青春の親殺し
未来とはラムネ瓶の中のガラス玉のような物である。
現代文の授業で読んだ、とある偉大な思想家が書いたという評論文の一節がどうしても気になって。
精緻な筆致で書かれたノートの片隅に、高校二年生の青山悠誠は改めてその文章を赤色のボールペンを使って書きこんだ。
最初に考えた解釈としては、すなわちそれはガラス玉を手に入れる為にガラス瓶を割らねばならないように。
未来を手に入れる為にはなんらかの労苦を支払わねばならない、ということなのかというものだった。おそらく現代文のテストで出題された場合にはこの解釈で点は取れるだろう、と悠誠は思う。しかし。それだけでは終わらない何かが、自分の中に引っかかりとして残っていた。
授業が終わった後にある十分休みの喧噪の中、次の授業の準備をしながらそのノートを開きっ放しにして思案していた時に、彼女は登校してきた。
扉からでなく窓から。軽やかに制服のスカートを翻し。
篠田諒子はいつものように何からも縛られない、というような表情をしたままに、悠誠の隣の席についた。
「篠田さん、窓から教室に入ってきちゃ駄目だよ」
クラス委員であり風紀委員である悠誠がそう言っても、諒子はどこ吹く風である。むしろ、挑むような不敵な笑みを浮かべながらこう答える。
「昇降口通ってくるより近いのよ。ここは一階だし、危険は無いからいいじゃない」
「それは理由になってないよ、ルールは守るべきだ」
「ああもう、委員長様はうるさいわね」
悠誠と諒子の口論はいつものことであり、クラスの生徒達も特に気にするような様子は見せない。
と、不意にそして無遠慮に、悠誠の開いたままにしたノートを覗きこんで、呟いた。
「あら、春日恭じゃない。授業でやったんだ」
「知ってるの?」
「常識でしょ?」
さも当然のように、あるいは鬼の首でも取ったように諒子は悠誠に言う。
そして、何かを思いついたように、悪戯好きの子供のような笑みになって、こう追い打ちをしてきた。
「あんたは、ガラス玉よ。ラムネ瓶の中の」
もちろん、未来という意味で使ってはいないだろう。
諒子の真意を測りかねて、尋ねてみようかと悠誠は思ったが、会話はもう終わり、とばかりに諒子がそっぽを向いてしまったので、それ以上の追及はできなかった。
その後の授業の間も、自分がラムネ瓶の中のガラス玉である、という言葉の意味を考えてしまって、あまり集中できなかった。
その日は土曜日で、午前中には授業が終わり、その後風紀委員の雑務を処理した後に悠誠は帰路についた。
帰路についている最中も夏服のボタンを外したりはしない。家に帰るまで、制服を着ている間は誰もが学校の代表であり模範的な学生でいなければならない。そう悠誠は考えていた。
そんな悠誠を嘲笑うように、バイクの排気音が聞こえてくる。そして先生の怒声も。見なくてもわかる。
諒子は、学校でただ一人バイク通学をしているのである。当然、校則違反であった。
そんな風に自由奔放に過ぎる彼女の言葉が、どうにも頭から離れなかった。
彼女は悠誠の何を指してそう言ったのだろうか。
帰宅して、母である青山美恵子の用意してくれた昼食を摂り、午後の予習復習をしている時も、彼女のことがどうしても気にかかるのだった。それはその後父である青山誠と母の三人で一家団欒の夕食を摂った時も同様で、片時も諒子の言葉が頭から離れなかった。
「一日中篠田の言葉の意味を考えてるなんて、なんだか彼女に気があるみたいだな」
と、悠誠は自嘲する。
もちろん、悠誠は諒子に対してそういった感情は一切抱いていない。抱くとしたら一種のライバル意識のようなものだろう。何せ、悠誠の成績は学年四位で、諒子の成績はあの素行で学年一位なのだから。
夕食後から就寝前の勉強を終え、母の洗濯してくれた寝間着に着替えて、そのことに感謝しながら布団に入る。
そうして、土曜日が終わった。
翌朝になって悠誠ははた、と気づいた。
ようやく理解できたのだ。諒子の言葉の意味が。
そして、それに対する回答として。
両親を殺そうと決意した。
それは青山美恵子でも青山誠でもない。自らの中にある、『両親』という枷である。
未来とはラムネ瓶の中のガラス玉のような物である。
それを掴みとる為に、支払うべき労苦。
その支払いを、怠っていたことに気づいたのだ。
楽をしていたと言い換えてもいい。
