第五話 鏡写しの幻影
あれから更に一年が経ち――私の寿命は、あと四年。
時は霜月(十一月)。私は流浪の旅人として各地を転々とし、何とか今日まで生き延びてきた。
そして、今私がいるのは故郷の村から遠く離れ、特にこれと言った特産品も無い小さな農村だ。ここへ立ち寄った理由は単純。路銀集め。要するにお仕事である。
冬は移動が難しい。遠方の町へ向かうには、それなりの資金が要る。
そして私は──常夜神を殺すという使命とは別に、八咫烏から賜った神槍と共に、これまで数多の妖魔退治を続けてきた。
村長宅の奥座敷。
ちゃぶ台を挟んで対峙する村長は、還暦を過ぎた古木のような男だった。その肩には血の滲む包帯が巻かれている。
「……それで近くの森に出たと。既に何人も行方不明だとか」
「……えぇ、今日までで五人。中には身重の女や童もおって……」
村長の声は重い。
「お悔やみ申し上げます。して……下手人は化け猫だと聞きましたが」
「……えぇ。ですが、ただの化け猫などという生易しいものではありませんよ。私も一度会敵しましたが、この通りです」
村長は痛む肩をさすり、忌々しげに吐き捨てた。
「虎のような巨躯に、龍のごとくうねる体毛。毛を矢のように飛ばしてくる化け物です。……森へ入った村一番の狩人も、虫食いの麻布のように体に穴を空けられ、先ほど息を引き取りました」
重苦しい沈黙が落ちる。
そこまで言った所で村長の目に気付いた。
今まで何度も向けられてきた、あの疑念の目だ。
私は、いつものように大きく息を吐いた。
「やはり、不安ですか」
「えっ、そんな」
「取り繕わなくて大丈夫。当たり前です。妖魔を倒してくれと依頼したのに、来たのが私のような小娘であれば、そりゃがっかりされたでしょう」
「……そうですね。猟師は随一の弓の名手でした。筋骨隆々、ナタで大木を切り落とすこともできた。それに比べて、確かに不安です。貴方のような人があの化け物を祓えるか」
村長さんはじろりと私を睨め付けます。それと同時に空気がピリピリとしたものに変わっていくのを感じました。
「失礼ながら、お手並みを拝見したい。裏庭に巻藁があります。存分に力を振るってください」
「……わかりました」
私は短く答え、愛槍を手に立ち上がった。
裏庭に出ると、枯れかけの木と、太い巻藁があった。
「あれは?」
「あぁ、あの木は我が家自慢の柿の木でございます。まだ少し青いですが、熟せば美味しくなりますよ。あれを孫と食べるのが末期の楽しみでして」
「……それは良いですね。私も柿は好きですよ。特に干し柿が」
「ほう? この木は甘柿なので干し柿には適しませんが……確かにあれも美味い」
村長は朗らかに笑った。どうやら誤魔化せたらしい。
あの木を派手に斬り倒して見せれば話が早いのでは――と、一瞬でも考えた自分を戒める。危ないところだった。
当初の計画で行こう。久しぶりの全力だ、体が軋まなければいいが。
「……こちらで好きにやって構わないんですよね?」
「えぇ、大丈夫です」
巻藁との距離は、おおよそ五歩という所。槍を中段で構える。
「では、……行きます!」
呟きと共に、世界の色が褪せた。
認識が加速し、時間は泥のように重くなる。
足裏で地面を爆ぜさせた刹那、景色が後方へ置き去りにされた。
衝撃。
全身の骨が、悲鳴を上げた。
鼓膜を貫くキィーンという耳鳴りの中で、私は確かな手応えを感じていた。
土煙が晴れると、上半分が消し飛んだ巻藁と、腰を抜かしかけている村長の姿があった。
「これで……満足頂けましたか?」
「……ぇ、あっ、はい!」
村長さんはハッとした様子でそう答えると、素早く揉み手に切り替わります。
「……えぇ……先程までとんだ失礼を…まさかこれほどまでとは……」
「……大丈夫です。初めての相手を侮るのは、誰にでもあることですから」
「……そう言って頂けると気が楽です」
村長さんはほっと胸を撫で下ろすと、懐から金一封を取り出します。
「これはお詫びと前金です。どうぞお収め下さい」
「……ありがとうございます。私はこれより森へ赴こうと思います。では、これで……」
「…あの、案内は」
