遠藤美咲の人生、変転
[一]
事件から一年後、遠藤美咲は東京の有名女子大学に通っていた。
美咲は女子大生になり服装が変わったが清楚さは失わず、目鼻立ちのはっきりした、持ち前のあでやかさを感じさせる女になっていた。
父親は横浜の地場中堅企業の社長で、これまでは社長令嬢として何不自由ない生活をして奔放に育って来た。
美咲は偶然、大学で樋口恵子に再会した。
恵子とは幼馴染で中学一年までは大の仲良しだったが、親が離婚した恵子は母親が実家に戻ることになり転校して行った。母親の親は群馬の土地持ちの資産家で、恵子も何不自由なく育って来ていた。
転校してしばらくは手紙のやり取りをしていたが、一年後くらいから疎遠になっていた。
二人は再会を喜び、偶然に感謝した。
正義感が強く勝気な性格の美咲と、奥ゆかしく女らしい性格の恵子。
二人が持つ醜い人間性を疎ましく思う感受性。少女の頃は意識していなかったが、相反する性格による相性と、好悪に対する共通した基本的感性が、六年のブランクを払拭し互いを仲良し以上の存在にした。
恵子が恋をした。美咲も参加した合コンで会った男に恋をした。
恵子はかなりの美人なのだが、いわゆる眼鏡美人で、眼鏡による真面目な印象と、薄い化粧、地味な服装、おっとりした振る舞いから合コンで持てたことはなかった。
相手の男は、髭面でファッションも何も気にしていない、今時珍しい蛮カラな男で、蛮カラを気取ってる風もなく、美咲にはどう見ても合コンの人数合わせに召集した男としか思えなかった。
人の好みは分からない。美咲は恵子の好みを聞いたこともなかったが、こんな粗野な男に惹かれるとは思ってもいなかった。
常日頃、純粋な恵子が変な男に引っ掛かるのではないかと心配していたが、純朴さを感じさせる男に美咲は、恵子にふさわしいのかとも思った。男も外見から察する恵子の内面を好ましく思ったようだった。
男の名前は雨宮譲二。有名国立大学の四年生、空手部の猛者だ。
彼氏いない歴十九年、彼女いない歴二十一年の二人の進展は早かった。
知り合ってからすぐに雨宮は恵子のマンションで一緒に暮らし始めた。
恵子は甲斐甲斐しく雨宮に尽くした。美咲は当初、まさに美女と野獣のカップルであると思ったが、二人を見て行くうちに羨ましさを感じ、恋愛も悪くはないと思わされた。
美咲と恵子は村田恵莉からカラオケに誘われた。
恵莉は恵子と同じ高校のクラスメートで、高校の時はそれ程親しくはなかったが、同じ大学に入学した関係で友達付き合いをしていた。
行き付けのカラオケ店に絵莉は先に来ていた。二人は部屋に入り、恵子が夕食を兼ねた食事のオーダーをしていると、見知らぬ若い男三人が部屋に入って来た。
美咲は男達に驚き、声を荒げた。
「あんた達、部屋間違えてんじゃないの? 早く出て行って」
茶髪の男が首をすくめて言った。
「お~、恐え」
「美咲、驚かせてごめん。さっき店の前でナンパされちゃって、後で来てって言っておいたの。女の子三人じゃつまんないでしょ。男の子がいた方が楽しいよ」
二十代前半、それぞれ茶と金と銀に染めた髪。お前等オリンピックのメダルか、美咲には女や酒や刹那的な快楽にうつつを抜かす馬鹿で軽薄な男共に見えた。一番嫌いなタイプの男達であった。だが、恵莉に恥をかかせる訳にも行かず黙ってうなずいた。
美咲と恵子は酒を飲まなかったが、恵莉は酒を飲み男達と馬鹿騒ぎをして、ノリが悪いと言って、二人に自分達が飲んでいる強い酒を強引に飲ませようとした。拒絶すると、子供だから飲めないのかと自尊心を刺激され、勝気な美咲は酒を一気飲みした。美咲に従い恵子も酒を呷った。
しばらくして、美咲は眼に映る光景が視野狭窄したように狭まり、歪み、ぼやけて来たことを自覚した。両親も酒は飲まず、酒とは無縁の美咲が泥酔するのは早かった。家に帰ろうと立ち上がろうとしたが、足に力が入らずソファにへたり込み美咲の意識は消えた。
恵子は美咲と同様に泥酔したが、酒に強い家系の遺伝的要因か、辛うじて意識は失わずにいた。
二人の状態を見た恵莉は、介抱するように男達に二人を抱きかかえさせカラオケ店を出て、あらかじめ用意してあった七人乗りRVに乗せた。
恵莉は妬み心の強い女だった。金儲けに執着する両親に、物だけ与えられて放任的に育てられ、倫理感や正義感は欠落していた。高校時代は自分の美貌と成績を自負する恵莉であったが、どうしても勝てない恵子の美貌、学業成績に強い妬みを持っていた。
同じ大学に合格したことを知った恵莉は、どこまで自分に付きまとうのかと恵子が疎ましく、避けようと思ったが、恵子と楽しそうに談笑する美咲を見て恵莉の心に初めて憧れのような気持ちが芽生えた。
スレンダーでモデルのような体形。あでやかさと可愛らしさを併せ持つルックス。自分が持っていない全てを持っている。恵莉に取って美咲は、恵子のような妬みを持つ次元の存在ではなかった。話してみたいと思った。自分から恵子に近付いた。
何度か三人で遊んだ。美咲の恵莉に対する態度は素っ気なかった。恵莉は美咲に自分が見透かされているように感じた。あくまでも自分を恵子の友達として扱い、美咲の友達としては接してくれなかった。その癖、恵子には細やかな心遣いをする。
恵莉の妬み心が疼いた。そして妬み心が美咲への恨み心を生み、美咲への憧れが恨み心を膨張させた。二人を滅茶苦茶にしてやる。
最後部シートに美咲と恵子を乗せ、恵梨と茶髪の男は二列目シートに乗った。
美咲を見て茶髪の男が言った。
「恵莉に写真を見せられてからやりたいと思ってたんだよ、たまんねえな。でもやっちまって大丈夫か? この女、気が強そうだけど、強姦罪なんて言っておまわりが来ないだろうな」
「だからエッチしてる写真撮っておくのよ。いい所のお嬢様だったらそんな恥ずかしい写真ばらまかれたくないでしょ。それから私も被害者だからね。あんた達にナンパされて、カラオケやって、あんたに私の部屋で飲み直そうって言われて、私も酔わされてやられちゃった。私は悟郎のことを何も知らない。いいわね」
恵子は朦朧としていた。頭蓋に反響する谺のように二人の会話を聞きながら本能的な恐怖を感じ、眼を開け、のろのろとバッグから携帯電話を取り出し、不確かな意識下で何とか雨宮に電話をした。
発信音が鳴り、雨宮が電話に出た。
「恵子か! 大丈夫か? どこにいる?」
恵子はか細い声ですがるように言った。
「たすけ」
「何やってるのよ」
話した言葉までは分からなかったが恵梨は恵子の声に気付き、携帯電話を引っ手繰り、通話を切り最後部シートに投げ捨てた。その時恵子の意識は遠ざかり、二人は恵梨のマンションに連れ込まれた。
二人はリビングルームの床に並んで寝かさせられていた。
男達は恵梨がシャワーを浴び終わるのを、お預けをされた犬のようにおとなしく待っていた。
恵梨が部屋着に着替え、バスルームから出て来て金髪の男に抱き付きキスをして、舌でうなじを愛撫され喘いだ。
これがお預け解除の合図になったかのように、男達はそれぞれ美咲と恵子に抱きついて体をまさぐり始めた。
その時、恵莉の高ぶりを邪魔するように玄関のチャイムが鳴った。
恵莉は無視をしたが、何度もしつこくチャイムが鳴らされる。 恵莉は不快そうに男から離れ、オートロックなのに誰が直接玄関まで来たのかと、ぶつぶつ言いながら玄関に行きドアスコープを覗くと男が立っている。横を向いていて顔は見えない。
「何ですか?」
「下の階の部屋の者なんですが」
「何の用ですか?」
「洗濯物が風でベランダに飛んで来て、お宅のじゃないかと思いまして」
恵莉は玄関のドアを開けた。
雨宮は恵子から、アルバイトが終わったらカラオケに来るように誘われていた。
カラオケ店に来て携帯に電話したが出ない。受付で恵子の写真を見せて確認をしたら、恵子は来ていたが、少し前に恵子ともう一人の女性が泥酔して、若い男達に抱きかかえられて出て行ったと店員が言った。男達の人数は三人。
酒など飲まない恵子が泥酔するはずがない。異常を察知した雨宮は焦り、追い掛けようと店の外に出たが、恵子がどこに行ったのか分からない。
そんな時、携帯電話が鳴った。恵子からだ。
「恵子か! 大丈夫か? どこにいる?」
「たすけ」
「何やってるのよ」
消え入るような恵子の声と強圧的な女の声、そして電話は切られた。リダイヤルしても電話は掛からない。女の声に聞き覚えがある。
恵子に危機が迫ってることを確信し切迫した雨宮は、方向音痴で道に迷うから、と恵子にGPS機能付き携帯電話を持たせていたのを思い出した。過度の心配性の雨宮は位置確認の設定もしていた。携帯電話を取り出し位置確認の地図を表示させた。何度も再表示させながら自分の車を飛ばし後を追い、恵子の居場所に追い付いた。
恵子の居場所に記憶があった。一度来たことがある。友達の恵莉の住むマンションだ。この時、雨宮は女の声の主に思い至った。恵梨だ。何で恵梨が恵子に危害を加える。理由の詮索はどうでも良かった。早く恵子を助けなければ。
恵子は恵莉の部屋にいると確信した雨宮は、オートロックドアーが開くのを待ち、居住者が中に入るのに紛れ恵莉の部屋の玄関に来てチャイムを押した。
雨宮の頭の中には恵子しかいなかった。恵子の無事を切望し反応を待った。だが反応がない。何度もチャイムを押した。
「何ですか?」
恵梨の声がした。
雨宮はドアーが開いた瞬間に部屋に飛び込んだ。恵莉が驚愕の表情で雨宮を見た。恵子の姿を求めリビングルームに突進し、驚くべき光景を目の当たりにした。
