」
「本当、びっくりしたのは俺の方だよ。あの可憐な遠藤かと眼を疑ったよ。まさしく妖艶ないい女だよな。ママ目当てに来る客も多いんだろうな。俺もママ目当ての客になって通い詰めようかな」
人は自分が自慢したいと思っているような美点を誉められると、他人にもそう認められていると自尊心を満足させ、おだてであっても賛辞として抵抗なく受け入れ気分を良くする。
心理効果など意識しない藤木の客観的な賛辞であったことが、より強く美咲の心を揺らし、美咲は自分の接客手法を逆に仕掛けられた結果となったことに気付かず、思わず口元が緩んだ。
酒井の隣に座ったぽっちゃり系のホステスが、酒井の膝に手を置いた。
「ママってもてるんですよ。嫉妬するくらい。でもママはアラサー、私はピチピチ。どちらが良いですか?」
「どっちもいいね」
酒井が目尻を下げて言った。
新たな客の来店があり、美咲は軽く挨拶をして席を移って行った。
「あの着物の人、ママと違った雰囲気で魅力的だね」
藤木はターゲットの補足に入った。酒井は自分に付いたホステス達と盛り上がっていた。如才ない男だ。
「さすがお眼が高いって、もう、こんな可愛い娘が隣にいるのに、アラサー好みなんですね」
「ここに呼べないかな」
「ご指名ですね」
「うん」
隣に座ったホステスは黒服のボーイを呼び指名を告げ、恵子が藤木達のテーブルに来た。藤木は隣に座るように言い、席をずらして藤木の横に座った。
「綾乃と申します。よろしくお願いいたします」
「ママも素敵だけど、綾乃さんの着物姿も格別だね。俺クラブって来たことないのよ。実は俺、ママと高校の同級生でね。クラブやってるって聞いて会いに来たんだけどさ、綾乃さんみたいな素敵な人に会えて最高だよ。どう、店終わったらママも一緒に飯食いに行かない?」
美咲の知り合いとは言え、初めて来て会ったばかりで、いきなりアフターに誘われて恵子は戸惑った。断るにしても美咲の意向を確認する必要があると思い即答はしなかった。
「ママに聞いてみませんと」
「そうだよね。聞いてみてよ」
藤木もそんなに簡単に親密になれるとは思っていない。恵子を自分の担当ホステスにして、恵子に政治家を目指しているとか、企業の役員とか大いに自分をアピールした。
美咲の警戒心が解けていないのか、体良くアフターを断られその日は終わった。
藤木は翌日から美咲に会いに来る振りをして毎日クラブに通い、美咲の気持ちをやわらがせ、恵子と親密になれるように注力した。
数日後には美咲の藤木に対する疑念も薄れ、アフター承諾にこぎつけた。その後も何度かのアフターでヘルプのホステスを含め、豪快に大盤振る舞いをして親密度と好感度を高め、恵子には美咲に気取られないよう特別な気遣いを示した。
クラブで話していても明白に恵子の藤木に対する態度、表情が変わって来た。<KBR>時には潤んだ眼で見詰め、時には頼るように体を預けたり、ホステスが客を引き付けるテクニックとは違うと藤木は直感した。
クラブには接待で来たことがある程度であったが、クラブやホステスの実態は調べていた。ホステスも女だ。直感を信じることにした。
藤木はまず電話で、食事をしてからクラブに行く、お水の世界で言う所の同伴をしようと恵子を誘った。
同伴ノルマのあるホステスからすれば、客からの誘いがあるのは好都合だと思ったが恵子の反応がはっきりしない。いやとも良いともはっきり言わない。デートに誘ってる訳ではないのに何をためらっているのかと苛立った藤木は、一度付き放してみるのも手かと思い電話を切ろうとした。
「気が乗らないようだね。もういいよ」
恵子はか細い声でポツリと言った。
「あ、待って下さい。休みの日ならばいいです」
同伴がいやではなく、デートに誘って欲しかったのかと藤木は納得した。
藤木はどちらかと言えば美咲のような前に出てくる女より、控えめな性格の女の方が好みだ。そうならそうと、うじうじせずはっきり言えと思ったが、恵子にいじらしさを感じてしまう藤木でもあった。
藤木は次の休日に恵子を高尾山に誘った。思ってもいなかった閃きであった。何故高尾山なのか自分でも分からなかった。ただ一緒に行きたいと思った。
恵子の承諾を得て細かなことを決め電話を切った後、藤木は思い出した。中学生の頃、好きな女の子に高尾山に行こうと誘い、断られて辛い思いをした記憶を。今願いを叶えようとしているのか。自分は恵子を好きになったのか。藤木は自問し、強いて否定した。
日曜の朝十時前、藤木は待ち合わせ場所の京王線高尾山口駅の改札口で恵子を待っていた。車で迎えに行こうと思ったが、電車の方が恵子を非日常的気分にさせられると思い直し、待ち合わせ場所を高尾山口駅にした。
藤木は改札口から出て来た恵子をすぐに気が付かなかった。恵子が自分に近付いて来て恵子と認識した。人が多かったのが理由ではない。印象がクラブでの着物姿の恵子と余りにも掛け離れていたからだ。
ポイントだけを強調した薄目のメーク。メークと服装からか、ホステスが言ったアラサーには思えない若々しさ。初々しさすら感じる。
高尾山と聞いて登山と思って買い揃えたのであろう、山ガールの典型のような、値札が付いていそうな新品のファッション。ライトグリーンのチロリアンハット。ベージュのジャケットにブラウンのバックパック、ピンクのトレッキングシューズ。
全体のカラーコーディネートは良いとは言えないが、今日の為にスポーツショップに行き、店員のアドバイスを受けながら買い揃えている姿が眼に浮かび、恵子を可愛いと思い、藤木はそんな自分を戒めるように両手で自分の頬を叩き、恵子に歩み寄った。
藤木はケーブルカーに乗り、登りが緩やかになる高尾山駅まで行き、薬王院にお参りして、昼にとろろそばでも食べて戻って来ようと思っていたが、山ガールになった恵子の意気込みを無には出来ぬと、登山らしく歩いて登ることにした。
色付いた樹木を愛で、鬱蒼とした木々に包まれた吊り橋を渡り、木々から放出される新鮮な酸素を感じるような森林の中を歩き、恵子は日々の鬱積を忘れすがすがしい気分になり、来て良かったと思った。
