第一話
カラバの崖に立つと風がよく感じられる。周りにさえぎるものは無く、目の前の視界は開けていて、下には村の全部と、大きく広がる海を見渡せる。ちぎれ雲が二つ三つ空に浮かんでいて、太陽の光があたたかく全身に射してくる。
風はさらさらと静かにふいている。二つに分けて耳の下でくくった髪の毛が何本か風に流れ、風を通しやすいように袖口や襟が大きく開けてある着物のすそが小さくたなびく。アサは組んでいた腕をはずし、目を閉じた。体全体で吹いてくる風を感じ取り、その風に体の外側から自分を同化させていく。風と体の境があいまいになり、自分も風と一緒に流れ始めたと感じる。
そこまで来てはじめて目を開ける。体はすでにカラバの崖から少し流されたところにある。このまま風に流されてしまえば楽なのだが、ヤグジの木は風上の方向にある。アサは意思を持った風になって、周りの風に逆らってヤグジの木へと向かう。途中で小鳥の群れとすれ違った。一瞬捕まえようかと思ったが、今捕まえてもそれを入れる袋も何も持っていないことに気づき、やめた。
ヤグジの木は、森の深いところにある。その木だけ頭一つ高いから、上から見分けやすい。アサはヤグジの木の上に差し掛かると、頭を下に円を描きながら下に降りた。周りの木の枝がばさばさと揺れ、木の葉が何枚か落ちる。アサはだんだん風から自分を引き離し、地面に足をしっかりと着けた。風の名残で髪と着物がたなびき、そしてそれもすぐに落ち着いた。
ヤグジの木の根元には、既にユクイとサトが来ていた。二人とも地面に下りたアサを見て笑っている。
「アサが来るのはすぐわかるよねえ」
ユクイが笑いながら言う。ユクイの体が笑いで揺れるのにあわせて、幾束にも結った髪の毛がおかしそうに揺れている。髪の毛は前に会ったときよりさらにのびたようで、量の多いユクイの髪は燃え上がる炎のように見えた。
「ほんと、葉っぱが落ちてきたらすぐわかる」
くすくすと、手を口に当てながらサトも笑っていた。長い袖のはだけたところから腕が見えている。引きずるほど長い着物を着ているので、その見えている腕の白さがひときわ目立った。
「アニュウはまだ来てないの?」
アサは、ここに集まるはずのもう一人の友人の名前を口に出した。
「うん、まだ。早く来ればいいのにさ」
「ユクイったら、たまに自分が早く来たからって……」
サトはまた声を出さずに笑った。いつも大人しいサトがこれほど陽気なのは珍しい。
「そうそう、あれはいつだっけ、ユクイがいつまでたっても来なくって。アニュウと私が探してもどうしても見つからなくって。さんざん心配したんだよねえ、足滑らせて川に落っこちたんじゃないか、何かに襲われたんじゃないかって」
「そう、それで結局自分の家にいたのよね。自分の飾り玉をもらったからって舞い上がって、約束のことなんてすっかり忘れて」
アサとサトが二人で昔のことを持ち出すと、ユクイは顔を赤くして反論した。
「だからさあ、あの時はすごく謝ったでしょう?お詫びもしたのにさあ、二人とももう忘れてよお」
「いやあ、それは無理だね。多分死ぬまで忘れないと思うな。ね、サト」
「そうね、あの時のことはきっと忘れないと思う。本当に心配したんだもの」
「うわー、意地悪いよっ」
ユクイはますます顔を赤くした。全員同じ年なのに、ユクイは妙に子供っぽいところがあって、こういうからかいにもすぐにむきになる。アサとサトは二人で笑った。
梢の合間から射してくる陽光が、体をあたたかく照らした。アサはあまり笑いすぎて目から出てきた涙をぬぐった。
しばらくするとアニュウがやって来た。アニュウは片手にヒの草で出来た袋を持っている。
「あ、みんな来てたの?ユクイまで」
「『まで』とはなに、『まで』とはっ」
「何よーユクイ、今日はご機嫌斜めだねー」
と言いながらアニュウはわしゃわしゃとユクイの頭を撫でた。
「やっ、やめてよお、髪がほどけちゃう」
