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羊の三題噺。

【三題噺】流れ星に願うこと。

作者: シュレディンガーの羊




俺はきっと、あの光を忘れない。





高校に入学して二年。

部活動に所属していない俺にとっては、夏休みなんて長期休暇は暇を持て余すしかない。

遊びに明け暮れるほどアクティブでもないし、受験勉強に精を出せるほど真面目でもない。

母子家庭で現在、唯一の家族である母も海外赴任中と言えば、それはもう家で惰眠を貪るような毎日なわけで。

だから真夜中に目が覚めたのは、昼間にあれだけ寝ていればという、まあ当然と言えば当然の結果だった。

もう一度、寝なおす気にもなれずに、からからとベランダへ窓を開ける。

夏の夜は風が澄んでいて好きだ。熱帯夜でない夜の風は心地いい。

空には満天の星が輝いていて、久しぶりに星を見たな、と思う。

そうして、夜空をぼんやりと見つめていれば、降ってくる光にすぐ気が付いた。

「なんだ、あれ」

すさまじい速さで落ちてくる光は流れ星のように、まっすぐと裏手にある山へと光の尾を引く。

音もなく、澄んだその光は山に触れるか、という瞬間にぱっと消えた。

吐息が零れて、そこで呼吸を止めていたことに気づいた。

気づけば階段を駆け下り、スニーカーをひっかけて、家を飛び出していた。

きっとあの光を見たのは俺だけだと、そんな妙な確信があった。




山道を駆け抜けて、息が切れて足を止めかけると、茂みの向こうに白い光がおぼろげに見えた。

見つけた、衝動のままその茂みを踏み越えれば、

「あ、」

目が合って、

まさかそこに人がいるとは思わず、足が止まるはずもなく、回避行動もとれず、衝撃を予想して思わず目をつぶった。

「……っ!」

衝撃。

打ち付けた手のひらと膝がひりひりと痛む。それでも、思ったより少なかった痛みにほっとして目を開ければ、また目が合った。

草の上に広がる髪と俺を見上げる長い睫毛に縁どられた茶色の瞳、驚いた少女の顔。

俺は知らない少女の上に覆いかぶさっていた。

「わ、悪い……っ」

混乱しながらも慌てて飛び退く。対照に少女はゆっくりと上体を起こして、ぱちぱちと目を瞬いた。それから、きょろきょろと周囲を見渡してから、俺に視線を戻すと首を傾げた。

「ここ、どこですか?」

「…………は?」

それが、彼女との出会い。

自称・流れ星見習いNO.98436のステラと、俺、速水奏十郎(はやみ・そうじゅうろう)の出会いだった。




なんでこうなったのだろうかと思う。

「奏十郎さーん!」

振り返ってにこにこと俺に手を振る彼女を見て、顔に張り付けた笑顔だけはそのままに頭が痛くなった。




彼女は名前をステラと言い、日本人でも地球人でもないらしい。

宇宙幸福管理機構に所属している通称【流れ星】見習い。

その名前通り、宇宙全体の幸福を管理する機関の構成員。

それが彼女を示す言葉らしい。

私たちの仕事は、人の願いを叶えて惑星全体の幸せを上昇させることだと彼女は言った。

「見習い卒業試験をしてたんですけど、どうやら足を滑らせてこの星に落ちてきちゃったみたいです」

出会ったあの日、状況を把握したらしいステラはそう言って、ふにゃりと笑った。

とんでもないことを塩と砂糖を間違えました、なんてノリで告げられた俺の心中。

誰かお察しください。

いや、宇宙から落ちてきたとかどう考えてもおかしい。というより、とんでもない。

真夜中の森で、なぜかお互い正座で膝を突き合わせて、俺は内心、汗だらだらだった。

軽い気持ちで家を飛び出したことを後悔した。

そして一番、申し立てたいのは彼女と俺の認識の差。

なんで当事者であり彼女がえへへと笑っていて、当事者でない俺がどうしてこんなに危機感を持っているのか。

え、宇宙から落ちてきたってそんな大したことじゃないの?

俺が大袈裟なだけ?

俺、月にも行ったことのない田舎者だからわからないや、あははー。

……

とりあえず言えるのは、完全に俺のキャパを越えているということ。

彼女がとんでもない絵空事を言っている電波ちゃんという可能性も考えようとしたのだが、目の前で微かに発光している事実からそれはできない話だった。

自分の頭の中だけで考えることに限界を感じて、やけに明るい目をしているステラに尋ねてみることにする。

「えっと、それでどうしたら帰れるとかわかるか?」

「卒業試験はたくさんの見習いが受けていて、毎回、最終的な脱落者も多いのですね」

「……それって試験が終わるまでは、試験官みたいな人はいなくなった受験者を探してくれないってこと?」

嫌な予感に、言葉を選びつつ、慎重に意思の疎通を図る。

しかし、できればこれは全面否定してほしい内容であり、

「はい! そうです!」

「うわぁぁぁぁぁ!!!! やっぱりそうかぁあああああああ!!!!」

「あと、探してくれる保証はありません!」

「なんだとぉおおおおおおおおおお!!!!」

嫌な予感的中に加え、さらなる不安定要素もとい絶望的要素に頭を抱えてのけぞる。

これは彼女がこのまま帰れないかもしれないと言う、その現実かはっきりとしたわけで。

だからこそ、突っ込みたい。

なんで、今にもぱたぱたと尻尾を振りそうな感じに嬉しそうなの!?

ちょっと、本当に、ちょっと待って!?

そこで目をなんで目をきらきらさせてんの!?

なんでそんなに嬉しそうなの!? 

なんなのこの子、頭弱い子なの!?

ひとしきりばんばんと地面を叩く。

十秒ほどそうしていたら、少し落ち着いた。

なんだか、今なら悟りを開けそうな気がする。無駄に疲れた。

遠い目をする俺に、ステラは両手をぱちんと胸の前であわせて心底嬉しそうに笑う。

「わかってもらえて良かったです」

その言葉に、今度は俺が目を瞬く。彼女がほっとしたように、目元を緩めるのを見て、あぁそうかと思う。

別に不安でないわけではないのだ。

嬉しそうだったのは俺がきちんと状況を理解できたというその事実に対して。

自分ばかり取り乱して、少し情けなくなる。

同い年か、年下のステラの方がよほど気丈だ。

「まだ成人してもないだろうに大変だな、お前」

齢20足らずのステラが背負った過酷な運命を思うと、泣けてくるぜ、と目頭を押さえれば、立ち上がった彼女はふえ?と首を傾げた。

「私は、地球年齢なら463歳ですよ?」

「……」

母さん、そろそろ俺は泣きそうです。




結果から言って、俺は【流れ星】見習いを居候にすることにした。

「わぁ、これが地球のお屋敷ですか」

居間に案内すると、ステラは物珍しそうに部屋を見渡す。

その姿に俺は自分の判断が果たして正しかったのか、わからなくなる。

絵面的に言えばこれはちょっとまずいような気もする。若い男女が一つ屋根の下というやつである。

いや、しかしこれは今日寝る場所もない、いたいけな少女を助けるという非常に崇高な慈善行為であるのだと自分に言い聞かせる。

「奏十郎さん?」

「ふぁい!?」

突然に名を呼ばれ、びくっとする。完全に声が裏返った。

振り返れば、にこにこと無邪気に笑うステラと目が合う。

「困っていたので本当に助かります」

ステラは柔らかく目元を緩めると、ありがとうございます、と丁寧に頭を下げた。

眩しい笑顔にくらりとして、2,3歩後ずさり、ふらふらーと壁に寄り掛かる。

なにあれ、天使か!