高尾山頂に着いた。山頂はかなり広い平坦なスペースがあり、食事が出来る店を見付け、藤木は昼食にしようと店に入ろうとすると恵子に引止められた。
「登山の楽しみはお弁当でしょ。私お弁当作って来たんです。どこか見晴らしの良い所で食べましょう」
恵子は富士山が仰げる場所にあるベンチを見付け、用意して来たビニールシートをバックパックから出して広げ、その上に弁当と飲み物を並べた。
「さあ、座って下さい。食べましょう。味の保証は出来ませんけど」
藤木は弁当を見て何故か感動していた。何故か。こんなシチュエーションが憧れだったと思い出した。好きな女の子と登山をして、弁当を作って来てもらって、河原の大きな石に女の子と隣り合わせに座って弁当を食べる。中学時代の幼稚だが汚れのない恋への憧れも、年を重ねた垢に埋もれ忘れ去られていた。
海苔を巻いたむすびに卵焼き。ウインナーソーセージに鶏の唐揚げ。ブロッコリーのマヨネーズ和えとベビートマト。弁当の定番メニューだがとても旨そうに思えた。
にこやかにむすびを手渡しする恵子に言いようのない愛しさを覚え、ビールがとても旨かった。
弁当を平らげ、下山した。藤木は無意識に恵子と手をつないでいた。
藤木は過去に何度か恋愛をした。アメリカで、日本で。それは雄が雌を求めるような、本能的で動物的な行為であった。単に女を、女の肉体を欲する行為の人間的理由付けとしての恋愛であった。そこに心のときめきはなかった。そこに相手に会えるだけで込み上げて来る喜びはなかった。藤木は恵子と手をつないで歩いているだけで楽しかった。
山上駅からリフトに乗り山麓駅へ下った。二人乗りのリフトで藤木にもたれる恵子、恵子の腰に手を添える藤木。後ろのリフトに乗る者が見たら間違いなく恋人同士と思うだろう。
藤木は今まで味わったことのない気分に浮かれていた。ただ楽しかった。藤木の中の冷静な部分が警鐘を鳴らしていたが、気にもならなかった。
高尾山から離れたらこの気分が消滅してしまうのではないかと恐れ、都心に戻る予定を変更し、時間は早かったが議員との会食で利用した地鶏料理の店を思い出し、タクシーで店に向かった。
山ふところに建ち、敷地内に具合良く植えられた樹木と、点在する和風造りの離れの座敷が融合して自然の風情をかもし出し、炭火で焼きながら食べる地鶏と川魚が魅力の店。今日の気分を継続させるには最適の店だった。
離れの座敷は適度な広さの和式の落ち着ける部屋で、二人は中央に据えられた足をおろせる茶塗りの卓に向かい合って座っていた。卓の中央に作られた、灰が盛られた炉の炭火で焼かれた鶏肉から香ばしい匂いが漂っていた。
「恵子、もう焼けたんじゃないか。食べようよ」
藤木は恵子から本名で呼んで欲しいと言われ恵子と呼び変えていた。恵子は焼けた鶏肉と野菜を藤木と自分の取り皿にそれぞれ取り分けた。
「旨い。たまにはこういう山里で食事するのもいいな」
「そうですね。普段と違う世界にいるみたい。山に登って、自然に触れて、久し振りに運動をして汗をかいて、私生き返ったみたい」
「クラブの時と顔が違う。生き生きしてるよ」
「楽しくて、時間が過ぎて行っちゃうのがもったいないくらい。今日が楽し過ぎて、又明日からいつもの日になると思うと」
恵子は言葉を止め、眼を伏せて表情から一瞬笑みを消したが、思い直したようににこやかに言葉を続けた。
「あっ、ごめんなさい。お客さんが、明日から仕事だと思うと日曜の夜が一番憂鬱って言ってたの思い出しっちゃって」
「客商売も大変だよな」
「ううん、そんなんじゃないの。変なこと言ってごめんなさい。ビールはもういいんでしょ。焼酎でいいですよね」
恵子は部屋のインターホンで焼酎を注文した。
藤木は恵子が一瞬見せた表情の翳りが気になった。藤木にとって今の恵子は、利用しようとしていた昨日までの恵子とは決定的に違う。本来優しい性格の藤木は、恵子が見せたかすかな辛そうな表情を見逃すことは出来なかった。
「何か辛いことでもあるの?」
「何でもないの。焼酎は芋で良かったですよね。私も今日は飲みますよ。余りお酒好きじゃないけど、今日はとてもおいしいから酔っちゃうかも。楽しいとお酒もおいしくなるんですかね。それとも藤木さんと一緒にいるからかな。そう、藤木さんといるから楽しくてお酒がおいしいのね。やっぱり楽しいからお酒がおいしいんだ。やだ私、自分が何言ってるのか分からない」
恵子は恥ずかしそうに下を向いて、両手で顔を覆った。
藤木は恵子のこんな仕草を初めて見た。
わざとらしい女の子アピールとは思わなかった。話をそらそうとして、思わず三段論法みたいな話をしてしまって、それとなく告白してしまって、恥ずかしそうな仕草をする。藤木は恵子が意図的にやったとは思わなかった。良く言えばピュア、悪く言えば天然。新たに知った恵子の一面を可愛いと思った。
「俺も恵子といると楽しいよ。俺、女の子とデートして楽しいの初めてなんだ。高尾山の自然も良かったけど、他の女の子と来ても楽しくなかったと思うよ」
「私みたいなおばさんが女の子? それって言い過ぎ」
「何言ってんだ。女の子だよ絶対。中も外も」
藤木は少しむきになった。
「有り難うございます。でもそう思ってくれて嬉しい」
「俺を楽しくしてくれる恵子は俺を辛くもさせるんだよ。俺、もう辛くなっちゃてんの。恵子に何か辛いことがあるんだって分かっちゃてるから。言ってよ。二人で辛いことなくそう」
「ごめんなさい。私って馬鹿だから自分を隠せなくて。こんな楽しい時にいやなこと言ったら楽しさがどこかに行っちゃうと思って。それに初めてのデートでいきなり悩みなんか言う女いやでしょう」
「全然。さっき言ったろ。一緒にいるから楽しいって。楽しいって言うより嬉しいんだな。一緒に悩めるのも嬉しさの一つだよ。さあ、言ってごらん」
恵子は藤木の眼を見詰めこくりとうなずいた。
「私、美咲のやり方にもう付いて行けなくて、毎日が辛くて。クラブ辞めたいけど、美咲とは長い付き合いで、いろんなこと助け合って生きて来て、私にとって家族みたいで、今のおかしくなった美咲を見捨てられない。だけどこのままでいたら私駄目になっちゃう」