恵子の上半身の服がはだけ、男が覆いかぶさっている。雨宮は逆上した。男の顔面に容赦ない強烈な蹴りを食らわせた。一発で男は昏倒した。突然の事態に狼狽した他の男達は玄関に逃げようとした。
雨宮は男達を追った。だがそれは喧嘩慣れした男達のフェイクだった。逃げると見せ掛け反転してタックルを仕掛け、雨宮は辛うじてタックルを外し、男は勢い余って窓に突っ込み、ガラスを破ってベランダに飛び出て動かなくなった。
バランスを失った雨宮にもう一人の男が飛び付き、持っていたナイフで雨宮の胸を刺した。雨宮は倒れながら渾身の力を振り絞ってハイキックで男の頭を打ち抜き、男は昏倒した。恵莉は体を震わせ呆然として、リビングルームのドアの側に座っている。
今までの壮絶な争闘が嘘のように部屋は静まり返った。雨宮は這うようにして、眠っている恵子の所に行き、服の乱れを直して救急車を呼び、警察に通報して、恵子の手を強く握り締めた。
「恵子、無事で良かった」
痛みに歪んだ顔に安堵の色を浮かべ恵子を見詰めていた雨宮は、救急車の中で息絶えた。
男達は殺人、暴行、監禁の容疑で逮捕され、恵莉は教唆、幇助の容疑で拘留された。
恵子は毎日泣き濡れていた。美咲と共に急性アルコール中毒の治療で入院している時に、愛する人が自分を救う為に殺された事実を知らされ、恵子は半狂乱になった。
美咲は恵子がこのまま狂ってしまうのではないかと心配した。しばらくして恵子は落ち着いたが、無反応で一点を見詰め、時折無言の涙が頬を伝う恵子を見て、病室を訪れた者は慰めの言葉も見付からず、皆心を痛め帰って行った。
恵子の心は雨宮の姿が占有している。雨宮の笑顔が、優しい言葉が思い浮かぶ度に涙がこぼれた。
(会いたいな~。辛いな~。私が死んだ方が良かった。何で譲二が死んじゃたの? 刺されて痛かったよね。死にたくなんかなかったよね。可哀想な譲二。何もしてやれなくてごめんね。会いたいな~。死んだら会えるのかな~)
何日か後、無意識に脳裏に恵莉の声が谺した。恵子は思い出した。朦朧として聞いた恵莉の会話を。友達だと思っていた恵莉が何であんなことをした。自分が恵莉を友達として受け入れた為に、美咲を危うい目に合わせ、一番大切な人を失ってしまった。全ての元凶の恵莉がたまらなく憎かったが、それ以上に自分が許せなかった。譲二に謝ろう。美咲に謝ろう。だが、譲二は自分のせいで死なせてしまってもういない。
雨宮を失った辛さに、その原因が自分にあると思う悔恨が重なった。二重の苦しみが恵子を苛んだ。ただ恵莉を憎み、恨み、憎悪のエネルギーを燃焼させれば、絶望が恵子の心に巣食うことはなかったのであろうが、恵梨への憎悪より雨宮への償いの気持ちがまさった。恵子はそんな自戒的過ぎる女であった。償うにはどうしたら良いのか。恵子には自らの死しか思い浮かばなかった。あっちの世界で雨宮に会えるかも知れない。
恵子の精神は極めて危険な状態にあった。そんな時に雨宮の親友が病室を訪れた。
恵子は精神錯乱状態にある訳ではない。精神がある一点に収束されているだけだ。正常な受け答えは出来る。
親友の名前は永田治。短髪で日焼けした膚が似合う、凛々しい顔立ちをした青年だった。雨宮とは小学校以来の付き合いで、勉強嫌いの永田は大学には行かず、跡を継ぐつもりで親が経営するぶどう園で働いていた。
退院を許され、物思いに沈む恵子を気遣いながら美咲が退院の支度をしている時に、二人部屋の病室のドアがノックされた。
「どうぞ」
ドアの側にいた美咲がドアを開けた。
病室に入って来た見知らぬ男を見て美咲はいぶかしんだ。恵子は何も反応しない。
「どなたですか?」
永田は若者特有の、軽く頭を下げる仕草をした。
「俺、雨宮のだちで永田って言います。突然来て済みません。恵子さんにどうしても話したいことがあって。あんたが恵子さんじゃないですよね」
「私は遠藤美咲、恵子の友達です。ベッドに寝ているのが恵子です。雨宮さんが死んじゃったショックで、今人と話せる状態じゃないんです。せっかく来てもらったのに済みませんが、今日は帰って下さい」
「やっぱそうですか。だから来たんです。雨宮は恵子さんがそうなることが分かってました。雨宮の遺言です」
「どういうことですか?」
「恵子さんに直接話します」
永田は遮るように立つ美咲をよけるようにして、ベッドまで行き恵子の前に立った。恵子は視線を向け永田を見詰めた。
「恵子さん。俺、永田治。雨宮から聞いていたかな」
恵子は会ったこともないのに懐かしそうな顔をした。
「おさむちゃん? 譲二がいっぱい話してくれた。今度山梨に帰って会わせてくれるって言っていたのに」
恵子の表情が曇った。
「そう、ジョーから最高の彼女に会わせて羨ましがらせてやるって言われてたんだ。こんなことになるなんてな。やり切れないよ。ジョーのこと本当に残念で悔しくてたまらない。俺より恵子さんの方が辛いのは良く分かっている。恵子さんが苦しむってジョーも心配していたんだ」
「えっ、どうして。譲二は自分が死ぬって分かっていたんですか? 死ぬ前に譲二と話したんですか。教えて下さい」
恵子はすがるような眼をした。永田は携帯電話を取り出し、受信メールを表示させ恵子に見せた。
「生きているジョーが最後にくれたメールだよ。恵子さんを物凄く心配しているんだ。俺がジョーの気持ちになって読むからね」
永田は雨宮になったつもりでメールを読み始めた。
おさむちゃん ちゃんと電話
に出ろよ
俺まじやばい 胸刺されちま
った いて~ このまましん
じゃうかも
刺した野郎はのしてやったん
だけど油断しちゃったよ
ちくしょう 恵子にひどいこ
としやがって
俺死ぬつもりなんかないけど
死んじゃったら死に切れない
んだよね恵子が心配で
おさむちゃん 恵子のこと頼
むよ 恵子って何でも自分が
悪いって思う女で お前は悪
くないっていっても自分が悪
いって思っちゃう女で 俺が
死んだだけでも辛いのに自分
を助けるために俺がしんだな
んて思ったら俺に悪いって恵
子もじゃうかも 俺がしんじ
ゃたら恵子に言ってくれ
俺は恵子を守られて最高に
幸せだ 俺が好きだったら俺
に悪いからなんて死んだりす
るなよ 死んだらもっと俺に
悪いぞ 俺は恵子が大好きだ
だから俺の分まで恵子に生き
て欲しい 恵子が死んだら俺
は恵子が大嫌いになるぞ わ
かったな 俺にいつまでも好
きでいて欲しければ楽しく生
きろ
死んじゃった俺からこんなメ
ールきても恵子まともに読め
ないだろう だからおさむち
ゃんに送る おさむちゃん
悪い 頼む ありがとう
永田は込み上げる涙を抑えようと、言葉を詰まらせた。
俺が生きていられたら恥ずか
しいからメール消してといて
くれよ 恵子に絶対見せるな
よ
読み終え、永田は優しい眼差しで恵子を見た。
恵子は雨宮がそこにいるかのように、眼を涙で濡らして永田を見詰めていた。
「ジョーの遺言みたいなもんだ。遺言って意味分かるよね」
「遺言書とかの?」
「ジョーが自分が、死んだ後の恵子さんが心配で言い残した言葉だよ。ジョーの切実な願いだ。死んでも死に切れない心残りだ。自分が死ぬかも知れないのに思うのは恵子さんのこと。それって死ぬ程恵子さんが好きだったってことだよな」
恵子は手で顔を覆って嗚咽した。永田は恵子の感情を高ぶらせるつもりもなく、少し狼狽したが気を取り直し言った。
「ジョーの気持ち分かるよね? 言うことを聞くよね?」
恵子は真剣な眼差しで永田を見詰め、こくりとうなずいた。
自分と違い、女に興味を示さなかった雨宮がなんで恵子を好きになったのか、永田は分かったような気がした。
携帯電話番号を交換し、雨宮のメールを転送し、又会いに来ると言い永田は帰って行った。
死ぬ間際まで自分を思ってくれていた。恵子は雨宮の愛の深さを知り心が震えた。そんな雨宮が残した言葉に素直に従おうと思った。償うのは雨宮の言う通りにすることだと思った。
恵子から悔やみの苦しみが消えた。雨宮を失った苦しみは残ったが、雨宮の残した言葉で少し前向きになれた。少し苦しみがやわらいだ。
その夜恵子は夢を見た。夢の中で譲二は優しく微笑んでいた。
(恵子、死んじゃってごめんな。俺がいなくても楽しく生きろよ。俺は恵子の笑顔が大好きだ。恵子がいつも笑顔でいてくれることが一番嬉しいんだ)
眠る恵子の眼から幾筋もの涙が流れ落ちた。
美咲は意地で飲めぬ酒を飲んで、雨宮を死なせてしまった自分を恨んだ。謝ろうにも雨宮はもういない。自分に出来ることは、雨宮が愛した恵子を立ち直らせて笑顔を取り戻させることだと思った。そうしたら雨宮も許してくれるだろう。恵子は親友だ。自分の気持ちも恵子を救うことを心から望んでいる。
美咲は決意した。情緒不安定な恵子を一人にしては置けない。あらぬことを考えるかも知れない。退院と同時に強引に恵子を自分のマンションに住まわせた。大学の講義も休み常に恵子の側にいるようして、献身的に恵子の世話をした。
美咲の愛情を深く感じた恵子は美咲に感謝し、少しずつ笑顔が見られるようになった。
[二]
事件からしばらくの時が経過した。雨宮は常に恵子の心にいた。
恵子は変わらず美咲の住むマンションで暮らしており、美咲は恵子の精神的安定に注力していた。美咲には恵子の心の傷も少し癒えたように思えたが、時折恵子が見せる涙に心が痛んだ。