反対にほんのちょっとでも不埒なことを考えた邪な自分を猛烈に殴りたくなった。

「(心頭滅却、心頭滅却、心頭滅却っ!)」

壁に額をがんがんと2,3回打ち付けたところで、ステラの不安げな顔が目に入って止めた。

いかん、このままだと明らかに常識人を逸脱した馬鹿だと認識される。

仕切り直そうと思い、こほん、と咳払いする。うん、実にわざとらしくて泣きたい。

「じゃあ、部屋は一階の奥を使って、鍵もかかるから。あと、洗面所もキッチンもある程度なら自由に使っていいから。それで今日はひとまず寝て、詳しいことは明日考えよう」

何気なく時計を見て、そういえば今は深夜だったと思い出せば猛烈な眠気が襲う。

くわわ、と欠伸を噛み殺せば、ステラがなにやら思案顔なことに気づく。

「なに? どうかした?」

「そうですよね、ここは地球でした。そういうものなのでした」

「?」

「大丈夫です。詳しい話はまた明日でお願いします」

ぺこり、と頭を下げるステラに、首を傾げつつ、じゃあお休み、と二階へ上がろうとする。

「あ、奏十郎さん」

「ん?」

3段ほど登ったところで振り返れば、ステラが少しだけ口を尖らせた。

「ステラです」

「?」

「私のこと、ステラって呼んでください」

拗ねたような口調で、ステラはそう繰り返す。

その強い瞳の色に驚いて、促されるままにぽつりと繰り返す。

「ス、テラ?」

「はい!」

名を呼んだだけなのに、彼女は心から嬉しそうに満面の笑みで返事をした。

それからご機嫌な様子で、ではおやすみなさいと頭を下げるとぱたぱたと奥の部屋に走って行ってしまう。

一連の流れに疑問を感じながらも、睡魔には勝てずに俺は早々と思考を放棄すると、二階に上がり、自室のベッドにもぐりこんだ。




翌朝、朝が弱い俺ではあるが、客人がいるなら起きねばなるまい。

案外、ここのところ昼夜逆転生活を送っていた身には、ちょうどいいテコ入れかもしれない。

簡単な朝食を用意して、ステラと向かい合わせでテーブルにつく。

「ひとまず、俺は高校生で、今は夏休みで、親も当分帰ってこないから、居候の件に関しては大丈夫。ああして会ったのも何かの縁だし、路頭に迷わせる気はないよ」

そう主張して、珈琲に口をつける。カフェインで少し眠気がましになった。

ちょこん、と向かいに座るステラは皿にのったトーストとサラダをまじまじと見ていたが、はっとして俺に視線を戻す。

「本当に助かります! よろしくお願いします!」

わたわたと勢いよく頭を下げたせいで、ごつん、とテーブルにステラの額がぶつかった。

「……大丈夫か」

「あ、は、はいっ」

しばらく額をテーブルにつけたまま、フルフルしていたので声をかければ、ステラはばっとまた勢いよく顔を上げる。額が赤くなっている。

どうやら、彼女はドジらしい。

「あと、帰るために出来ることとかあるなら手伝うけど?」

「え? なんでそこまで言ってくれるんですか?」

目を真ん丸に見開くステラに、当たり前だと思うことを告げる。

「俺は暇だし、ステラはすごく困ってるし、それなら手伝うのはまあ普通じゃないか?」

「普通……」

「だって、どうにかしなきゃだろ?」

マーガリンを塗っただけの焦げたトーストを齧る。目玉焼きくらい焼けばよかったなと、ぼんやり思う。

ステラは少しだけ考え込むように視線をさげてから、何かを決心したように小さく呟いた。

「試験、」

「ん?」

「私は試験を受けていたところだったって言いましたよね。それは人がどんな時に嬉しいと感じるか、楽しいと思うか、幸せを噛みしめるかということを知ることです。だから、奏十郎さんが嬉しいと感じるとき、楽しいと思うもの、幸せを覚えることを私に教えてください。私に触れさせてください」

慎重に言葉を選んで、ステラが俺にぽつりぽつりと思いを伝える。

その内容に、微かに眉根が寄った。けれど、雑念は首を振ることで、なかったことにする。

「りょーかい。じゃあ、さっそく朝飯食べたら出かけよう……って全然、食べてなくない?」

ステラは、トーストはおろか珈琲にも口をつけていなかった。

指摘すれば、ステラは困ったようにふにゃりと笑う。

「実は私たち、地球の方々と違って食事をしたり、睡眠をとったり、そういう人が必要とする生活様式がなくても存在していけるんです」

「あ、そうなんだ」

実は居候させると独断で決めたものの、食費や光熱費はどうしようかと考えていた。

その申し出に、少しホッとする。

俺が安堵したのが伝わったのか、ステラもそれに安堵したようだった。

「だから、私のことはええと、ロボット、そう思っていただいて構いません」

けれど、次の彼女の発言に、制止をかける。

「ちょっと待って、ステラはロボットではないんだよな?」

「はい、食事も睡眠も必要がないだけで、その機能はありますよ」

ニコニコとそう告げたステラに、眉をひそめた。

俺の表情の変化に気づいて、ステラが、奏十郎さん、と首を傾げた。

それにはあえて答えず、皿を指さす。

「なら、食べて」

「え?」

「必要なものじゃないからって、切り捨てていいものじゃないだろ。それに生命維持に必要なくても食事は大事なの、とりあえずこれは食べて」

「でも、」

「でもじゃない」

自分用のトーストの最後のひとかけらを飲み込む。

去年に溜め込んだバイト代を、頭で計算する。あれだけあればステラ1人分くらいはどうにかなる。

不服そうな顔で食事に手をつけないステラに、思いつきと本心両方で言う。

「それに食事は一人で食べても美味しくないし楽しくない、嬉しくないし幸せになれない」

「え! そうなんですか!」

「うん、これもさっきのお願いに含まれるだろ、さぁ食べた食べた」

「はい!」

たった一言の説得で目をキラキラさせるステラに、危うく噴き出しかける。

ステラは楽しい、嬉しい、幸せの用語にどうやら弱いらしい。

見ていてなかなか飽きないなぁと珈琲を啜れば、そわそわしながら俺のまねをして珈琲を口にしたステラの顔がみるみる悲しそうになる。その顔はまるで目をうるうるさせるチワワのようだ。