伏し目がちに話す恵子に、藤木は深い苦渋の色を見て取り、何とかしてあげたいと心から思った。
期せずして恵子から美咲の行状を聞ける展開になったのだが、藤木の意識にそんな思いはなかった。
「ママか。ママのやり方は我慢ならないけど、ママは家族同然でほっぽれない。ジレンマだね。でも家族なら言いたいこと言えるんじゃないの」
「美咲はしっかり者で私は馬鹿者。いつからか私の保護者みたいになっちゃって。私の言うことなんか聞かないの」
「やり方って何か聞きたいけど、その前にママとの関係聞かせてくれる」
恵子は知り合ったきっかけから今までの、美咲との過去を話した。
「深い関係だね。二人の思いが伝わって来るよ。それでママのおかしくなった所って何」
「お店の売上が第一で、その為には手段を選ばないの。お店を始めた頃は、お客様が日常を忘れられる、くつろげて楽しくて気持ちよく帰ってもらえる、又来たくなるようなお店にしようといろいろ知恵を絞って頑張って、六本木でも売上の高い、名の知れたクラブになったの。不景気になっても負けなかった。でもそれが油断を生んで、やり方がマンネリになって、売上の良い娘を独立させたりして、不景気も影響して来て、目に見えて売上が落ちるようになったの。そうなったら美咲は初めの気持ちを忘れて、もっと落ちるのを異常に恐れて。ノルマをきつくして、商売って何でも固定客作りが重要だと言って、お客様を常連客にするのに執念を燃やしてホステスに脅迫みたいな方法を教えて。私はそんなことしなかったけど。前の美咲は曲がったことが嫌いで私に優しかったのに変わっちゃった。あれは本当の美咲じゃない。元に戻って欲しい。だけど私には何も出来ない」
「そうだよね。昔の遠藤は正義感が強くて、俺も突っ掛かれていやな思いをしたよ。言い掛かりだったけどね。それが店の売上の為には手段を選ばず、悪いことも平気でするようになってしまった。そんなおかしくなった遠藤を何とかしたい。これが一つの悩み。遠藤のやり方に付いて行けない。毎日辛くてクラブ辞めたいけど遠藤を見捨てられない。これがもう一つの悩み。でもね、悩みは一つだったんだよ。遠藤が今みたいに変わっちゃう前の、売上が落ちる前は、毎日が辛くてクラブ辞めたいなんて思わなかったんだよね。と言うことは、今の遠藤が前の遠藤に戻ればやり方も戻って、二つの悩みはなくなる。今の遠藤をリセットさせて本来の自分を取り戻させればいいんだ。方法を考えよう」
俺の懐に飛び込んで来い。自分を優しく見つめる藤木の眼がそう言っている。恵子はそう思った。
「ありがとう。私の為にこんなに真剣に考えてくれて。真剣に考えてくれる人って美咲しかいなかった。そんな美咲が変わっちゃって。優しくなくなって。他のホステスと同じように扱って、ノルマをきつくして、そうしたらいやなこともしなくちゃクラブにいられくなっちゃって。もういやだった。だけど美咲と一緒にいられなくなるのもいや。美咲は私の家族じゃなくて有名クラブのママになっちゃった。だから元に戻すのは無理。もうどうしていいのか分からないんです、藤木さん」
恵子はすがるような眼をした。藤木は恵子の言った一言が気になっていた。
「いやなことって?」
藤木は思わず聞いてしまった。
「それを話すのは許して」
恵子は藤木から眼を逸らし、うつむいた。
藤木は自分の浅はかさを後悔した。
恵子の話から、調査報告書の内容が真実だと確信されたが、それは恵子も枕営業をやっていたことを意味する。確信は得られずとも、昨日まではそうであろうと思っていた。
今の藤木は、チーママの恵子は特別で、他のホステスのように枕営業はしていないと思いたかった。恵子の言ったいやなことは枕営業ではなく何か別のことであって欲しかった。その強い願望から、思わず分かっていたことを聞いてしまった。好意を持つ男には話したくない事実を。そして恵子の反応が事実を裏付けた。
藤木は切なそうにうつむいている恵子を見て、こんなに真剣に美咲を思っている恵子に、藤木が特別な思いを持ってしまった恵子に、体を売るような行為をさせた美咲への憎しみが沸々と込み上げて来て感情が高ぶった。
「恵子にそんなことをさせたなら遠藤は許しちゃいけない」
藤木は恵子を見ず一人言のように思いを口にた。
「えっ、何? 藤木さん何か知ってるの?」
恵子は不安そうに藤木を見た。藤木の愚かさから、恵子が触れて欲しくない事実に触れてしまった。だが、と藤木は思った。触れてしまったのは必然であったと。負の秘め事は暗黙に残してはならない、残したしこりが将来仇をなすと。
「ん、何も知らないよ。恵子が話せないって言うから考えたんだ。俺はクラブやホステスに直接関わったことないけど、友達なんかからはキャバクラに行くのは女の子目当てって良く聞く。クラブとキャバクラの違いは分からないけど同じ水商売、変わらないんじゃないの。そう考えると固定客にするのは客の欲望に応えてやるのが一番手っ取り早いよね。遠藤がホステスにやらせるよう仕向けているんじゃないかと思ったんだ」
「……。」
藤木は直接的表現をしないよう気遣ったが、恵子は藤木に気付かれたと思い、悲しそうにただうつむいていた。
「ああ、恵子がそんなことしたとしてもそれは無理にやらされたんだから、悪いのは遠藤で俺は全然気にしていない」
「ごめんなさい。私、藤木さんにふさわしくない女です。私にもう関わらないで下さい。側にいるだけで汚らわしいでしょ。私帰ります。今日はありがとうございました。楽しかった」
恵子は深くお辞儀をして立ち上がった。うつむいた顔から必死に涙をこらえている表情が窺えた。
藤木は素早く恵子の脇に走り寄り、恵子の肩を押さえ座らせようとした。
「何で帰るなんて言うんだ。俺は気にしていないって言ったろ。座れよ」
恵子はあらがい座ろうとしなかった。こらえ切れなくなった涙がほろほろと頬を伝った。
「恥ずかしいことを知られた私の気持ちを分かってもらえないんですか。それも一番知られたくない大好きな人に。あなたの前からいなくなりたい気持ちを分かってもらえないんですか。お願い。帰らせて」