「大丈夫です。事前に情報収集は済ませておいたので。その代わり庭の後始末お願いします。あの荒らしてしまってごめんなさい」
私は済まし顔で受け取った小判を財布に仕舞うと、今度こそ村長さんに背を向け歩き出した。
村長の家が見えなくなるまで歩き、木陰に入った瞬間――。
「い゛っ――!」
激痛が全身を駆け巡った。
悲鳴を噛み殺し、その場にうずくまる。
……やってしまった。脚の骨にヒビが入ったかもしれない。指の感覚もおぼつかない。
少し本気を出せば、すぐこれだ。
ちょっと休めば治るとはいえ、アレをやるのは早計だった。
「さてと……そろそろ行きま…」
「あの…ちょっと良いですが?」
「…ぇ…ふぇっっ…!?」
突然、背後から声をかけられ、私はビクッと変な声を上げてしまいます。
「あぁ、すみません!驚かせる気は無くって。その……あの妖猫を倒してくれる退治屋さんですよね?」
振り返ると、そこには私の胸ほどの小さな男の子がいました。
「そうだけど……君は?」
「僕は如月といいます。実は貴方に頼み事があって……。あの化猫の前に僕を連れて行って下さい。お願いします!」
そう言って頭を下げる少年。私は少し考えると尋ねます。
「……一応聞くよ。なんで?」
「…あの化猫は僕とアイツ……文奈の父さんと母さんを殺して、村をこんな有様にしたんです。そして……文奈が二日前からその報復だって森に入ったっきり行方がわからなくって……それを僕が止めれなくって……。それで、それで……」
「成る程ね……」
少年の瞳に、かつての自分を見た。
無力さを知らず、ただ大切なものを守りたいと願った、愚かで愛しい日々を。
だから、
「…残念だけど、君を連れて行くことは出来ない」
「……やっぱりダメですか?」
少年は肩を落とすと、小さく呟きます。
「お金…ですか?」
「…勘違いしないで。別にお金の問題じゃない。……ただ、君が単純に小さすぎるから」
正直なところ、私は強くない。
いくら巫女としての力を持ち得ようとも、相手は妖魔。私は人間。油断できるような相手ではない。
「私は君を守れない。あの化け物は、私でさえ一瞬で殺されるかもしれない相手だ。君を庇う余裕なんてない」
「でも……っ」
「それに君が死んだら、その子は誰が迎えてやるの」
少年が息を呑む。
「私が文奈って子を見つけたら、必ず連れ帰る。だから君は家で待ってて。あの子が帰ってきた時、一番に笑顔を見せてやれるように」
少年は悔しげに唇を噛み締め、やがて深く頷いた。
走り去る小さな背中を見送り、私は苦笑する。
「……らしくないことを言ったなぁ」
あんな風に希望を持たせなければ、彼は付いて来ただろう。
何が正解かは分からない。ただ、彼らの未来を守るためにも、私はここにいる。残り四年の命を燃やして。
「さて……行きますか」
私は神槍を握り直し、深淵のような森へと足を踏み入れた。
……………
………
……
森に入って暫く経った頃、山の中腹でそれらしい痕跡を見つけた。
足跡に糞、そして――ズタズタに喰い散らかされた人の残骸。
私はもう何回目かも分からない大きな溜め息を吐く。
遺体は深緑の衣を着た僧侶であり、文奈という娘ではないようだ。だが、その惨たらしい食い跡には、やはり嫌悪感を抱かずにはいられない。
「……恐らくこの辺りに巣がある。ただ、あの図体では木の洞なんかには入らないだろうし、地面に穴でも掘っているのかな」
そう呟くと、私は死体にそっと手を合わせ、目を閉じた。
そしてゆっくりと目を開けると、槍を構えて再び森を進み始めた。
……
……
……
「……見つけた」
山肌の崖下。腕を広げても尚、私の体がすっぽり入ってしまうほど大きな横穴があった。しかし、中に生き物の気配はない。
「……留守? なら、待ち伏せして狩る方向で……」
私は槍を地面へ突き立て、それを支えに跳躍すると、近くにある大樹の枝上へ身を隠した。
洞穴までは約五メートル。ここから跳べば十分刺し殺せる距離だ。懸念点があるとすれば、標的に気付かれないかということ。獣は巣の些細な変化にも敏感だ。
……大丈夫。聞いた話では図体はかなりの物で、色は白。視界が悪い森の中でも、先にこちらが見つけられる。先制を取ればこちらのモノだ。