「奏十郎さん……」

「ごめんごめん、ブラックはやっぱりだめか」

その後、焦げたトーストに対して、呪文のように二人で食べれば美味しい、二人で食べれば美味しい、と繰り返しながら食べているのを見てさすがに少し申し訳なくなった。




ステラはよくも悪くも素直だった。

ひとつ何かを教えれば驚き、ひとつ何かの名を教えれば復唱する。

街に連れて行けば、きょろきょろと忙しなく周囲を見て、あれはなんですかと嬉々として尋ねた。

人の笑顔が集まる場所、ということでいろんなところに連れて行った。

本屋に行けば、何気なく手に取った本をすべて読み切って、

「感動しました! 小鳥のチロルが鴉のリロを許すシーンが素晴らしいです!」

とキャラクターの絵本を手に感動に打ち震えていたし、

映画館に行けば、映画自体よりその映像投射の仕組みばかり気にしていて

「小さな埃が映写機の光できらきらしてて、何時間でも見ていられるくらい綺麗でした!」

と、これっぽっちも映画の内容にかすらない感想を告げたり、

ゲーセンに行けば、カラフルな商品に興味津々でUFOキャッチャーのガラスケースに顔を近づけながら、

「あの人形はきっと、外に出たがってます!」

と妙に力説したり、




ステラといると素直な気持ちで笑えた。

もちろん、時々、頓珍漢なことをするし、ドジなこともする。

時折、彼女が周囲と俺に向ける真剣な瞳も見ていないわけじゃない。

一度、ステラはぽつりと俺に口にした。

流れ星は、人の感情を理解できない範囲があると。

それは全宇宙の生命体、惑星の幸福すべてに対応するためであり、仕方のないことだと。

けれど、何が人を幸せにするかを見極めなければ、流れ星になれない。

ステラは確かに素直で、明るくて、良く笑うけれど、同じ人ではないのだということを、その時、改めて、いや初めて俺は理解した。




「綺麗ですね」

ふいにステラが足を止めたのは、駄菓子屋の前だった。

今日も街を散策し、日は傾いて、周囲は黄昏の光に包まれていた。

ステラが取り上げたのは、いまでは縁日でしかあまり見かけなくなったラムネの瓶。

「それはラムネ。炭酸飲料、というかソーダ水かな」

「らむ、ん? たんさい……ん?」

「えーっと、」

「ソーダ水!」

「ああまぁ、うん。それでいいや」

覚えたとばかりにニコニコと笑うステラに、つられて俺も笑う。

夕日に煌めくガラス瓶を、じっとステラが見つめる。

「奏十郎さん、」

「なに?」

「一緒に飲めば美味しいですか?」

ふいに口にされた言葉に驚く。見上げてくる瞳は、一途に澄んでいる。

ちょっと驚いた。なんだかんだ言ってステラは俺にいつもどこか遠慮している。

でも、これは、

「これ、飲みたい?」

「飲みたい、です」

こくこくと頷くステラに、ほうと息をつく。

なにやら、やっと懐かれたような気分だ。

少しばかり嬉しくなって、奥にいるおばちゃんに硬貨を渡してラムネを購入する。

「はい」

「奏十郎さんの分は買わないんですか?」

ラムネを受け取って、目を瞬くステラにあははと笑う。

実のところ、俺は炭酸が嫌いである。だから、もちろんラムネも嫌いだ。

それを伝えれば、ステラは少し不服気になった。

しょうがないから、もっともらしい言い訳をしておく。

「ステラも珈琲嫌いだろ? それと一緒だって」

「私は砂糖とミルクをいっぱい入れたら珈琲飲めます!」

「いやそれもうきっと珈琲じゃないから」

振れば炭酸が抜けることを知った日には、ステラは炭酸を全部抜いた砂糖水もどきのラムネを渡してくるに違いない。

満面の笑みでラムネを振っているステラを想像して、思わず吹き出す。

「なんで笑ってるんですか」

さっきまでの不服顔はどこへ行ったのか、俺が笑うとステラがぱぁっと表情を明るくする。その変わり身の早さが面白くて、また笑った。

気づけば、ステラは微笑んでいた。でも、その笑いはどこか淋しげに見えて、俺は理由もなく不安になった。

俺の笑いの波が静まると、ステラが駄菓子屋の壁に貼ってあるポスターを見て首を傾げた。

「はなび、たいかい?」

「あぁ、そういえば今年はまだだったな」

「毎年、やるんですか?」

「いわゆる恒例行事で夏の風物詩ってやつ」

それはこの街で一番大きい花火大会のポスター。日付けはちょうど3日後だ。

小さなころの思い出が微かに思い出される。

暗い夜道にいくつもの屋台の灯、弾ける光に続く轟音。

1つ息を吐いて、ステラを振り返る。

「これ、行くか」

「え?」

「これこそ夏の最大のイベントだろうし、幸せそうな人たくさん見れるぞ」

にっと歯をみせて笑う。けれど、ステラは表情を曇らせた。

それは、今までにしたら有り得ないことで戸惑う。

「おい、どうしたんだよ、ステラ?」

「3日後……ちょうど、テストが終わる日です。それに、」

ステラは語尾を濁して、ちょっと困ったように目を伏せた。

俺といえば、完全にそのことを失念していて、呆然とした。

そうだ。ステラは帰るのだ。そもそも、帰るためにこうしていろんな場所に言っているわけで、だから。

顔の筋肉を総動員して、少しだけ無理して笑う。

「それこそちょうどいいだろ、最大イベントが最終日なんてついてる」

俺は笑ってみせる。

家に帰ること、それがステラの望みなんだから。

そもそも俺だってずっと家にステラを置いておけるなんて甘いことは思っていない。

夏休みが終われば、母は帰ってくるし、学校だって始まる。

今のこの状況は、夏休みなんてものを持て余しているがための、悪く言えば、暇つぶしだ。

そうすることで、お互いに了承したのだから。

俺が笑えば、ステラも少しだけ淋しそうに目を細めて笑い返した。




あと3日。数えてみれば、残りはなんて短い。

帰宅後、自室のベットに寝転がって、天井を見上げる。

振ってきた流れ星、そして帰っていく流れ星。




その夜、久しぶりに夢を見た。

そこはとても綺麗な場所で、幸せに溢れた素晴らしいところ。

俺はステラを連れてこなくては、とはやる胸のままに走り出す。

その先には、喜ぶステラの笑顔があるはずで。

けれど、その足はいつの間にか止まって。

俺は気づく。

「――――?」

はっとして振り返れば、すぐそこに彼女がいて、縋るように手を伸ばして。

その先は、

覚えていない。




「ステラ、星を見に行こう」

そう提案すれば、案の定ステラは驚いたようだった。

「星、ですか?」

「うん、そう星、お星さま。スターにミルキーウェイにオーリオン!」

最後のは星座だが、こういうものはノリでカバーするものである。

ステラはここ数日、はまっているパズルをやる手をとめて、目を瞬く。

「星、」

「もし運が良ければ、俺たちが流れ星って呼ぶもの見えるかもよ?」

どうにか興味を引けないものかと、流れ星という単語を出せば、ステラの瞳が微かに揺れた気がした。

ゆらりと揺らめいた瞳が再び、きちんと像を結んで、俺を映す。

「今夜ですよね、楽しみです」

「あ、オッケー? よっしゃ、やった!」

断られたらどうしようと多少、不安だった手前、嬉しくなった。

ガッツポーズをして喜ぶ俺は、だから、その時、気が付くことができなかった。

ステラが、悲しそうに瞳を伏せたことに。




「はい、到着!」

屋上へのドアを大きく開け放つ。すぐに視界に飛び込んでくるのは広がる夜空と満天の星々だ。

「わわ、すごいです!」

「うん、今日は綺麗に見えるな」

どこで星を見ることにしようかと考えた時、真っ先にここを考えた。

俺の通う高校の屋上。

屋上の鍵は、悪友のクラスメイトにポーカーで買った際に貰ったものだ。

どのルートからのものかは詳しくは知らないし、知らない方がいいかなとも思っている。

しかし、寄るのが学校に忍び込むのは思ったよりは簡単だった。

「これが地球から見た星ですか」

夜空を見上げながら、屋上の中心に向かってステラは歩いていく。

足元お留守になって転ばなければいいけど、と苦笑してその背中を追った。

それから2人で屋上の真ん中に仰向けで寝っ転がって、星を見上げた。

視界に入るのは夜空と星だけで、まるで宇宙にいるみたいだ、なんて言いそうになってから口を噤む。

こんな時くらい、先のことなんて考えずにいたかった。

「奏十郎さん」

ステラが俺を呼ぶ。

「なに?」

俺は星を見つめたまま応える。ステラは淡々と、けれど唐突な疑問を投げた。

「花火大会、お嫌いなんですか?」

「……唐突だな。なんで?」

「この間、少し無理しているような気がしたので」

ばれてたか、と苦笑する。確かにここ数年は友人に誘われても、花火大会に行こうとしなかった。

「嫌いではないよ。花火大会、お祭りはむしろ好きなほう。ただ、終わりがどうもあまり好きじゃなくってね」

終わり、とステラがぼんやりと繰り返す。

「そう。賑やかで明るくて楽しいのに、それがふっと終わるだろ。それがたぶん淋しいんだろうな」

「淋しいんですか?」

「熱がひいてくって言うか、日常に帰らなくちゃいけなくなるっていうか、特別だからこそ終わりはなんか、な」

なら、初めからそれに関わらなければいいなんて、口にすればそれはなんて子供のようだ。

意味もなく、空に向かって手を伸ばす。

「小さいころ、俺の母親、仕事が忙しくてさ。なかなか、俺を構う時間なんてなかったんだ。まぁ忙しいのは今もだけど」

ステラはいきなり始まった俺の語りに黙って耳を傾けてくれた。

「でも、花火大会は一緒に行こうって毎年、予定を開けてくれててさ。だから、その日は特別でいくら友達に誘われても、母親と行くんだって断ってた。なんかこう言うと俺も幼いころあったんだなー」