絶望の感情に乱れた恵子の心に、藤木の理性的な言葉が入る余地などなかった。
藤木は予想を超えた恵子の言動に驚いた。だが言動から伝わる自分に対する思いの強さが胸に迫り、恵子への愛しさが込み上げ、藤木の感情も揺れ動き、ためらいもなく恵子を抱き締めていた。恵子は体を固くした。
「帰るなんて何馬鹿なこと言ってるんだ。気持ちを分かれって? だったら俺の気持ちも分かれよ。俺も恵子が大好きなんだよ。こんな気持ち初恋以来だ。良い大人が、ガキみたいだよな。格好悪いけど理屈なしで好きなんだ。過去何をしたかなんて関係ない。今の恵子が好きなんだよ。勝手なこと言ってないで、こんな俺の気持ち分かれよな」
思ってもいなかった藤木の言葉により、必死に耐えていた絶望の淵からの解放が恵子の精神に弛緩をもたらし、体の力が抜け、抱き締めている藤木にしなだれ掛かった。
藤木は体を支え優しく座布団に座らせたが、恵子は藤木の膝に泣き崩れた。恵子は余りの事態の急変に意識は混濁し、ただ涙が止め処なく流れた。だが嬉し涙であることは間違いなかった。
いきなり倒れ掛かったり、泣き出したり、女のやることは分からないと思ったが、ズボンを濡らす恵子の涙に藤木は温もりを感じた。
気分が落ち着いたのか、恵子が膝に顔を埋めたままぽつりと言った。
「本当に私みたいな汚れた女で良いんですか?」
藤木は恵子の両肩を掴んで起き上がらせさせ、うつむいている頬に両手を添え顔を自分に向かせた。藤木を見詰める恵子の瞳は黒く澄んでいた。泣き腫らした両目に口付けしてからゆっくりと恵子の唇に自分の唇を重ねた。
藤木はこんな甘美なキスは初めてだった。絡めた舌がとろけた。<KBR>今まではSEXの前菜程度に思っていたが、身も心もとろけ至福感に満たされた。
長いキスの後二人は強い磁力で引き合い融合したように抱き合っていた。お互いの胸の鼓動が感じられる程に。
しばらくの沈黙の後、藤木が口を開いた。
「あんなクラブ辞めて俺の所へ来いよ。恵子には俺がいる。遠藤は恵子がいなくても大丈夫だ」
恵子は藤木から身を離し、訴えるように言った。
「このまま別れたら美咲を裏切ったみたいになって二度と会えなくなっちゃう。そんなこと出来ない」
「恵子のしたくないことさせて、辛い思いさせて。あいつの方が裏切り者だ」
「違うの。おかしくなっちゃったの。本当の美咲じゃないの」
「私の家族じゃなくて有名クラブのママになっちゃった。元に戻すのは無理って言ったよな。人間変わるんだ。おかしくなったんじゃなくて、今の遠藤も本当の遠藤じゃないの?」
「だから間違って変わっちゃったの。間違って変わった美咲も私の大事な美咲。間違ったら正しく直してあげるのが親友の義務でしょ」
「家族の次は親友か。どんだけ遠藤が好きなんだ」
「美咲は私の分身。そして親で姉妹で親友」
藤木は少しいやな顔をした。独占欲が疼いた。
「もう一度言うけど、元に戻すのは無理って言ったよな。どうやって直すの」
「私みたいな馬鹿な女には無理だと思って悩んでいたけど、今の私には藤木さんがいる。期待しっちゃって良いでしょう」
恵子は首をかしげ微笑んだ。
藤木は堪らなく可愛いと思った。何でもやってやりたいと思った。だがこれが女の武器なのかとも思った。好きな女の可愛い仕草に惑い、頼り切られて奮起する。女が天性、持ち与えられた恋愛術か。意図的に仕掛ける女もいるだろうが、純な恵子に出来ようはずがない。男は単純馬鹿で女は複雑怪奇。そうは思わない藤木であったが、感性に従い単純馬鹿な男になることにした。
「しょうがないな。考えてみるよ」
勘定を済ませ店を出た藤木は左手で傍らに立つ恵子の肩を抱いた。恵子の爽やかな髪の香りが藤木をうっとりとした気分にさせた。
外は宵闇が迫り、晩秋の寒気が焼酎と恵子に酔って火照った頬に心地良かった。呼んだタクシーに乗り、電車で帰るのが面倒になった藤木は運転手に恵子のマンションの地名を告げた。
マンションに着くと恵子は藤木を部屋に誘った。だが藤木は議員事務所に行く用があると口実を作り断った。
藤木は恵子の部屋に行き恵子を抱きたかった。欲情ではない。恵子と肉体的にも一つになりたかった。だがこのまま恵子を抱いたら、恵子の体をもてあそんだ客と同じになってしまう気がした。こだわりはないと思っていたが、こだわっている自分を知った。
藤木は明日電話すると告げマンションを去り、恵子は寂しそうな顔をしてタクシーを見送った。
[二]
藤木は家に帰り、自分の部屋でリラックス出来るように買った足載せ台付きの安楽椅子に座って、いつものように寝酒のウイスキーを飲んでいた。無意識に今日一日の光景が藤木の脳裏に反芻される。
藤木は利用しようと恵子に近付き、たった一日で恵子の虜になってしまった。これで恵子の希望通り美咲を元の美咲に戻したら、まさしくミイラ取りがミイラになる例えの如き結果になる。恵子に藤木を利用しようとする意識もなく、藤木もただ恵子の希望に応えてやりたいと思っていた。藤木から美咲への憎悪が消えた訳ではない。恵子への恋情が勝った。
藤木は考えた。美咲を、元の善い美咲に戻す。傲慢になった美咲に何を言っても無駄だろう。何か方法があるか。ベッドに入っても考え、何も浮かばず寝入った。
複数のおぞましい姿のゾンビに女が襲われている。<KBR>ゾンビの顔はクラブで良く見る客に見える。女の顔ははっきりしないが恵子だ。助けようともがくが体の動きが緩慢で恵子の所へたどり着けない。「やめろ」と叫んだら端のゾンビが襲って来た。顔が美咲になっていた。恐怖にかられ逃げようとするがうまく逃げられない。迫られ喰われそうになった時に眼が覚めた。
藤木の手は震えていた。寝覚めでまだ覚醒していない脳に繰返して映る今見た夢の場面は現実味を帯び、恐怖心が治まるのにしばしの時間を要した。
平静に戻り、夢を思い浮かべると恐怖していた自分が滑稽に思えたが、恐怖心は残っていた。十代の頃まではよく怪物とか恐い物に追い掛けられる夢を見たが、久し振りの同種の夢だった。
