ウイスパー・ハッピー
何となくひいきにしている喫茶店、“カフェ・ガルガンチュア”の奥まった席に俺達はいた。二十人も入れば一杯という店内に客は一人もいない。この店が学園都市にあるという立地上、客層のほとんどを学生が占めるために授業中や講義中にあたる今のような時間ではさして珍しい光景でもない。かと言って、朝方や夕方に客でごった返すという光景を見たことは一度も無いけれど。
二限目が休講となり、午後の三限目までの暇を潰しつつダラダラしようと親友である吉永と共に入った訳だが……
「五月人形というのは不自然だと思うのだよ」
席に着き、それぞれ飲み物を注文した途端に吉永はそんなことを言い出した。
俺が何と言っていいものか、反応と対応を考えていると、
「なんだい、その呆れたようなやれやれというか今日の夜は激辛カレーにしようと思っている顔は。これは重要な問題だよ。もっとはっきり認識することを勧めるよ」
患者の家族にガン告知する医者のような表情で吉永は深刻そうに言ってきた。
今日も今日とて吉永の悪い癖が始まった。こいつはどうも思い立ったが吉日というか、まっ~すぐゴー! というか。何か気になることがあるとそれがすぐに口と行動に表れる。
つい一週間前も、
「今の世ではライトノベルと分類される小説が人気を博していると聞いてな。いくつか読ませてもらえないか?」
と、日曜の朝も朝、午前八時にいきなり人の家に押しかけ、挨拶もそこそこにいきなり言い放った。
久方ぶりにバイトも無く、何も予定の無い日曜を心行くまで惰眠しようとしていた俺の計画はあっさり潰され、唐突にも急遽、ライトノベル読書会が俺の部屋で開かれたのだ。
窓の外には雲ひとつ無い青空が広がっているのに、いい大学生二人が黙々と一日中本を読んでいるという休日はどうしたものだろうね?
まあ、そんなことを休日は常にインドア派の俺が言っても栓も無いし説得力も無いことだけれど。
「それで、五月人形が何だって?」
軽く水で唇を湿らせながら、暇潰し代わりに吉永に付き合うべく、聞く姿勢を態度で示す。
「五月人形はどうして五月人形なのだろうね? 三月に飾る人形は雛人形というのに。どうしても不公平だと思うのだよ」
「……何が不公平なんだ?」
これまたいつものことではあるけれど、吉永が気にするポイントもよく分からない。もしかすると深い意味や高い見識からくるとても高尚なことなのかもと思わせる深刻さを匂わせる重い口調を作るけれど、聞いてみればその内容はおばあちゃんの知恵袋にも、雑学のネタにもならないようなことがほとんどだ。
この前にもこいつはとあるラノベのページを示し、
「見たまえ。この作者は同じことを考え、疑問に思っているようだ。前から気になっていたのだよ。小学生で始まり、中学生を経て、大学生で終わるのにどうして高学生ではなく高校生なのか。これは由々しき問題だよ」
半ば興奮して言うと吉永は己の持論を滔々と述べた。そして出た結論が『総檜作りのプールで泳ぐことこそ和風の極み』というこれまた訳の分からないものだった。その過程の大半を聞き流していたのは失敗だったかもしれないな、と二十秒間くらい後悔したものだ。
そんなことを回想している間も吉永の言葉は続いていく。
「君には分からないのかい? この得も言えぬ不公平感が。いいかい? ふたつとも桃の節句、端午の節句という子供の成長と健康を祈願するもので発祥は同じだ。なのに片方には雛祭りと付き、雛人形と呼ばれ、片方は特別な名称がある訳でもなく、人形もそのまま五月人形だ。この捻りの無さ具合は不公平を通り越してもはや差別だな」
憤慨を滲ませながら吉永は鼻で息をついて腕を組んだ。
言われてみればそうかもしれない。だがしかしだぞ、吉永。お前は重大な見落としをしているぞ。
「でもさ、吉永。三月三日の雛祭りは休みじゃないけれど、五月五日の子供の日は休日だ。社会貢献的には端午の節句の方が上だろう?」
アンチテーゼを述べる俺の顔は少しばかりにやけていたことだろう。大概のことを人並み以上にそつ無くこなす吉永の、たとえこんな下らないことであっても気付かない事に気付いたのだ。少しくらいは得意がったってバチはあたらないはずだ。