その頃を思い出して、懐かしくなる。

父親が生きていた頃はいつも3人で花火大会にきてたのよ、と花火を見ながら母さんは毎年のように言った。

俺が物心つく前に父親は病死していたから、俺としてはそれはあまり大切なことではなかったけれど、特別な日に変わりはなかった。

一度だけ、友人の誘いを断った時に、マザコンじゃんと言われ、喧嘩をしたことがある。

もちろん、今ならただ単にそいつが拗ねただけだったとわかる。

でも、その時の俺はかっと頭に血が上って、取っ組み合いのけんかになった。

母親に喧嘩の理由を聞かれても、黙り通して困らせたことも思い出す。

「でも、小学三年の時にさ、お袋、花火大会終盤で急な仕事が入ったんだ」

思い出すのは必至で笑う自分の声。

『いいよ、あとちょっとだし。友達見つけて一緒に最後の花火見るから。お母さん、仕事行きなよ』

大切な仕事を任せられたと嬉しそうに言っていた。最近は真夜中にフラフラになりながら帰ってきていた。

それでも、昨日幸せそうにその仕事をやり切れたと言っていた。でも、どうやらその仕事にすぐに直さなくてはいけないミスが見つかったらしかった。

『そのお仕事が上手くいったら、偉くなれるって喜んでたじゃん。行きなよ』

母親がその時にした悲しい目を今でも覚えている。ごめんね、と俯いたその頭を小さいながらに一生懸命、背伸びして撫でた。

『いいよ。そのかわり、明日はハンバーグにしてよ』

ありがとう、気をつけて帰るのよ、と何度も繰り返す母親をしつこいよと笑って仕事に送り出した。

母の姿が人ごみに消えて、張り付けていた笑顔が音もなく剥がれ落ちた。

大きな音にゆるゆると顔を上げれば、花火が暗闇に消えていくところだった。

人の波で、一人きりだった。

そもそも友人を見つける気などなかった。

笑い声が聞こえる。誰もが皆、一様に幸せそうだった。花火を指さして、手を繋いで、顔を見合わせて笑って。

だんだんと顔が上げていられなくなった。

俺は母親の為に、笑って彼女を見送ったのだ。恥ずかしいことなんて何もない。堂々としていればいいはずだった。

それなのに、笑い声はうるさいくらいに幾つも幾つも降ってきて。

その度に、心に鉛が落とされていくような気がした。

恥ずかしくて、悔しくて、上手く言葉にできない苛立ちが沸き上がって、意味もなく泣きそうになって、俯いたままきつく目を閉じた。

耳を塞がなかったのは、最後のプライドのようなもので、それが捉えたのは最後の花火の予告アナウンス。

顔を上げなくては、と思った。明日、母親に今年も最後の花火は綺麗だったと言わなくてはいけない。

だから、顔を上げろ。

顔を上げろ。

上げろ。

光と同時に爆音が弾けた。はっとして開いた目に映ったのは、地面にくっきりと照らし出された自分の影。

けれど、それもすぐにまた暗闇に沈んだ。周囲からは歓声と感嘆の吐息。

アナウンスが、これで今年の花火大会は終了だと告げる。

視界を埋める足が帰るために向きを変えていく。

手を引かれて家路を辿る親子が、恋人たちが、子供たちの足音が聞こえては遠ざかり、俺を追い越していく。

俺は、その中で地面だけを見ていた。

どれくらいそうしていただろう。

気づけば、さっきまでの悔しさも苛立ちも砂のように手のひらから風にさらわれていったしまっていた。

緩慢に顔を上げれば、目に映るのは、まばらな人、灯の消えた提灯、黙々と片付けられていく屋台たち。

そこはもう、お祭りではなかった。

静かな夜がそこにはあって、俺はあぁと思った。

気づかなければ良かったと思った。

だって、なんてこともない。今日は決して特別な日ではなかった。だたの、いつもと変わらない夜だ。

心を躍らせても、それは一時のもので、時間が来れば魔法は溶ける。

澄んだ夏の夜の風が、ざわりと木々を揺らす。

楽しみにしていた。この夜だけは、自分はなにも気にせずに笑うことができるのだと、信じていた。

父親がいないことをからかわれても、誰にもおやすみと言わず眠る夜があっても、この日があれば、この日さえあれば、自分は笑っていられる。

母親は、一人で俺を頑張って育ててくれていることは十分に知っていた。

家のことも、仕事も、全部くたくたになるまで頑張っていて、でもいつも笑っている。

お父さんがいなくても恥ずかしいことなんて一つもない、堂々としな、と、くしゃくしゃと俺の頭を撫でるその赤切れた手。

だから、この夜だけは俺が幸せだというひとつの傷もない証明。

授業参観も、三者面談も、運動会も別に大したことじゃない。

この、年に一度の花火大会が、俺が可哀想でもなく、惨めでもなく、幸せだということに胸を張れる誇り。

それが俺の、たったひとつの曇りない誇りだった。

でも、気づいてしまった。

1人で迎える特別の終わりはなんて、

なんて惨めだ。

解っていた。

本当はずっと恥ずかしかった。幸せなくせに、ずっと淋しかった。父親のいない自分を可哀想だと知っていた。

母親にこれ以上、頑張ってほしいなんて思わない。そういうことではない。

ただ、強くなんてなれなかった。

母親が言うように、堂々となんてしていられなかった。

零れ落ちる涙に、ぎゅっときつく目を閉じる。それでも、涙は止まらなかった。

ひとつ零れた嗚咽は次第に大きくなって、息も吸えなくなって、それでも叫びそうになる口を手で必死に押さえる。

俺がここで迷子のように泣きわめけば、あんなに頑張っている母親が恥ずかしくて可哀想な人にされてしまう。

そうじゃないんだ。そうしたいわけじゃないんだ。

俺は確かに、幸せで、でも、だから、

いつだって、淋しくてたまらない。

そう認めた瞬間に、心がめちゃくちゃになった。




「……さん、奏十郎さん!」

「!!」

はっとすれば、ステラの顔がすぐそこにあった。

星空を背に、脇に座ったステラが俺を見下ろしていた。

「あ……悪い、俺、どこまで口にして」

「奏十郎さん」

慌てて起き上がろうとすれば、押しとどめられる。気づけば、空に向かって伸ばしていたはずの手は彼女に掴まれていた。

それに気づいて身体からどっと力が抜けた。

「奏十郎さん」

「ごめん、心配かけた」

彼女の手の中から手を引き抜こうとしても、できなかった。

手が、震えていた。

自嘲が零れた。なんて、情けない。

あれはもう随分と昔の、俺がどうしようもない無力なガキだったころのことで。

今の俺には、もう過ぎた日のことなのに。

彼女の手を掴んだまま、手の甲を目に押し付ける。

「奏十郎さん」

「ごめん、ちょっとだけ黙って」

じわり、と目頭が熱くなる。それでも、雫は零れない。それは俺があの頃とは違うという証明だ。

「奏十郎さん」

ステラが俺の名を呼ぶ。

「お願い、ステラ。今だけでいいから何も言わないで」

くっと口だけは気丈に笑ってみせる。震える指で台無しだろうけれど、平気な振りをする。

どうか、このまま何も言わないでほしかった。

少しだけ、こうしたら、またいつものように笑うから。

だから、いまだけは何も見ていないふりをして。

震える手で再び手を解こうとすれば、きゅっと彼女の手に力が入った。

「奏十郎さん、」

「…………っ」

「奏十郎さん」

「黙れよ…………!!」

耐え切れずにとうとう叫んだ。頭の冷静な部分が、最低だと俺自身を嘲笑う。それでも、もう止まらなかった。

夜の静寂を切り裂いて、俺の声が屋上に響いた。

「すぐにまたへらへら笑うから、お願いだからいまは黙ってくれよ!!」

「……奏十郎さん」

「黙れっ!!」

ただ名前を呼び続ける彼女にどす黒い苛立ちが溢れて、その腹立たしさのままに彼女を押し倒した。

逆転した図になっても、慌てもせず驚きもせず、彼女は静かな瞳で俺を見返した。

その妙に温度の低い目に腹が立った。

「言いたいことがあるなら、言えよ。正直、失望しただろ? でも、これが俺なんだよ!」

劣等感とついて回る寂寞から目を背けて、何も考えていないふりをして笑って。

身体ばかり大きくなっても、何もあのころから変わっていない。

もう、あれは遠い話だ。

けれど、それでも、俺はあの日から、ずっと、

「奏十郎さん、」

「いい加減に……っ」

また名前を呼ばれ、キッと彼女を睨めば、すっと頬に触れるものがあった。

はっと、目を見開く。

頬に触れたのは彼女の左手だった。

「どうして、」

ステラの唇が、やっと違う言葉を紡いだ。

まっすぐと俺を見上げる瞳は、揺れない。

「どうして、泣くんですか」

「泣いてなんか」

応えた途端に、彼女の手に涙が伝った。

「これは、ちが、」

「笑わなくていいです」

彼女は俺の涙をぬぐうこともなく、ただ俺の頬に手を添えなおす。

「泣きたいなら泣いていいです。でも、どうして、奏十郎さんは泣くんですか」

「どうしてって、」

頬を、彼女の手を伝う涙のわけ。

湖のように澄んだ瞳で彼女は請う。

「教えてください、奏十郎さん。どうして、あなたは泣くんですか」

夜の屋上で、俺を見上げて、彼女は尋ねた。

誰も、聞かなかった涙の理由を彼女は求めた。

俺は、笑った。泣いて、そして、笑った。

「わからない……わからないよ、俺にも」

そう答えると、すぅーっとやるせなさや痛みが涙に溶けていくような気がした。

ぽたぽたと、溢れる涙が彼女の頬を濡らす。

俺は涙を堪えることもせず、子どものようにただ泣いた。

ステラはその時になってようやく、わたわたと慌て出す。

「わわ、奏十郎さん、え、わ、す、すみませんすみませんすみませんっ!」

「謝りすぎ、ステラ」

苦く笑って彼女の手を解放する。彼女の上からどいて、手を広げて仰向けに寝転がった。

幾つもの星々の光が降ってくる。

笑えるほど、綺麗で、無責任で、澄んだ光。

目を閉じても瞼の裏に焼き付く光。瞳の縁から涙が流れていくのを感じた。

しばらくそうしていれば、次第に心は落ち着きを取り戻していく。

「ごめんな、ステラ。痛かっただろ」

「あ、だ、大丈夫ですよ!」

わたわたとステラが手を振る気配がする。その慌てっぷりにまた笑いが零れて、それから目を開ける。

やっぱり、星の光は変わらず、そこにある。

雲がなければ、星々は俺たちを分け隔てなく見下ろすのだ。

心が温かさで満たされる。愛しさや温かさが溢れだすギリギリまで湧き上がって、優しく胸を締め付けた。

「なんかありがとな、ステラ。俺のところに来てくれて」

どうして、いきなりそんなことを言ったんだろう。

けれど、ただ言いたくなったのだ。

いま、この時に、彼女だけに聞こえるように、ただ伝えたかった。

反応がないことが気になり、横にいる彼女に目を向ける。

ステラは、

優しく口元を綻ばせて、俺を見つめていた。

その表情にどきりとした。

優しいのに、その分だけ悲しそうに見えた。けれど、それは言葉にならない。

ステラも何も言わなかった。

そうして、俺とステラはずっと夜が明けるまで星を見ていた。

一度だけ、ステラが消え入りそうなほど小さな声で囁いた。

花火、見に行きましょうね、と。




風邪を引いた。

ものの見事に。

夏の夜だからと言って、一晩中、薄着で屋上にいればそうなるのもわからなくない話である。

「大丈夫ですか?」

ベッドで潰れている俺を心配そうにステラが覗き込む。その下がり眉に安心させようと笑おうとして失敗する。

げほげほと咳き込めば、ステラが泣きそうになる。

「ごめ、リビングにある棚、薬入ってる、から」

「はいっ!」

水も、と頼もうとする前に、ステラは身を翻してしまった。

ばたばたと階段を駆け下りていく足音に、息をついてベッドに沈み込む。

熱に当てられた体は重く、ひどい怠さに目を閉じればすぐに激しい眠気が襲う。

微睡みの中で、優しく名を呼ばれた気がした。




目醒めは唐突だった。

「私、ずっと黙っていたことがあります」

静かに話し出すステラと、それに背を向けてベッドに横たわっている自分を知覚する。

身体の熱っぽさと怠さは随分と良くなっていた。

けれど、身じろぐことさえせず、気づけば息を殺していた。

ステラがこれから話すことはきっと、本来自分が聞いていいものではないのだろうと分かっていた。

分かっていて、それでも俺は聞く方を選んだ。

ステラの声は表情をなくして、月のない夜のように淡々と部屋に落ちた。

「奏十郎さん、私、自分で落ちたんです。足を滑らせたわけじゃありません。自分で、試験の途中で逃げ出したんです」

身体が強張った。それ遥かに予想を超えた告白。

そんな俺に気づかずにステラは続ける。

「私、わからなかったんです。自分が幸せでないのに、どうして他の誰かを幸せにしなくちゃいけないのか。それに私は見習いの中でもひどい落ちこぼれで、だから……いえ、だからというのはおかしいですよね。私は流れ星になるのが嫌になったんです。このまま足を踏み出せば落ちるってわかっていたのに、私はその一歩を踏みとどまれなかった」

でも、と彼女の声が自嘲を含んだ。

「落ちている時、堪らなく怖くなりました。自分はどうなるんだろうって、このまま消えるのかって……でも、それも途中でどうでもよくなりました。これは自分が選んだ結果で、言い訳も何もできない」

奏十郎さん、眠っているはずの俺の名を彼女は呼ぶ。いつもとは違う、とても悲しい声でただ呼んだ。

「奏十郎さんに会った時、私、決めたんです。あなたを幸せにしてみようって。人の幸せを祈れない私が、流れ星にもなれない私がそれでも誰かを幸せにできるか試してみようって。だって、奏十郎さんは笑っていたけど、いつも淋しそうでした」

自分の呼吸が不自然に捻じれた。気がした。

「それはきっと諦めと同時に、打算でした。あなたを幸せにできたら、機構が私を見つけてくれるかもしれない。そうしたら、私は帰れます。だから、お願いしました。幸せを、嬉しさを、楽しさを感じられるところに、あなたが幸せに笑ってくれるように。でも、あなたはやっぱり笑っていても、いつもその奥に淋しさを讃えていました」