夢は無意識からのメッセージ、追い掛けられる夢はストレスの反映。当時、恐怖夢から逃れたい願望で調べた夢の知識を思い出した。
藤木は夢解釈をするつもりはなかったが、今見た夢は自分の恵子へのストレートな感情の表れだと思った。
恵子が他の男に陵辱された悔しさ。その元凶である美咲への憎しみ。それなのになんで自分は憎き美咲を善き美咲に戻そうとしているのか。恵子が喜ぶから。恵子が喜べば自分も嬉しい。極めて正常な感情だ。だが美咲は自分を喰おうとした。美咲に襲われると自分が思うはずはない。藤木は感じた。夢は恵子への恋情から執念が鈍化したと、潜在意識に存在するもう一人の自分からの強烈な叱咤であると。
部屋の照明をつけて、自らしたため、自ら壁に貼った、執念を具象化した文章を見た。
〔屈辱の記憶よ甦れ 正義面した偽善者ども 許さん お前達の腐った心根をさらけ出してくれる〕
毎日この文章を読んで、執念の炎を燃焼させ続けて来た。
藤木は執念がいささかも鈍ったとは思っていなかったが、恵子に会う以前と状況が変わり、恵子の存在が大きく藤木の心を占めているのも事実だった。
執念を貫けば恵子を傷付ける。美咲を許せば自分の信念に反逆する。藤木が恵子に言ったようなジレンマに藤木がはまってしまった。
藤木は深夜に眼が覚めてから夜が明けるまでまんじりともせず考えた。
最終的に美咲を善き美咲に戻せば良い。藤木は〈理不尽を正す〉ターゲットに肉体的な害悪を加えようとか、社会的に再起不能なまでに破滅させようとか、強烈な罰を与えようとは思っていない。自分が受けたと同じ精神的ダメージを与えられればそれで良かった。
美咲を衆目の中で偽善者として徹底的に糾弾して〈理不尽を正す〉ことは、美咲を元に戻す手段と共通する。そこまでの荒療治をしなければ元の純粋な美咲には戻らない。美咲を元に戻す為と思えば恵子も協力するだろう。これが藤木の導き出した結論だった。
藤木は習慣となっている朝シャワーを浴び思考の緊張をほぐし、今日の行動予定の議員事務所に出勤した。
時間を見計らい恵子に電話をして昼食に誘い、みなとみらい線みなとみらい駅で待ち合わせた。
日本有数の超高層ビル、ランドマークタワー最上階のスカイラウンジ。
天上から眺めるが如き横浜港の眺望を見せてあげたい観光的気分もあったが、今日の深刻な話には気分を穏やかにする開放的雰囲気が必要だと思い、藤木はここを予約した。
長い黒髪に中間色を基調とした上品で洗練された服装。そこはかとなく漂わせる女性の艶やかさ。恵子の女の魅力なのか。自分が持つ女の好みに余りにも合致した恵子を見て、惚れたのは必然だと、みなとみらい駅で会った瞬間藤木は思った。
窓側の席に案内され窓外の景色を見た時、恵子は子供のようにはしゃいだ。
「わ~凄い。私、高い所って来たことなくて。スカイツリーや東京タワーにも行ったことないの。わ~、みんなちっちゃい。東京も見えるんでしょ。私の住んでるとこ、どの辺かな」
「好きなだけ見れるから座って。ここのランチはバイキングだから料理を持って来るよ。好き嫌いあったっけ」
「あっ、それなら私が」
「恵子は景色を楽しんでな。それで好き嫌いは?」
「済みません。好き嫌いは言いません。ご主人様」
恵子は冗談のつもりでメイド喫茶のメイドのような身振りをしたが、これがノーガードのカウンターパンチのような衝撃を藤木に与え、藤木の方が顔を赤らめ、おぼつかない足取りで料理を取りに行った。
料理を味わい会話を楽しんだ後、藤木は頃合いを見て本題を切り出した。
「俺さぁ、恵子に期待された、遠藤を元に戻す方法いろいろ考えたんだ」
「ごめんなさい。美咲のことなんて藤木さんに何にも関係ないのに」
「そんなことない。恵子にとって重大なことは俺にとっても同じだ。それに遠藤とは知らない関係じゃあないしな。遠藤が変わったのは店の売上が落ちてからって言ったよね。果たして原因はそれだけかな。売上が落ちるのを異常に恐れたのは何故かな。そりゃクラブを経営していて店が潰れるような状況になれば必死になるだろうけど、そんな状態だったの?」
「いいえ、売上が落ちても店は儲かっていた」
「六本木の有名クラブがそんなに簡単に潰れるはずないよね。必死になるる程の危機じゃなかったのに異常に恐れたのは、クラブの成功と遠藤の本能からじゃないかと思ったんだ」
「本能って?」
「本能って言うか、人間の本能そのものじゃなくて、本能に似た遠藤の性格の強さかな。遠藤は昔から向こうっ気が強くて負けず嫌いで、納得出来ないと男にも平気で突っ掛かって来た。自分は間違っていないと思ったら容赦はなかった。そんなはっきり物を言う性格が客商売で抑圧され鬱積した。大人になれば誰でもそうなると思うけど遠藤の場合は特別だな。ある意味アイデンティティーの喪失だ。だけど強い遠藤は負けなかった。店の売上が上がって有名クラブの仲間入り出来て、半端ない達成感を味わえた。自負心を満足させた。新たなるアイデンティティの確立だ。有名クラブのママになれば周囲からの遠藤に対する見方も変わる。クラブ経営が成功して、自分への強い自信を持てて、他の人から認められて社会的地位を得て。遠藤は成功者として有名クラブのママの気分を味わったんだ」
「アイデンティティーって自己、自分のことですか。ごめんなさい、無知で」
恵子は自分が頼んだことなので言葉を改めた。律儀な女だ。
藤木は格好を付け余計な横文字を使って、話を分かりにくくしてしまった軽薄な自分に舌打ちした。
「良く知ってるじゃない。分かりにくい言い方をしてごめん。アイデンティティーの喪失は自己主張とかそれまでの自分自身でいられなくなって、遠藤の主体性がなくなっちゃたこと。アイデンティティの確立は遠藤が有名クラブのママとして、それまで持っていなかった独自性を持ったこと。今言った社会的地位とか成功者の感覚かな。成功者になって最高の気分だったろうね。そんな気分は有名クラブのママでいないと持ち続けられない。売上が落ちたら有名クラブでなくなっちゃう。だから売上を落としたくなかった。だけど理由はこれだけじゃない」
