怨念の発端
[一]
横浜の県立高校、三年生の進学クラス。新藤十七歳、新井十八歳、藤木十七歳、他同窓会の参加者達が高校三年生の時、七月四日の放課後に事件は起きた。
その日の全授業が終了して皆が帰り支度を始めた時、新藤は教壇の上に立ち声を放った。
「みんなに話したいことがある。聞いてくれないか」
「俺、これからバイトなんだよ。明日にしてくれよ」
男子生徒が言った。
「重要なことなんだ。すぐ済む」
「早くしてくれよ」
皆が新藤に視線を寄せた。
「実はこのクラスにいじめが起きている。そんな卑劣なことを俺は許せない。クラス全体としていじめを許さないと言う意思統一をしたい。そうしたら俺がいじめをやめさせる」
「そんなこと、お前が好きにやれよ。意思統一なんか必要ねえだろう。それにこのクラスはまとまっちゃいねえけど、いじめなんかねえだろうが」
高松が言った。
「高松、お前みたいな認識しか持たないからいじめがなくならないんだよ。意思統一しておけばそれがクラスの憲法だ。いじめなんか出来なくなるだろう。」「本当にいじめがあるんだったらいじめてる奴でも、いじめられてる奴でも名乗り出ろ」
高松は皆を見回した。
「ほら、誰も出て来ないだろ。いじめなんてねえんだよ」
「高松、馬鹿かお前は。みんなの前で自分から言う奴なんかいるかよ」
「馬鹿だと、聞き捨てならねえな。取り消せ。俺達は真っ当な議論をしているんだぜ。喧嘩しているような言葉使うんじゃねえよ」
「確かにその通りだ。不適切な言葉だった。取り消すよ。だけどいじめがあるのは事実だ。俺達三年一組は、いじめを絶対許さない。同意する人は挙手してくれ」
ここで手をあげなければいじめを肯定することになる。半ば強制、強要的な挙手に全員が手をあげた。唯一人、高松を除いて。
「もうこれでいいだろ。俺帰るぜ」
バイトの時間に焦っていた男子生徒が、あわてて教室を飛び出して行った。
「高松、お前を除いて意思統一が出来た」
「新藤、俺はいじめを許すわけじゃねえぞ。納得出来なかったから手をあげなかったんだ。俺の経験から言うとな、クラスでいじめがあったら、大体雰囲気とかでわかるもんなんだよ。そんな雰囲気あったか? だけどお前はいじめがあると断言した。いじめの事実を知ってるってことだろうが。それにクラスの意思統一したいと言った。と言うことは、クラス全体でいじめに取り組もうってことじゃねえのか。それを、てめえ一人でいじめをやめさせるだ。言ってることがおかしいんだよ。クラスのお墨付きをもらって、正義のヒーロー気取りか? いじめ問題はクラス全体で解決すべきだろ。誰だか言えよ」
「クラス全体でいじめを解決しようなんて勝手なこと言ってんじゃないわよ。学園ドラマの真似事? うざいのよ」
遠藤美咲が口を挟んだ。可愛らしい外見を裏切る気の強い女子だ。
「うざいだと。遠藤、お前がいじめっ子でみんなから責められるのがうざいのか」
「私のこと、お前って言うんじゃない。何で私がいじめっ子なの。いいかげんなこと言うな」
「お前、いや、お前さんがいじめっ子とは思ってねえよ。口はうるさいがそんな卑劣な人間じゃねえもんな。だけどな、お前さんみたいな気の強い奴はいじめられた経験ねえよな。いじめられたことがねえから、いじめの痛さがわからねえんだよ。いじめをうざいなんて言うなよ」
「あんたがいじめられたことあるって言うの。うそ、信じられない」
「俺もいろいろあってな」
高松の視線を落とした陰鬱な一瞬の表情に、心の中を垣間見た気がして美咲は諭されたような気分になり口をつぐんだ。高松が強要する。
「新藤、言えよ」
