夢
今日も僕は電車に乗る。
東京の大学から帰宅する途中だ。
時刻は午後六時。窓から外を覗くと、夕陽は美しい朱に染まっている。今日は典型的な五月晴れの一日だった。
昼の陽気がまだ残っているのか、混み合った車内は蒸して僅かに汗臭く、僕を不愉快な気分にさせた。
他人と密着するのが嫌だったので、壁の隅に寄りかかり、前方に少し足を伸ばして立つ。先頭車両のいずれかの角が、大学に通い始めて一か月間で見つけた僕の特等席だった。
僕は今年の春、都内の大学に入学した。
とはいえ特に進学したい理由があったわけではない。強いて挙げるならば、時間稼ぎだ。社会に出るまでの猶予を求めただけ。
ゆえに僕は、なにをするにも無気力だった。
勉強もしなければ運動もしない。趣味だってろくにない。なんとつまらない人生か。
目標が――夢があれば変わることができるのか。
そんな淡い期待が頭をよぎったが、すぐに諦めた。バカバカしい。
「……つまんねぇ」
他の乗客に怪しまれない程度にぽつりと呟く。誰かへ届けるでもない、僕の嘆きを。
電車が止まり、アナウンスが駅名を告げる。そこは自宅の最寄り駅ではなかったが、僕は電車を降りた。
大学までの定期券。これで道中の街を無作為に歩き回ること、それが今の僕が持つ唯一の趣味だった。
――この街にはどんな景色があるんだろう?
空想している間だけは、陰鬱な感情を忘れることができるから。
★
降り立った街並みは初めて見る景色で、僕を昂ぶらせた。
都会らしく周囲よりひときわ存在感のある駅前。有名なドラマの宣伝を誇らしげに流すビル群のパノラマビジョン。商店街に入れば、接客や営業に精を出すたくさんの大人たち。
僕もいずれ、この風景の中に溶け込む――大人になるんだ。
成長することが、いつの間にか希望から恐怖に変わっていた。足りないものだらけの幼稚な自分に、果たして“大人”が務まるのか。
その重圧に耐えきれず、僕は大学に逃げたんだ。
けれど、それも時間の問題。
人は誰しも大人にならなければいけない。であるはずが、僕にはその術がわからない。
この姿のままで社会へ飛び出すことが、たまらなく恐ろしい。
僕はどうすればいいんだろう?
自問に答えはなく、なにもできずにいるのが、今の僕だった……
「――相沢くん?」
不意に聞こえた、僕を呼ぶ声。
現実に意識を戻せば、眼前には一人の女性が心配そうな瞳でこちらを見ていた。
彼女は真っ白い清潔そうなコックシャツを纏っており、腰に臙脂の前掛けをしていた。これまた白い頭の長い帽子をかぶっている。典型的な料理人の風体だ。
そして、彼女の容姿には記憶があった。高校時代に同級生だった須磨さんだ。
どうやら僕は愚思に耽るあまり、道の真ん中で呆然と立ち尽くしていたようだ。しかし、須磨さんがなぜここに、こんなところで?
驚きに目を丸くする僕の反応をしばし観察してから、彼女は猫のように人懐っこい笑顔で、
「やっぱり相沢くんだ。久しぶりだね!」
と元気に言った。
そして、僕の疑問に回答するかのように、次々に言葉をまくし立てていく。
「偶然だね。あたし今、この近くの調理の専門学校に通ってるの! パン屋さんになるのが夢だから、なんと、そこのベーカリーで修行
中なんだ! どう? すごいでしょ」
「う、うん、すごい。本当にすごいよ」
彼女の勢いに気圧されながらも、それは本音だった。
須磨さんはすでに大人たちの中で生活している。自分がさらに成長していくために。
ますます自分の不甲斐なさを痛感してしまう……
「それで、相沢くんはどうしてここに?」
「え!」
しまった。その切り返しは予想外だ――いや、容易く予想できたはずだが、今の僕は混乱していたから。
真実なんて――現実逃避なんて言えるわけがない。彼女の夢への熱意を聞かされた直後なら、なおさらだ。
「んと……探検、とか?」
咄嗟に口を衝いて出たのは、なんともガキくさい言いわけだった。まあ嘘は吐いていないからいいか。
しかしそれが逆に須磨さんの好奇心を刺激してしまったらしい。彼女は瞳を輝かせていた。
「おぉ、なんか面白そうだね! あたしもついて行っていいかな?」
……困ったことになった。
二人で並んで歩きながら、いろんな話をした。大学の講義のことや、高校の思い出話など、話題には困らなかった。僕が大学にいった理由について話さずに済んだので内心ほっとする。
バイトの急な休憩をもらった須磨さんは、仕事着のままで街を案内してくれた。さすが毎日通っているだけはあって詳しい。
彼女がついてくると言ったときは動揺したが、次第に僕も楽しくなってきた。
二十分は歩いただろうか、彼女は不意に声のトーンを下げた。改まった口調になる。
「あのね……。ちょっとした童話なんだけど、聞いてくれるかな?」
「――? もちろん」
僕もつられて神妙な顔つきになる。やたら緊張してしまう。突然どうしたというのか。
「じゃあ話すね。〈ようせいのはなし〉を――」
★
その〈ようせいのはなし〉とは、要約するとこんな話だ。
あるところに、ひとりの少年がいた。
少年は自身が不幸な環境に育ち、ゆえに他人の幸せを好んだ。
彼は妖精を自称して、多くの子どもにささやかな幸福を与えた。
そしてあるとき、少年の前に本物の妖精が現れて、彼の不幸を取り払っていった。
そして、問いかけ。
少年は大人になっても妖精の存在を信じていただろうか――?
