〈理不尽を正す〉新井
会場の皆は衝撃から一転してなごやかな気分になったが、心の内では次の藤木の出し物に、藤木劇場の展開に興味津々であった。藤木に恨まれていると自覚する数人と、新藤を除いては。
藤木は写真をスクリーンに映した。
アトリプロモーションの社名が書かれた、会社の受付があるエントランスから新井が社内に入って行く写真が映し出された。
「次はやっぱり新井か。予想通りだな」
「あれは新井のいる芸能事務所か」
誰かが興味本位で無責任にささやく声が聞こえる。
自分が一番恨まれていると自覚している新井は身構えた。
高松は藤木劇場より、藤木が言う真実を知りたいと思っていた。だから次が誰かどうでも良かったが、見慣れた光景の写真に驚いた。新井が自分の事務所に所属したのか。お笑い芸人が移籍して来たと、大阪の事務所で聞いてはいたが、芸人にタレント的価値を感じない高松は興味もなく、又社長の道楽かと確かめもしなかった。
高松は新井に確認しようと思ったが、顔面を硬直させて緊張している新井を見て、場違いな間の抜けた質問と思い話し掛けるのをやめた。
そんな時、新藤が藤木を制止しようとして、強い口調で言った。
「もうこんな茶番はやめろ、藤木。これ以上、お前の自己満足には付き合えん」
「茶番だと。自己満足だと。俺は何が正しかったのかを明らかにしようとしているんだよ。みんなも知りたいよな。偽善者のお前は黙ってろ」
「俺が偽善者だと」
十二年前の正義感の溢れる、潔癖で清廉なる新藤であったら、藤木と同様に最大の侮辱の言葉であったであろうが、十二年間世俗の波に洗われた生き様が新藤の感覚を変えていた。
「俺が偽善者だって言うならそれでいい。矛を収めてくれ。頼む」
藤木は急にしんみりとした顔になった。
「新藤、随分大人になったな。あの当時だったらマシンガンのような反論が返って来ただろうにな。なあ新藤、お前くらい正しい奴はいなかったよ。口先だけじゃなくて、お前には心があった。馬鹿なくらいにな。俺はお前を信頼していたよ。だから保健室に連れて行けって言われた時も素直に従ったし、男の矜持で誰にも言うまいと決めた真実もお前にだけは伝えた。お前は信じてくれた。だがな、お前みたいに正しい人間ばかりじゃないんだよ。そんな奴等の為に俺みたいな人間が生まれる。悔しくて仕方がない人間がな。新井は正しい人間か? お前にとって好きな人間なのかじゃなくて、正しい人間かだぞ。正しくて、真実を知っているお前なら分かるだろう」
「新井がどうこうではなくて、俺はお前がしようとしていることをやめろと言っている」
「新藤、はぐらかすなよ。お前らしくないな。ちゃんと答えろよ」
「もういいだろう。俺は自分の過ちを認めている。俺が謝っただけじゃ気が済まないのか」
「そうやって又、新井をかばうのか? お前は情が深過ぎるんだよ。前のお前は、そんな物事をうやむやにするような男じゃなかったけどな。そんな大人になった新藤が悲しいよ」
新藤は藤木の指摘に言葉が詰まった。日頃自覚していたことだった。
新井は自分のことが話されているのに何も言えずにいたが、時折出る真実と言う言葉に恐れを感じ始めた。自分に悪い所はないと思い定めても、自分が悪であるような場の雰囲気になっている。このままではまずいと思った新井は、意を決して口を挟んだ。
「たっちゃん、俺を無視して勝手なこと言うなよ」
藤木はぎろりと新井を睨んだ。
「慎、やっと自分から喋ったな。待ってたんだよ」
「俺が正しい人間かって、どう言うことよ」
「自分の胸に聞け」
「あの時だって俺は悪くなかった。たっちゃんは俺をいじめていないって今も言い張るのか。被害者の俺の話が真実だ。誰が聞いたっていじめだと言うだろう」
「十二年前の事件をむし返すな。慎はいじめだと言った。俺はいじめなんかしていない。いつまでたっても平行線だ。みんなはいじめと認定して俺が悪党にされた。今だって変わりはしない。俺は忌まわしき悪党だろう。俺が言ってるのはお前の人間性だ」