「俺がクラスの意思統一をしたいと言ったのは、クラス全体の思いとして、いじめは絶対許さないと言うスタンスを明確にすることによって、いじめを抑止することができるからなんだよ。いじめは悪であり許さないと言うことが、クラスの全員に承認されることによりクラスのルールになる。いじめの当事者への説得力になるんだ。クラス全体でいじめについて議論するのはいい。だがな、個々のいじめの解決には適さない。いじめは陰湿なものから直接的なものまでいろいろある。問題はいじめのきっかけ、理由だ。それも理不尽なものばかりで正当化されるものなど一つもない。その理由にプライバシイーに関わることがあるかも知れない。いじめられている人間のプライドもあるだろう。公然とするのは問題があるんだよ。いじめている人間を公然にすることは、高松は知っているか? 昔の中国の紅衛兵の人民裁判みたいに吊るし上げになり、逆に集団のいじめになる危険性があるんだよ」
「紅衛兵だろ、知ってるわ。お前くらいの知識はあるわ。それにな、お前からいじめの講義を聞かなくっても、そんなこと分かってるわ。それとな、今クラス全体の意思統一したってことは、いじめっ子も賛成したってことだよな。そいつは、いじめていることを意識していないのか、しらばっくれようとしているのかどっちかだろうが。そんな奴は、みんなの前でいじめの事実を認めさせ、いじめ行為をやめると誓わせる必要がある。自分も賛成したクラスのルール違反の罰だ。但し、新藤の言った吊るし上げにならないように冷静にやる必要があるがな」
「そんなことしたら、事実認否の為にいじめられている人間も明らかにしなくてはならなくなるだろう。俺達は、検事でも裁判官でもない。人を罰する権利はないんだよ。個々に話をして解決するのが最善なんだ」
「そんな大げさに考えるなよ。みんながダチとして、非難すんじゃなく優しく助言するようにして納得させればいいんだ。」
「高松、さっき言ったよな。いじめの痛さがわからないんだって。その言葉をそのままお前にやるよ」
高松は何か思いを巡らしているのか、押し黙った。新藤は皆に礼を言って、この場を解散しようとした。
それを阻むように、新井が口を開いた。いつもの、明るい人懐っこさのない、深刻な表情で言った。
「新藤、俺の為に悪いな。こんな騒ぎになっちまって。いじめなんてなかったんだ。あれはいじめじゃないんだ」
新井がいじめの当事者?便所の百ワット、無駄な明るさ、とからかわれていたくらい快活な新井が。皆は以外な思いで新井を見た。
「新井、なんで自分から言うんだ。まじ格好悪いことだぜ。お前のプライバシーなんだぜ。そんなもんみんなに言う必要はない。だから俺は個々に解決するのがベストだとみんなに言っていたんだ」
「お前らの議論聞いてて思ったんだ。高松が言ったろ。いじめていることを意識していないのかって。俺だけが被害を受けていると思っているだけで、相手は被害を与えている何の認識もなかったら、いじめにならないんじゃないかって」
血相を変えて、新藤がまくしたてた。
「新井、俺に言ったことは嘘じゃないんだよな。通学はいつも鞄持たされて、夜中に呼び出されコンビニへ買い物に行かされたり、買った物はみんなお前の自腹で、反発したら殴られて、やくざの舎弟みたいな関係が永く続いてる。これがいじめじゃなくてなんだって言うんだ」
新井の言ったことに憤慨し、柄にもなく新藤は興奮していた。新藤が言うなと言っていた、新井のプライバシーを自分がしゃべってしまっていることに気付き、あわてて言った。
「あっ、俺何言ってんだ。新井、悪い」
「いいんだよ、事実だから。でも、そいつが俺に対してやっていることは、そいつに取って当たり前のことかも知れない。悪意なんかもなくて普通の友達付き合いのつもりかも知れない」
「なに訳の分かんないこと言ってんだ。悪意の有るなしは関係ない。そいつの行動が問題なんだよ。お前がそいつから苦痛を受けていることが問題なんだよ。やめさせなければならない。これからそいつと別の場所で話す」
高松が割り込む。
「そうでもねえだろう。悪意がねえってことは、いじめてやろうと思ってねえってことだよな。お前のやっていたことはこれだけ悪いことだったんだど気付かせて、改心させて、いじめ行為をやめさせればいいんだよ。新藤が言ってるような深刻ないじめじゃねえよ。そいつもこれだけ話しを聞いてれば、自分だと感付いているだろうけどな。新井、そいつが誰だか言えよ」
「高松、俺が話すと言ってるだろうが」