もう、耐えられなかった。湧き上がる感情のままに、ばっと体を起こす。

ステラはやっぱり驚くこともせず、彼女を睨みつける俺を見つめていた。

その静かな瞳が、昨日の満たされたと思った心が、淡々とした彼女の告白が、すべてが激しい苛立ちへと変わる。

「お前はっ、そうやって俺を憐れんでたのかっ!」

噛みつくように叫んだ。

ステラは何も言わない。溢れだした怒りは暴走する。

「自分のこと、助けてくれって言いながら、ずっと俺のことそうやって見てたのか! ずっと俺のこと可哀想な淋しい奴だって思ってたのかっ!」

熱で思考回路はめちゃくちゃだった。どうして、昨日の今日でこんなことになったのかわからなかった。

こんなことは知りたくなかった。

叫んでいるのは俺だけで、彼女は夜空のように静かに俺を見返すだけ。滑稽なのはどう見ても俺だった。

すっと気持ちは冷めて、ベッドから降りると彼女の横をすり抜ける。

ドアノブに手をかけて、一度だけ動きを止める。

「ステラ、」

ぎりっと歯を食いしばる。背中越しに感じるステラは、波紋ひとつない湖に似ていた。

「確かに俺は不幸に見えたかもしれない。でも、昨日は、昨日だけは、本当に幸せだったんだ」

ばたんと乱暴にドアをしめると、そのまま家を出た。

ステラは、最後まで何も言わなかった。





外はうだるような暑さで、降る蝉しぐれは、煩くて、それから逃げ出すように走りだす。

めちゃくちゃに走る。息が切れて、手足は重くて、それでも思考はどこか冷静だった。

『奏十郎さん』

何度も名前を呼んでくれたあの柔らかい声。

『奏十郎さん』

何度も向けられたふんわりとした笑顔。

『奏十郎さんは笑っていたけど、いつも淋しそうでした』

淡々と告げられた言葉。

『それはきっと諦めと同時に、打算でした』

足を止めて、振り仰いだ空は突き抜けるように青く澄んでいた。

星も、月もない、雲一つない夏空が俺を見下ろす。

じりじりと、肌を焼く熱。こめかみに伝い落ちる汗。

『あなたが』

悲しそうに、記憶の中で彼女が笑う。

それは、あの日、母が浮かべた笑顔によく似ていた。

『幸せに笑ってくれるように、』

いつの間にか、心はもう決まっていた。




「おかえりなさい」

リビングのドアを開けると、帰宅した俺に気づいたステラが振り返ってはにかんだ。

掃除でもしていたのだろう。その手には箒が握られていた。

できるだけ俺と目を合わせないように目を伏せて、それでもステラは努めて明るい声を出しているようだった。

箒を片付けながら、背を向けて彼女は早口に言う。

「今日、出て行きますね。明日も今日もそんなに変わらないかもしれないけど、ごめんなさい。いままでありがとうございました」

ぺこりと頭を下げて、今度は彼女が俺の横を通り抜けて行こうとする。

「待って」

「え?」

「来て」

すれ違いざまのステラの手首を捕まえて、玄関へと引っ張る。

玄関につくと、ステラの手をいったん離して、膝をついてそこにおいてあった段ボールを彼女の足元に押しやる。

ステラが戸惑ったように俺を見る。

「あの、これって」

「俺は馬鹿だから、へらへらしてるくせに、すぐキレるし怒鳴るしさ、二日連続でステラにみっともないとこ見せた」

独り言のような言葉を吐きながら、段ボールを開ける。

その中身が見えるように、ステラを見上げれば、ひどく驚いて呆然と呟く。

「ソーダ、水……?」

そう、箱の中にあるのは十何本のラムネの瓶。

「どうしたらご機嫌とれるか、わからなかったから」

「ご機嫌……?」

「許して」

「え?」

箱の中からラムネ瓶を一本取り出して、ステラの手に握らせる。

「これはさっき怒鳴った分」

もう一本取り出して、もう片方の手に握らせる。

「これは昨日の分」

箱から瓶を取り出す度に謝りたかったことを、告げていく。

玄関先にラムネの瓶がいくつも並んだ。窓から入る光に、ガラスが煌めく。

最後の一本を取り出して、ステラと目を合わせた。揺れる瞳が俺を見て、唇が震える。

「これは、俺がステラに幸せにしてもらったっていうお礼」

ふるりと、ステラの睫毛が震えた。

「ありがとう、ステラ」

俺を幸せにしてくれて、ありがとう――――そう告げると、くしゃりとステラが顔を歪めた。

それをとても柔らかな気持ちで見守る。

「こんなに、たくさん、飲めませんよ」

「飲めるよ、好きでしょ」

くすりと笑えば、ステラの指にきゅっと力が入り、肩が震えた。

「なんで、私、自分の為にあなたを」

「でも、俺はステラといて楽しかった。嬉しかった。ステラはそうじゃなかったかもしれないけど、俺は本当に幸せだった」

「わた、しも気づいたら、いつも笑ってました。名前を呼ぶと振り返ってくれるあなたが、嬉しくて、」

「ステラ」

いろんな気持ちを込めて名前を呼ぶ。

「名前、呼んで」

わざと甘えたように強請れば、ステラははっとして、それから、目元を緩めて微笑んだ。

「奏十郎さん」

その場に膝を落として、彼女は眩しいくらいに笑った。

「私、やっと幸せの意味が分かる気がします」




「うわぁ、人がこんなにたくさん! すごいですね、奏十郎さん!」

いくつもの屋台の灯と人の多さに、ステラが初めて縁日に連れてこられた子供のようにはしゃいだ声をあげる。

花火大会に行きましょうと、どちらが言ったわけでもなかった。夕方になって、何も言わずに二人で並んで家を出た。

行けば行くほど、だんだんと人が増えていき、すぐに祭りの灯が灯る通りに出てしまった。

久しぶりの縁日の灯と、目の前ではしゃぐステラに自然と頬が緩んだ。

人の波に沿って進みながらも、ステラはきょろきょろと落ち着きなく屋台を見ては指をさす。

「あそこのあの赤くてきらきらした飴! とっても綺麗ですね! あ、あそこは硝子が売ってますよ!」

「きらきらしたものばっかりだな」

はしゃぐ様が微笑ましくて口元を押さえれば、ステラは拗ねたようにぷくぅっと頬を膨らめた。

その姿は制服と相まって本当にただの高校生に見える。いや、今なら中学生に見えなくもない。

「綺麗なものが好きで何が悪いんですか。奏十郎さんだって綺麗なものを見たら幸せな気持ちになるでしょう?」

「幸せっていうのはなんか大袈裟だな。俺の感性だと綺麗なものを見て心が震える瞬間は一生来ない気がするなー」

「む、じゃあ、もしそういう瞬間に巡り合ったら奏十郎さんの負けですからね!」

「負けって。なんの勝負だよ、それ」

今度は呆れを通り越して、思わず笑う。この突拍子のなさは本当に飽きない。

そういえば、初めは名を教えたものをすべていちいち復唱していて面白かったなんてことを思い出してまた笑えてくる。

一度、零れた笑いはなかなかに収まらなくて、その癖、ステラが黙るものだから少し気恥ずかしくなる。

「ねぇ、ステラ、そこで黙るのは」

「奏十郎さん、」

ふっとステラが寂しげに、置き去りにされた子供のように俺を見上げた。

周囲の喧騒にその声は溶け込まずに、まっすぐに俺の耳に届く。足を止めたのは、ステラが立ち止ったからだ。

人ごみの中で2人して立ち止まり、見つめ合う。

それだけで、本当に世界に置き去りにされるような錯覚を起こした。