そしたら吉永は――こいつにしては酷く珍しいことなのだが――キョトンとした顔を数秒した後、深いため息を漏らしやがった。
「あのな、日下部。話をきちんと聞いていたのか? 問題なのは祝日かどうとかではないぞ? 純粋に単純に名前だけだ。それによってもたらされるカレンダー的な意味は含まないし考慮に値しない」
それぐらい分かっていてくれたと思っていたのだがな、と付け足すと吉永はどこか残念そうな顔を一瞬だけ見せ、いつの間にか置かれていた注文したアイスコーヒーのストローに口を付けた。
「悪かったな。ご期待に添えなくて」
不機嫌を隠そうともせず、それどころか強調するように言葉尻を強めて俺は言うと乱暴にアイスティーを飲んだ。
そんな俺を見て、吉永はくっくっく、と喉で笑った。
「気を悪くしたのなら謝るよ。別に悪気があった訳ではない。ただ……そうだな。ただ、君のそういう子供っぽい仕草を見てみたかったから、と言ったら君はまたへそを曲げるかな?」
曲げるね。大いに曲げるさ。何が悲しくてお前の意地悪に喜ばなければいけない。遊ぶのなら他の奴でやってくれ。謹んで、ついでにのしも付けて押し付けてやるよ。
と、正直言いたいところだが、そんなガキっぽいことを言おうものならまたからかわれるのがオチだ。だから俺は黙ったまま腕を組み、そっぽを向いて鼻を鳴らした。吉永がまたも小さく笑うのが視界の端に映ったが、そんなことは気にしてやらない。
「やはり名前を変えるのが早いと思うのだよ」
笑いを収め、吉永は己の考えを口にした。
「さっきも言ったが、五月だから五月人形ではあまりに安直だからな」
「そうすると鎧武者だから武者人形とか?」
「それもそのまま過ぎるが発想は悪くない。だが、それは駄目だな」
「理由は?」
「武者頑駄無とかぶる。亜種であれ何であれ、由緒あるガンダムシリーズと重なることはよろしくない」
「………………」
言葉が出ない。どっからそんな単語と言うか発想が出てくるんだ? このご時勢に武者頑駄無はないだろう。せめて遊戯王とかポケモンくらいにはならないか? そもそもファーストガンダムのイメージモチーフ自体が鎧武者――だったはずだ。本末転倒もいいところだ。ちなみに、あのシリーズでは仁宇頑駄無が一番好き。
「ああ、かと言って雛祭りで雛人形なのだから子供の日で子供人形、端午の節句で端午人形と言うのもイマイチだな……」
ぶつぶつと自分の考えをまとめるかのように吉永は呟く。と、不意にポンと手を打ち、
「そうか。違うな。見方を――考え方を変えればいいのだ。まったくこんなことにも気付かない自分が恥ずかしくなるな。神ならざる身なれば全知全能、完全万能は望むべくも無いが、それにしても矮小が過ぎる。本当に恥じ入るばかりだよ」
吉永はどうやら自分が許せないらしく、やり場の無い憤慨を顔に張り付かせ、フンと大きく鼻を鳴らした。
「それで吉永。お前の灰色の脳細胞だが知恵の泉だかカオスの欠片だかが導いた考え方というのはどんなのなんだ?」
自分の閃きに満足するようににやけて頷いたり、今まで気付けなかったことが悔しいとそっぽを向いては苛ただしげにテーブルの上で指をタップするという、はたから見ると非常に器用な忙しさを見せていた吉永の動きがピタリと止まり、真面目な表情を俺に向けてきた。
「気付いてみれば簡単なことだよ。人形を飾る行事が三月と五月にしかない、というのがいけないのだ。それぞれの月にあれば問題無い」
「……そうか?」
「そうだとも。星座や誕生石のようなものと思えば問題なかろう。ついでに言えば一年に一回戦ってドール・ザ・ドールを決めたり、最後まで残った人形が完全無欠の少女や少年になれるという設定を付けてもいい」
「どこのGガンダムでどこのローゼンメイデンだよ!?」
「最新だとギガンティック・フォーミュラだな」
まだまだ甘いぞと付け足して、吉永は得意そうに楽しそうに笑った。
――ん、待てよ? 俺はどうして吉永とこんな話をしているんだ? 確かに吉永はこっち方面に理解がある奴だ。だが、こんな風にこっちサイドに乗ってきたことは無かったはずだ。なのにどうしてこんなネタ振りできるくらいにはまっているんだ?