「何か真実が他にあるようなこと言ってるけど、たっちゃんが俺にした仕打ちが真実なんだよ。だからみんなもそう認めたんだよ。違うか?」
「そうだよ。慎の言い草を一方的に信じて、真実を見極めようともしないで、俺の話は聞こうともせず、俺が悪と決め付けられた。慎の思った通りになったんだよな」
「俺が仕組んだって言うのか」
「違うか?」
「俺はそんなことが出来るほど頭が良くない」
「お笑い芸人だからネタを作るの得意だろ。そうか下手だから売れないのか」
「馬鹿にするな」
高松が焦れたように言った。
「藤木、うだうだ言ってないで真実を言えよ」
「これから新井の人間性を証明する。これが重要なんだ。見ていてくれ」
藤木はスクリーンに映る写真を次々に変えた。
マンションと思われる建物のエントランスの側で身を隠すように立つ新井、篠原れいと言い争う新井、新井を振り払って逃げるようにマンションに入る篠原れい、マンションから出てきた篠原れいを追うように付きまとう新井。
「あの女の子、篠原れいよね」
「新井は篠原れいと何かあったのか。そうだ、篠原れいってアトリ何とか言う事務所だろ。もしかして、あの週刊誌の写真の相手は新井?」
会場は意外な写真にざわめいた。
事情を知らない、自分の事務所の大事な商品を傷付けられたと思った高松が怒鳴った。
「新井、何やってんだ。俺の事務所に入って来たのは、れいに付きまとう為か」
「高松、さっき言ったように、これから新井の人間性を証明する。黙って見ていてくれ」
高松はうなずいた。
新井は写真を見て驚愕の表情を隠せないでいたが、事務所で時折名前を聞いた高松がこいつだったとは、思いも寄らない二重の驚きだった。同じ事務所でも今の高松は敵だ。新藤のようにかばってくれるはずもない。
新井はそう思った。だが高松の気持ちを確かめてみたい。
「高松、お前の事務所のタレントがこんな写真撮られたんだぞ。抗議しないのか?」
「事実なら仕方がないだろう」
高松の素っ気ない返答だった。高松のフォローは期待出来ない。
「たっちゃん、あんたが何でこんな写真を持っているんだ。誰が撮ったんだ」
「誰が撮ったなんてどうでもいい。この、慎がストーカーしている事実が重要なんだよ」
「俺はストーカーなんかじゃない。れいの本心が聞きたかっただけだ」
「誰が見たってストーカーだろ」
「俺の人間性とか言ってたけど、盗撮なんて汚いことをする、あんたの人間性が最低なんじゃないの。遠藤は何も言わなかったけど、俺はプライバシー侵害で訴えてやる」
「さっき言ったろう。善良な市民には犯罪を告発する義務があるって」
「たっちゃん、残念だったな。俺の元カノがストーカーされて、助けたことがあってね。ストーカーには詳しいんだ。ストーカー規正法は親告罪で被害者しか告発出来ないんだよ」
「よく知ってるな。ストーカーに詳しいのにストーカーしてるのか。何て奴だ。有名タレントの篠原れいが同じ事務所のお前にストーカーされてたら、事務所も告発なんかさせられないよな。それを読んで堂々とストーカーしていたか。お前はそういう小汚い奴なんだよ。相手の気持ちも考えず自分の気持ちを押し付ける、下劣なストーカーそのものだ」
「何を勝手……」
「黙ってろ。まだ話は終わっていない」
新井が激高して口を挟もうとした。藤木の強烈な眼光と圧倒的な迫力に、新井は蛇に睨まれた蛙のように身がすくんで口をつぐんだ。あるいは、子供の頃からしみ付いた藤木に隷従する習性故か。
「あの時もそうだったよな。思い通りにならない俺を落とし入れようとして、クラスのみんなを利用したんだよな。お前はそういう、こすい、小心者なんだよ。こんな奴に利用されて迷惑だったよな、新藤」
もう新井をかばえないだろうと思った藤木は、自分の話の裏付けに新藤を使おうと思い話を振った。
急に話を振られた新藤は無視する訳にも行かず、もう自分が新井をかばう理由、新井の心情を話すしかないと思った。