自分に言い聞かせるように心の中で呟き、私は槍を握り直して息を殺した。
…
……
…………
体感で半刻が経った頃だろうか。僅かに集中が途切れ始め、じくじくとした不安が疲労と共に徐々に大きくなっていった。
その場で一切動かず、いつ来るか分からない化け物を待ち続けるというのは、想像以上に心身への負担となっていたのだ。
気を紛らわせる為、もはや相棒となった愛槍"茜刺し"を強く握り締める。
(……そういえば、八咫烏様から茜刺しを授かってから、色々あったなぁ……)
脳裏に浮かぶのは、あの日から始まった苦痛に塗れた旅の記憶。
お母さんと村に別れを告げた直後、不思議な白鴉の手によって見知らぬ森に放り出されたあの日。
手に馴染む槍から、残酷な説明書が頭に流れ込んできた。
曰く、これは妖魔特効の『神槍』である。
曰く、生命力を糧に身体能力を引き上げ、『命の炎』を生み出す。
曰く、使う度に寿命は削れる。
追記:呪いの効果で貴方の命は十八で終わり。余った八十年分の寿命を燃料にして、さっさと常夜神を殺しなさい。
……ド直球にも程がある。どうせ残り五年で死ぬのだから有効活用しろって事だった。
だが、お蔭で覚悟は決まった。私の命の全ては化け物を倒す為に使うのだと。
その後は、関所での一幕だ。
「父は戦争で、母は病で……ひぐっ、うぅ……っ」
ボロボロの着物で嘘泣きをかまし、怪しまれる槍を「形見ですぅ!」と押し通して無一文で通過した。我ながら見事な演技力だったと思う。
まあ、金を出せと言われても体で払うしかなかったし、槍を売れば八咫烏様の祟りが怖い。あれが最適解だったはずだ。
それからは身寄りのないお婆さんの家に転がり込み、家事手伝いという名目で居候をした。
……年寄りなら断りづらいだろうという、詐欺師まがいの計算があったことは墓まで持っていく秘密だ。
衣食住を得た私が次に求めたのは、金と力。
強くなる為、そしてお婆さんに報いる為、私は「妖魔退治」を仕事に選んだ。
最初の相手は台所の『窮鼠』。
屋内で長槍を振り回し、米櫃を粉砕して大目玉を食らったのも今では良い思い出だ。
その後、付喪神や一反木綿で経験を積み、小金が貯まった頃に私は町を出た。
……強すぎる力を怪しまれ、「あの子自体が妖魔なのでは」と囁かれ始めたからだ。
お婆さんは大変惜しんでくれたが、最後には笑顔で送り出してくれた。身寄りのない私の世話をしてくれたあの人には、感謝しかない。
その後は苦行の日々だった。
道中は殆ど野宿。町に着いても金を惜しんで屋根下を借りられないことも多々あった。
これまでの戦い、出会い、別れ。それらが今、走馬灯のように脳裏をよぎる。
……待て。走馬灯?
ザワリ、と肌が粟立った。
殺気。それも濃密な死の気配。
勢いよく上体を起こし退けぞる、その瞬間――
――ズバッ!
跨っていた太い樹の枝を何かが容易く貫通し、私の額を浅く削った。
鮮血が散り、主から放たれた棘状の物体は彼方へと飛び、蒼天の青空を穿つ。
ハッとして殺気の元を逆算し、左斜め五十歩先を睨む。
そこに下手人はいた。
逆立つ白銀の剛毛に覆われた、巨大な妖猫。
猿のように発達した四肢と鋭利な爪。血のような双眸が、明確な殺意を持って私を射抜いている。
先程の凶器は、あの体毛を束ねたものか。
額から滴る血を手首で乱雑に拭い、私は槍を構え直した。
「フゥ゙〜…フゥ゙〜……」
低く唸りながら、妖猫がジリジリと距離を詰めてくる。
その威圧感に喉が鳴る。樹上から飛び降り、私は口角を無理やり引き上げた。
「……ふっ、獣風情には分からないでしょうが……乙女の顔に傷を付けた罪は重いですよ? 高く付きますからね」
「フゥ゙〜……!!」
私の軽口が気に入らなかったのか、妖猫は全身の毛をさらに逆立てた。輪郭が膨張し、数十本の即席の槍が形成される。
「……っ!?」
全方位射撃。
頬を削る鋭利な痛み。私は脱兎の如く跳躍し、連射される死の雨をかいくぐる。
横目で見た大樹は、一瞬で蜂の巣にされていた。一発でも貰えば、私は服を着た挽肉だ。
「……啖呵切った手前不様ですが、真正面からは分が悪いですね。まったく、獣なら獣らしく猪突猛進してくれればいいのに……」
「フミャァァァ!」
……通じた?