「勉強したからだよ」
俺の疑問を察するように吉永は口を開き、言葉を作っていく。
「まったく褒めてもらいたいね。この一週間は随分とハードだったぞ。全てのアニメ雑誌に目を通し、テレビをチェックし、その上君が所持するDVDや漫画、小説のほとんどを読破したのだからな」
どこか得意げに話す吉永に対し、驚いていいのか呆れればいいのか。そんな中途半端で曖昧な表情しか浮かべられない俺に吉永はニヤリとした顔を見せ、
「もちろんベッドの下や机の引き出しの奥、偽装百科事典の中身もチェック済みだ」
なっ!? 俺の秘蔵部にも吉永の魔手が伸びていたと言うのか!? そんな馬鹿な! あ、あの時、俺が席を外したのはトイレに行った時と飲み物を取りに行った時くらいだぞ……? ふたつを合わせても十分も無かったはずだ。そんな短時間でこいつは……!
「まあ、隠し場所の見当は付いていたからな。あとは時間との勝負だったが……いや、なかなかハラハラしたぞ。久々にドキドキした時間だった」
どこか晴れやかな顔で吉永は言ってくる。
言葉が無い。よりにもよって吉永に……俺の健全なる闇の部分が知られてしまった……。よ、よりにもよって吉永に!
「そんなに悲観するものでもないぞ。君の性的傾向や趣向は墓まで持っていくからな。それで、だ」
茫然自失、真っ白になってマヌケ面を浮かべているであろう俺に吉永が身を乗り出すように話しかけてくる。
その声に引っ張られるように、操り人形のほうがまだ感情的だと思わせるような魂の抜けっぷりの反射でしかない機械的な動きで俺は首を吉永へと向けた。
そこで、違和感を覚える。……吉永が何となく落ち着き無く見えるのは気のせいか?
いつも落ち着いていて余裕があって、泰然自若という言葉を体現しているのが俺の知る吉永だ。ぱっと見では――おそらくは知り合いや友達程度の付き合いでは分からないだろうぐらいの、小さくて曖昧でもどかしいと思うくらいの所作の違い。
何が違うのか、ようやく回りだした思考でぼんやり考えていると吉永が二の句を継いだ。
「君のあらゆる好みに対し……この吉永には合致する点が多くあると思うのだよ」
は? 今――こいつは何と言った?
「君はロングヘヤーが好きだったな。腰まで伸ばすのには少々時間がかかってしまったがね。毎日の手入れも怠らなかったからどうだい? 輝くように綺麗だろう? 今度触ってみるといい。顔の造作は自分で言うのも何だが、それなりに整っていると思うぞ。かわいいというよりはかっこいいというのかな? 実を言うとこのつり目気味の顔はあまり好きではなかったのだよ。だが、君の好きなタイプを思わせるというのだからな。現金なもので今では結構気に入っている。高くも無く低くも無い身長ではあるが、君と並ぶと丁度よい具合なのがたまらないな。スタイルだって悪くないぞ? ちなみに、君の嗜好するキャラクターのスリーサイズを平均するとおおよそ八九・五八・八四になる。なかなかの巨乳さんだな。残念ながらこの吉永のサイズは八七・五七・八三で少しばかり及ばないが大きく逸脱した数値でもない。今後のがんばりに期待してもらいたいところだ。あとは――」
「ちょ、ちょっと待て! 待ってくれ、吉永! お前はさっきから何の話をしているんだ!?」
吉永の言葉を慌てて遮る。こいつは一体どうしちまったんだ? 何をペラペラと一人でしゃべっている?