新井は沈黙していた。
今まで、やり取りを聞いていた藤木が、何かに気が付いたような、いぶかしげな顔をして新井に言った。
「慎、お前が言っているそいつって、もしかして俺のことか」
新井は伏目がちに言った。
「そうだよ」
「ちょっと待てよ。俺がお前をいじめてる? 何言ってんだ。俺はお前をずっと守って来たじゃないか。新藤が言っていたことは、俺とお前の関係じゃ当たり前のことだろうが。俺はそう思っていたが、お前はそう思っていなかったってことか?」
「やはりそうか。たっちゃんは俺に理不尽なことをしてると思ってなかったんだよね。俺達は小学校一年からの付き合いだ。家が近くて、一度、親父に連れられてたっちゃんの家に行ってから二人でよく遊んだよね。たっちゃんの家は江戸時代からの名家で、金持ちで、親父が県会議員で、俺の親父が秘書。たっちゃんは県会議員のお坊ちゃんで、俺は雇われ秘書の息子。おのずから立ち位置が違ったんだよね」
「何が違うんだ。今お前が言ったように俺達は幼馴染の友達だろうが」
「親父は藤木議員をえらく尊敬していて、議員と秘書という関係より、殿様と家臣の主従関係みたいだよな。親父は先生、先生って今でも忠誠心は相当なもんだよ。その親の関係がそのまま俺達の関係になった。たっちゃんにとっての俺は、江戸時代の小姓みたいな家来だったんじゃないの」
「…………。」
「小さい頃から、若殿様みたいにちやほやされていて、家臣の子を遊び相手にあてがわれれば、そういう感覚になるのは無理ないと思うけどね。家来は若様の言う通りにするのは当たり前。家来がいれば若様は金なんか払わない、これも当たり前。小学生くらいまでは俺もそんな気分だったよ。ガキ大将にくっつく子分みたいにね。だけど俺も一丁前に自我が成長して、中学になった頃に気が付いたんだよ。おかしいってね。今は江戸時代じゃない。だから会わないようにした。中学校は別々だったから学校で会うこともなかった。だけどなんで同じ高校へ来たんだよ。忠実な家来が又、欲しくなったのか?」
「慎、お前の被害妄想だよ。ガキの頃のことは覚えちゃいないが家来だなんて思っているわけないだろう。今時、家来なんて思う奴いるか? 俺にとってのお前は、可愛い弟みたいなもんだ。弟が兄貴に尽くすのは当たり前だろう。兄貴の俺は弟を守る。それでけっこう楽しくやって来たじゃないか。俺達はそういう間柄だ。そうだろう。だからお前と疎遠になっているのが淋しくてこの高校へ来たんだよ。それに、これは俺達の個人的な問題だ。みんなの前で話すことじゃない。二人で話そう」
「たっちゃん、あんたはまったく分かってないな。俺はあんたの家来でも、弟でもない。楽しくもなかった。二人で話そうだって? 二人で話せば、俺に逆らうなって、聞く耳持たないだろう。それ以上言うと俺の思いが分からないのかって殴るだけだろう。もう俺は限界だ。あんたと連みたくないんだよ。その為にはみんなの前で話さなきゃならない」
新井を優しく諭すような表情をして、藤木が言った。
「俺と一緒にいるのが、お前にとって一番なんだよ」
新井はこれ以上話しても無駄だとばかりに藤木から目をそらし、懇願するような目で新藤を見た。
新藤は新井がなんで自分にいじめの相談をしたのか、クラス全員にいじめの問題を話させるようにしたのか、当事者の名を伏せようとしたのに、新井自身から名乗り出たのか分かった気がした。新藤は藤木に言った。
「藤木、お前、新井の言ったこと理解出来るよな」
新藤は冷静に言ったつもりだったが、この言い方が癇に障ったのか、藤木は怒気をあらわにして言った
「馬鹿にするな。ガキじゃねえんだ、よく分かってるよ。新藤、前からお前のその上から物言う、偉そうな態度にムカついていたんだ。お前が新井をそそのかしたんだろう。藤木の家来かって。藤木にはっきり言えって。俺を悪者にしやがって。お前は黙ってろ。俺と新井の問題だ」
「俺の言い方が気に入らないなら謝る。だけど新井の言ったこと、全然分かってないじゃないか。藤木の弟じゃない、連みたくないとはっきり言ってるだろう」