「藤木の言った一面も確かにあった」
新井は新藤の意外な返答に怪訝な顔をした。
「新藤、何言うんだ」
「黙って聞いてくれ」
新井は又、黙らされた。
「だがな、藤木。新井は追い詰められていたんだよ。自分の力ではどうしようもなかったんだ。ああするしかなかった。新井を黙らせたお前の迫力、正直俺もびびったよ。人間の出来が違うんだ。新井が藤木に太刀打ち出来るはずがない。新井は藤木の自分に対する扱いが本当にいやだった。逃れたかった。お前の可愛い弟だったんだろ。分かってやってくれ」
新藤はこれ以上の無益な言い争いを避けようとして、懐柔するような言い方をした。
「新井が心底俺が嫌いだってあの時分かって悲しかったよ。人間って分からない。あれだけ守ってやってたのに、俺のひとりよがりだったてな。可愛さ余って憎さが百倍って言うだろう。分かってやる気なんかこれっぽっちもない」
「だから、それだけ酷い扱いを、藤木が新井にしていたんだよ。分かるだろ」
藤木は新藤の話を無視して、新井の下劣な人間性を証明する最後の仕上げに入った。
「なあ、みんな。新井がこすくて、小汚い男って良く分かっただろう? さっき新藤が俺に茶番って言ったけど、あの時のいじめ事件こそ茶番だったんだよ」
「みんな、新井はそんな奴じゃない。仕方なかったんだ」
新井が仕組んだのは事実だ。新藤が言えるのはここまでだった。
会場の皆は真実を知ったような気がした。新井は自分を利用したのか。踊らされたのか。不快感が込み上げ、新藤と新井に冷ややかな視線を向けた。
藤木は満足そうな顔をして、次の木村の映像を映そうとした。
高松が疑問を口にした。
「藤木、これがお前の言う真実か?」
「まあ、そんな所だ」
「何か違う気がするな。さっきお前が真実を新藤に伝えたって言ったよな。お前が言わなくたって、新井のやったことは新藤の方が良く知っていただろう。新藤違うか?」
新藤は黙っていた。藤木はさすが頭の回転が速い高松、核心を突いて来ると思ったが、真実などもうどうでも良い。
「もうこれ以上、新井を追い詰めなくもていいよ」
「そうか、分かった」
新井は最悪の展開に焦った。皆に最低の人間と思われてしまった。このままでは自分が藤木になってしまう。反論せずに必死に考え、あることに気が付いた。
「たっちゃん、俺があんたを落とし入れた汚い男って言ったけど、あんたの方が汚い男なんじゃないの。俺、今気付いたんだけど、速水ってたっちゃんの事務所の人間だよね」
反論も出来ず消沈しているように見えた新井が、いきなり反撃して来た。
藤木は警戒したが、速水は口の堅い男だ。関係が分かるはずがない。
「誰だ、そんな男知らないな」
自分の気付きで力を得た新井は、立ち上がって得意そうに皆に向かって話し始めた。
「みんな、速水って俺のファンでいろいろサポートしてくれる親友でね。ある議員の事務所の窓口係りで、うちの事務所に駐在していたんだけどね。速水から俺を陰ながら応援してくれる人がいるって聞いていて、名前は秘密だって教えてくれなかったんだけど、今度、駐在をやめて議員事務所に戻ることになったんで、誰だか教えてくれって聞いたら、俺の知り合いだって言うことまでは教えてくれたんだ。それとね、今日、酒井からたっちゃんに案内出したのかって聞かれてね。出してないって言ったら、国会議員目指して親父の議員秘書やって頑張ってるから、いつまでも昔のことを引きずるなって言われた。気持ちのいい話題じゃないから聞き流していたけど、気付いっちゃったんだよね。芸能事務所に議員事務所からの駐在がいるって、普通ないよね。俺が知ってる人で議員関係。たっちゃんしかいないんだよ」
「本当に浅はかな男だな、お前は。速水って奴が議員事務所から来ているからって、お前を応援してくれる人が議員関係とは言えないだろ」
「だから、俺と速水の共通の知り合い。ここに速水を知ってる人いる?」
皆は新井が何を言いたいのか分からず、無反応だった。