「君の嗜好傾向とこの吉永の身体的特徴についての対比、及び類似点の検討だが?」
「そうじゃない。そんなことじゃない。何を俺に言いたいのかということだ」
真顔で言ってくる吉永に俺はかぶりを振る。すると、こいつにしては珍しく、逡巡するように俯き、瞳を閉じて沈黙した。
時間にしたらおそらくは数秒のことだったろう。しかし妙に重苦しく、圧迫感さえ孕むその沈黙の中にあっては、永劫にこの空間に閉じ込められるのではないかと錯覚させるものだった。
「――線引きをしたいのだよ」
ぽつりと、吉永は呟いた。
「お互い大学生になって一ヶ月が過ぎ、大学生活にも慣れてきた頃だろうし、そろそろ頃合も良いかと思ってな」
「……頃合、て何のだよ」
「先にも言っただろう? 線引きのだよ。友達と恋人との、な」
「友達と恋人……」
「そうだ。実を言うと今まで恋や愛だ恋愛なんてものは必要ないと思っていたよ。――違うな。正確に言うなら必要なものではあるだろうが、この吉永からは限りなく遠いものだと思っていた。多くの友達と少々の親友で十分だと考えていた。だと言うのに……」
吉永は深々と息を吐き、頭を大きく振った。
「君がそれを崩してしまった。壊してしまった。参ったよ。まったく降参だ。初めて会ったその時から情緒は不安定になる一方だ。余計なことで杞憂だと思うことばかり考えてしまう。腹立たしいとさえ思うよ。こんな自分にね。君はどうなのだろうね?」
不意に吉永は探るような目線を寄越してくる。
「君はこの吉永を――吉永京子をどう思っているんだい? 友達かい? 親友かい? それとも異性として捉えてくれているのかな?」
「それは……」
「それは?」
戸惑い、言葉に詰まる俺に吉永は真っ正面から真顔でもって見つめてくる。その様相はいつもの吉永のように見える。しかし時折、かすかに、ほんのわずかに指先が震えたり、瞳が揺らいだりする瞬間があることを考えると、相当に緊張している――違うな。怯えているんだ。きっと、俺の返答に。
正直に言おう。俺は吉永のことが好きだ。友達としてではなく異性として。
高校三年生の春。同じクラスになって初めて会った時から気持ちは変わらない。いや、強くなってさえいる。だが、俺は今まで友達からその先へ進むための一線を、一歩を踏み出そうとはしなかった。
怖かったのだ。
振られることが、じゃない。
今の交友関係が壊れることが、でもない。
吉永がいなくなってしまうのが恐かったんだ。
吉永は俺の理想の異性像そのものだった。強気で勝気で凛々しく整った容貌も。綺麗な長い黒髪も。スラリとして均整の取れたスタイルも。形のいい口から紡がれるその声も。どこかみんなと一線を引いたように達観した、けれど決して冷めている訳じゃない性格も。
全てが俺の好みだった。だからだから――あまりにも理想過ぎるから、俺は何も出来なかった。そんな理想の人の傍にいたかったから――理想を理想としておきたかったから、俺は普通の友達で、吉永にとって大きな影響を与えることの無いその他大勢の一人として自分を位置付けようとした。その結果、お互いがお互いを親友とし、気の置けない関係を築くことが出来たのだと思っている。
いや、今の今まで思っていた。だけど実際はそうではなく、俺は吉永に甘えていたに過ぎなかったんだ。
吉永は恐らく、他人に対して特別な感情を――いわゆる恋愛感情を持つことは初めてに近いくらいだったのだろう。だからどうしていいのか、どうしたいのか分からなかったはずだ。だけれど、ただ一緒にいたくて、ただ純粋に一緒にいたいと思ってくれていたからこそ、俺も親友足り得る事が出来たんだ。
まったくもって情けない。吉永の気持ちに気付くどころか勝手に勘違いまでしていたんだから。
その挙句、最後の最後まで吉永に全部を背負わせてしまった。俺の気持ちは決まっていたのに。ただ自分勝手な理由を付けて、臆病な自分を隠していただけなのに。
俺の男としてプライドなんてものは最早どこにもないけれど。だけど、だからこそ大きく一歩を踏み越えてきてくれた吉永を受け止めるのが俺の最後の矜持だ。
俺は改めて吉永を見る。向けられている表情は見惚れるくらいに凛々しくて、瞳は真剣そのものだ。睨んでいるといってもいいくらいに視線に力が入っているのは、吉永が心の底から本気だということに他ならない。