恵子が大学に通い始め、二人に普通の女子大生の生活が戻った頃、美咲に父親の悟郎から携帯に電話が掛かって来た。
話があるから家に帰って来いと言う。切実な話のようなので夕方、横浜の実家に向かった。
美咲の実家は横浜の山手に建つ、母方の祖父の代から続く広壮な邸宅であった。
悟郎は夕食を用意して待っていた。勿論、悟郎が作りはしない。雇っている家政婦の調理だ。
悟郎は中年になってもスリムな体型を維持しており、渋い性格俳優のような相貌が女子社員からの人気を集めていた。その相貌が憔悴の色を湛えていた。
家に帰った美咲は久し振りに会った父親が、冴えない表情をしているのが気になった。
何かあったのか。悟郎が料理を出させようと家政婦を呼ぶのを止め、美咲は着替えもせずにテーブルのいつもの席に座ると、心配そうに悟郎を見詰め聞いた。
「何かあったの、お父さん。顔色が悪いよ」
「そう見えるか。いやまいったよ」
悟郎の話す声に力がなかった。
「何か悪いことでもあったの?」
「お母さんのことなんだ。実はな、お母さん家を出て行ってしまったんだ」
「どういうこと。喧嘩でもしたの。お母さんの実家ここだし行く所ないでしょう。お父さんが出て行くんじゃないの」
「そうだよな。お父さん婿養子だし。そんなこと言ってるんじゃない。どこかの宗教に入って出家してしまったようなんだ。美咲には話しておかないといけないと思ってね」
「出家って何?」
「坊さんになることだろう。詳しい意味を調べたら、世俗を離れ家庭生活を捨て仏門に入るってことって書いてあったが、お母さんの場合は、世俗から宗教に逃げ込んでしまったんじゃないかな」
美咲はカルト教団を思い出した。
「そんな、洗脳されてカルト教団に入っちゃったの?」
「洗脳とかカルト教団とか過激な話じゃないんだ。お父さんが悪いんだよ」
「どういうこと? お父さんがお母さんに何をしたの?」
「浮気がばれちまったんだ」
「何やってんの、最低。お父さんは浮気なんかしないって思ってたのに。男ってみんなエッチなことしか考えてないのよね。不潔」
「美咲に軽蔑されても仕方ない。だがエッチしたくて浮気した訳じゃないのは分かって欲しいな」
悟郎は人並み以上に娘を愛し、美咲の一番の理解者であろうとした。美咲もそう思っていた。幼少の頃からコミュニケーションを欠かさず、嘘偽りなく本音を率直に語り合える親子だった。
美咲は東京で暮らすようになってからも月に一度は実家に帰っていたが、ここ数ヶ月は帰っていなかった。だがメールのやり取りはしていた。
美咲は、何でも自分の思い通りになると思っている母親の千鶴に反発し、千鶴と似た性格もあってお互いが自分を譲らず、言い合いが激しくてそりが合わず、仲良しの友達のような母娘にはなれていなかった。
「まあ、女王様みたいなお母さんに婿養子のお父さんだから、お父さんが可哀想と思ってはいたけど、どんな理由があっても浮気は浮気。夫として最低の裏切りだよ。お父さんは優しくて、強くて、本当の男と思っていたけど浮気に逃げるなんて幻滅だな」
厳しい美咲の言葉に悟郎は消沈して声が小さくなった。
「美咲に駄目男って思われちゃったか。自業自得だな」
「ううん、駄目男なんて思ってないよ。まだ普通の男より上。そんなに落ち込まないで。お父さんって分かり易くて可愛い」
「親をからかうんじゃないよ」
悟郎は苦笑いをした。自分の娘に軽くあしらわれているように思ったが、世間知らずの娘が成長したものだと悪い気はしなかった。
「お母さんと宗教。どうしても結び付かない。それに、あの気の強いお母さんが浮気くらいで宗教に逃げ込んだりしないと思う。お母さんが出家するって言ったの」
「いや、昨日帰って来たら、この置き手紙と浮気の証拠写真が置いてあった。宗教との関わりは分からないけど、お母さんにはお父さんにしか見せない脆い所もあるんだよ」
悟郎は置手紙を美咲に見せた。
私は出家します
あなたの世話には金輪際なりません
「何これ。お母さんの字よね。かねわさいってどう言う意味?」
「こんりんざいって読むんだ。絶対って意味かな」
「何が何だか分からない。やっぱり宗教に無縁だったお母さんが出家するなんて信じられない。お父さん、お母さん誘拐されたんじゃないの? 警察に連絡した?」
美咲は千鶴が書いた置手紙を見て現実を認識し混乱した。
「誘拐だったら置手紙なんか残さないだろ。誘拐なんかじゃないよ。志乃さんに聞いたら、迎えの車が来て大きなバッグを持って出掛けたと言っていた」
「何で何も言わずに出て行っちゃったのかな。どこの宗教に出家するくらい書いておいてくれればいいのに」
「それ程お父さんに会いたくないんだろうな」
「私にも会いたくないってことでしょ。家族の縁を切ろうって言うの。それって宗教のマインドコントロールだよ、絶対。どうしてもお母さんを探さなくちゃ」
美咲は焦燥感をあらわにした。
そんな時、家政婦の志乃が部屋に入って来た。
「お嬢様、お帰りなさいませ。旦那様、そろそろお食事になさいますか。あっ、まだお話中でしたか。失礼しました」
志乃は二人に深刻な雰囲気を感じ出て行こうとした。美咲が呼び止めた。
「志乃さん、母が出掛ける時に誰か来ました?」
「はい。奥様に電話が掛かって来まして、お出掛けになると言われるので、玄関までお荷物を持って行きました。玄関を開けたら、時々お見えになる女性が入って来られて、お荷物をお持ちになり、一緒に出て行かれました」
「その女性って誰か分かります?」
「はい。前お見えになった時、幼馴染のお友達とおっしゃっていました」
「名前を聞いていませんか?」
「みっちゃんって呼んでいらっしゃいましたね」
「志乃さんありがとう。食事はもう少し待って下さい」
志乃は会釈をして部屋を出て行った。
「お父さん、手掛かりあったよ」
美咲は千鶴の部屋へ行き、デスクトップパソコンの電源を入れた。
みっちゃんからのメールは来ていないか。メールソフトを起動させたが受信メールはなく、携帯電話のメールを使用していると思われた。
母親が年賀状ソフトを使っているのを思い出し年賀状ソフトを探した。
デスクトップにアイコンを見付け住所録を画面に表示させた。住所が近所で頭にみの付く名前の女性。三人が該当した。美智子、光子、美穂。
次に、年賀状そのものを探そうとした。幼馴染と推測されるコメントが書いてあるかも知れない。
母親は、性格の似ている自分と同じような整理の仕方をすると思った美咲は、祖母の代から受け継がれて来た高級桐たんすの、左右に引いて開閉する引き戸を開けた。
美咲の思った通り年賀状はケースに整理され仕舞ってあった。年賀状は三年分あり美智子、光子、美穂の名前を見付けたが、幼馴染と推測されるコメントはなく美咲の思惑は外れた。
他の引き出しも開けたが、三人との関わりを示す物はなかった。
住所録には電話番号がインプットされていた。美咲は三人に直接電話して確認するしかないと思い住所録をプリントした。
ついでに見たフォルダに大きな手掛かりを発見した。フォルダ名がマイピクチャのフォルダを開いてみると、写真データが整理登録されていた。
一枚づつ写真を見て行くと、二階建てで、美咲の印象では保育園のような建物の門の前で、母親が同年代に見える中年女性と二人で写っている写真があった。門に書かれた施設の名称は二人の姿に隠れ見えなかったが、最後の二文字だけが読めた。
〔教団〕
美咲は写真に写っている中年女性がみっちゃんであると確信した。だが何教団なのか分からない。写真を凝視した。門の側に立つ電柱に眼が止まった。電柱に付けられた広告看板の下部に住所の文字があった。
インターネットで地名辞典と地図から教団名を探し当てた。
「やっと見付けたよ」
隣で美咲の作業を見ていた悟郎に、写真と教団のホームページをプリントして渡した。
「すごいな美咲」
「写真があって良かった。住所録の三人に直接電話するしかないと思ったけど、余計なこと話したくないし、この教団に直接行って、写真の人にお母さんに会わせるように言った方がいいんじゃない?」
「そうだな。明日行ってみるよ」
「私も行くから」
念の為志乃に写真の女性がみっちゃんであるか確認し、翌日教団を訪れた。
二人は大きな下足入れが置かれている玄関に入り、悟郎が大きな声で人を呼んだ。
「御免下さい」
引き戸を開け三十代と見える女性が出て来た。悟郎は写真を見せて、みっちゃんを指差して聞いた。
「済みませんが、この女性はこちらにいらっしゃいますか?」
写真を見た女性の表情が動いた。
「はい、おりますが何か」
「お会いしたいのですが、お取次ぎ願えますか?」
「あの、どちら様ですか?」
「申し遅れましたが、私はこの写真のもう一人の女性の夫の遠藤悟郎と申します。これは娘の美咲です」
「お待ち下さい」
女性は玄関から立ち去りしばらくして戻って来た。
「どうぞ」
スリッパを二足置き、承諾の意思表示をして二人を応接室へ案内した。応接室のソファに座って待っているとコーヒーが出された後、みっちゃんが入って来た。
ふくよかで柔和な表情からは、母親をマインドコントロールで出家させた恐ろしい女に見えないと美咲は思ったが、これが曲者だとも思った。
みっちゃんは立ったまま名刺を悟郎に渡した。
「神崎美智子です」
悟郎も立ち上がり自分の名刺を渡した。
「遠藤悟郎と申します。これは娘の美咲です」
三人がソファに座ると、間を置かずに悟郎が言った。
「私達がお伺いして、神崎さんに会わせていただいた理由はお分かりですね?」