妖猫は私の挑発に乗り、体を丸めた肉弾戦車となって突っ込んできた。単純明快、かつ破壊力抜群の質量攻撃。
「ほあっ!?」
情けない声を漏らしつつ、真上へ跳躍して紙一重で回避。
着地した私の背後で、妖猫は大樹を薙ぎ倒し、一直線の更地を作って停止した。そして、ぐるりと向きを変え、再びこちらに狙いを定める。
……厄介だ。
あの体毛。明らかに槍の間合いより長く、生半可な牽制は意に返さない
神槍"茜刺し"の穂先ならあの体毛ごと貫けるが、その前に轢き殺される。
似た動きなら、ダンゴムシよりワラジムシの方が可愛げがあったものを。
「……かと言って、毛棘の雨霰もツラい」
近くの木々は既に遮蔽物の体を為しおらず。槍で全てを弾く技量は私にはない。
逃げ回るだけではジリ貧。私に遠距離攻撃もなく、有効打を与えるには接近するしかない。
どうする?いや、
——考えるな。元から、選択肢なんて一つだ。
死を恐れず突っ込んで、刺し殺す。それだけだ。
思考を放棄し、私は駆け出した。
「フミャアァァ?」
驚いた様子の妖猫だが、即座に無数の毛槍を乱射してくる。
だけど、
「……私の腕でも、射線が見えている攻撃なら……一、二発弾くくらい訳無いッ!」
致命傷コースの棘を槍で切り払い、残りは体で受ける。
前傾姿勢で突き進む私の体から、次々と肉が削げ、血が舞う。
肩。太腿。脇腹。
焼けるような痛みが思考を鈍らせる。
距離、残り十歩。
そこで妖猫は戦法を変えた。
進路上の樹木を撃ち抜き、倒した幹で即席の壁を作る。土煙が舞った。
「でも……」
それで私は止まらない。
倒れた木を蹴り、高く跳び上がる。
――あ。
宙に浮いた瞬間、気づいた。これは悪手だ。空中では動けない。着地を狩られる。
死の恐怖が、冷静さを奪っていた。
私が取れたのは、華奢な腕で顔を覆うだけのささやかな抵抗のみ。
直後、強烈な衝撃が全身を貫いた。
……。
……ぁあ。
意識が浮上する。
……ニャニャ……
嘲笑う声が遠く聞こえる。
焚き火を押し当てられたように頭痛が走る。
私の体は無数の毛槍に貫かれ、宙吊りにされていた。まるで剣山の上の供物だ。
右腕は感覚がなく、左足は半ば削げ落ち、脇腹からは止めどなく命がこぼれ落ちている。
「う……あ……」
……でも、まだ、生きてる。
「フミャアァ……」
妖猫は私を串刺しにしたまま手繰り寄せ、その醜悪な顔を歪めた。
私を「敵」としてではなく、「餌」として認識した、その瞬間。
――ズプリッ。
手首の返しだけで突き出した"茜刺し"が、妖猫の喉元を深々と抉った。
「…ニ゙ャ゙ァ゙!!?」
「ぶはっ!?……げほっ! ごほっ!……さ、流石獣……すぐに反撃してくるとは……。お蔭で、穂先しか届きませんでしたが……」
肺から溢れる血を吐き捨て、私は嗤った。
あちらが間合いに入ってくれたのだ。肉を切らせて骨を断つ、などという綺麗な形ではないが、結果オーライだ。
「……これ以上腕は動きません。本当なら横薙ぎにして、そのムカつく顔に一文字を刻んでやりたいんですが……無理なもんは無理ですね!……ならば……」
「ニャァ゙? ニ゙ャ゙!?」
妖猫が気付く。喉に刺さった異物が、異常な熱を発していることに。
奴の毛先が私の頭蓋を狙う。だが――。
「……遅い」
私の命を喰らえ。
《"起き、ろ!"》
――ゴォォォォオオッ!!