藤木は考えを整理するように間を置いた。
「自己主張の強い遠藤の性格はそれだけで強烈な個性だよ。恐らく自負心も負けん気も人並み以上に強いんだろうね。負けん気の強さはクラブを成功させたことで分かるよね。俺の考えだけど、性格は自分では決められない。両親のDNAと育つ環境に影響されて決まる。両親も選べないし環境も選べないから、基本的には生れ付きで与えられた物だと思う。だから動物が生れ付き持っている本能に近い。本能は腹が減ったとかエッチしたいとか自然に湧いて来て感覚的だけど、この本能から生まれる欲求は人間の生命や生殖に関わるからものすごく強い。性犯罪とかがあるくらいだ。性格から生まれる欲求は個人差があるけれど、遠藤みたいに負けん気が強過ぎるとどうなるだろうか。遠藤は成功者になった。とてつもない充足感だ。そんな自分でいるのが危なくなった。絶対に成功者でいたい。成功者でなくなったら負けだと思った。負けたくない欲求が、体の中から湧いて来て、頭でコントロール出来ない本能と同じようになっちゃたら。強迫観念になって暴走しちゃたら。だから売上を落とさない為には何でもやろうとした。それが恵子には売上が落ちるのを異常に恐れたように見えて、遠藤がおかしくなったように思った。恵子はどう思う」
「藤木さんの話、本能とか難しくて良く分からないけど、美咲がどうして変わっちゃったのか、おかしくなっちゃたのか分かったような気がします。でもそれって藤木さんの考えですよね。本当に美咲の心がそうなったのかな。間違いないんですか?」
「そうだよね。人の心の中は分からない。俺の推測だ。だけどほぼ間違いないと思う。遠藤に接していてどうだった」
「確かに、店が成功してから自信に満ちてママの風格が漂って来て、それからはもう美咲に追い付けないと思いました。それで肝心の元の美咲に戻す方法は見付かったんですか」
恵子は期待に満ちた表情で藤木を見た。
「成功者になったからと言って、遠藤の本質は変わってはいなかったと思うんだ。生まれ持った良心も失っていなかったのだろう。人間の幅も出来て、包容力がある大きな人間になった。良い意味で変わったように見えた。だけどそれは本物ではなかったんだ。気分の良い状態が続いていただけだったんだよ。だからその位置から落ちそうになった時に人間が変わっちゃった。成功者の居場所は麻薬みたいなものだったんだろうね。すがり付く為には手段を選ばなかった。成功者でいたい気持ちは当然だよ。悪いことじゃない。負けず嫌いの性格が暴走したのは仕方がない。人間として間違ったのは、手段を選ばずやってはいけないことを平然としてやってしまったことなんだ。だから遠藤を変わる前の善い遠藤に戻すのは、大きな遠藤にするには、間違いを分からすことだ。ここまで分かるよね」
「はい」
「恵子や俺がいくら間違いを指摘しても、遠藤は何も聞こうとはしないだろうな。何故なら成功者でいることが何よりも絶対的に重要になって、人間が変わって、考え方が変わって、価値観が変わって、間違いと思わないようにしているからだよ。理屈では駄目だ。遠藤のハート、感性を揺さぶるんだよ。衝撃を与えるんだ。遠藤の良心はなくなっていない。深く眠っているだけだ。簡単には目覚めない。目覚めの悪い良心をたたき起こすんだよ。たたき起こすにはかなりのショックが必要となる」
美咲にショックを与えると言えば恵子もショックを受けると思い、藤木は言葉を切り、恵子を見詰めた。恵子の反応は早かった。
「ショックって何ですか。たたき起こすって、たたいて起こすんでしょ。美咲に暴力を振るうんですか。それはやめて下さい」
「たたき起こすって言葉を使っただけで、暴力なんて振るわないし、暴力じゃ解決しない。精神的にショックを与えるんだ。遠藤の良心を目覚めさせる為に恵子にやってもらわなければならない役目が二つある」
「精神的ショックって辛い思いをさせることでしょ。そんな思いをさせたくないし、私がするのはいやです」
恵子の眼差しがきつくなったのを見て少し感情的になっていると思い、藤木は言葉をやわらげた。
「良く聞いて欲しいんだ。これからやろうとしているのは俺達の自己満足の為かな。効果のないことやって元の善い遠藤に戻らなくても、出来るだけのことはやったんだ。だから仕方がないってあきらめる?」
「いいえ、あきらめたくない」
「だったらどうするの?」
「美咲が傷付かない他のやり方考える」
「どんなやり方があるの?」
「分からない。分からないから藤木さんにお願いしたんです」
藤木の質問攻めに恵子はいらついたように語気を強め、そんな自分を悔いた。
「ごめんなさい」
藤木も又、恵子と同じように悔いた。質問を重ね、相手の考えの矛盾を認識させようとした軽率な自分に。より感情的にしてしまった自分に。
「いや、余計なこと聞いちゃったね。俺が考えられたのは、今言ったやり方だけなんだよ。遠藤が例え一瞬でも傷付けば恵子も傷付く。恵子が美咲に辛い思いをさせたくないのと同じように俺も恵子に辛い思いをさせたくない。だから優しいやり方を考えようとした。だけど甘いやり方で遠藤に間違いを分からせるのは無理なんだよ。有名クラブのママでいることが全てと思い込んでいる。脳味噌を絞って考えても、凝り固まった思い込みをほぐすには厳しいやり方しかない。そう考えるしかなかった。俺のやり方が気に入らないなら、他の賢い人に頼ってもらうしかない。俺は恵子にふさわしい男ではなかったってことだ」
藤木はずるい手を使った。恵子の仕草を天性の恋愛術か、とか思っていながら引きの手管を仕掛けた。感情が理性に勝っている今の恵子には、恋情に訴えるしかないと思った。だが藤木に駆け引きの意識などまるでない。
「何でそんなこと言うの。私が頼れる人は藤木さんしかいないって知ってるでしょ。恵子には俺がいるって言ってくれたでしょ。馬鹿で我儘な私が藤木さんにふさわしくない女なのよね。そう思って嫌いになったのね。もうお終いなの? こんなことになるなら、今日来なければ良かった」
恵子はうつむき涙を隠すように両手で顔を覆った。