吉永の真剣な気持ちが心地良い。やっぱり、俺は吉永のことが好きなんだと実感してしまう。友達として。親友として。そして女の子として。全てにおいて大好きだ。だから俺は正直に、心の全てを言葉にした。初めて会った時から惹かれていたこと。なのに俺があえて友達と言う立場に固執した理由。そして……吉永を女の子として好きな気持ちは変わってないこと。それら全部を吉永に伝えた。
吉永は全てを聞き終えると静かに息を吐いた。
「……なるほどな。基本的には現状維持を考える、まったくもって君らしい判断に基づく行動を一年以上もこの吉永にしていた訳か……。君という男は実に度し難いな」
静かな怒りを声に滲ませながら、吉永は言葉を続けていく。
「これではまるで道化ではないか。一年と一ヶ月の間、この吉永がどんな心持ちであったと思うのだ。まったく本当に度し難い……!」
言うなり、吉永は席を立つと喫茶店の出口へと歩いていった。
呆れられた……いや、嫌われたか……。まあ、そうだろうな。ただ鈍感なだけでなく、俺が距離を置いた理由が臆病に過ぎる自分勝手な理由だからな。幻滅されて当然だ。仕方ない……と頭で分かっていても……やっぱり痛いよなぁ……。
椅子に深く身を預け、ぼーっと天井を見上げていた俺の視界が暗くなった。ふいっ、と視線を横に移すとそこにいたのは――
「吉永……」
そう、今出ていったばかりの吉永が腕を組んで立っていた。
「何を呆けているのだ、日下部」
睨むように俺を見下ろしながら吉永は言う。
「……お前、俺のことを嫌いになって出て行ったんじゃないのかよ……?」
絞り出すように声を出す俺に、吉永は不思議そうな顔をした。
「何訳の分からないことを言っているのだ。君のことを嫌いになった? この吉永がか? どこをどうしたらそういう結論が出てくるのかご教授願いたいな」
「え……だってお前、あんなに俺のこと怒ってたじゃないか」
「多少はな。こう言っては何だが、君に意気地が無いことなど折り込み済みだよ。それを考慮していたにも関わらず、手を打つ事が遅くなってしまった自分自身に腹が立ってな。頭を冷やすために化粧室へ行って来ただけだ」
「……何だよそりゃ……」
気の抜けた声で呟くと、俺はずるずると椅子から滑り落ちた。
「それはこちらのセリフだ。戻ってきたら彼氏が魂の抜けた顔で天井を見つめていたのだぞ? 何があったか心配してみれば……君って男は案外思い込みが激しかったのだな」
殊更に呆れたような顔でやれやれと頭を振る吉永。そんな吉永を見て、俺の口から思わず安堵の息がこぼれた。それと同時に回りだした頭がひとつのことに気付いた。
「そう言えば吉永。さっき俺のことを『彼氏』て言ったよな?」
「ああ、言ったな。気に入らなければ『ダーリン』とでも言い直そうか?」
「恥ずかしいから止めろ。でもいいのか俺で? 高校の時からそうだったけど、吉永ならもっといい――」
「それ以上は言うものではないよ」
俺の言葉は吉永の声に遮られ、そして唇に置かれた吉永の人指し指によって物理的にも止められた。
「自分のことを過大に評価するのも考えものだが、過小に見るのも良くはないのだぞ? この吉永京子は日下部仁志のことが好きなのだ。そして君もまたこの吉永に好意を寄せてくれている。それで十分だし、あまり自分のことを卑下すると、君を想っているこの吉永に対して失礼になると思わないかい?」
いたずら小僧めいた笑顔を浮かべ、吉永は俺の目を覗き込んでくる。
まったくもって敵わない。ああ、そうか。ようやく気付いた。どこまでもやっぱりこいつは吉永なんだ。俺の大好きな友人で、親友で、女の子で、彼女だ。俺の下らない危惧は結局は杞憂で、ただの臆病以外の何物でもなかった。俺のせいで一年も待たせてしまった――なんて言うのはカッコつけすぎだけど……やっぱり、そういうことなんだと思う。だからこれからそれを埋めていこう。二人で、さ。
「吉永。これから時間はあるか?」
「午後イチの講義をサボればあるな」
「ならサボれ。先週封切した映画を見て、それから飯でも食いに行こうぜ」
「望むところだ。当然、君の奢りなのだろう? ここ同様に」
「へいへい。お姫様の仰せのままに」
「よろしい」
満足そうな笑顔の吉永に苦笑を返しながら、俺は椅子から身を起こすと伝票を持って立ち上がる。
いつものように並んで歩きながら、だけど普段とほんの少しだけ違う心で俺達は席を後にした。