「さあ、何でしょうか」
美咲が声を荒げた。
「とぼけないで。母を返して下さい」
「美咲、落ち着け」
感情的になったら話が進まない。悟郎は美咲をたしなめた。
「千鶴さんに会いに来られたのでしょう。ご主人も娘さんも千鶴さんからお聞きして良く存じ上げております。でもわざわざ私に会いに来られた理由は分かりません。何か勘違いされていらっしゃるんじゃないですか。私が千鶴さんの行動を制御しているとお考えですか? とんでもない。千鶴さんは、ご自分の苦しみをやわらげたくてこちらに来られたのです。千鶴さんにお会いなりたければ私など通さず、ここの誰に言って下さってもよろしいのですよ。ですが、千鶴さんが会おうとされるかどうかは別ですけれどね」
千鶴を連れ出し、何のやましさも感じていない平然とした美智子の話し振りに、悟郎は怒りと同時に美智子のしたたかさを感じた。
「妻は自分の意思でここへ来たと言うんですか」
「お会いになってご本人に聞いてみて下さい」
「会わないとおっしゃったでしょう」
「お会いになるか分からないと言ったのです」
「母はあなたにマインドコントロールされているんです。早く返して下さい」
美智子は表情を厳しくした。
「美咲さん。マインドコントロールって何だか分かって言ってますか?」
「あなたが母の心を支配しているんです」
「お母様の心を支配している物が何か分かって言ってますか? 居たたまれない程の苦悩。自分の存在が失われてしまう不安。お母様は強い方です。ご自分を励まし心が壊れないようにコントロールしようとされました。ある意味ご自身のマインドコントロールかも知れません」
「父の浮気でそこまでの気持ちにはならないんじゃないですか?」
「そうでした。あなた方は何も聞かれていないのでしたね。ご主人の浮気は相当なダメージだったのですよ。あなたはお若い。愛した人に裏切られる辛さを経験していませんよね。死にたくなる程辛い物ですよ。だからご主人を恨み憎んだ。ご主人には二度と会いたくないとおっしゃっていました。だけど長年一緒に暮らされたご夫婦です。会いに来られてどうお気持ちが変わられるか分かりませんけどね。苦しみがご主人の裏切りだけでしたら千鶴さんもご自身をコントロール出来たでしょう。興信所からの報告書で地獄に突き落とされる思いをして、ご自身をコントロールしようとしていたのに、追い討ちをかけるような不幸が千鶴さんに降り掛かりました」
「不幸って何なんですか?」
堪らず悟郎が聞いた。
「これからお話ししますから聞いて下さい。ご主人、千鶴さんの体調がすぐれないと聞いていましたか?」
「はい。病院に行けと言いましたが、妻は病院嫌いで行ってなかったようで」
「ご主人への疑惑のストレスもあったのでしょう。我満出来なくなった千鶴さんは病院に行って検査を受け、後日結果を聞きに行きました。一人では不安だったのでしょうね。頼まれて私が同行しました。本来ならご主人のお役目ですよね」
「何で何も言ってくれなかったんだ」
「それ程ご主人の裏切りが許せなかった」
降り掛かった不幸と聞いて悪い検査結果が予測出来た。悟郎は後悔に苛まれ頭を抱えた。
美咲は怯えた表情で美智子の次の言葉を待った。
「美咲さんには連絡するとおっしゃってましたけど、こんなに早くこちらに来られるとはね。千鶴さんからお聞きになるべきことでしょうが、ご本人もお話になるのが辛いでしょうし、千鶴さんにお伝えしていないこともありますから、ご家族の代わりに結果を聞いた私がお話ししましょう。何でこんな辛く悲しいことをご家族にお話しなければならないのか。これも私に与えられた使命なのでしょう。今は本人が望めば告知するのですね。検査の結果は末期の癌でした。乳癌が全身に転移しているそうです。千鶴さんは気丈に振舞っておられましたがとても辛そうでした。私も友人としてとてもショックでした」
美咲は声もなく、黒く大きな瞳から止め処なく大粒の涙がこぼれた。美咲に泣いている意識はなかった。ただ脳裏に美智子が言った末期癌と言う言葉が反芻され響いていた。
悟郎はかろうじて涙を抑え聞いた。
「そんな状態ならすぐに入院して治療しなければ。何でここに来たんですか」
「私が担当医師からもう治療の方法がないと言われました。どうしますか? 何か治療法を探しますか? それも良いでしょう。ご家族なら当然のことです。何でもやって見ますか? 効果がなかったらどうしますか? 千鶴さんに残された貴重な時間を浪費することになります。治療を受けるかどうか決めるのはあなたではありません。それにあなたは千鶴さんから拒絶されています」
「宗教に救いを求めろと言うんですか? 宗教の奇跡で末期癌が治るとでも言うんですか?」
自分が否定されたように思い、反発した悟郎が激しく詰問するように言った。
「積極的治療の方法がなくなった末期癌の患者への医療を、終末期医療と言うそうです。自宅やホスピスで、苦痛をやわらげて家族に看取られ、安らかな最期を迎えさせたい。これも一つの選択です。絶望の淵に落とされ、死にたくないと思って、足掻いて、でもどうしようもなくて、何の希望もなくなって、果たして安らかな気持ちになるでしょうか。あるのはあきらめだけの暗い心でしょうね。優しい人であればある程、残される人達を思い安らかに振舞うでしょう。何と悲しくていとおしい姿でしょうか。大事な人がこんな悲しい気持ちになったままでお別れ出来ますか? やるべきことを見付け、最期の日まで溌剌として充実した日々を送って欲しいですよね。そう出来たら悲しい気持ちなんかどっかへ飛んで行ってしまいます。それだけではありません。人の心の力はとても強いのです。心が強くなれば、人が皆持っている免疫力とかの病気を治す力も強くなり、最期の日が遠ざかるかも知れません」
悟郎が祈りにも似た真摯な表情で言った。
「そうやって妻の心を救って下さるのですか?」
「救うのではありません。千鶴さんを救うのはご自身の心です。手助けをさせていただくだけです」
「だったら心だけでなく命も助けてやって下さい。私は妻を苦しめた。浮気みたいなことをして。あなたが言われた免疫力が、発生する癌細胞を殺していて、ストレスとかで免疫力が弱まると癌になると聞いたことがあります。妻が癌になったのは私のせいです。私は宗教を信じていませんでしたが、これからは信じます。お願いします。助けてやって下さい」
悟郎は深く頭を下げた。
「ご主人、頭を上げて下さい。私達は超常的な力による奇跡を目的とする教団ではありません。人の心が起こす小さな奇跡が大切なのです。さっきは病気を治す力と言いましたが、自然治癒力をご存知ですか? 言葉はご存知ですよね。人間が本来持つ偉大な力です。この力に心が大きく影響するそうです。私達に出来ることは心を苦痛から解放してこの力を最大限に活性化させ、ご自身の力による癌の克服を期待することです。千鶴さんはこの力を信じられました。そしてご自分がやりたいことを見付けられました。十代からの夢は歌手になることだったそうです。今は夢に向かって生き生きと過ごされています」
「それしかないんですね。歌手ですか、聞いたことがあります。でも実現は難しいでしょうね」
「実現するかどうかではありません。夢に向かって突き進む前向きな気持ち、心の在りようが重要なのです。千鶴さんの心が千鶴さんを救うのです。こちらに来られて千鶴さんの心を阻むものは何もありません。ご主人の千鶴さんを思う気持ちは良く分かりました。ですが、しばらくはお会いになさろうとしないで下さい。酷な言い方ですが、今ご主人はマイナスな存在なのです」
「分かりました」
悟郎は素直にうなずいた。
「神崎さんの気持ちも分からずに酷いことを言って済みませんでした。心の大切さが良く分かりました。神崎さんにお願いしたら安心です。母をよろしくお願いします」
美咲が伏し目がちに言い頭を下げ、言葉を続けた。
「一つお聞きしたいのですが。私の親友に愛する人が死んで悲しみから立ち直れない娘がいます。他の人は時間が解決すると言いますが泣いてばかりいて、見ているのが辛いのです。それに心が弱っていて父が言ったように癌にならないか心配です。心を強くして立ち直らせるにはどうしたら良いでしょうか」
「美咲さん、あなたは優しい人ですね。そんなにお友達を心配されて。でも心配するだけでは心労になりあなたにとっても良くないですよ。前向きに考えましょう。美咲は自分に似て気が強くてぶつかってばかりいると、千鶴さんがおっしゃってました。そうなのですか?」
「はい。今は優しく出来なかった自分を後悔しています」
「美咲さんはやっぱり優しい人なのですね。強い心と優しさ。きっと真っ直ぐな性格なのでしょうね。今愛している人がいますか?」
「私、男が馬鹿に見えて。恋愛とかに興味がないんです」
「あらあら、まだ素敵な男性に巡り合っていないのですね。だったら想像してみて下さい。友達みたいに、あなたの愛する人が死んでしまったら自分がどうなるか」
美咲はしばし沈黙した。
「想像しにくいんですけど、ショックで落ち込むと思いますが、いつまでもうじうじしないと思います」
「そうですか。人それぞれですよね。美咲さんはいつまでもうじうじしない。お友達は悲しみを引きずって立ち直れない。あなたはドライ、お友達はウエット。人の性格ってこんなに違うのです。ですから性格によって対応を考えなければいけません。お友達は人を思う心の強い愛情豊かな人なのでしょうね。だったら親友であるあなたへの愛情も深いのではないですか?」