震える唇が次にどんな言葉を紡ぐのか、それを知ることが何故だか無性に怖くなって、柄にもなく焦る。

「おい、ステ」

「ソーダ水!」

何を言われたのか、すぐには理解できなくて、疑問符だけが時間差を持って零れた。

「…………は?」

「ソーダ水、飲みたいです!」

「は?」

「ソーダ水です!!」

ほら、とすぐそこにあるラムネ売り場を指さされる。屋台の明かりに照らされ、ラムネ瓶がきらきらと光っていた。

ここで、言葉をなくした俺をいったい誰が責められるだろう。いや、誰も責められないだろう。

黙った俺を知ってか知らずか、ステラはえへへと照れたように笑ってみせた。

「奏十郎さん、前にお祭りの日は500円までなら何か買ってくれるって言いましたよね! 私、楽しみにしてたんです……ひゃう!!」

こっちの気も知らないでニコニコするステラにイラッとしたので、頬をつまんで両側に引っ張ってやる。もちろん笑顔で。

「あーうんうんうん、奢ればいいんだよね奢れば」

「いひゃい! いひゃい、いひゃいれす、そーひゅうひょーはん!」

「へー何言ってるかまったくこれっぽっちもわからないから」

いつも通り能天気なステラよりも、柄にもなく本気で焦った自分が恥ずかしくて半ば八つ当たり気味に頬を引っ張る。

顔が熱いような気がするけれど気のせいだ。そもそも、さっきみたいにいきなり真剣な目をするステラが悪い。

別に本気で不安になったわけでも、その後に笑ったステラに安心したわけでもないのだと、その癖、妙に早鐘をうつ心臓に焦る。

ステラがしくしく言い出したので、やりすぎたかもとぱっと手を離す。

頬を赤くして、ステラが俺を睨むが涙目なのでまったくもって怖くない。

「ひどいです、奏十郎さん」

「はいはい、でもソーダ水じゃなくて本当はラムネだよ。それにラムネなら家にまだたくさんあるし。他のものにしたら」

家に山積みのラムネを思い出して、また言葉にできない感情に苛まれる。

何かを箱買いするなんて経験は昨日が初めてだった。しかも、それが誰かのためになんて、本当に柄にもない。

それは、なんというか、なかなか芽の出ない植物を前にこれはなんの種を植えたのか思い出せないような、そんなもどかしいようなそんなもの。

俺の提案にてっきり、すぐに頷くと思ったステラは予想外にも、でも、と言いつのった。

「こういう時に飲むソーダ水は、特別です! あ、あと! ソーダ水の方が言い方が好きだからいいんです!」

「どうしたの? さっきからちょっとおかしくない?」

「そんなことないですよ! おかしく見えるのは楽しいからです!」

熱に浮かされた子供がはしゃぐように、笑ってステラがその場で跳ねてみせる。

けれど着地に失敗したのか、がくんっと膝から力が抜けたステラの身体がよろめく。

「あ……っ」

「……っ!」

バランスを崩したステラが、浴衣姿の男女にぶつかりそうになって、慌ててその手を捕まえた。

そのまま引き寄せて、とりあえず難を逃れる。

からんころんと下駄を鳴らして歩いていく彼らにほっと息をつく。

その姿を見送っていれば、おずおずと名を呼ばれた。

「そ、うじゅうろうさ……」

「危ない、気をつけてよ!」

「そうじゃな」

「ほんとに今日はどうし、」

「手が!」

「は?」

いきなりステラが大声を出すものだから、思わず文句も引っ込んだ。

視線を下げれば、すぐ下にステラのお団子が見えた。微かに震えるそれに、一瞬言葉を失う。

「手……離して、ください」

右手を持ち上げれば、それが握っているのは白くやわらかな手で、左手は庇うように細い腰に回されていて……

一拍置いて、状況を理解し、顔から火が出るかと思った。

「ご、ごめん……!!」

身体に変に力が入って、がちがちになる。離さなければいけないのに、その手がほどけないまま固まる。

ばくばくと脈打つ心臓に、上手く息がすえなくなる。思考はぐるぐるとして、目が回りそうだ。

自分の緊張を感じると同時に、ステラの緊張も伝わってきてさらにパニックになる。

ステラも俺も黙って、一呼吸分が途方もなく長くて。

乾く喉が無意識に何かを口にしようとした瞬間。

「近いですっ!!」

「ぐえっ」

ステラの頭が思いっきり顎にヒットした。手が解け、腕の中からステラが脱兎のごとく逃げ出す。

十分に距離を取ったステラが真っ赤な顔で叫ぶ。

「奏十郎さんのバカっ」

「いや俺、攻撃されたんだけど……」

「バカバカバカバカっ」

顔の赤いステラに睨まれて、また顔が熱くなる。騒がしくしたせいで、周囲の目が集まってきたから余計に、だ。

これ以上、騒ぐとまずいと思い、ステラを宥めようと一歩近づく。

「おい、とりあえず一旦、落ち着いて」

「落ち着けるわけないじゃないですか! なんでどうして最後にこんな……っ!」

短く叫んでステラが走り出した。

慌てて、その後を追う。人ごみの中の疾走は難しい。

それでも、それほど時間はかからず彼女を見つけた。

「ステラ……!」

腕を掴めば、ステラの脚が止まった。

腕を振り払わないものの振り返らないステラに、激しかった動悸は波のように引いていく。胸に残るのは、静けさを装った熱。

「……そんな走ったら転ぶよ」

少しだけ黙ってから、振り返ったステラは掴まれた手にふにゃりと笑った。

「ちょっとはしゃいじゃいました」

「追いかける俺のことも考えて」

「初めてのお祭りだから、大目に見てください」

ステラは笑う。ふんわりと、いつもと変わらない笑顔を俺に見せる。

はぐれるつもりだったのだろうと俺は言わなかった。ステラも、言わなかった。

もし、俺が追いかけなければ、そこで終わりだったのだとステラは言わない。

それが指し示す真実は、そんな幕引きでも良かったのだと彼女は思ったということ。

押し寄せる感情に息が詰まった。ぐっと、手を握る指に力が入る。

ステラの指が微かに震えて、彼女が繋いだ手に少し目を落とした。それから、俺を見て優しく微笑む。

「今日でお別れなんですね」

ぐずるように泣く赤子の声が遠くから聞こえる。駆けていく子供の提灯が一瞬だけ、足元を照らした。立ち並ぶ屋台から客引きの声がする。

遠慮がちに翻る浴衣の裾たちはまるで、金魚の尾ひれのようだ。

そんな中でまっすぐと視線が持ち上がり、薄茶色の瞳に俺が映る。

「今日、一緒に花火を見て、」

ぱりん、とどこかの屋台でなにかが割れる音が聞こえた。

「それで、お別れなんですね」

完璧な笑みを張り付けて、ステラは言った。俺から目を逸らさずに、笑ったまま、彼女はつないだ手を解いた。

知らずに眉が寄った。逃げた手を再び絡めとる。

「まだ、花火も上がってない」

「そうですね」

でも、もうすぐ皆おしまいです――――その台詞に反射的にステラを睨みつけていた。

ステラは少しだけ驚いたように吐息を零して、それかららしくない苦い笑いを零した。

「ごめんなさい、今のは少し性格が悪かったですね」

くい、と繋ぎなおした手を引かれて、通りから連れ出される。

脇の木の傍に来ると、ステラは独り言のように呟きを落とした。月の光に照らされて、柔らかく髪が煌めく。

「私、奏十郎さんに会えてよかったなって思うんです。これは本当に、ですよ。あなたに出会わなければ、私は帰りたいって思えなかったかもしれないです。もっと早く諦めていたと思う」