女の涙。女はすぐ泣く。だがこれも天性与えられた、か弱い女を演出する強烈な武器だ。嘘泣きだと分かっても男は戸惑う。嘘泣きはそこに打算がある。感情に翻弄され泣く時、そこに理屈などない。勿論恵子は嘘泣きではない。ピュアな恵子に涙は良く似合う。
すがって来ると思った恵子が引いてしまった。思わぬ恵子の反応に藤木は狼狽した。恵子の自戒的な性格故のことなのだが、狼狽している藤木に分かろうはずもなく、理性的であった藤木の感情が乱された。
「嫌いになったって、勝手に俺の気持ちを決めるな。昨日これだけ恵子を好きになって、今日嫌いになる訳ないだろう。馬鹿なこと言うな」
恵子は少し顔を上げ、上目遣いに藤木を見た。
「だって藤木さんそう言ったでしょ」
「いつ言った。嫌いになったなんて一言も言っていない」
「私を、言うことを聞かない駄目な女だと嫌いになって、自分がふさわしい男じゃないって言って、理由を付けて別れようとしたんでしょ。自分が駄目な女って良く分かっているから、嫌いになったってはっきり言ってもらった方がいい」
藤木は恵子が何で引いたのか分かった気がした。
常に自分を中心に考える。自己中心的なのではなく、自分の良し悪しを考える。相手を責めず自分を卑下する。こんな女がいたのか。欲まみれの世の中、何て損で愚かな性格だ。これまで随分損をして来たのだろう。だが自己卑下を直せば女としては最高に好ましい。これからは損はさせない。俺が守る。藤木は強くそう思った。
恵子の父親は、何事も人のせいにせず自分の責任を考えると言う信念を持っていた。だがそれは性格ではなく物事に対応する考え方だ。この考えが、幼い頃よりの恵子の性格形成に影響してしまった。内向きで自省的過ぎる性格を恵子自信は好きではない。だが父親の考え方は受け継いでいた。
藤木は上着のポケットからハンカチを出し、恵子の濡れた頬を優しく拭った。
「ごめん。俺の言い方が悪かった。俺の言ったやり方しかないのを恵子に分かって欲しくて突き放すような言い方をしてしまった。俺は恵子と別れたいなんて、これっぽっちも思っていない。それに恵子は駄目な女なんかじゃない。俺が初めて惚れた女は俺に最高にふさわしい」
きざっぽい台詞に恵子が思わず微笑んだ。藤木は恵子の手をきつく握った。思いが伝わるように。恵子も握り返した。それが恵子の答えだった。
料理を取って来た隣の席の中年女性が藤木達のテーブルに来て、いきなり声を掛けて来た。
「仲直りしはったんですか? 良かった良かった。気になってたんや。お似合いのカップルなんやから仲良うせなあかんで」
笑顔を振りまくおばはんに、二人はつられたように笑顔になり頭を下げた。おばはんはそれだけ言うと自分の席に戻って行った。
二人は目を合わせ笑った。二人を包む雰囲気が急に明るくなった。
恵子が小声で言った。
「私達の話みんな聞こえていたのかな。恥ずかしい」
「そんなことないよ。距離も離れてるし、BGMも流れてる。隣の席の会話聞えないだろ」
「でも、見られてたのね」
「深刻な喧嘩をしているように見えたんだろうね。余計なお世話だけど関西の人って何か良いよね。暖かくて」
「おせっかいだけど」
藤木は窓外の景色を見た。
「話に集中しっちゃったけど、この壮大なパノラマ堪能した?」
「ええ。でも、もっと見ていたい」
「あの水平線、地球が丸いって感じるよな。ここから景色見てると気持ちが大きくなっていろいろ悩んでるのが阿保らしくなる。なあ、恵子。大きな気持ちで行こうよ。いやなことをしなければならないのも、みんなが辛い思いするのも、遠藤の為なんだ。昨日、正しく直してやるのが親友の義務って言ったよね。その通り。遠藤をこのままにしといちゃいけない。恵子が大好きだった遠藤に戻ってくれればみんなハッピーなんだよ。恵子が大事な遠藤は俺にとっても大事な遠藤だ。純な遠藤に戻って欲しいと思ってる」
「ごめんなさい。藤木さんが真剣に考えてくれたのに冷静に聞けなくて。私耐える。美咲に辛い思いをさせたくないけど、それは美咲の為だって分かったし、藤木さんが一緒にいてくれれば耐えられる。私覚悟を決めた。ただ、まだ分からないことがあるの。美咲の良心を目覚めさせて元の美咲に戻すって言ったでしょ。美咲が辛い思いをしたらどうして良心が目覚めるの?」
恵子の単純な疑問だった。だが藤木にとって期せずして発せられた大きな質問だった。目的の成否を左右する、いずれ話さなければならないと思っていた大きな話だったが、藤木の中でまだ完全に整理されていなかった。
恵子の問いをはぐらかす訳にも行かず藤木は話した。
「精神的ショックって親しい人が死んだとか、信頼した人に裏切られたとか、辛いことだよね。遠藤が変わっちゃたのも恵子にとってショックで辛かった。俺が言うショックも辛いけど、ちょっと違うんだ。俺が考えているのは、遠藤のやった悪い行為を多くの人の前で明らかにすることなんだよ。店を守る為、負けない為を大義名文にして、良心を麻痺させ眠らせて、悪いことを悪いと思わないようにしているんだ。そんな間違った思いは自分の心の中や、同調する人間の中では維持出来るかも知れないけど、大勢の人に知られ非難されたらどうだろうか。人間は多勢に弱い。良心を眠らさせているだけで、心の奥底では悪いと分かっている。遠藤は特に正義感が強かったはずだ。悪いと認めるしかない。やったことを後悔する。人に秘め事を知られ、非難され辛い思いをする。だが一切同情はない。周りの人間は自業自得としか思わないだろう。この強いショックで遠藤の良心は目覚める。いつだったか、賞味期限や産地の食品偽装で騒がれた、名前は忘れたけどマスコミで謝った高級料亭の経営者も同じような……」
「そんな。美咲をさらし者にするの? そんなことをしたらプライドの強い美咲は元に戻るどころか、立ち直れなくなっちゃう。全然ハッピーなんかじゃない。酷過ぎる。絶対駄目。元の美咲に戻すのはあきらめる。美咲が幸せならばそれで良いの。美咲は今のままで幸せなんだから。美咲と別れて私が我慢すれば良いだけだから。お願い。もうやめましょう」
思いもしなかった藤木の話に愕然とした恵子は藤木の言葉を遮った。