「だからそれは、新井が俺を誤解したんだ。新井が俺を嫌うようにお前が仕向けたんだろ。そんなきたねえ奴と話す気はない」
話したくてうずうずしていた高松が口を挟んで来た。
「新藤、こんな現状把握能力が欠如した奴にいくら言っても無駄だ。藤木は新井が好きなんだ。大事な幼馴染としてな。新井も藤木を幼馴染と思ってる。だけどな、その思い方に根本的な違いがあるんだよ。藤木は新井を確かに可愛い弟みたいに思っている。だが、藤木の思う弟は、主人の自分に当然のごとく尽くし仕える家来、あるいはやくざの舎弟と同じだ。新井が言っていたようにな。新井はそう思われるのも、扱われるのも我慢出来ねえ。友達とも思っていねえ。このギャップは埋められねえんだよ。説得なんかできねえんだよ」
藤木が反発する。
「今度は高松か。なに分かったような顔して解説してるんだ。現状把握能力が欠如しているだと。俺と新井の心の絆の問題に関係ない人間が勝手に踏み込んで来るなよ。お前も新藤と一緒で、頭の良さをひけらかすような言い方がムカつくんだよ。新藤は何も分かってないくせに、正義の味方ぶりやがって。高松はワルでもないのに、ワルぶった態度しやがる。お前らみたいな偽者の言うことなんか聞くか」
クラスメートは皆、高松が本質的にはワルではないと思っている。ワルいことは決してしない。無茶は言わない。言うことも筋が通っている。だが態度が悪い。ワルを気取っている程度に見ていた。だから信頼もしていた。
高松の顔面は紅潮して、真っ赤になった。
自分が持つ男の美学で最低な、生真面目な性格に生まれた自分を恨み、ワルぶった態度で真逆な性格の自分を演じ続け、そんな自分になれて来たと思っていた。そんな時に、藤木に偽者と罵倒されて、自分が単なるワルぶりっ子とみんなに思われていたのかと思うと腹の底から沸きあがる恥ずかしさに、理性が蒸発し高松を感情が支配した。
「偽者だと。俺のどこが偽者だ。幼馴染を舎弟扱いしていじめて、可愛い弟と言ってるお前こそ偽者だ」
「何度も言わせるな。弟が兄貴に従順に尽くすのは当たり前だろうが。それを、お前等が勝手にいじめと決め付けてるだけだろう。俺は本心を言っている。高松、真実は人を怒らすって言うよな。お前が真っ赤になっているのが、なによりの偽者の証明だ」
冷静さを残す藤木のカウンターブローの反論に、理性を失っている高松は、言い返すことが出来ない。
「てめえ」
高松は唸るように言うと、いきなり左隣の机を乗り越えようとした。
机三列左に座っている藤木に飛び掛ろうとしているのを一瞬で察知した新藤は、高松の予想外の行動にも躊躇せず、鋭い反射神経で一列目の机を越えた高松に向け飛んだ。
新藤のタックルは高松の腰を捉え、勢い余り、二人は絡み合って教室の後方へ転がって行った。机にこすったのか、高松の額に薄っすらと血が滲んでいる。皆は一瞬の出来事に唖然として、ただ二人を見ているだけだった。
「邪魔するな」
高松が新藤を睨み付けた。
「お前らしくない。冷静になれ高松。感情的になったら負けだってお前が一番分かっているだろう」
したたか腰を床に打ち付けた高松を新藤が助け起こし、席まで支え歩きながら新藤は考えを巡らせた。
このままでは何も解決しない。いや、藤木と自分達との亀裂は決定的になってしまう。藤木の頑迷さは憎々しいが、これ以上藤木とやり合ったら藤木の吊るし上げになる危険性がある。この場は終わらせてじっくりと頑迷な藤木の気持ちをほぐすしかない。
新藤はそう思い決め高松を席に座らせた。その座る時を待っていたかのように、藤木が言った。
「高松、ワルらしく暴力か。拳法やってるんだってな。俺には勝てねえよ。新藤あたりのタックルにやられるようじゃ高が知れてら」
この藤木の言いように、新藤はキレる以前に情けなくなった。
「いい加減にしろ、藤木。ここでお前に何言っても無駄だよな。藤木、これから俺に時間空けてくれないか」
「お前等と話すのはもううんざりだ。慎、帰るぞ」
藤木は新藤の話を無視して席を立った。藤木と連んでいる数人も席を立った。だが新井は下を向いて立とうとしない。