噛みしめるような言葉に、俺は少しだけ違和感を覚えた。それに思い至る前に、ステラが明るく口を開く。

「縁日、終わると淋しいから嫌いだって前に行ってましてよね。楽しい分、その終わりが明確で悲しいって。だけど、だからってお祭り自体を放棄しちゃだめです。そんなことはあっちゃだめです。奏十郎さん、もう怖がらないでください。今日は今までで一番、楽しくて幸せなお祭りの日にしてください」

最後に祈るように両手で俺の手を包み込んで、今度こそ俺の手からステラの手が離れていく。最後にかすめた指のぬくもりに、唇をかみしめた。

「まだ、わからないんだろ」

俯いたのはどうしてか。自分の靴先が目に入るだけで、そこには何もないというのに、俺は俯いたまま言った。

通りに戻りかけたステラの脚がもう一度、こちらを向く。

何も言わないステラにもう一度繰り返した。

「帰れる保証はまだないんだろ」

「……はい」

「他の方法もまだ、わからないんだろ」

「はい」

「それでも、今日が最後なのか?」

「だって、これ以上、奏十郎さんに世話かけさせられないですよ」

くしゃりとステラの笑う気配がした。それはまるで弟を宥める姉ような大人びたもの。

剥がれ落ちていくものは、なんだ。

「まだ、いればいい」

「え?」

「行くところも、帰るところもない子を放り出さないって初めに言っただろ」

顔を上げれば、目を見開くステラがいて。

「ステラ、一人くらいなら何とかなる」

「!!」

「俺が暇を持て余してるって知ってる?」

茶化すように初めて会った時の言葉を引用する。らしくない。まったくもってらしくない。

俺という人間らしくない発言だ。以前の俺がこの場にいたら、きっと信じられないものを見るような目を向けるだろう。

踏み込まないことが信条。いくらへらへら笑っても、気まぐれのように助けても、それだけは変えないつもりだった。

引き留めることは絶対にしないつもりだったのに。

でも、それでいい。

「俺のところにいなよ、ステラ」

今度は俺がまっすぐとステラを見つめた。瞬きを取り戻した彼女の瞳が揺れる。

徐々に気恥ずかしくなって、何も答えないステラに痺れを切らす。

「ちょっと、だから黙るのは」

「……だめ、です」

ざわりと風が木々を揺さぶる。通りの灯も合わせて揺れて、足元の影がぐらりと動いた。

俯き気味のステラの表情は夜闇に溶けて見えなくなる。

「だめ、なんです。奏十郎さん」

「なんで」

ふっとステラが顔を上げた。その瞳は寂しさをたたえて、俺を捕える。

揺らめく瞳は綺麗なぐらい澄んで、だから俺は続く言葉が信じられなかった。

「消えるんです」

言葉を失う俺に、ステラは笑う。瞳から優しく淋しい光だけは損なわないままで、彼女は感情を裏切って笑ってみせた。

「私、もうすぐ消えてなくなるんです、奏十郎さん」




一瞬にして、周囲の音が遠のいた気がした。

「は……? ステラ、何言って、」

「流れ星見習いって使命もないまま惑星に降り立って日が経つと、自然と消滅するようになってるんですよ。いや、ほら、私って見習いと言え、流れ星じゃないですか。そうなると惑星に与える影響とかっていろいろあって、だから私は言うまでもなくこの惑星にとってイレギュラーな存在で」

ステラはにこにこと笑ったまま、いつもより幾分饒舌に語る。

けれど俺はもう、その話の半分もまともに聞いていられなかった。


消える?

ステラが?

消える?

『奏十郎さん』

『わわ、これすっごく綺麗です!』

『なんで笑ってるんですか』

『笑って、ください』

『奏十郎さん!』

『幸せになっていいんです……っ』

『奏十郎さん、私、いまやっと幸せの意味が分かる気がします』



「奏十郎さん」

はっとして、ステラを見る。俺は今きっと酷い顔をしているのだろう、目があった瞬間にステラの顔がくしゃりと歪んだ。

「私、きっと、もうすぐ……」

ステラがこちらに震える手を伸ばす。その手に目を落として、もう何も言えなくなった。

向こう側が透けるその手に、込み上げたのは行き場のない、誰も責めようがない怒り。

ステラが消える。そんな世界はもうすぐそこまで迫っていて、俺たちを飲み込もうとしている。

「なんで……なんでだよ……なんでなんだよ……!」

その時、背中越しに大きな音が弾けた。

歓声と共に明るくなった周囲に、はっとして振り返れば、ひとつめの花火が空に溶けていくところで。

云い様のない絶望が心臓を締め上げる。

「ステラ……!」

「奏十郎、さん……」

闇夜に消えていく、そのきらめきを瞳いっぱいに流し込んで、ステラが縋るようにか細い声で言う。

ステラは、さっきとは違う顔をしていた。何かを知って、けれど、決して幸せそうには見えなかった。

何かを決意した、強くて弱い瞳が俺を捕える。俺はきっと、その瞳の奥にいつもある凛とした光が好きだった。

「お願いです……高いところに……高いところに連れて行って……」

その願いを聞き終える間もなく、俺はステラの手を掴むと駆けだしていた。

人ごみに逆らい、引かれるままで力ないステラの手だけを握りしめひた走る。

自分の動悸も、周囲の喧騒も、遠い別の世界の音のようだった。綺麗だね、だなんて幸せそうに笑い合う誰かの声を幾つも幾つも聞いた。

激しく跳ねる呼吸と反して、気持ちはどこまでも冷たく澄んでいて。

でも、繋いだ手だけはひどく熱くて。

たったそれだけのことが、泣きたいくらい幸せで、叫びたいくらい怖かった。

背を向けた向こうで、花火が弾けては夜空の闇に飲み込まれていく。

なぜかは、わからない。それでも、知っていた。

この花火が終わるとき、それがどうしょうもない別れの時なのだと。

お互い、なにも言わずに、ただ花火から逃げるように彼女の手を引いてあの場所を目指した。




ようやくたどり着いた丘から、見下ろした街は星空のようだった。

幾つもの光が、そこに人がいる証だと主張する。その街を包むように照らすように光の大輪が咲き誇る。

繋いだ手が大きく震えて、俺は振り返る。

ステラは、泣いていた。

音もなく流れ落ちる涙は、消えゆく花火の光を反射してきらきらと光る。

奏十郎さん、とステラが涙を流しながら静かに囁いた。

「私、帰り方がわかりました」

また一つ、俺の背中で花火が上がる。その光は、一瞬だけ辺りを照らし、消えていく。

「あの光と同じです。私も、あんな風に空に向かえばいい」

ステラはぼろぼろと涙を零して、俺にそう言った。

風の微かな音だけが届く丘で、俺たちは世界に二人きりだった。




二人ならんで丘に座って、花火を見上げる。

赤い光が、青い光が、黄色の光が、みな弾けて煌めいて、一様に闇に溶けていく。

ぽつりぽつりと零されていくステラの独白はひどく耳に優しかった。

「私、いまなら誰かの幸せを祈れます。奏十郎さんに出会えて、屋上で泣いているあなたを見た時、私は泣いているあなたにそれでも幸せが見えたんです。だから、私、流れ星になりたい。誰かの願いを叶えられる存在でいたい。だから、もし上手くいかなくても、私行きます。例え、上手くいかなくても、この気持ちを大切にしたい」

それは言わば最後の術。ステラが闇に溶けて消えないための、最後の希望。

そうか、と頷いて。

でも、どこからか何かが零れていく様をただ見つめることしかできないような気持ちに捕らわれる。

ただ、黙って花火を見ていた。2人でいくつもの花火が消えていくのを見ていた。

繋いだ手が時折震えて、その震えを押しとどめるように力を込める。けれど、もうどちらの手が震えているのかさえ分からない。

いつもはニコニコ笑っているのに、どうしてこんな時には黙るんだよとか、消えなくて済むかもしれないんだからもっと明るい顔しろよとか、そんなことが泡のように浮かんでは消える。