青山悠誠はこれまでの人生において、反抗期という物を迎えた覚えがない。それは、両親が尊敬できる人間であり、正しい者であるという『前提』で物を考えていたからである。しかしその『前提』にあぐらをかいて、その意見を鵜呑みにしてきてしまったという事実があったのだ。考えてみると、今の悠誠の姿に、自己という物があっただろうか。
今、悠誠は県内では一番の進学校に通って、国立大学を目指して、日々勉強している。また、風紀委員とクラス委員を兼任し、教師生徒共に信頼は厚い。そして家庭内では家事を手伝い、月々にもらっている小遣いはほとんど参考書の購入以外には使っていない。
それは何故だろうか。と悠誠は思う。
何故今の進学校に通っているのか。
何故国立大学を目指しているのか。
何故日々勉強するのか。
何故家事手伝いをするのか。
果たして悠誠は本当に自分の為になると思ってやってきただろうか。
それらは全て両親が喜ぶからという理由で行ってきた、ただの子供がそこには居るのではないだろうか。
小遣いの浪費をしないのも、それをしてしまっては両親が良い顔をしないから、という理由があるのではないだろうか。
もちろん、それ自体は悪い事ではないと悠誠は考えた。
親孝行をする息子になんの罪があるだろうか。
だが、それは楽なことでしかない。尊敬できるという前提のある両親の言う通りにしておけば、とりあえず安全だろう。そういった甘えがあると悠誠は気づいたのだ。
ラムネ瓶に守られた、ガラス玉。
恐らく諒子は規範や倫理、いわゆるルールを用いて説教しようとする悠誠に対して言い返す為に、ルールというラムネ瓶を盾にしているという意味で言っていたのだ。
そういう意味では諒子の言ったことを正確に理解したとは言い難いが、諒子の言葉が悠誠の気づきの端緒となってくれたことは事実である。
そして、悠誠はその気づきの結果として、親の絶対性に甘えることをやめることにした。
それが、悠誠の親殺しである。
青山誠と青山美恵子。
愛すべき、感謝すべき、大好きな両親。
ラムネ瓶の中のガラス玉をこの手にする為に。
一度ラムネ瓶を割る必要があるのだ。
子はいつか親の元を巣立つ。その前段階として、その練習として、未来を掴み取る為の準備を始めることは、自分の為になると考えたのだ。
その日の夜、夕食後。悠誠は父にこう切り出した。
「お父さん。小遣いを止めてもらえないでしょうか?」
「突然、なんだ。小遣いを増やせというならともかく、止めろというのは」
「社会勉強の為、そして将来の経済的自立の為の経済観念の習得の為、アルバイトを始めたいと思うんです」
整然と話す悠誠の言葉に、父はしばしの間思案し、こう返してきた。
「小遣いが足りないならば増やす用意はあった。お前は十分に努力しているし、小遣いを浪費することもないようだしな。だが、アルバイトを始めるというのはなあ。アルバイトをする、働くというのはそう気楽な物ではないんだぞ? 風紀委員にクラス委員、そして勉学。それらを疎かにせずに、できるのか?」
父の良い分はもっともである。だが、悠誠の決意は固かった。
「やってみせます」
悠誠は父の目を見てはっきりと宣言した。
父は瞑目し、思案していたようだが、やがて悠誠の目を見て、こう言った。
「それじゃあ、男と男の約束をしよう。成績を落とさない代わりに、アルバイトをしてもいい。という条件でどうだ?」
その言葉を、悠誠は笑って否定した。
「いいえお父さん。成績を落とさない、というのは条件になりませんよ。それは、僕がやりたいことなんですから」
「やりたいこと、なのか?」
「少し考えたんです。僕が何故今の学校に通っているのか。国立大学を目指すのか、勉強するのか。それらは、今まではそうするとお父さんとお母さんが喜ぶから、だと思っていたんです。思ってしまっていたんです」
父は余計な口を挟まずに、悠誠の言葉をしっかりと聞いてくれている。それは父が自分を一人の人間として認めてくれているからだと悠誠は思う。自分は今までどうだったろうか? 父の言うことを聞く時、相手が一人の人間であり、その発言の内容を吟味する必要があると理解していただろうか? そんな問いが浮かんでくるが、今は語っている内容を、思いのたけを父にぶつけてみる時である。
「勉強することは自分の見識を広めること。国立大学を目指すのは、学費が安いこともありますが、自分の見識を広める為にする勉強がしやすい環境が整っていること。今の学校に通っているのはその準備なのだと気づきました。だから、成績を落とさないということは僕のやりたいことなんです」