新井の表情を見て、堪忍袋の緒が切れたように、美咲が立ち上がって藤木に言った。
「さっきから聞いてれば好き勝手言って。少しは常識持ちなさいよ。新井クンの気持ちが分からないなんて信じられない。分かろうともしないし。あんたみたいなメガ自己中に会ったのは初めてだ」
ここまで言って、急に得心したような表情になった。
「あーそうか。さっき新井クンが言ってた。あんた、金持ちの名家に生まれて、権力者のお坊ちゃんで、若様みたいに周りにちやほやされて、何の苦労なく育ったんでしょう。下々の気持ちなんか分からない人間にね。まあ、そんな環境で成長したんなら、あんたみたいな感覚の人間になるのも当たり前なんでしょうけどね。そんな感覚の人間は私達と住む世界が違うのね。だからあんたも非難されて苦労するの。とっとと、あんたみたいな奴等ばっかりがいるお坊ちゃん学校に行ったら。それが新井クンとあんたの為だよ。ねえみんなもそう思わない」
藤木の目に怒りの光が走った。
藤木は短気ではない。新藤や高松の言う自分への非難は、自分は正しいと思っているから、不当とは思うが強い怒りが湧く程ではない。育ちの良さからか鷹揚とした所がある。だが、その育ちの良さが藤木のコンプレックスだった。政治家・金持ちの、汚さ、ずるさ、傲慢さ、偽善に満ちた世界を肌身で感じて来た。だから偽善を嫌悪していた。
何不自由ない、上品な、俗に言う上流社会で育って来たことが育ちの良さと言うのならば、その裏側にある上流社会の偽善に育てられ、偽善者になることが育ちの良さではないのかと言う思いが、高校生になった頃から強くなった。自分はそうではないと常に否定していた。藤木にそんな純粋な考えを生じさせた所以も育ちの良さにあると藤木は気付いていない。上流社会の常識、通念が藤木の人格を作った。藤木の育ちがいいことは否めない事実であった。
以前から、お坊ちゃまとか育ちの良さをからかわれたりすると自分が偽善者と言われているようで、無性に腹が立った。美咲の皮肉たっぷりの揶揄に、藤木の心を怒りの感情が占有し始めた。
「俺がお坊ちゃんだと。何の苦労もなく育っただと。お前に何が分かる。反吐が出そうな、くだらない金持ちと俺を同じに見るのは、絶対許せねえ」
藤木が自分を睨む、憎悪を隠さない刺すような視線に美咲はたじろいだ。気は強いが、度胸がある方ではない。
藤木の荒々しい語気と険しい表情で緊張した場の空気を読めない、ただ女子にもてたい軽薄な男子生徒が、チャンス到来とばかりにナイト気取りで言った。
「藤木、女子にそんなきつい言い方はないよ」
この木村の発言を藤木は無視し、美咲を睨み続けている。美咲は藤木の視線に耐え、気力を振り絞って言い返した。美咲も木村を無視していた。
「許せないって何。あんたが金持ちなのは事実じゃない。金持ちってみんなくだらない奴なんだ。だから、自分がくだらない金持ちだって思っているから、金持ちって言われて腹が立つんじゃないの。あんたが高松クンに言った、真実は人を怒らすそのものじゃない。馬鹿みたい」
「なんだと」
藤木は怒りの作用か無意識に一歩前に出た。
隣に立っていた藤木と連んでいる酒井が、藤木の肩を押さえ言った。
「遠藤の親は会社の社長だってな。お前だって金持ちなんだろ。そんな奴が藤木の批判するのか」
「私はくだらない金持ちじゃない」
「もういい、よせ」
新藤が言い合いを終わらせようとして言った。それを二人に無視されイラついていた木村が台なしにする。
「藤木、君はくだらない金持じゃないって否定したけど、良い金持ちってこと? だったら新井をいじめて、なんにも感じないってことないんじゃない」
藤木は木村に顔も向けない。無視され、木村は新井に聞いた。
「新井、藤木はどっちだと思う」
新井は木村を見たが、無言で答えない。
「くだらない金持ちだったらまだましだ。若様だから始末に負えないんだ。俺達とズレちまってるんだ。新井はいい迷惑だよな」
他の男子生徒が言った。それに追随するように女子生徒が言った。