「はい。今一緒に住んでいてお互い家族のように思っています」
「お友達の心をあなたに振り向けさせましょう。お友達のお名前は?」
「恵子です」
「恵子、辛いよね。でもあなたが悲しんでると私も悲しくて苦しいの。いつまで私を苦しめるの、って言って泣き付いてみて下さい。そして共通出来る楽しみを見付けて思いっきり楽しむ。これで恵子さんの気持ちが前向きになってくれたらいいですね」
「やってみます。ありがとうございました。でも凄いですね。どうしたらいいかすぐ分かるのは教団の経験からですか?」
「人は心で動いています。嬉しいのも、楽しいのも、苦しいのも、幸せも、不幸も心で感じます。美咲さんの言う通りたくさんの心に触れて来ました。心は体も支配しています。緊張してトイレに行きたくなる、頭が真っ白になる、実力が出せない。誰でも経験することですよね。心の在りようが人を幸福にも不幸にもします。心はとても大切なのです。これを見て下さい」
美智子は応接室に貼ってある、掛け軸のような大きさの縦長の紙を見た。短い文章が書いてあった。
〔全ては己に在る 全在己〕
悟郎は一瞥して眼をそらした。美咲は真剣な眼差しで見詰めた。
「ご主人、興味がないようですね。話をやめましょうか?」
悟郎はびくっとして真剣な表情になった。
「いえ、そんなことはありません。話を続けて下さい。お願いします」
「難しい話はやめましょう。美咲さんのような若い方に、これからの人生で何かの参考になるかも知れません。エッセンスだけを話しましょうね。私達は人がどう生きて行けるかの全ては自分の中にあると考えています。すべてはおのれにある。自分を見詰めて自分の心を良く知って下さい。なるべく客観的な眼で。信頼できる友達に自分をどのような人間に見ているか確認してみて下さい。欠点を指摘されても怒ってはいけませんよ。率直に言ってもらわないと意味がありませんから。自分が見る自分と他人が見る自分は以外と違う物です。自分の心を良く知って、自分が短所と思う性格を克服するようにしましょう。ここで気を付けなくてはいけないのは短所と思っても、良い所もあるので見逃してはいけません。社交的でないと思ったとします。でもこれはしっかり人を見る、軽率でない長所でもあります。性格は簡単には変えられません。でも意識するのとしないのでは大違いです。何かに失敗したとします。でも自分の心を知っていれば、自分は駄目だと漠然と挫折感を感じるのではなく、失敗の原因を自分で分析出来ます。挫折を味わう悔しさが、原因となった心の弱点を強化する力になります。そう考えると失敗は沢山して良いのです。どんどん心が強化されます。失敗は喜びを生む力です。成功したら喜びを忘れないように心に刻みます。この積み重ねです。自分の人生を良くするのも悪くするのも自分の心です。自分の心の力を信じて喜びのある人生を送って欲しいと思います。そしていつの日か、人を喜ばせる喜びが最上の喜びであると知ってもらえたら。ご主人には釈迦に説法でしたね。余計な話に付き合わせて申し訳ありませんでした」
「とんでもありません。いい話を聞かせてもらいました」
悟郎は千鶴に憎まれている自分を思った。千鶴を喜ばせる喜び。自分にこの喜びがあったらこんなことになっていなかったと強く思った。
美咲は信者でもない自分に分かり易く熱心に話してくれた美智子に、感動と感謝の気持ちが溢れた。話を忘れないよう書きしるしておこうと思った。
「美咲さん、お母様に会いにいきましょう」
悟郎は応接室で待ち、美咲は美智子に案内され千鶴に会った。
美咲は泣いてはならないと自分を戒めた。そんなことを忘れる程千鶴は明るく笑顔を振りまき、無理している様子も無く、美智子の言うように生き生きとしていた。肌つやも良く末期癌患者には見えなかった。
これが心の力かと美咲は思い、死とは無縁のような千鶴に安心した。
「心配したでしょ、ごめんね。お母さんは全然元気だから。癌がいなくなるまでここにいるから、我儘許してね」
「私が会いに来るから」
「歌のレッスンや何かで出掛けるから外でも会えるわよ」
千鶴は悟郎のことを一言も口にしなかった。
美咲は教団からの帰途、千鶴の様子を悟郎に話した。悟郎は相槌を打つだけで何も話さなかった。歩きながら見た悟郎の横顔に寂しさが滲んでいた。
[三]
悟郎は低迷を続ける会社業績挽回に腐心していたが、当月の取締役会で思いも寄らぬ事態が発生した。緊急動議が出され賛成多数で社長を解任されてしまったのだ。
抵抗したが悟郎を除く取締役全員の賛成で議決され、あらがいようもなかった。悟郎にとっては青天の霹靂であった。
社長室に戻った悟郎は信頼していた役員を呼んだが、不在の返答が来るだけだった。秘密裏に根回しがなされていたことが推測されたが、状況が全く掴めなかった。気配にも気付かず何と脳天気なお気楽者かと自分を責めた。
臨時株主総会を開けば覆されるような暴挙をなぜ役員達は実行したのか。成算があったからだろう。株か、と思い至った時に秘書が来室を告げ、専務の遠藤徹が入って来た。
遠藤徹。母親は先代社長である千鶴の父親の後妻で徹は連れ子だった。父親は今は亡い。千鶴より五歳年下で幼少の時に遠藤家の子供になった。小太りで、いつも笑みを絶やさない柔和な表情と誠実さで、人から好かれていた。共に生活して来て徹を良く知る千鶴は、本性は違うと毛嫌いしていたが、悟郎は好感を持っていた。
父親は千鶴を溺愛していて、遺言で会社の株の大半と山手の家を千鶴に遺した。
創業者である祖父の代からの、同族会社の支配権を千鶴に遺したと同義であった。
後妻と一悶着あったが、千鶴の果断な対応に後妻は沈黙せざるを得なくなり、遺恨が残り別居した。
この時、既に社長になっていた悟郎は後妻との関係の修復と、徹への好意から千鶴を説得して徹を専務の座に就かせた。自分に恩を感じていると思っていた。徹の言動もそう思わせた。それがまさか反逆するとは。
徹はいつもとは違う、笑みを消した不遜な表情を浮かべ部屋に入って来た。
悟郎は冷静を装ったが、心内から込み上げる憎悪に抗し難く、憎々しげに徹を睨み付けた。
「徹、お前が首謀者か。そうだろうな。次の社長はお前しかいないからな」
「あんたに呼び捨てにされる覚えはない。もうこの会社に無縁の男だ。引導を渡しに来た。とっとと出て行け」
「俺の恩を忘れたか。遠藤家とは血縁もない連れ子のお前を専務にしてやったのは誰だ」
「血縁はあんただってないだろう。単なる婿養子だ。突然この家に入って来て社長だと。ふざけるな。俺は五歳からこの家にいるんだ。親父に疎まれ、陰で連れ子って蔑まれて、遠慮してどれだけ悔しい思いをして来たか知らないだろう。妾の子の方がまだましだ。血がつながっているからな。おふくろも、あんたの嫁には随分悔しい思いをさせられたんだよ。これからは俺達の天下だ」
「千鶴がこの会社の大株主だ。臨時株主総会を開いてひっくり返してやる」
株の操作以外に今回のクーデターは考えられないと思った悟郎は、実態を吐かせようと誘い水を打った。
「何も知らないんですね。当然か。あんたは愛妻に裏切られたんだよ。先に裏切ったのはあんただけどな」
「夫婦の問題をお前に言ったのか。他人のお前に」
「これでも二十年近く一緒に同じ屋根の下で暮らしたからね。あんたよりずっと家族だよ。そりゃ可愛い弟に相談するでしょう。あんたには愛想が尽きた、この会社から追っ払ってくれってね。あんたも嫌われたもんだな。浮気ぐらいでここまで嫌うかって気の毒で聞いていられなかったよ。お嬢様のやることは良く分からないな」
「俺を放り出す見返りに、お前を社長にしてやると言ったのか」
「まあ、あんたもお仕舞いだからお情けで教えてやるよ。あんたが許せないからお灸をすえて反省させてやるみたいな感じだったんだよな。お嬢様の気まぐれに付き合って、いつ又気が変わって、あんたを社長に戻すって言い出すか分からないから丁重にお断りしたよ。しばらくしたら今度は株を売るって言うんだよ。これには驚いたね。会社の実権を譲るってことだろう。気紛れじゃなかったんだね。すぐ金借りて全部買ったよ。考えてみたらあんたのお陰でこの会社も俺の物だ。あんたに感謝しないとな」
悟郎は反論する言葉もなくただ徹を睨んでいた。
「あんたとは短い縁だったが、野垂れ死にはしないでくれよ。寝覚めが悪いからな」
徹は捨て台詞を吐いて部屋を出て行った。
こんなに自分が憎まれていると悟郎は思ってもいなかった。
人は誰しも他人を妬む。妬みが憎しみを生む。そこまでは分かる。だが徹は人としてやってはならないことをやった。欲がさせたのか。実の兄のように自分を慕ってくれていると思っていたのに。悟郎は人間が分からなくなった。
千鶴。千鶴の自分への憎しみは納得出来た。憎むのは当然だ。原因は自分にあるから。
会おうとしないのは分かるが、会社から追い出そうとするとは。徹の話を聞いた時、そこまで自分を憎んでいたのかと思い悟郎は愕然とした。何故そこまで憎む。この仕打ちは悟郎の理解を超えていた。
結婚して十九年。妻としての千鶴を分かっていても、女としての千鶴の何も分かっていなかったのか。悟郎は自分が情けなくなった。
何人かの取締役から電話があった。抵抗出来なかった事情をくどくどと話し悟郎に詫びた。悟郎に怒りはなかった。良心が残っている奴もいる。少し慰められた。