しっかり言えただろうか、と不安になる。
しかし父はそんな不安を吹き飛ばすように、嬉しそうに笑い声をあげた。
「おい、母さん。聞いたか、うちの孝行息子は本当に良い子だなあ」
「そうですね、誠さん」
母も会話を聞いていたらしく、洗い物を終えて手を拭きながら近寄ってくる。
「悠誠。アルバイトのことだが、俺は許可しようと思う。そのかわり、しっかり働いて、先方にご迷惑をかけたりしないようにな」
「はい。わかっています」
それからの悠誠の行動は早かった。
月曜日になって、担任に事情を話し、アルバイト許可証を発行してもらい、バイト情報をネットで調べた。
幸い高校の近所にある、お菓子と飲料を中心に販売する小売店の求人があったので、それに飛びついた。
電話した段階で人が足りないからすぐにでも来てほしいと言われていたし、悠誠の通う高校の信頼性があった為に面接は簡単に通った。
晴れて悠誠はアルバイトを始めることができたのである。
面接のとき、目は濁っているものの人の良い笑みをした店長は言った。
「バイト代、安くて、きついよ?」
その点は今のご時世、どこも一緒だと悠誠は思った。
それから、彼の生活は変わった。勉学及び風行委員、クラス委員の仕事に加えて、週三回。土日と水曜日にアルバイトが入るようになった。
格段に忙しくなったと言っていい。
悠誠の仕事は品出しとレジ打ちが中心である。
箱に入ったラムネ瓶やお菓子を抱えて、店頭に並べる。
店内が混んできたらレジに入って接客をする。
それだけの作業だが、初めてのことで、いくつも失敗をしたし、いくつも気づくことがあった。
悠誠には、このアルバイトが週の楽しみになっていた。
そして、その労働の報酬の使い道だが。
特に変化はないのである。
今まで通り、必要最小限の参考書を買うにとどまっている。それ以外は貯金していた。密かな野望の為に。
不意に、品出し作業をしていた悠誠の後頭部に衝撃が走る。振り向くと、悪戯っぽい笑みの諒子が立っていた。
「お客様、そこにバイクを止められては他のお客様の通行のご迷惑になります」
「アタシにそういう口調で話さないでいいじゃん、クラスメートなんだし。委員長様は相変わらず堅いよねぇ」
「そういう訳にもいきませんから。今は仕事中ですので」
「はいはい」
そう言って諒子は店内へ消えていった。
そうして、止められっぱなしのバイクに悠誠は目をやる。悠誠の密かな野望とは、夏休みになったらバイクの免許を取ってみようというものだった。
実際にバイクを買うにはもっと長く働かなければならないが、なんとなく、格好いいと思ったのだ。
両親はバイクに対して良い顔をしないだろうが。
それもまた、悠誠にとってやりたいことなのだ。
小遣いでなく自分で稼いだお金で、自分の意志で自分で選んだ参考書を買う。自分の意志で自分の選んだ大学への道を歩み始める。
元々の行動と変わりはない。
だが、自分の意志をはっきりと自覚したことで、自分のガラス玉を見つけることができたことで。
悠誠は日々の生活に張りが出るようになっていた。
今まで以上に。
悠誠がバックヤードから出してきた商品を並べ終わって、小さな達成感を得ていると、諒子がラムネを一本持って店から出てきた。堂々とラッパ飲みをしている。
悠誠は正直にだらしないと思った。
そして相変わらずの挑むような目つきのまま諒子は悠誠の所まで歩いてきて、そのまま一気にラムネを飲み切って、瓶を手渡してくる。
「これ、捨てといて」
「お客様……」
「いいじゃない。ところでさ、最近のラムネって、キャップが開くようになってて、割らなくてもガラス玉が取れるのね」
諒子がそれを指摘するのは、なんというか。
台無しだと、悠誠は思った。
「ははっ」
悠誠の親殺しは上手くいっただろうか。
そんな疑問が沸いてくるが、それは大したことではないだろう。殺すことではなく、殺そうという意思が重要なのだと、今の悠誠にはわかるのだから。
諒子から受け取ったラムネの瓶を、瓶回収のごみ箱に入れて、仕事を再開する。
悠誠は自分のラムネの瓶を割ろうとしてみた。
すると、生活は慌ただしくなった。
だが、悪い気は少しもしない。
ラムネの似合う季節になってきて、悠誠の野望が成就する日も着実に近づいてきている。
この手の中に今、ガラス玉はあるだろうか。
おそらく、あるのだろう。悠誠はそう思う。
彼の額から青春という名の汗の、雫が落ちた。




