呪われた部分 (Wofagi)
第1話『呪われた部分』はWorld.1、2、3ともに同一です。二話以降、三つの平行世界として話が進みます。
生気に満ちた男女が肉体を衣服越しに密着させて歩く、視界が飛ぶように靄がかかるほどの眩しさを孕んだアンニュイな午後。
ライトシアンを延ばしてどこまでも続く平面に、目に痛いほどの光沢を放つ幾つもの断片が浮遊していた。お前とのなれあいは俺の矜持が許さない──各々の境界線からは、そんなお互いの罵声が聞こえてくるようだった。
陽炎の立つ視界には、肌と布のはざまに隙間なく絡みつく熱気のなかで、数えきれないほどの無機質が意思を持たない延びきった音とともに走り去っていった。黒、白、鼠色……二本の轍と不快な温かさの塊だけを残して。
彼らの愛の行為は、手早く終わりを迎えるようになった。いや、そこに愛と名付けうるほどの鮮やかな感情があったかどうかは、疑ってみる必要があったのかもしれない。
恵司はある種の不感症のようなものに陥っていた。真由の秘してなお隙間から影をのぞかせる、高原の雪のような体表に触れた指先の、肌理の細かい柔らかさ。互いに絡ませた舌の擦れ合ううねりとざらつき。真由の空間にどこまでも深く潜り込んで微かに味覚の反応する甘み。征服する直前の気の遠くなるような入り口を通過するモーメント。禁忌に踏み込んで非日常と戯れる躍動と、いまにもあふれそうな衝動を漲らせた焦り。そして天秤が傾いた刹那のつき果てた解放感とほんのわずかな後悔……そんな実体に付随するダイナミズムの幻想はこの半月ほどの間、するりと垣根の溝から逃げた猫のように、恵司の心情には気配をも感じさせなかった。
恵司にとって真由と身体を共有することは、なにか決まりきった儀礼のようなものと同じ扱いになっていた。春のうららかなぬくもりのなかで、まどろみながら演説を聞き流すような……二人の一体化する時間と空間の交差に、彼は彼女との耐え難い、深い谷のような断絶を感じていた。
真由は本当に恵司と同質の昂り、悦び、麻痺、そしていつしか潜んだほんのわずかな悲劇のような後ろめたさと憤りの幻に耽っているのだろうか? 所詮、それぞれの空を見て繋がっていると信じているだけなのではないか……この無地の画布に落ちた一点の染みが広がって全体を埋め尽くすことには、さほどの時間は要さなかった。
「うん、じゃあね。また電話する」
シャワーを浴び、張り付いた汗が流れきったと感じた恵司はそう余韻なく言い残してドアを閉めた。恵司が真由の住むアパートを出る頃には、太陽が彩度を増して、暴力的なまでに溌剌とした輝きが和らいでいる頃だった。
ほんの数日前までならば、いつまでも尽きることのないような残響のなかで、二人の視座はほとんど重なり合っていた。恵司の右肩から肘に真由の頬を支えながら、胸元に生命そのものを、触れただけでもひび割れるような陶器のように大切に抱えて……二人は無言だった。ただ、それ以上のものは必要ではなかった。お互いの息遣い、静かに、しかしいまにも弾けそうなほど濃密に脈動する真由のうなじ、息絶えたように、それでいて消えることのないおぼろげな恵司の拍動、お互いの獣のような情動をこの上なく誠実に、ひとかけらの理性の余裕もなくなるほどに蕩尽して、辿り着いた幸福なまどろみ……そのひとときを何の疑いもなく弄ぶことが、恵司の日常という象徴秩序に、どれだけの破壊的な力量で甘美な歓楽をもたらしていたことか!