悟郎も千鶴も現金は多く持たず、プラチナカードを使っていた。家族カードだったので決済銀行口座も同一だった。まさかとは思ったが気になって帰宅の途中に銀行に寄り残高を確認した。自分の報酬の振込み口座で常に数千万の残高があったが、残高は百万しかなかった。
悟郎は止めを刺されたような気持ちになった。地位を奪い金まで奪った。
神崎美智子の言った言葉が思い出された。すべてはおのれにある。原因は自分にある。その通りだ。千鶴を責める資格は自分にはない。
千鶴の自分に対する愛情はかけらも残っていないと思うと切なさが込み上げたが、自らを抑え千鶴にマイナスな存在の自分は消えるべしと、悟郎は千鶴との決別を決意した。
千鶴は悟郎を嫌いになった訳ではなかった。酷い仕打ちは徹が推察したように、裏切りに対する一時的な怒りによる懲らしめ、懲罰的意識によるものであり、悟郎への嫌悪からではなかった。仕打ちの度合いの強さに、千鶴の性格よる世間常識とのずれはあったが、千鶴は悟郎が悔い改め許しを請い自分に跪くと思っていた。
千鶴の世間常識とのずれと、悟郎の自省的で執着心の弱い、良く言えば潔い性格が悟郎を千鶴から引き離した。
悟郎は自分の決意を告げようと美咲を家に呼んだ。
家に着きリビングに入って来た美咲は、すぐに話を聞きたがったが、食事の前に深刻な話はしたくないと思い、悟郎は美咲を入浴させ夕食を済ませてから、おもむろに、今日起きた解任から残高までの一部始終と、自分の心中を話した。
美咲は驚き、怒り、悲嘆した。
「そんな、お母さんがお父さんを追い出すなんて信じられない。お母さんから株を買ったって、徹おじさんが嘘を言ってお父さんを解任したんじゃないの」
「そんな嘘は他の役員が信じない。奴らにとっても死活問題だからね。お父さんには見せなかったが、きちっと書類が整っているんだろう」
「お母さんがそんなにお父さんを憎むはずがない。きついお母さんだけどお父さんを絶対大事に思ってる」
「もういいんだ、美咲。お父さんを思う心がこれっぽっちもないって良く分かったから。俺はお母さんを恨んでないし、憎んでもいない。お父さんの自業自得だ。渡せる状態になるまでこれを預かっておいてくれないか」
帰りに市役所でもらって来た、自分の欄に署名捺印した離婚届をテーブルに置いた。美咲は悄然としていた。
「これから頑張って行かなくちゃいけないお母さんにとって邪魔な男は、未練たらしくなく消える。お父さん格好いいな」
悟郎は自嘲気味に笑った。
「お母さんに会って本心を確かめてみるから。別れるなんて言わないで」
「お母さんのやったことが本心を語っているよ。それにお父さんのことは禁句だろ」
美咲は返す言葉もなかった。
「一つ気になっていたんだけど、株を売った金、口座の金どこに行ったんだろうか考えたんだ。プライドの高いお母さんのことだ。恩着せがましくされるのがいやで、教団に出家させてもらうんじゃなくて、出家してやるくらいの気持ちで全部教団に寄付しちゃったんじゃないかな。たっぷり寄付しているからこれから何も遠慮することないよ」
「酷い、お金が目当てだったの」
「そんなことないだろう。教団も大金が寄付されて面食らっているんじゃないかな」
「私もお父さんとお別れなの。そんなのいや」
美咲は、自分と父親との関係が急に頭に浮かび悲しくなって涙ぐんだ。
「何、馬鹿言ってるんだ。別れるのはお母さんとだ。美咲と別れる訳じゃない。これまで通りの親子だよ」
悟郎は美咲を抱きしめた。
「しばらくはこの家にいる。家を出て落ち着く所が決まったら連絡する」
「お金は大丈夫なの?」
「退職金が少しは出るだろう。出さなければむしり取ってやるさ。美咲の学費は何とかするから心配しなくていいぞ」
転職先の当てなど今後の生活を話す、いつもより饒舌な悟郎に自分を心配させまいとする心遣いを感じ、美咲は心が温かくなった。
美咲は自分の部屋で、これから自分がどうしたら良いか考えた。
父親にした母親の仕打ちは許せなかった。父親の社会生活の基盤を奪ったのだ。いくらきつい気性と言ってもやり過ぎだと思った。自分ならそこまでしない。母親が元気なら大衝突していただろう。だが今は癌と闘っている。癌になったことを知り母親の大切さが身に染みた。父親のことは何も言ってはならない。これまで通り癌と闘う母親をサポートしたいと思った。
美咲に千鶴との家族カードとしてプラチナカードが送られて来た。千鶴に確認すると好きに使えとだけ言われた。今考えると学費や生活費に使えということだろう。娘のことは考えていたようだ。だが自分は自立しようと思った。大好きな父親の人生を破壊した母親に頼りたくなかった。それでは父親が可哀想過ぎる。失業者になってしまった父親にも頼りたくなかった。
キャバクラでアルバイトをしよう思った。小遣い稼ぎではない。それなりの収入が必要だ。美咲がキャバクラに持つイメージの、女への欲まみれの、分かり易い馬鹿な男どもを操るのも面白いと思った。
人生の大きな変転であった。美咲は社長令嬢から貧乏娘に転落してしまった。だがこの不幸な変転が眠っていた才能を開花させると、美咲は思ってもいなかった。
[四]
美咲はキャバクラで働き初めて半年程で、ナンバーワンのホステスになっていた。容姿、所作、会話全てで客を引き付ける能力は群を抜いていた。
恵子は美咲の危機に助力したい思いから、自分を一人にするのはまだ早いと口実を付け、自分も一緒に働くと言い張り、美咲も拒絶出来ず一緒に働いていた。
働き始めた時から、目立つ美咲は他のホステス達に嫌味を言われたり嫌がらせを受けたりした。だが持ち前の気の強さは健在で、陰湿な攻撃にその場で逆襲し、からっとした小気味よさに一部のホステスから人気を得た。敵対心を抱くホステスも多かったが美咲は気にもしなかった。
客、ホステス、従業員、オーナー、数多くの人間に接するうちに美咲は人間が良く見えて来た。性格、欲望、表と裏。
ナンバーワンになってから、真の店のトップホステスになってやろうと美咲は思った。気の強さは押さえ、人心掌握に努めた。
敵対するホステスの情報を収集し、一人一人に親しげに接触し自分に取り込んだ。悩みのない女はいない。店での売上、客、彼氏、家庭、様々な悩みの解決に細やかに対応し、恩を売り彼女らの心を得た。
もう自分に敵対する者はいない。美咲は自分がこの商売に向いていると心から思った。
美咲が自立してから一年半で千鶴が死んだ。一年間の延命だった。千鶴は一年半充実して生きた。プロの歌手デビューも果たしCDも出した。最後のコンサートに全力を尽くし静かに眠るように息を引き取った。まるで死期を覚っていたかのように。
死に直面したことが、皮肉にも千鶴の人生では有り得ないような最高に充実した日々を最後に送らせた。
早過ぎる死であった。美咲は母親が死んだ悲しみに慟哭したが最後は幸せな人生で良かったと思い、心の中で神崎美智子に手を合わせた。
千鶴は美咲の為に売らなかった四割強の会社の株と家を遺した。
離婚届けを出していなかったので悟郎にも相続の権利があった。悟郎は株主の権利を行使すると徹に圧力を掛け、株と家を買い取らせた。徹にとっても権力の盤石化と、遠藤家のシンボルである祖父の代からの邸宅を買い取るのは損な取引ではなかった。
悟郎は千鶴が美咲に遺した遺産だと言い相続放棄をしようとした。美咲はそれを許さなかった。自分は離婚をしているから資格はないと相続を拒んだ。社長を解任されてから父親として何もしてやれなかった美咲に対する償いと、男のプライドだった。
美咲は社長時代のつてを頼って働いている悟郎を見ているのが忍びなかった。
美咲は遺産を使って自分の店を持とうと思っていたが、悟郎にプランを話し出資者としてクラブ経営を援助して欲しいと懇願した。
悟郎は自分を思う美咲の気持ちが嬉しかった。美咲の為に金を使うならばと相続を承諾した。
六本木にクラブを開店してから数年が経過した。クラブは美咲の才能もあって順調に成長していた。
財務、渉外は悟郎に任せ、美咲は店の実戦的経営に奮闘していた。悟郎の手腕は見事で、美咲は店に専念出来ることを感謝していた。
恋愛に無関心だった美咲が男に惚れた。
惚れたとまでは言えない、好意を持った程度であったが、恵子は美咲が男に惚れたと思い、やっと春が来たと喜んだ。
美咲は開店と同時に大学はやめていたが、恵子は美咲と離れたくないと言いクラブでアルバイトとして働き、大学卒業後も親に偽りクラブでホステスを続けていた。
美咲が好意と興味を持った男は、従業員として雇いこの業界で黒服と言われるボーイの仕事をしている男だった。
美咲と同年代で名前は高田一郎。一重まぶたで精悍な顔貌の、寡黙で自分のことは話さないミステリアスな男だった。行動は颯爽としていて礼儀正しく、話し方はソフトで客やホステスに評判が良かった。自己主張せず従順のようで、芯の強さと理知を感じさせる、美咲が知らないタイプの男だった。
何より美咲の心を惹き付けたのは、他の男と違う美咲を見る眼だった。誰もが美咲への情欲を漂わせたが、高田は感じさせなかった。
美咲は開店前にフロアの掃除をしている高田を見て、からかってやりたい衝動に駆られた。
「高田君って仕事熱心ね」
「あっ、ママ。ありがとうございます」
「高田君って私のことどう思ってる?」
突飛な質問をしたら少しは狼狽すると思ったが、高田は落ち着いて答えた。