「ほら、誰もいない」
「馬鹿か、お前は。お前の知り合いはここにいる人間だけか」
「高校の仲間以外で、俺を応援しようなんて思う人間は絶対いないんだよ」
「そんなの、お前の思い込みだろう」
「みんな、聞いてくれ。その人は速水を使って、わざわざ下手なネタ作って、俺の芸は個性がないって芸風まで指導してくれて、心機一転環境を変えろってアトリに移籍させてくれて。あの時は感動したよ。こんな俺を応援してくれる人がいるんだってね。それが、たっちゃんだったとはな。反対の応援をしてくれたんだな。俺を落とし入れて自分の恨みを晴らす為に」
「勝手に決め付けるな」
「売れない芸人を移籍させて事務所に何のメリットが有る? その議員、駐在を置くくらいだから、うちの事務所に影響力があるんだろうな。秘書のたっちゃんなら俺を移籍させるのも簡単だろうな。俺の知り合いでそんなこと出来るの、たっちゃんしかいないんだよ」
「知り合いの全てを、お前が分かってる訳じゃないだろう」
理詰めで迫る新井に、藤木はまともな反論が出来なかった。新井がこんな論理的な思考をするとは思ってもいなかった。藤木は渋面を浮かべていた。
自分の事務所と藤木の関係を一番良く知っている高松は、新井の話に納得した。だが新井の人間性を知った高松は藤木を否定しなかった。
「新井の話は筋が通ってる。新井を応援する男が藤木で、速水って男を使ったと俺も思う。俺は速水を知らないが、大阪に転勤になった後に来たんだろう。藤木はうちに駐在を置くのも、新井を移籍させるのも可能だ。だけどな、それが何になる。たまたま、お前がストーカーになっちまっって、人間性を証明されちゃったが、移籍させたからって、確実に新井がストーカーになる訳じゃない。藤木がお前を落とし入れた根拠にはならんだろう。お前を落とし入れたかったら、他の確実な方法があるだろう。新井の芸人の夢を絶つとかな。今の藤木だったらそのくらい出来る」
「何度も言うけど、俺はストーカーなんかじゃない。高松、さっき俺の写真が写った時、誰かが『やっぱり新井か』って言ったよな。みんなは、俺が一番恨まれてるって知ってるんだよ。そんな俺を、わざわざ速水を使って応援しようとするか? たまたまじゃないんだよ。そうなるように仕向けられたんだよ。俺を落とし入れたんだよ。もう一つ、他の方法って言ったけど、さっき、たっちゃんが誰が偽善者なのかはっきりさせて、自分が正義だって証明してやる、みたいなこと言ったじゃないか。俺、はっきり覚えてるんだ。俺を刺そうとした時、『慎、お前は俺を偽善者にした』って言ったのを。みんなの前で自分は正義だって証明したかったんだよ。いい歳して、ガキみたいだよな」
新井はライブで受けるより自分の話芸に満足感を持った。
新井の話は説得力があった。真実ははっきりしないが、新井の話が正しいのかなと皆は思った。だが新井への評価は変わらなかった。
高松が皆の気持ちを代弁するように言った。
「藤木をそうさせたのは、新井だ」
「俺をそうさせたのは、藤木だ」
新井は皆の前で初めて藤木を呼び捨てにした。高松の言い方が気に入らなかった。自分の気付きと弁舌で、藤木の企みを暴露し、藤木をおとしめたつもりであったのに、皆の自分を見る眼は変わらずに冷たく、藤木を見る眼にいたわりすら感じる。その不満と憤りが、藤木との心情的しがらみを断ち切ろうとさせた。
藤木は高松の言葉が嬉しかった。新井に批判的で自分に同情的な、皆の気持ちを感じ取った。自分の企みを新井が明らかにしても、皆の気持ちは変わらない。新井の自分を小馬鹿にした言いように歯噛みして悔しく思ったが、皆が新井でなく自分を信じてくれていると思うと嬉しくなった。〈理不尽を正す〉思いを果たしたことより、自分を信じてくれていると思えることが嬉しかった。
自分と皆を隔てる薄いベールが剥がされて行くような思いがした。あの時のやり場のない悔しさは、皆に排他されたからだったのか。藤木の鬱積した屈辱、無念、怒りの感情は氷解し始めていた。v