ユクイはそういいながら抵抗するが、普通より背の低いユクイが、四人の中で一番背の高いアニュウにかなうはずも無かった。
「そうそう、この近くにコズの実がなってるところがあるんだよ。食べにいこう」
アニュウがそう言ってぱっと手を離すと、ユクイはたたらを踏んだ。
「へー、コズの実?いいねいいね」
コズの実は、親指と人差し指でつくった丸ほどの大きさで、硬い皮に包まれている。だが、ほんの少し火にかざせば皮はたちまち縮む。中の果肉は汁気たっぷりでとても甘い。アニュウの後に他の三人が喜んで続いた。
「この前キノコを集めてるときに見つけたんだ。低いところのは取っちゃったんだけど、高いところの実がたくさん残ってるからね」
アニュウが言った。コズの木の枝はとても細く、人が体重をかけるとすぐに折れてしまう。
「じゃあ、ユクイとサトは枯れ枝集めてきてよ。私が下で実集めるから」
コズの木の下に着くと、アニュウが指示を出した。
森の中は風が吹いておらず、自分を風にするのに少し時間がかかった。うまく体に重みがなくなると、アサは木の上方へと浮き上がり、周りを勢いよく回って枝を揺らした。
「アニュウ、これでいいかなあ?」
下に呼びかけると、アニュウの大きな声が返ってきた。
「うん、だいじょーぶだいじょーぶ、たくさん落ちてきたよ。もう少し下のほうにも実があると思うんだけど」
アニュウの言うとおり、木の上端から下まで枝を揺らし実を落とすと、アサは地面に着地した。アニュウは実を拾い、ヒの草の袋に詰めていた。アサも実を拾うのを手伝った。実は四人で食べても食べきれないほどある。
実を大方拾い終えた頃、ユクイとサトが両手に枯れ枝を抱えてきた。ユクイは枯れ枝を数本取って地面の上で組み、その前でしゃがんで両手を擦り始めた。他の三人はそれを囲むように地面に座る。
両手をしばらく擦り続けたあと、ユクイはおもむろに組んであった枯れ枝とは別の枝掴んだ。一瞬の後、ぽっと枯れ枝に火が付いた。ユクイはしばらく枯れ枝を掴み続け、火が手を包むくらいまでに大きくなると、組んでおいた枝に火を枝ごと移す。その動きは慣れているだけあって手際がよく、他の三人はユクイの動きを黙って見つめていた。
「さ、食べよ、食べよ」
両手をぶんぶんと振った後ユクイは袋の中の実に手を伸ばした。他の三人も焚き火の近くに寄り、実を手に取る。アサはコズの実を指先でつまみ、ちらっと火にかざした。すると実の皮にはすぐにしわがよった。皮をむいて口に放り込むと、甘い果汁が口いっぱいに広がった。
「あまっ」
「おいし」
四人はしばらく黙々と食べた。皮をむいて捨て、口に入れ、種を吐き出す。甘みに満足するまでその一つの流れを続けた。
「ねえ」
ユクイが口を開いた。舌がコズの実で紫に染まっている。ユクイは実の皮をむきながら言った。
「何か無いの?」
「何かって、何?」
アニュウが答えた。アニュウはもう満腹したようで、実を持っているが食べようとはせずに手の中で弄んでいる。
「何か、びっくりするようなこと……私の知らないことで、会わない間に起こった事」
「何かねえ」
アサはコズの実を噛みながら言った。四人は普段離れて住んでいるが、「満月の次の日にヤグジの木の下に集まる」という約束をずっと守ってきている。長く会っていないというわけではないので、「何か、びっくりするようなこと」は思いつかなかった。
「そうだなあ、うちの邑の近くで昔のお墓が見つかったとか。ゴミの穴掘ってたら骨が何本も何本も出てきたんだって」
アサがそう言うと、ユクイは首を左右にふった。口から種をぷっとはき出し、
「そんなのだめだめ、もっとさあ、うわーっと驚けるような」
「難しいなあ」
アサは腕を組んだ。アサの服は裾が広く作られているので、腕を組むと一方の手がもう一方の服の中に入り込んでしまう。
「サト、何か無いかな」
「そうねえ」
皮をむきかけのコズの実を持ったまま、サトは思案するように視線を宙にさまよわせた。だが笑みを浮かべると、