「若いのに凄いママだなと思っていますが」
「女としては?」
「自分が会った中で一番魅力的な女性ですよ」
「そうかな。私に素っ気無いし、そう思っているようには見えないけど。それってお世辞でしょ」
「店のママに馴れ馴れしくしちゃいかんでしょう。正直魅力的だと思っていますよ。好みとは別ですけどね」
「そうなの。私みたいな女は好みじゃないの。がっかり」
「ただの従業員の自分をからかわんで下さい」
美咲は、少し朱を帯びた顔を隠すようにその場を去ろうとした高田に、純粋さと実直さを感じた。
「ちょっと待って」
高田は立ち止まり向き直った。
「お仕事頑張ってね」
高田は一礼してフロアの奥に消えた。
ある日、三人の客がクラブを訪れた。一人は常連客の小野。他の二人は小野が接待で連れて来た客だった。
くつろげて、日頃の気疲れを癒す雰囲気が客の気持ちをなごませ、重要な人をもてなす感覚で常連客が連れて来る新規客も多く、新規客から常連客になる客も少なくなかった。この連鎖も店の経営を支える大きな要素だった。不景気になった後は純然たる接待は減っていたが、成果が期待できるこの店での接待はなくなってはいなかった。
接待されている地位のありそうな客がかなり酔って、悶着を起こした。
接客していたホステスの太ももや胸を触り始めた。ホステスは適当にあしらっていたが、経験の浅い若いホステスであることもあって耐え切れず客の手を叩いた。
酔った客は激怒して、大声で怒鳴ってホステスの腕を強く掴んだ。
「何をしやがんだ。この店は客に暴力を振るうのか」
小野は接待相手なので何も言えずおろおろしていた。
すぐに美咲が席に来て頭を下げた。
「申し訳ございません。愛奈がお客様のお気に召さないことをいたしましたでしょうか」
「俺の手を叩きやがった」
厳しく接客の教育をしている愛奈が客の手を叩いた。美咲は客のしたことを察した。
「愛奈のしたことは私の責任でございます。おわび申し上げますのでどうぞお手をお放し下さい」
美咲は深々と頭を下げた。
小野は居心地が良くてこの店が好きだった。愛奈に気もあったので最低限のフォローをした。
「いつもの優しい部長らしくないですよ。勘弁してやって下さい」
「何を~」
小野は肩をすくめた。
「ちょっと体に触ったくらいで騒ぎやがって。だいたいホステスなんてえのはすぐに客と寝るんだろ。気取るんじゃねえよ」
美咲は怒りが込み上げた。抑えていた気の強さに火が付いて表情が険しくなった。
「この店はそういう店では……」
美咲の言葉を遮るように高田が素早く男の前に立って、男の手を掴んで愛奈の腕から離し男を立たせた。
「何するんだ」
男は高田を睨んだが、高田のホールドする力は強く男は抵抗出来なかった。
「お客様のお好みの店へご案内いたします」
「小野様、後の接待はお任せ下さい」
「ママ、今日は早退させて下さい」
この酔っ払いを叩き出しても良いが、このまま美咲に話させたら他の客に悪印象を与え店に傷が付く。何より常連客である小野の接待が失敗すると思った、高田の咄嗟の判断だった。
高田は酔った男を介抱するように強く拘束して店を出て行った。
高田が男をどこに連れて行くのか気になったが、小野に言った言葉から意図を察知し心配はしなかった。
美咲はマンションに帰りセクハラ事件を思い返した。高田に助けられたと思い、まだまだ自分は未熟だと反省させられた。
高田の瞬時の判断力と行動力。美咲は高田のきびきびとした行動を思い浮かべると何故かうっとりとした。美咲は男に惚れたのか。
翌日、美咲は小野に昨日のおわびの電話をしたが、接待相手の機嫌は良く礼を言われたと喜んでいた。美咲はほっとして胸を撫で下ろした。
店に出て事務所と兼用にしているオーナールームに高田を呼んだ。悟郎も部屋にいた。美咲は悟郎をオーナーと呼んでいる。
高田が部屋に入って来たのでソファに座るように言い、二人は高田の前に座った。
「オーナー、昨日は高田君に助けられたの」
「聞いたよ。高田君、良くやってくれたね」
「自分の仕事をしただけですから」
高田は自慢する素振りも見せず、あくまでも謙虚だった。そんな高田を見て美咲の好意は膨らんだ。
「さっき小野様におわびの電話をしたら、あの部長さんご機嫌はとても良かったそうよ。高田君のお陰ね」
「小野様は接待する場所を間違われたようですね。お客様の求められていたのはくつろぎではなく女性だった。私の知っている店にお連れして十分満足していただきました」
「ご苦労様でした。お金掛かったでしょう? 返すから言って」
「いえ、お客様に払っていただきましたので」
美咲は慰労を口実に次の休日に高田を食事に誘った。
美咲と高田が男と女の関係になるのは早かった。
美咲は男を知らなかった。これはセックスに対する倫理観や嫌悪感からではなく、むしろ考え方は奔放で興味もあった。だが情愛のともなわない情欲だけのセックスには徹底的な嫌悪感を持っており、情愛を持つに足る男が現れなかっただけのことであった。
食事をしたその日に高田を部屋に泊めた。美咲はママの仮面を外し奔放な若い女になった。初めての羞恥と苦痛はあったが、好きな男に抱かれる快感に美咲はとろけた。
高田は美咲がバージンと知り驚いた。これ程の女が男を知らないとは信じられなかった。余程身持ちの堅い女だったのか。だがそんな女が自分の物になった。思ってもみない状況に喜び高揚した。
高田は初対面の時から美咲を好きになっていた。好みじゃないと言ったのは照れからだ。無関心を装ったのは、高望みして何度も振られた過去の苦い経験が教えた、高嶺の花である美咲を思っても無駄だとのあきらめからだった。
自分が変貌し女にもてるようになったと意識していたが、トラウマを克服する程の自信は得ていなかった。
高校までの高田は鬱屈した無口でつまらない男だった。自立を求め入った自衛隊が高田を変えた。
めり張りある行動や礼儀正しさ、果敢な行動力、機転は厳しい訓練から身に付いた。素地はあったのだが、訓練と規律ある生活が、贅肉が削ぎ取られた精悍な容姿と相まって、高田を存在感のある男に変えた。だが厳しい訓練も本質的な性向までは変えてくれなかった。
除隊後、単なる女への欲望からキャバクラのくだらないホステスに引っ掛かり、この業界で生きる男になる。せっかく与えられた男の価値を台なしにするのは、浅はかな自分自身であった。
安アパートに住んでいた高田は、美咲の住むマンションに引越し一緒に暮らし始めた。
美咲は目一杯の愛情を高田に注ぎ面倒も見た。こんなに尽くす女であったのかと美咲は自分に驚いた。
美咲の愛情過多な振る舞いが高田におごりを生んだ。いい気になった。今まで本気で自分に愛情を見せる女は扱い易かった。何でも言うことを聞く。高田は我儘な態度や行動が多くなり、フロアの責任者に昇格させた店へも出なくなり、賭け事にはまり、ついには小遣いを要求するまでになった。
美咲は悲しかった。これでは高田は自分のひもだと思った。あの颯爽として男性的な、自分が愛した高田はどこに行ってしまったのか。これが高田の本質とは思わなかった。だが心奥では高田を見誤った自分に気付いていた。だが認めたくなかった。
美咲は店を閉め家に帰り、テレビを見ながらだらしなく酒を飲んでいる高田を見て情けなく思った。何も言わず耐え忍ぶのはもう限界だった。自分が甘やかし過ぎて堕落させてしまったのか。初めて愛した高田がこんな男のはずがない。そう信じて何とかしたいと願い語りかけた美咲の心を高田は空しく踏みにじった。
「ねえ、一郎。前の素敵だったあなたどこに行っちゃたの?」
「今の俺が素敵じゃないって言っているのか」
「だってそうでしょう。働きはしないし、私にお金をせびるし。これじゃ今の一郎はただのひもだよ。そんなのいやでしょう。私から素敵な男って思われていたいでしょう」
高田は平然として言った。
「俺がひもだと。思ってもみなかったな。お前は俺が好きなんだろ。俺が側にいてやるだけでお前は癒されて幸せなんだよ。これ程素敵な男がいるか? そんな俺を楽しく暮らせるようにするのは当たり前だろ。言って聞かせなければ分からないのか」
高田の言い草に、美咲は怒りが込み上げて来る自分が抑えられず口調が強くなった。
「じゃあ、一郎は私のペットでいたいって言うのね」
「ふざけんな。俺がペットだと」
「うんと可愛がってやるわよ。でも私が飼い主だから躾は厳しくして、逆らうことは許さない」
「何言ってんだ。俺はペットなんかじゃない」
「一郎の言ってるのはペットそのものじゃない。側にいて私を癒して、ご飯を食べさせてもらって、犬じゃないから散歩する代わりにお小遣いをもらって楽しく遊ぶ。ペットでいたら楽よね。女に飼われて、男のプライドはどこかに捨てて来ちゃった?」
美咲の怒りに任せた侮辱であったが、高田の発奮を期待する言葉でもあった。だが高田にその思いは届かない。高田には元々そんなプライドはなかった。ペットと言われるのは許し難いが、安楽ならば女に養われても何の抵抗感も持たないような男だったからだ。
「お前言ったよな。一緒にいられるだけで幸せ、あなたのいない人生なんて考えられないって。だから仕事もしないで側にいてやろうと思ったんだよ。それがペットって酷くないか。俺の愛情を分かってくれよ」
「まだそんなこと言ってるの。もういい。あなたに何を言っても無駄ね。別れましょう」