「そう、新井クンがかわいそう。新井クン元気出してね」
美咲の言い草に憤懣やる方ない藤木は、何も分かっていない軽薄な木村と、自分を無視した二人の言いように激高寸前の状態に陥った。だが耐えていた。そして新井が怒りの堰を切ってしまった。
「たっちゃんは悪い金持ちだよ。俺にとってね」
藤木は愕然とした。新井の言葉は藤木にとって大いなる裏切りであった。悪い金持ちという言葉が、鈍器で頭を殴られるような痛みを伴い、耳に谺した。
「藤木は本物のワルだったのか」
「ワル金持ちか」
周りのつぶやきが聞こえる。
藤木の両腕はわなわなと震えた。怒りの奔流が堰を切って流れ出た。膚は朱を帯び、上品な切れ長の眼は吊り上り、歪んだ形相で新井を睨み付けた。新井が許せなかった。新井に対する暴力の衝動を抑える術はなかった。
藤木は誰に言うのでもなく、低くこもった声で強く、ひとり言のように言った。
「慎、お前は俺を偽善者にした。許さねえ」
隣の列に座る女子生徒のペンケースからはみ出ているはさみが藤木の眼に入った。
窓側の席で立ったままの藤木は、無言で女子生徒のはさみを掴むと、教室後部の廊下側出口付近に座る新井に突進した。
教室中央の高松の傍に立って心配そうに藤木を見ていた新藤は、藤木の突然の動きに素早く反応し、「新井、逃げろ」と叫び、藤木へ向け走った。下を向いていた新井は、新藤の声に顔を上げ、何が起こっているのか分からず呆然としている。
藤木は机がない教室後部の空間に到達し、左直角に方向を変え、新井まで数メートルに迫り、体をぶつけるように新井を刺す。と見えた瞬間、走って来た新藤が藤木と新井の間に割って入り、三人の塊が静止した。教室にいた皆は固唾を呑んで見ている。新藤が崩れるように床に膝を付いた。藤木が後ずさる。
藤木は新藤の苦痛に歪んだを顔を見て、はっとした。右手を見て、思わず握っていたはさみから手を離した。はさみが新藤の左下腹部に刺さっている。それを新藤が左手で押さえている。
自分は何をした。新藤が憎々しげに自分を睨んでいる。新藤を刺しちまった。この事態を認識することが、藤木をほとばしるような怒りの奔流から解放した。だが思考は混乱している。感情に支配され、衝動的に人を刺してしまったことが悔やまれた。それも、当の新井を刺さず、新藤を刺してしまった。何の意味がない。これからどうしたらいい。
白いシャツに血の赤が滲み、広がって行く。
新井は凄まじい形相ではさみを右手に持ち、自分に突進して来る藤木を視野に捉え、危険を察知した。逃げようと立ち上がったが恐怖で手足がすくみ、藤木をかわすことが出来ない。そこへ突然、新藤が自分の前に割り入り、藤木の体が新藤にぶつかった。自分の顔の前にある、新藤の大きな背中が崩れるように下へ落ちて行った。
新藤が刺されたのか。
「新藤!」
新井は叫びながら、新藤の肩を支え前へ回った。腹を刺されている。シャツに血が滲んでいる。血を見た時、新井はパニックになった。
「俺をかばって新藤が刺された。誰か救急車。藤木を押さえろ」
新井の叫びに皆は眼が覚めたように動き始めた。携帯を取り出し百十九番しようとする者。藤木を取り囲む者。今や藤木は現行犯の犯人の体に陥っていた。
「騒ぐな」
新藤は痛む脇腹を押さえ、精一杯の声で叫んだ。こんな事態になったのは自分のせいでもある。これ以上酷い状況にしたくないと新藤は思った。
「みんな、落ち着け。騒ぎ立てるな。俺は大丈夫だ。傷は大したことはない。藤木、俺を保健室に連れて行け。俺を刺した責任だ。みんなも帰れ。これは藤木と俺の問題だ。誰かやっとうを保健室へ呼んでくれ」
やっとうとはクラス担任の教師、矢頭のあだ名だ。読みと剣道部の顧問であることからこのあだ名が付いた。
新藤は左下腹部のはさみを押さえて立ち上がり、藤木の方へ歩み寄ろうとした。新井が肩を支えようとしたが、新井の手を振り払い、
「新井、お前も頭に来て悔しくて辛いと思うけど、ここは俺に任して今日は帰ってくれ。頼む」
新藤が自分をかばってくれなければ、自分は刺されて死んだかも知れない。そう思うと恩人に反論することも出来ず、承諾せざるを得なかった。