「ごめんなさい、なにも無いわ」
と言った。サトは色が白く、涼しげに美しい顔立ちをしているので、そうやって微笑むと同性でもどきりとしてしまう。
「そうかあ、じゃあアニュウは?」
アサはアニュウに話を振った。アニュウなら何か笑える話でもしてくれるかと思ったのだ。しかし、アニュウはコズの実を手の中で転がしながら俯いている。
「アニュウ?」
もう一度呼びかけると、アニュウは顔を上げた。その顔はなぜか上気している。
「あのね」
そう言ったが、アニュウは続きを言わず黙ってしまった。その目には落ち着きが無い。何かあるな、とどんな鈍い人間だってわかる。
「何、何よ、何があったの」
ユクイがせっつく。アニュウはしきりに手の中でコズの実を転がしていたが、その実を地面に置くと顔を上げて言った。
「私ね、結婚するの」
一呼吸置いて、ユクイが叫んだ。
「ええーっ」
その後は質問攻めにした。顔を赤らめながらアニュウが答えたところによると、相手は同じ邑の一つ上の男で、前々から何かと話しかけてきて、こちらの方でも気になっていたけれども、この前の月の無い夜に結婚を申し込まれ、そのときは何も考えられなかったが、気づいたら承諾していた、ということだった。ただ実際に結婚の儀式をするのは秋の収穫のまつりが終わった後らしい。ここまで聞くのにアニュウは恥ずかしがって何度も何度も隣に座っているアサを叩くし、ユクイは一人で盛り上がってしまうし、かしましいこと限りなかった。
「どこがいいの?」
と相手の事を聞いてみると、
「働きぶりがいいのと、私より背が高いところ」
とアニュウははにかみながら答えた。確かにアニュウは背が高く、それを恥ずかしいと思っていることも三人は知っていた。
「よかったね」
そう言うと、アニュウは今までよりももっと照れた。日に焼けた顔にいっぱいの笑みを浮かべたアニュウは、幸せの塊のように見えた。
太陽がだいぶ傾いてきたころ、四人は別れた。四人はそれぞれ別々の邑に暮らしている。普段違う邑との交流は禁じられているから、誰にも見られないように用心しなければならない。
アサは自分を風にして、空高く舞い上がった。そこからまっすぐカラバの崖を目指す。風は今はほとんど止んでいて、橙色の陽光を全身に浴びながら周りの空気を巻き込んで強い風となるのはなかなか気分が良かった。
地面に足を着けた。カラバの崖には誰もいなかった。この崖は、周りに背の高い木が生い茂っていて目立たないところにある。だから、人に邪魔されずに風を浴びたり村を眺めたりすることが出来るアサの気に入りの場所だった。
アサは一本の木の根元に向かった。この木は幹がとても太く、そのうろは熊が住めるほどある。
ただ、今うろの中に住んでいるのは熊ではない。何歳かもわからないほど老いて、水分の抜けきったような一人の婆である。
「ばーさん、いる?」
アサがそう声をかけると、キノト婆がよろよろと這い出てきた。相変わらず、ぼろの着物を着、髪はざんばらである。
「これ、コズの実」
アサが食べ残して帯布に包んできたコズの実を渡すと、キノト婆はそれをひったくった。
「火は」
「は?」
「火が無いと、食えんじゃろ」
「あ、ああ……そっか、しまったな。ユクイはいないし……」
「気の回らない娘じゃ。阿呆じゃないのか」
何もそこまで言わなくても、と思うが、キノト婆はいつもこうなので今更怒る気にもならない。
「じゃ、私が切るから。貸してよ」
アサは首から提げた袋を服の下から引っ張り出した。袋を開き、中に入れておいた小さく薄い石を取り出す。以前アニュウからもらったもので、硬く鋭い石を加工し、刃物にしたものだ。
アサは近くの石の上に腰を下ろし、コズの実の皮に円く切れ目を入れた。それをキノト婆に渡すと、キノト婆は皮をむくが早いか口に放り込む。そしてそのまま種ごと食べた。