途中で話を遮られてしまった。恵子に拒否感を持たせてしまった。藤木は十分に思慮せずに話してしまい、話の順番を誤ったと思った。
良き結末を先に話して、その為には過酷な手段も止むを得ないと納得させなければならなかったと後悔した。せっかく美咲にショックを与えることを納得させたのに無意味となった。
藤木は恵子を美咲の所業の証言者にしようと思っていた。だが恵子の拒否反応を見て思い知った。恵子が美咲を裏切るような行為をするはずがないと。
藤木は恵子の拒絶を翻させるべく話を続けた。
「恵子の気持ちは良く分かるから俺の話を聞いてくれ。ショックを与えてそのままにしたら、確かに遠藤は潰れてしまう。遠藤の為にやったことが元も子もなくなる。でも心配しなくていいんだよ。辛い思いをさせるのは少しの間だけだ。ここで恵子に重要な役目を果たしてもらう。遠藤は人から蔑まれていると感じ耐えられない思いになるだろうな。だけど何も反論出来ない。自分が悪い。反省もするだろう。その時には良心も目覚め元の遠藤に戻る。でも心に残るダメージは大きい。そこで恵子がフォローするんだ。遠藤がどれだけ素晴らしい人間かみんなの前で証言するんだよ。今回やったこともほんの心の迷いと思わせるくらいにね。今度高校の同窓会があってね。みんなを高校の時の仲間にしようと思ってる。赤の他人じゃない、遠藤が人一倍正義感が強いって知ってるから理解してもらいやすい。遠藤がどれ程過酷な人生を負けずに健気に頑張って生きて来たか、恵子への深い友情。そんな事実を知れば、気が強い金持ちのお嬢様と思っていたギャップもあって、みんなの心は動かされる。同情じゃなくて、友情を刺激されて応援したくなる。恵子が遠藤を窮地から救い出すんだ。遠藤の気持ちはどんなだろうね。恵子との絆はもっと深まって、楽しかった時の遠藤が戻って来る」
これでどうだとばかり藤木はしたり顔になった。
「美咲は他人に自分の過去を知られたくないと思う」
「今度は悪い過去じゃない。誰だって口に出さないけど自慢したいような過去がある。恵子が代わりに自慢してあげるんだよ」
「でも、何だか仕組んだようでいやだな。それにそんなにうまく行くの?」
「これまで面と向かって遠藤を誉めたり感謝したことがあった? ちょっとしたことはあっただろうけどね。素直に恵子の気持ちを遠藤に伝える良い機会だ。恵子の真心を話せば絶対うまく行くよ」
「さっき私の役目は二つあるって言ったでしょ。まだもう一つあるの?」
「いや、恵子の役目は主人公を救う優しいヒロイン役だけ。悪役は俺がやる」
「分かったわ、やってみる。あっ、でも駄目。藤木さんが悪役と言うことは、みんなの前で美咲のやったこと言うの藤木さんなんでしょ。美咲からもみんなからも嫌われちゃう。憎まれ役になっちゃう。そんなのいや」
「大丈夫だよ。心配しなくて良い。高校の時に遠藤やクラスの連中に嫌われるようなことがあってね。元々嫌われていたから全然問題ないよ。今寂しい高校時代って思った? 俺だって仲良かった奴はいたさ。酒井とか数人だけどね」
「嫌われるようなことって何があったの?」
「ちょっと、やんちゃしっちゃっただけだけどね。遠藤何か言ってた?」
「何も。『あの藤木君がうちの良いお客様になるなんてね。恵子気に入られているみたいだから気張ってよ』って言われたくらいかな。美咲にとって高校の友達もただのお客様なのね」
「今の遠藤ならそうだろうな」
「藤木さん、嫌われていると思ってるのに何で美咲に会いにクラブに来たの?」
「昔の話だし、酒井に誘われてね。だけど来たからこそ恵子に巡り合えた。ああ、俺は遠藤が嫌っていた男だから、しばらくは俺達のこと言っちゃ駄目だよ。遠藤に邪魔されるかも知れない。憎まれても、時間を掛けて俺のこと分かってもらうよ」
恵子は表情から笑みを消した。
「藤木さん。私達の為にこんなに一生懸命考えてくれて、馬鹿な私の言うことにも一つ一つ応えてくれて、本当にありがとう」
恵子は頭を下げた。
「恵子の為は俺の為さ。絶対うまく行くようにしっかり準備しよう。ほら見てごらん」
藤木は窓外の雲に目を向けた。空に浮かぶ雲が二人にはハートの形に見え、恵子がくすっと笑った。
藤木は、恵子の売上は自分の知り合いを動員してでも確保するから心配するな、美咲との間はしばらく耐えるようにと恵子に言い、二人はスカイラウンジから地上に降り別れた。
藤木は議員事務所へは戻らず行き付けの喫茶店に寄った。クラシック音楽と挽きたてコーヒーの深くかぐわしい香りと味わいで、恵子の説得で高ぶった心をなごませ、これから成すべきことを考えようとした。
今日新たなる問題が発生した。証言者を誰にするか。藤木は考えた。クラブを辞めたホステスは多くいるようだ。探偵社からの報告書に記載されている。その中で美咲を恨んでいる女も少なからずいるだろう。再調査して恨みの深そうな女をピックアップして金の力で証言者に仕立てる。他の手立ては。美咲を騙して消えた男を見付けてやろう。余計な金が掛かるが目的の為には止むを得ない。
藤木は目的を思った時、美咲が哀れに思われ可笑しくなった。
美咲の為に善き美咲に戻す。そんなことは気分良く生きている美咲にとって、大きなお世話でいい迷惑ではないか。犯罪者になる訳でもない。放っとけと言うだろう。
美咲の為ではない。恵子の為だ。美咲が変わり、軽くなってしまったと思った美咲の中での恵子の存在感を取り戻そうとした、元の美咲に戻れば自分も元に戻れると思った恵子自身の願望だ。美咲にとっての恵子の重みは変わっていないかも知れないのに。
恵子の為に善き美咲に戻し、自分の〈理不尽を正す〉目的を果たし、恵子に感謝され、恵子が喜んでくれれば最高の結末であると藤木は思った。
藤木の思惑通りの結果になったら、意に反し善良な自分に戻されてしまう美咲は、皮肉にも藤木に憎き美咲への意趣返しをさせたことになる。
藤木は考えをまとめ喫茶店を出ると、外は夕暮れが迫っていた。クラブへ行きたいと思ったが(ガキじゃねえんだ)とつぶやき、衝動を抑え議員事務所へ向かった。