言いたいことも話したいこともこんな時に限って言葉にならない。

伝えたいことはたくさんあって、けれどひとつもないような気もした。

全てを告げられるはずはなくて、それなら黙っていたかった。

「奏十郎さん、」

「なんだ」

「ありがとう」

次が最後の花火だと、遠くでアナウンスが告げる。

手が離れていく。ゆっくりと指が解け、最後に人差し指が互いを求めるように縋ったけれど、離れた。

立ち上がったステラは、丘の先まで少し歩くとそこで止まった。

俺も彼女を追いかけるように立ち上がり、けれど、もうその後ろ姿を見ていることしかできなかった。

ゆっくりとステラが振り返る。夜を背にした彼女は、薄くその体に光を纏っていた。

俺は何も言なかった。でも、それでも薄く微笑む彼女には、もうそれすら伝わっているように感じた。

最後の花火が空に昇る音が聞こえる。

そうして、別れは訪れた。

彼女の背後で、光の花が弾ける。金色の光が放射線状に大きな円を形作って、彼女の輪郭を照らした。

綺麗だと、場違いなことを思った。

でも、そう思った。告げることさえ、もう間に合わないけれど、確かにそう思った。

「――――」

最後の最後に彼女が笑った気がした。

けれど、それすら次の瞬間、まばゆい光に飲み込まれて、思わず目をつぶった。

瞼の裏をめぐるましく駆け抜けていく思い出の波に眩暈がした。

ステラ、と彼女を呼ぶ。いったい何度、俺は彼女の名を呼べたのだろうか。

目を開いたとき、ステラの姿はもうどこにもなかった。

はっとして見上げた空には、ぐんぐんと昇っていくひとつの美しい光。

その光は、花開くことも、暗闇に溶けることもなく、高く高く人の手の届かないほど高いところに昇って行き、

見えなく、なった。





気づけば、家の前だった。

ぼんやりと玄関を見つめていれば、ここまでの道中を微かに思い出す。

「あの最後の花火って不発?」「いや、お前見てなかったの? あれすげぇ高いところまで昇ってったぞ」

途中で耳にしたそんな会話も思い出して、心が空っぽになるような気がした。

玄関を抜け、廊下を抜け、電気もつけず、部屋に入る。電気もつけずに、ふらりふらりと歩を進めれば、何かに躓いて盛大にすっころんだ。

床に打ち付けた腕と膝がじんと傷んで熱を持つ。両手をついて、上体を起こせば、自宅で無様に転んでいる今の自分に乾いた笑いがこみあげた。

「はは……ざまあねぇよ、」

涙も零れない現状に、心がひび割れていく気がした。また繰り返すのだと、囁きが聞こえる。

悲しむことも、受け止めることもできずに、一人きりだという諦観だけを張り付けて、へらへら笑って。

ステラの、来る前のように。

虚ろな笑い声も気づけば途切れて、やるせなさに俯けば、床に走る光の線に気づいた。

それはカーテンから細く差し込む月明かりで、俺のいつ場所を通り越して後ろに続いていた。

その光をぼんやりと追いかければ、きらりと光るものがあった。それが目に入った瞬間、くっと喉が鳴った。

手を伸ばして、光を反射して煌めくそれを掴んだ。きっとさっき箱に躓きひっくり返したのだろう。よく見れば床にはいくつものガラス瓶が転がっていた。

手にしたひとつのラムネの瓶に目を落とす。月の光を取り込んで光る硝子は、どこかあの光を見ているようで。

『奏十郎さん、』

その光を見つめて、俺はやっと、

『ありがとう』

やっとこの時になって、本当に彼女がいなくなったことを自覚した。

カーテンは揺れない、だから月の光も揺れることはない。なら、揺れているのは震えているのは俺自身だ。

心の奥から溢れだすのは、怒りであり、笑いであり、悔しさであり、どうしようもない言葉になり切ることはないもの。

「ふざけんなよ、あの馬鹿。この大量のラムネ、どうすんだよ、俺は炭酸飲めないって言っただろうが」

罵るように口角を上げたはずなのに、瓶にぱたりと、雫が落ちた。

「なんだよ、好きなだけ引っ掻き回して、俺にこんなにラムネ奢らせて、そのくせ名前覚えずにソーダ水とか言いやがって」

いくつも、いくつも瓶に雫が落ちては、その表面を伝い落ちていく。

「だいたい、俺に笑えって言ったのステラだろ。まだ、俺はお前にちゃんと笑えてなかっただろ、優しくだって……、まだ、まだ俺はなにもお前に返せてないだろうが。ふざけんなよ、それなのに、なんで、どうして、ありがとうなんて……っ」

言葉が詰まって、思考は熱を持ってまとまらなくて、目をつぶってゆるゆると首を振る。

俺は、ステラになにもできなかった。

彼女が自分の場所へ帰る手伝いも、なにも。

彼女は自分の力で、自分の場所へ帰ろうともがいて。

『奏十郎さん、笑ってください』

はっとする。その言葉は、あの日、屋上からの帰り道に送られた言葉だった。

『私、あなたの笑顔が見たいです』

朝日に照らされたステラの横顔。

『奏十郎さん、あなたはあなたの場所を見つけて、幸せになってださい』

あの時、そう言って、ステラは花咲くように微笑んだ。

ここはもう暗い家で、あの光はもう二度と戻らなくて、けれど、だから、

「わか、った」

唇を噛みしめて、あの時できなかった返事をする。

「ステラ、俺は、もう前のようにはならない、ならないから、」

見上げた窓の外で、月が煌めく。

もう星は降らない。流れ星は訪れない。

それでも、俺は他でもない彼女に願う

ここではなくていい。

俺の隣でなくていい。

だから、ステラも、

どうか、笑っていて。

幸せでいて。

それが、俺の

「俺の願いだ」

そうして最後の涙が、一筋、頬を伝い落ちた。





目覚ましが鳴る前に、目が覚めた。カーテンの隙間から差し込む朝日に目を細める。

キッチンに行き、コップ一杯の水を飲む。

簡単な朝食を用意して、テーブルに着く。何気なく向けた視線の先は、誰もいない空の椅子。

自然と緩む口元に気づいて、苦笑が零れた。

1人分の朝食を片付け、手早く身支度を済ませる。

家を出る前に、そうだと気づいてメモを書いておく。

『今日はゆで卵のため、レンジに入れないこと』

先日、卵かけご飯のつもりで生卵を置いておいたら、生は嫌いだったようでそのまま電子レンジにいれたのだ。

学校から帰ってきて、おずおずとレンジの惨状を見せられ、呆れて言葉をなくしたのは記憶に新しい。

一緒に住んでいたのにこの年になるまで生卵が嫌いだということを知らなかったから、ある種、おあいこだとため息をつけば、ぱぁっと表情を明るくしたから思わず笑ってしまった。

それにしても、料理に関することは、今更に実態を知って、ほとほと辟易するというもの本音である。

今までは家事を頑張っていると美化していたが、それは俺のちょっとした認識違いだった。

洗濯も、掃除もまあまあできるが、料理は昔から少し怪しかった。

俺がパンは焦げたものであるなんてことを常識だと思っていたのはこの所為だったようだ。

美化することをやめれば、互いの負担は減った。

今では料理は俺の担当だ。もっと初めからこうすれば良かったと、苦笑する。

「いってきます」

おそらく、まだ寝ているだろうから玄関で振り返り、控えめに1階の奥に向けて声を投げる。

ふと、目を落とせば、ひっくり返ったパンプスがあって、しばし目を瞬いた後ため息をつく。

黒いパンプスを揃えて、玄関を見直す。

他は特に問題がなさそうだったので、学生鞄を持って玄関を後にしようとして、下駄箱の上に目が行く。

「……これは今度、絶対に撮り直そう」

うん、と一つ決意して、今度こそドアを開けた。途端に目を指す明るい外の日差しに目を細める。

『奏十郎さん、』

それはもう聞くことが叶わない声。

そんな声が一瞬、聞こえた気がした。

『私はあなたを幸せにできましたか?』

彼女の最後の言葉に、俺は笑った。

「当たり前だよ、流れ星」






下駄箱の上あるのは、一人の青年とその母親の写真。

母親は涙ぐんで青年の手を握り、青年は迷惑そうに眉を顰めて、けれどどこか幸せそうに口元を緩めている、そんな写真。

そして、その横では、一本のガラス瓶が光を反射してきらきらと輝いていた。



流れ星はもう降らない。

それでも、流れ星は今日も誰かの願いを聞いて、祈り、そして、願う。

「私は流れ星です」

巡りゆく、世界のどこかで。











FIN

三題噺として書きました。

【青春、ソーダ水、花火】


Script少女のべるちゃんというアプリでノベルゲーム化しています。

よろしければ、こちらもどうぞ。



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