「分かった。だけど医者行かなくてだいじょぶ? 血が出てるよ」
「心配するな。必要なら医者へ行くから」
新藤は藤木が冷静になったと思った。凶悪強盗犯ではない。クラスメートだ。自分の言う通りにすると確信を持ち、よろよろと藤木に近付き、「肩を貸せ」と言った。
藤木は複雑な表情を見せたが、無言で新藤の左脇に左手を入れ、新藤を支え、教室を出て行った。刺傷事件の被害者が加害者に扶けられて行く奇妙な光景に、皆は違和感を感じることもなく、二人を見送った。皆はクラスメートだから。
[二]
新藤の刺し傷は深くなかった。保健室で応急手当を受けたが、傷を縫合する必要と、内臓への影響を確認する為、保健室の先生、鶴田に介助され病院に行くことになった。
傷が深くなかったのは、新藤が新井と藤木の間に割り入った瞬間、素早く藤木が持っているはさみを左手で掴み、はさみが深く刺さらなかった為だった。凶器がはさみでなく刃物だったら、左手は大きく裂かれ、刺し傷も深かっただろう。惨事にならなかったのが不幸中の幸いだった。
総合病院で治療を受けた新藤は、入院の必要はなく、医者からしばらくの通院を指示された。
新藤は藤木のことが気になり学校へ戻ろうとした。病院から学校は近い。鶴田から帰宅を命じられたが、当事者の自分が事件の説明をする必要性と、軽症を理由にして学校へ戻った。
職員室に入ると、教諭は皆不在だった。鶴田が矢頭の居場所を確認したが、職員会議で対応の検討中だと言う。学校内で刺傷事件が発生したことは大変な問題であった。対応を間違えると大きなスキャンダルになり、学校にダメージを与え兼ねない。
新藤は応接室で待つよう指示され、応接室へ向かった。
藤木は応接室にいた。新藤が病院へ行った後、矢頭に応接室に連れて来られ事情を聞かれた。
「新藤と喧嘩して、かっとなってはさみで刺してしまった」
藤木がそれ以上言おうとしない為、矢頭は藤木が精神的に錯乱していないことを確認し、ここで待つように言い、報告の為応接室を出て行った。
藤木は細かいことを話す気はなかった。
(俺は犯罪者にされた。みんなに犯人の眼で見られ、取り囲まれた。ワルの偽善者と決め付けられた。だが俺は正しい。この屈辱、憤懣はどうしたらいい。感情的になって、自分を失い新藤を刺したのはまずかった。俺らしくない汚点を残した。だが俺をそうさせたのは、俺の心を裏切った新井と、上っ面だけ新井に同情して俺をワルにして正義面したクラスの奴らだ。汚ねえ偽善者どもだ)
藤木の感情は理性に制御されていたが、心の領域の大部分はクラスメートへの憎悪で占められており、悔恨・反省の念は微塵もなかった。
そこへ新藤が応接室へ入って来た。
「藤木、ここにいたのか。えらいことになっちまったな」
自分を刺した憎しみと、軽症だった安堵と、藤木を孤立させ吊るし上げ状態にしてしまった後悔の、ない交ぜになった気持ちが、新藤の言葉を柔らかくしていた。
「えらいことにしたのはお前等だろうが」
藤木は新藤に憎しみは感じなかった。心の奥底には、傷付けた新藤への謝罪の心情はあったが、謝罪する気はなかった。藤木の返答にさすがにムカッと来た新藤が言った。
「えらいことをしたのはお前だろう」
藤木は新藤を真正面から射るような視線で見詰めた。
「お前、新井の何を知ってるって言うんだ。話すつもりはなかったが、新井が好い奴でいるのは胸糞が悪いからお前に言っておく。買い物をしたら新井が全部金を払ったって? そうだよ、そこではな。だが俺の親父の配慮で、新井の親父の給料に俺との付き合い手当払ってたの知ってるか? 知ってる訳ないよな。新井がチンピラの妹に騙されて、チンピラにえらい脅されて、俺に助けを求めて、俺の親父のコネで助けてやったのを知ってるか? 知ってる訳ないよな。歳は同じだが俺は新井を可愛がっていたんだ。新井には裏切られたけどな。それで新井は悲劇の主人公で俺が悪党か。そうだよな。お前を刺した犯人だからな。何にも知らねえで、お前等みんな正義面した偽善者なんだよ」