「なあ、慎。もうやめにしよう。お前の言う通り、俺もお前と同じ小汚い男だ。認めるよ。これでいいだろう」
「何、余裕こいてんだ。ふざけるな。始めたのはお前だろ。認めるだと。自分から言って格好付けるんじゃないよ。お前は自分で認めなくても汚い男なんだよ。金持ちをひけらかして、人の気持ちも考えないひとりよがりで、自分勝手で、偉そうで。その癖臆病者で、強い奴にはへこへこして、弱い奴には威張り腐って、お前は最低の男なんだよ」
藤木の言葉を引き金にして、新井の怒りは高まり、理性は消し飛び、堰を切るように鬱憤が吐き出された。ただ、藤木を罵る為だけの言葉が。
「ちょっと待て。聞き捨てならないな。よくそれだけ嘘っぱちを並べたな。いつ俺が金持をひけらかした。いつへこへこして、威張り腐った。言ってみろ」
藤木は気色ばんで声を荒げた。
「そんなの知るか。俺は藤木が大嫌いなんだよ。それが可愛い弟だ。反吐が出るぜ」
「お前が俺を大嫌いなんて百も承知だ。慎、俺の眼を見て、ちゃんと答えろ」
「俺の眼を見て答えろだと。先公の決まり文句だよな。上から見やがって、偉そうに。お前は先公みたいに、うわっぺらだけの男なんだよ」
芸人だけに口が減らない奴だといらついた藤木は、理性を捨てた。
「おとなしく聞いてりゃ好き勝手言いやがって、お前が俺にへこへこしたんだろうが。俺が怖くて何も言えなかった臆病者が」
「お前が俺の前からいなくなって清々していたのに、又現れやがって。お前の顔を見ているだけでむかつくんだよ。とっとと俺の前から消えろ」
「俺が書いたネタもうまく使えねえ、女の尻ばかり追ってる中途半端な芸人が。お前は一生くず芸人でいろ」
理も何もない、罵り合いのガキの喧嘩だと思った新藤が、不毛の言い争いをやめさせようと思った刹那だった。
「お前に何が分かる」
新井はテーブルの上の皿を掴み取って、赤黒い、怒りに歪んだ形相で藤木に皿を投げつけた。皿はブーメランのように弧を描き、藤木の額をしたたか打って足元に落ち、大きな音を立てて割れた。額から血が一筋流れ落ちた。
一瞬のことだった。十二年前の事件をほうふつさせ、会場はどよめいた。
新藤を刺してしまった時の光景と、その時の新藤への心情が藤木の頭をよぎった。
すぐに新藤が藤木に走り寄り、傷を押さえている藤木の手を離し、取り出したハンカチを傷に当てた。
「藤木、大丈夫か?」
「みんな騒ぐな、たいしたことはない。新藤、相変わらず素早いな。今度は俺がやられちまったよ。あの時の俺は、今の新井みたいだったんだろうな」
「何、感想言ってんだ。病院に行って手当してもらおう」
「お前の時と違ってかすり傷だ。こうしていれば、すぐに血は止まる」
「そんなことわからんだろう」
「大事にするな。大丈夫だ。放っておけ」
藤木の報復を恐れ、新井との間に体を置いたが、藤木の顔に怒りは見られず、新藤はほっとした。
衝動的に皿を投げてしまい、藤木の額から流れる血を見て、気の弱い新井は顔を青ざめさせ、呆然としていた。
新藤は藤木を近くにあった椅子に座らせ、呆然と立ち尽くす新井の前に歩み寄り平手で新井の頬を打った。
叩かれた衝撃で我に返った新井は、新藤に抗議の眼を向けた。
「何すんだよ」
「何すんだはお前の方だ。いくら腹が立ったからって、何てことするんだ。藤木は傷を負ったんだぞ。藤木に謝れ」
新井から怒りの情動は去っていたが、憎しみは去り難く残っていた。
「藤木が悪いんだ。あんなこと言って俺を馬鹿にしやがって。許せないんだよ」
「お前も随分酷いことを言っていたぞ。どっちもどっちだ。だがな手を出した方が負けだ。謝れ」
「これで俺は悪党になっちゃたな。あの時の藤木みたいに」
新井はうつむいて力なく椅子に座った。