別れると言われて美咲が他の女と違うと気付いた。好き勝手やって不満を持たれても、愛情を示して心をくすぐれば女の不満は解消し、前以上に自分を愛した。だが美咲の反応は違う。高田も美咲を見誤っていた。
こんな好い女と、広いマンションで金の心配なく暮らせる。降って湧いたような幸運を高田は手放したくない。
「良く分かった。悪かった。働くよ。いや、又店で働かせてくれ。最初の下働きでいいから。初心忘るべからずだよな。頑張るから別れるなんて言わないでくれよ」
高田は神妙な顔をして言った。
美咲は高田が自分を取り戻したとは思えなかった。愛想が尽きかけているのに嫌いになれない自分がもどかしい。女の悲しい性なのか。
「本当に反省しているの? 分かった。別れるのはやめにする。その代わりこれからは一郎を甘やかさないから。だらしないことも許さないから。部屋の掃除もちゃんとしてね。私の言うことには絶対に従ってもらうから。それでもいい?」
「分かりました。仰せの通りに」
高田の表情はこわばり笑みはなかった。
皮肉っぽい言い方が気になったが、これから高田の美点を見て行けばやり直せると思う、常に前向きな美咲であった。
しばらくして高田が消えた。
その日は体調不良を理由に店を休んだ。美咲が家に帰ったら高田がいない。携帯に電話したが解約されていた。
不審に思った美咲は心当たりを探そうとしたが、高田の交友関係を何も知らない。自分のことは何も話さない高田だった。美咲は高田の人生を何も知らなかったと思い知った。
別れ話以後、以前のように良好な関係になったと思っていた美咲は、不測の事態を心配し、警察に届けるべきか電話で悟郎に相談した。
悟郎は携帯電話が解約されている点を指摘し、何らかの事件に巻き込まれたとしてもわざわざ解約するなど有り得ない。自分の居所を知られない為だ。高田は自分の意思で失踪した。失踪の理由と失踪先を探す方が先だ。採用時の履歴書と 身分証明書を明日見てみよう、心配するなとアドバイスした。
本当に失踪したのか。理由は。美咲はいろいろ考え、何も分からず悶々として夜を明かした。
翌日、昼前に封書が配達された。近くの郵便局の消印で差出人は書かれていなかった。美咲はもしやと思い封を開けた。パソコンで作成された手紙が入っていた。
ハロー美咲。昨日の夜は良く眠れた? 別に俺がいなくてもバクスイか。
そうだよな。きびしいお母様はダメな息子がいなくても心配しないよな。
お前は俺の母親か。ダメ息子を支配して満足か。ああ~むかつく。
俺を甘やかさないだと。お前は何様だ。そうかお母様か。
俺はお母様と付き合っているのか。どこに母親と付き合いたい男がいるか。
お前を見ていると俺の母親を思い出すんだよ。
男にだらしないくせにいちいち俺のすることに文句つけててめえに従わせよう とするうぜえ最低な女をな。
お前も同じ最低な女だ。
黙って消えてやろうと思ったけどな、俺の気持ちくらい教えといてやるよ。
ロストバージンの男より
美咲は手紙を持つ手が怒りで震えた。
「私はお前の母親じゃない! 何が最低の女だ!」
大声で叫び手紙を投げ捨てた。
「お前が最低の男だ!」
拳を握り締め、悔しさの余り自分のももを何度も叩いた。この場に高田がいたら間違いなく殴りかかっていただろう。それ程美咲は激高した。
しばらくは怒りが治まらなかったが、怒っていては心の苦痛を与えようとする高田の意図にはまると思った美咲は、怒りを鎮め冷静になった。
美咲は悟郎に、高田から手紙が来た、自分と別れる為に失踪したと電話で知らせ、早めに店に出て来るように頼み店で悟郎に手紙を見せた。嫌味な〔ロストバージンの男より〕は美咲の恥じらいが切り取らせた。
美咲は高田ともめた経緯を話し、別れ話を撤回して仲良くなれていたのに、何で高田が別れて行ってこんなに憎まれなければならないのか分からないと、悔しさを滲ませ悟郎に訴えた。
悟郎は高田との関係を何も言わず黙認していた。だから高田との関係をどうのこうのと言わなかった。悟郎の優しさである。
「美咲、高田を支配するようなことを何か言った?」
「ええ、もめた時に私に従えって」
「そうか。高田は母親と何かあったんだな。母親への恨みが美咲に乗り移ったみたいだ」
「私が悪かったの?」
「いや、高田の心の問題だ。美咲に分かる訳がない。美咲、高田を探してよりを戻したいのか?」
「いえ、顔も見たくない。ただ、このまま言いたいことを言われたままでは悔しくて。会ってぶん殴ってやりたい」
「悔しいね。でも余り考え過ぎちゃ駄目だよ」
「分かってる」
「何か気になるんだけど。高田は何で黙って失踪したんだろうか。一緒に暮らしていてそんな別れ方ってあるか。美咲に面と向かって言えなくて、手紙で恨みを言うような男か?」
「そんな男じゃない」
「もう一つ、もめた時にすぐ失踪しなかったのはなんでかな」
「だからそれは、私が別れないって言ってあげて、前みたいに仲良くなれたから」
「本当にそうかな。前みたいになってからきついことを高田に言った?」
「私も前みたいに優しくした」
「だったら失踪する理由がないじゃないか。そうか、やはり美咲に従えって言われた時に頭に来て別れたいって思ったんだよ。だったら何で我慢していたんだろう。わざわざ手紙に書いて罵りたい程美咲を恨んでいたのに、何で我慢したんだろう」
悟郎は拳を額につけ考えた。物を考える時の悟郎の癖だ。
「そういうことか」
「何?」
「金とか宝石とかなくなっていないか?」
「えっ、一郎が盗んだって言うの? そんなこと考えもしなかったから調べてないけど。お金はお店の金庫だし」
「家にはないのか?」
「あっ、預かっていたお父さんの通帳と印鑑。家を売って半分づつに分けたお金、お店の開店資金に使えって渡してくれたでしょう。まだ五百万くらい残ってる」
「どこに仕舞っておいた?」
「たんすの引き出し」
「それだ」
「でも一郎は知らないはずだよ」
「美咲がいない時に引き出しくらい見るだろう。高田は遊びを覚えて金に執着するようになった。猫に小判じゃなくてかつお節だな。美咲とただじゃ別れない。盗むんじゃなくて手切れ金代わりとでも自分で理由を付けたのだろうが、金を盗んだら消えるしかないよ」
「だったらどうしてすぐに盗んで失踪しなかったの」
「万一、美咲が気付いて口座止められたら金を引き出せなくなるだろう。銀行に怪しまれないように金をおろすのに何日も掛かる。まあ全てお父さんの想像だけどね。ほぼ間違いないと思うよ」
「私が馬鹿だった。お父さんのお金を。許せない。すぐ調べて警察に届けて捕まえてやる」
「警察には届けない方がいい」
「どうして。一郎を許すの?」
「許すんじゃない。ちょっとは名の知れた高級クラブのママが、同棲していた愛人に金を持ち逃げされたなんて、週刊誌のいいネタだよ。店への影響が大きいから表沙汰にしてはまずい。高田もそのくらい考えていたんじゃないかな。人生の授業料だと思えばいい。忘れなさい」
「お父さん、ごめんなさい」
美咲はただ頭を下げるだけだった。
美咲は悟郎の言うようにするしかなかった。家に帰りたんすの引き出しを見た。通帳と印鑑はなかった。美咲の感情が悔しさから憎しみに変わった。
警察に届けないにしても、何とか高田を見付け、金を取り返してやりたかった。親しい人の失踪を名目にして、唯一の手掛かりである運転免許証のコピーと履歴書を渡し、興信所に調査依頼をした。
調査から高田の生い立ちが分かった。報告書によると運転免許証の住所には高田の母方の祖母が住んでいた。
祖母の人柄は良く、高田はここ数年音信不通で心配していると言った。祖母も高田の行方を知りたいと情報提供を承諾した。
娘である高田の母親の離婚以降、母子は祖父母と同居。高田が中学生になった頃から母子はいさかいが絶えず、中学卒業前の高田を親に押し付け母親は男に走った。高田はぐれそうになったが、今は亡き祖父の厳しくも愛情のある対応で何とか踏み止まる。だが祖父のそれ以上の干渉を嫌ったのか、大学に行かず自衛隊に入ってしまった。
母親の居所は不明。交友関係のある人間はいたが今は断絶している。女関係は多かったようだが付き合った女には行き至らなかった。
失踪先の手掛かりは何も掴めなかった。
高田の生い立ちを知り、美咲は感じる物があった。
母親を恨む人生。母親がまともだったら高田の生き方も変わっていたのだろうか。
あれだけの能力と魅力を持ちながら、ひもであるのを恥じない男。母親を憎む気持ちの裏返しの、母親に愛されて甘えたい、女に甘えたい気持ちの表れなのか。だったとしたら歪んでいる。歪んだのは高田自身の責任なのか。
美咲はすぐに考えを打ち消した。同情する必要はない。祖父母の愛情を十分受けたではないか。愛情を求めるだけで与えていない。
人は、母親も年少時の環境も選べない。自分の母親が高田の母親のようだったら自分はどうなっていただろうか。幸運に感謝しよう。
人生の授業料は余りに高かったが金で済んで幸いだった。美咲はそう思うようにした。だが高田を許す気にはなれなかった。
又、クラブの仕事だけに忙殺される日々が始まった。恵子も良く美咲に付いて来てくれる。
恵子に慰められた。又必ず愛せる男が現れると。恵子は雨宮以後二度失恋した。今はもう懲りているようだった。それでも恋愛を促すのか。失恋も又恋愛。恋愛は人生の彩り。
仕事だけの人生、大いに結構。クラブを少しでも一流の店に近付けられるように頑張ろうと美咲は思った。