藤木に問題があったのは事実だが、新井も真実を偽った。新藤は返す言葉がなかった。一方的に話を聞いて、それが真実と思い込み、取り返しの付かないことをしてしまった。
新藤は自分の浅はかさを悔いた。
「藤木、俺」
「お前等の顔も見たくない。話は終わりだ」
藤木は新藤から視線を逸らし、そっぽを向いた。もう何も受け付けない頑なさを感じ、新藤は話すことをやめた。
重苦しい沈黙が続く応接室に矢頭が入って来た。新藤が座っているのを見て驚き、矢継ぎ早に言った。
「あれ、新藤、何でここにいる。傷、大丈夫か。入院しなくて良かったのか。家に連絡したか」
「いっぺんに聞かないでよ。軽症です。だから家に連絡していません」
「軽症か、良かった。藤木、お父様の秘書の方が来られた。校長室へ行くぞ。新藤、しばらくここで待っててくれ」
藤木は新藤に一瞥もくれず、部屋を出て行った。
新藤はこの日が藤木に会う最後になるとは思ってもいなかった。藤木はこの日以降学校へは来なかった。
学校側は事件の対応に奔走していた。新藤、新井等、藤木とやり取りのあった生徒数名は矢頭他、教諭に事情を聞かれたが、その後生徒達には何も知らされなかった。
生徒達は担任の矢頭に経過を度々聞いたが、対応中と言われるだけで具体的な話はなかった。
新藤他生徒数名は学校から以外に、警察関係者と思われる人間に事情を聞かれたが、新藤は学校に藤木の軽い処分を懇願したのと同様に、軽症であることと、事件が起きた責任は自分にあり、被害者の自分は告発する意思がないと藤木を擁護した。
三日後、矢頭が藤木は転校すると生徒達に告げた。これは処分ではなく、藤木の意思であり、新藤も強く要望していたように、刑事事件としては立件されないだろうと矢頭は話した。
クラスの皆は感傷もなかったが、新藤と新井は違った意味で安堵を感じた。
その後、クラスでは親の権力で逮捕されなかったとか、親がスキャンダルを恐れて転校させたとか、噂の域を出ないことが、真しやかにささやかれていた。
何週間か後の昼休み、新藤のところへ藤木と連んでいた酒井が来て言った。
「新藤、藤木はアメリカに留学したぞ」
「本当か。転校じゃなかったのか」
「アメリカへ転校だろ」
「会っていたのか」
「お前を刺しちまったけど、あいつはワルじゃない。好い奴なんだ」
「俺達が追い詰めちまったからな」
「俺もかばえなかった。反省してるよ」
「俺達を憎んでいるんだろうな」
「えらい憎んでるよ。顔付きが変わっちまった。親父さんがこのままだと又問題起こすと思って、無理やりアメリカへ留学させられたみたいだな」
「そうか」
新藤は、藤木の憎しみの深さを知り、いじめ問題解決の誤った決着が悔やまれた。だが、この形以外の決着はなかったのかも知れないとも思った。自分の本意ではないのに、日常を変えさせられてしまった境遇は藤木の自業自得なのか。新藤には分からなかった。
新藤の側で新井も酒井の話を聞いていた。藤木がアメリカに留学したと聞き、仕返しを恐れていた新井は、これで災厄の元が消えたと開放感からか顔が緩んだ。その表情を見逃さなかった新藤は、酒井との話が終わった後に新井を廊下に誘い言った。
「お前に言っておかなければならないことが一つある。藤木がアメリカへ行ったって聞いてにやけたよな。あいつをアメリカへ追いやったのは俺達だってこと忘れるなよ。藤木は無理やり生活を変えられちまったんだからな」
「藤木はそうなるだけのことをしたんだ」
「藤木から本当のことを聞いたよ。お前が俺に言っていなかったことをな。お前を責めてる訳じゃない。汚い奴とも思っていない。あれ以外藤木から逃れる手段はないと思ったんだろう。お前も相当追い詰められていたんだよな。今回のことで、俺は行動することの怖さを知ったよ。人の人生を変えちまうんだからな。大きな行動をする時はしかっり考えてからしなきゃだめだ。これが今回、俺が学んだことだ。新井、自分の悩みの元凶が消えてにやつくのは分かるが、その為に人生が変わっちまった奴がいることを忘れるなよ」
新井の返事はなかった。