「新井、誰が悪党とかそんなことじゃない。あの時だってみんなが悪かったんだ。真実を確かめもせず藤木が新井をいじめていると決め付けた俺。真実を俺に話さなかった新井。その場の流れで藤木を吊るし上げたみんな。今の新井のように頭に血が昇って俺を刺した藤木。だがな、そうなったのは仕方のない事情があるんだよ。俺は何も分かっていないガキだった。新井は藤木に自分の思いを分からせる方法を他に見付けられなかった。みんなは、俺と新井から藤木が悪と言う情報しか与えられず、正しい判断が出来なかった。藤木は新井をいじめていると言われて心外だった。藤木の親父が新井の親父に、藤木との付き合い手当を払っていたんだってな。知ってたか?」
「本当か? 親父の奴、何も言わなかった。小遣いは言えばくれたけど」
「親が子供に付き合い手当なんて言わないだろう。それと、チンピラに脅されて藤木に助けられたんだってな」
「……」
「違うのか?」
「あの時は本当にやばかった。藤木に感謝したよ。だけど、あれから余計に藤木に負い目を感じて、何も言えなくなった。藤木はいい奴だよ。対等に付き合っていればな。藤木が俺を弟のように思っていたのは分かっていたよ。だけど、あいつの思う弟の感覚がおかしいんだよ。兄は絶対で弟は家臣なんだ。江戸時代じゃあるまいし。藤木に本当の弟がいたら、絶対縁を切られてるよな。だから俺も縁を切ろうとした。あの方法しかなかったんだよ」
「そうだ。人が何をするにも事情があるんだ。だがな仕方がない事情があったからって何でも許されるもんじゃない。やったことの責任は取らなければならない。お前を苦しめた藤木はあの時責任を取らされた。お前にな。お前のやったことが人を傷付け、十二年後の今まで引きずり、今度はお前が責任を取らされた。因果応報って知ってるか? お前は報いを受けた。皿を投げられて痛い思いをした藤木がどう思うか分からないが、みんなに悪党と思われて、これでお前はちゃらになったんだよ」
新井は言葉を返さなかった。
藤木は自分のことを話す二人の話を、眼を閉じて聞いていた。
傷の苦痛で眼をつむっているのかと案じた高松が声を掛けた。
「藤木、傷が痛むのか?」
「いや、心配させて悪い。新井の言う通り、今思うと、あの頃の俺の考え方はおかしかったな。俺もそんな兄貴お払い箱だ。慎、悪かったな。こんなこと言うと新藤に怒られるが、俺もガキだったんだ。勘弁してくれ」
突然謝られて、新井は戸惑った。
「たっちゃん、急に何だよ。俺を落とし入れるくらい憎んでいたんだろ。急に態度変えるなよ」
「新藤が言ったように、お互い十分報いは受けた。俺達の恨みつらみはちゃらにしよう。数少ない幼馴染みじゃないか。今度は本当に俺が慎を応援するよ。そうだ。嘘じゃない証拠に、俺の会社のCMに出てみないか。どうだ」
新井は半べそをかいたような顔になって、藤木が座る椅子の前に行き、藤木の手を取った。
「たっちゃん、顔を傷つけてごめん。あの時のことも謝る」
「俺が最低の兄貴だったんだよ」
憎しみ合った二人の心が再びつながった。幼き頃のように、邪気もなく。
「新藤にも随分酷いことを言ったな。やっぱりお前は正しい奴だ。それを偽善者なんてこき下ろしてな。許してくれ」
「誰でもみんな偽善者的な所を持っているんだよ。程度の違いだけだ。清廉潔白な人間なんかいやしない。俺も偽善者だよ」
「新藤がそうなら俺は相当な偽善者だな。ハッハッハ」
藤木は高笑いをした。
成り行きを緊張した面持ちで見ていた皆は、藤木の笑い声で雰囲気はやわらぎ、藤木劇場が終演したと思い、帰り支度を始める者もいた。
皆が自分を理解してくれた、信じてくれた。思ってもいなかったが、藤木はこれで十分満足だった。充足感があった。木村の〈理不尽を正す〉ことはもうどうでも良かった。黒木に謝るしかないが、木村の件は別の方法を考えようと思った。
「そろそろお開きにするか、新井。次行くだろう、藤木」
新藤が言った。
「俺が行ってもいいのか?」
「俺も誘えよな。うるさい俺は邪魔か?」
高松が茶化した。
この男達と談笑出来るとは。藤木は予想もしなかった結末に、誰ともなく感謝した。