「どう思うかな?」
最後まで話し終えると、須磨さんは真っ先にそう尋ねた。とはいえ、こちらも簡単に答えが出せるわけではない。
正直、かなり考えさせられる内容だとは思った。童話であるのに、最後の質問だけが異質なほどに現実的だ。本当は妖精など絵空事だと知っているからこそ返答に窮する。
「わからない。わからないけど……、信じていてほしい、かな」
さんざん悩んだ癖に、結局月並みの答えにしかならなかった。
けれど、僕の回答なんてどうでもよかったらしい。彼女はこう意見を提示した。
「妖精は夢なんだと思うの」
「夢?」
無意識にオウム返しをしてしまう。口で反芻してみても、その真意を察することはできなかったけれど。
「夢って言っても、寝て見るやつとは違うよ、希望の方。この話のメッセージは夢なんだよ、きっと」
まだ僕のちっぽけな脳みそでは理解できない。
しかしなぜか無性に気になって、視線で彼女に説明を促す。
「少年が成長して夢を、つまり“妖精”を覚えていたか――その問いに正解なんてないの。強いて言うなら、読者が予想した内容そのものが正解なのかな。大人は理想を追うより現実を見るべきだって言うけど、そんなのは人それぞれ。大人が夢を求め続けたって構わない。……もちろん、現実と向き合うのも悪くないけどね。この話の作者さんは、それが伝えたかったんだと思うの」
僕はなにも言えなかった。肯定も、否定も。
「あたしは妖精を信じて、再会することができた。そして今のあたしがいる。あたしの妖精はもう、すぐそこにいるんだ」
心に響いた衝撃を隠せない。目を見開き、両手は酷く汗ばんでしまっていた。喉もカラカラだ。
これまで僕の中で渦巻いていた陳腐な理屈はすべて霧散した。成長に対する恐怖とか、時間稼ぎとか。なんと阿呆くさい。
妖精は――目指したい夢はいつでも、今でも探せるのだ。
憂鬱の袋小路から僕を救い出してくれたのは、間違いなく彼女。
「……きみはなんで、この話を僕に?」
乾いた唇で、精一杯に言葉を紡ぐ。
「相沢くんを見つけたとき、なんだか元気がなさそうだったから。あたしはこの話を聞くと、元気になれるんだ」
そっか、と呟いて、僕は夜空を見上げた。今の顔はあまり須磨さんには見せたくない。感極まって瞳に涙が滲んだわけではないけれど、つい口元が緩んでしまったのだ。ニヤついた、だらしない表情。
「ありがとう」
――あとは、向かい合ってお礼を告げるのが恥ずかしかったから。
ふと須磨さんが立ち止まった。不思議に思って彼女を見ると、その背後にベーカリーの看板があった。
「いらっしゃいませ。今日はあたしのオゴリだよ」
★
今日も僕は電車に乗る。
右手には、いくつかのパンが入ったビニール袋を抱えて。
天気は今日も文句なしの快晴。車内には朝日が差し込み、初夏の暖かさが心地いい。
須磨さんとの再会から一週間が過ぎた。あれから僕は毎朝、彼女の働くベーカリーに訪れるようになった。
〈ようせいのはなし〉をきっかけに、僕は変わることができた。もう大人になることに恐怖を覚えたりはしない。
あの童話に当てはめれば、僕は妖精を忘れてしまった。有り得ないと否定してしまった。
それは決して間違いではない。僕がそう思ったならば、それもまた正解のひとつだ。
けれど須磨さんの妖精を信じる強さを知った僕は、彼女のようになりたいと感じた。また妖精を追い求めたい、と。
すべては須磨さんのお陰だ。いつかお礼がしたい。だからこそ、今は彼女との縁が切れてしまわないように、とにかく会い続ける。
電車が停まる。僕が通う大学の最寄り駅だ。扉が開き、僕は一歩を踏み出した。
時間稼ぎだっていい。その勝ち取った時間で、妖精を見つけられるのならば。
自分の置かれた立場とか、環境とか。そんなこと、本当はどうだっていいのかもしれない。
大事なのは、自分になにができるか。
きっと、なんでもできるさ。
読んでいただきありがとうございます!
作中では夢を持つことを推奨しているようですが、夢や目標のない人・夢を諦めた人を軽視するつもりは一切ありません。
確かに明確に定めた夢に向かって努力を積み重ねる人物は輝いて見えますが、正直『やるかやらないか』程度で人間の優劣なんてものは変わらないと思います。
なあなあで過ごす人生だって、毎日が楽しいのならばきっと誇れるものです!
ちなみに、私の夢は『日本各地で道往く女性のスカートをめくって、パンツの観察日記をつけること』です。やりません。