真由の家は、野川森林公園という地域の憩いの場から道を挟んだ向こうにあった。恵司が歩いていると、様々な子供たちとすれ違った。自転車に乗った子供、バットを持った子供、携帯ゲーム機を片手に走る子供……その子供たちの放つ音声が、視線が、動作が、全てが恵司という存在に敵対しているように思われた。雑音であり、監視であり、マーキングであった。その言葉で俺を蔑んでいるのか? その視線で俺を狂ったものとして観ているのか? その動作で俺を……。
恵司は前を睨みながら早足で歩いていた。向こうから存在が示されても、こちらで無視をすれば良いだけのだ。そう考えることで、野川駅までの道中を乗り切ろうとしていた。結局自我と他我は断絶しているのだから、子供たちの有無など気にすることではないのだ。恵司はそのことを深く理解しているはずだった。そもそも、理解していなければ真由とのキアスムに対する恵司の感情的とも言い得る詮索と不安は生まれなかったはずなのだから。
横断歩道を渡って、森林公園のそばをひたすらに進んだ。公園の正門から離れた、ひとの気配のしない場所だった。木の葉と枝のはざまからは水面に湛えたような、無数のきらめきが漏れていた。しかしそんなことはいまの恵司にはどうでもよかった。このどうしようもない、言語化して分節できない泉のように湧いて出る鬱憤の行方を見つけなければならなかった。
つま先に軟式の野球ボールが転がって、当たった。
「ごめんなさーい」
間延びした声が聞こえた。拾ってボールの転がってきた方を見やると、向こう側の歩道の男子の何人かの集団から、いかにも使い走りらしい、背の低く洟を垂らしたモグラのような目つきで浅黒く、肌の所々が荒れた、年齢的に九九もろくに言えないような見た目の子供がこちらに横断歩道を渡って急いでいるのが確認できた。
そのとき、恵司に一瞬の魔が差した。
アダムとイヴが知恵の実を食べた際の、その手で禁忌を犯す快楽と昂りが恵司の感情に洪水のように流れ込んだ。そこにあった理性が抗えない焦りと衝動に変わった。渦を巻いたその興奮に、恵司は気を失いそうなほどの恍惚と極彩色の愉悦を垣間見た。それは真由という領域を初めて侵犯したときのそれと全く同じものだった。
恵司は肩の関節を持ち上げると、そのまま肘を頂点として腕をしならせた。その柔らかさは、今にもひび割れそうな真由の横顔を包み込むときと同じ慈悲とひそやかさを伴っていた。掌は、割れそうな卵を離さないように握る優しさで。
「……!」
使い走りの子供は体を強張らせた。しかし声帯に張り付いたままのその心の躍動が口腔から飛び立つことはなかった。目は活発な甲虫のごとく均質な素地から光沢を放って大きく見開かれていた。
この一瞬に恵司は衝動と焦りを堪えるのに必死だった。生殺しのようにじれったい刹那だった。まだ恍惚に飛び込んではならない、それでも最早抑制できない──!
白球が放たれた。男児の額から濁流が吹き出した。
恵司の全身には甘美な刺激の奔流が駆け抜けた。脚の力が途方に消えた。その場に膝から崩れ落ちた。太腿をどろりとした、冷たい粘質が跡を引きながら落ちてゆくのを感じた。息が上がっていた。意識はほとんど惚けていた。すでに境界を跳躍した世界の先にいたのだということは、欲動の対象を見ずとも感覚的に理解していた──真由という領域に荒々しく踏み込んだそのときと、全く同じ情念の洪水に呑み込まれた。
「……おい、大丈夫か! 駿太、早く救急車!」
「僕ケータイ持ってないよ!」
「恭介は!」
「お、おれも……」
何が起こっているのかを把握できずに、恐怖と混乱でその場に固まった子供たちの集団を、浩一という少年が沈黙を破って必死で統率を取ろうともがいていた。
「亮輔と勝己と駿太は早く大人呼んでこい!」
「……わかった!」
三人の少年たちは、戸惑いながらも散り散りにその場から離れて、百十九番通報が可能な環境を探しに駆け出した。
「恭介はモグラの様子見とけ!」
そう言い残すと、浩一は車道を斜めにを横切ろうと、ガードレールを乗り越えた。
「待って!」
恭介の声に浩一が反応を示すことはなく、ただまっすぐに歩き続けた。恭介は横断歩道を渡って、モグラと呼ばれる、開ききった瞳孔をもはや閉じることのない少年のもとに駆け寄った。
「おい」
四つん這いの姿勢で悦楽のあまり骨抜きになっていた恵司は、その声でようやく、自身と外界とのつながりの再認識に立ち返った。
恵司はその声の源に顔を向けた。しかし、超越と侵犯の愉悦に浸りきった表情は、母乳に満ち足りて安らかな微笑みを浮かべる赤ん坊のように、意識を遊泳させていた。
「何ニヤニヤしてやがる!」
浩一は叫んだ。
サブタイトルはある論考から取っています。お気づきかもしれませんが……それでは皆さん! 後を頼みます。(Wofagi)