キノト婆に初めて会ったのは、今から5年ほど前のことだ。カラバの崖で一人景色を眺めていたアサは、後ろからいきなりキノト婆に声をかけられ驚きのあまり崖から落ちた。その時自分を風に出来たから良かったものの、下手をしたら自分の人生はあそこで終わっていたかもしれないと時々思う。だが、アサとキノト婆との奇妙な関係はそこから始まり、今日まで続いている。キノト婆は、一日の大半食べ物を探している。思うように見つからないときは盗むようなこともしているらしい。そして木のうろの中で雨風をしのぐという生活をしている。アサは今まで、キノト婆が一人でこんな生活をしているわけは聞いた事が無い。ただ、検討はつく。
自分の体を自然と同化させる。風か、ユクイのように火か、アニュウのように土か、サトのように水か。邑ごとに違いはあるけれども、その技術を使って暮らしを立てているのは同じだった。子供はみな成長するとその技術を習う。技術を身につけた者が大人と認められた。
何に同化させられるか、それは生まれつき決まっている。同じ邑の両親から生まれた子供なら、その邑の人間と同じに、問題なく技術を身につけられる。
だが、異なる邑の両親から生まれた子供は、何の技術も身につけられない。どちらの親からも技術を受け継ぐことができないのだ。そういう子供は、つまり何の役にも立たない子供は、邑から追われる。しかしそんな子供を受け入れるような場所は無く、遅かれ早かれ行き倒れる。
ただ、今そんなことはほとんどない。一つには、邑同士の行き来が禁じられていることがある。もちろんお互いの技術を必要とする場面は数多いが、そういう時はある以上の年齢に達した者同士が、長老達の一本の髪の毛も見逃さないような厳しい監視の下に行う。そしてもう一つの理由は、親が生まれた直後にそういう子供を亡き者にしてしまうというものだ。重く戒められていようが、それを破る者はいつでもいる。時々アサも、だれそれが子供を流したそうだとか、そういう噂を聞く。
キノト婆は、そういう子供の一人だったのではないか。そして邑を追われ、ただ一人生きてきたのではないか。それは、邑の中で育ち、技術を使うことのできるアサには想像のつかないほど過酷なものだったのだろう。
キノト婆がコズの実を食べ終えると、アサは石刃をしまった。日はもう地の端にかかっている。反対側の空には月が出ていた。満月から少し欠けた月だ。
「楽しそうじゃの。何かあったんか」
とりあえず満足したらしいキノト婆が言った。キノト婆は、腹がくちくなっているときは存外機嫌がいい。
「そう?」
「顔がゆるんどる。足りん頭がもっと足りなく見えるわ」
「アニュウが結婚するらしくて。幸せなのがうつったかな」
アサがそう答えると、キノト婆は「そうか」と言ったきり、興味なさげにあくびをしていた。
「今日はいい日だったな。コズの実も食べたし。何より、アニュウが嬉しそうだったし」
アサは今日の出来事を思い返した。今日は間違いなく、申し分なく滅多に無い幸せないい日だった。
アサはコズの実を包んでいた帯布を広げた。すると、一個残っていたコズの実が転がり落ちてきた。アサはコズの実を拾い上げた。ふと思いついたことがあって、アサは地面を転がっていた石を使って掘った。ある程度の深さまで掘れると、そこにコズの実を落とし土をかぶせた。
「なにやっとるんじゃ?」
キノト婆が尋ねた。
「芽が出てくるかと思って。コズの実を植えたの」
「は、出てこん出てこん。コズの実ってのは森の中にあるもんじゃろ。こんなところに植えても芽は生えんわ」
キノト婆はそう言い捨てた。だが、アサにはこの実が芽を出し、いつか大きな木になるところが見えるような気がした。今日といういい日に埋められた実なのだから、成長しないわけはないだろう。
「じゃあ、私帰るわ。また来るよ」
そう言うと、キノト婆は立ち上がってうろに入っていった。アサはその後姿を見送ってから、ちょうど吹いてきた風にあわせ、夕空に向かって体をおどらせた。