穂先から爆ぜたのは、赤黒い業火だ。
私の寿命を燃料にした炎は、化け猫を内側から焼き尽くし、瞬く間にその巨躯を呑み込む。
――終わった。
そう安堵しかけて、私は引き攣った声を上げた。
「!!?……へぁあ!?」
刺さった体毛を導火線に、炎が逆流していた。
慌てて身を捩ると、炭化した毛はボロボロと崩れ、私は地面に叩きつけられた。
痛い。だが、それどころではない。
「あ……がっ……!?」
栓の役目をしていた槍が抜けたのだ。傷口から血が噴水のように溢れ出し、地面を紅く染める。
「……はぁ……ふぅ…ふぅ……か、回復に全集中……ッ!」
薄れる意識の中で、残りの命を燃やす。
細胞が沸騰し、増殖する不快な熱さが全身を駆け巡る。
一分後。傷は塞がった。寿命と引き換えに。
私は泥と血にまみれたまま、大の字に寝転がった。
「……というか、うん……。服、また買い換えないとなぁ……」
青い空が眩しい。
今の私は、ボロボロの布切れを纏っただけの扇情的な姿だ。十四歳のちんちくりんだと侮るなかれ、最近急激に伸びて身長が、百六十近くにはなったのだから。
……まあ、どうせ服はすぐダメになる。成長に合わせて買い換える手間が省けたと思えばいいか。
それにしても……今日だけでどれだけの命を使っただろう。
一ヶ月分? いや、もっとか。
私の残り時間は、確実に短くなっている。
――半刻後。
「……はぁ、よし。後は攫われた人たちがいないか確認しないと」
私はまだ少しふらつく頭を押さえ、衣服についた土を払いながら立ち上がった。
「うーん……無事だと良いんですが……」
そう呟き、巣である洞穴の中へと足を踏み入れる。
妖猫は番や子を持つこともあるが、気配を探る限りその心配はなさそうだ。
「……まぁ、分かってはいたとはいえ、酷い惨状……」
中にはバラバラに砕かれ散乱した骨々と、おやつとして残しておいたのだろうか、蝿がたかる一対の脚。そして、今の私の服とそう変わらない、ズタズタに引き裂かれた布切れが残されていた。
村人が攫われて約三日。それだけ経てば、生存はほぼ絶望的だ。
「……。」
静かに手を合わせる。
猫系の妖魔は獲物を甚振る悪癖がある。果たして彼らは一息で殺して貰えたのだろうか。
何にしても、御霊の平安を祈るくらいしか私にはできない。
「……さて、帰りますか。遺体や遺品の回収は村の人に頼んで――って、あれ?」
道が捻くれて見えなかったが、奥にまだ空間がある。しかも、腐臭に紛れたこの鉄臭い匂いは、新しい血……!?
私は焦りつつ、奥へと駆け出した。そして、そこには――。
「……大丈夫ですか!?生きてますか?死んでないなら起きて下さい!!」
「……ぅぁ…」
……良かった。まだ息がある!
私は急いでその子の容態を確認した。
「両手首に穴……でもそれ以外は擦り傷くらい。ただ衰弱が激しい……」
とりあえず、自分の袖を引き千切って手首に巻き付け、止血する。
見つけた時はうつ伏せで倒れていた。恐らく保存食として壁に貼り付けにでもされていたのだろう。当然、水など与えられているはずもなく、彼女は酷い脱水症状を起こしていた。
「水、水! ……あぁもう! さっきの戦いで水筒が吹っ飛んで……なら、村までさっさと運ばないと!!」
私は彼女を背負い、"茜刺し"を杖代わりにして村へ向かって駆け出した。
………………
………
……
えっと……まずはお医者さんの所へ……いや、場所が分からない。なら村長さんの家へ運んで、そこから人を……。
「君、ちょっと来て!!」
「はい!?」
村の入り口、そこには落ち着かない様子で木箱を抱えた如月くんがいた。
「ハァハァ、如月くん……だよね?村長さんの家に、至急お医者さん呼んで貰えますか?」
「はぁ!? それは良いですけど、文奈も貴方も大丈夫なんですか!? 全身血まみれで……」
「あぁ、やっぱりこの子が文奈ちゃんなんですね。一応大丈夫です。私もこんなですが傷は大体治ってます。でも彼女は衰弱が激しくて水が――」
「水なら僕持ってますけど」
再び駆けようとした足が、その言葉にたたらを踏んだ。
「本当ですか?」
「はい、ついでに薬や包帯とかも持ってます。……こんな僕でも、自分なりに何かしたかったので」
彼の言葉に、私は思わず満面の笑みで頷いた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
翌日。
私は村長宅の客間で、村長に事の顛末を報告していた。遺体の回収は村の手で行うこと、文奈と如月くんが再会できたことなどを確認し、私は旅立ちを告げる。
「まず、私は東へ向かって旅を再開しようと思います」
「そうですか……では、お気をつけて。文奈が回復したらまた会いに来て下さい。その時は歓迎致します」
「はい! ありがとうございます!」
そう言って私たちは握手を交わした。
"茜刺し"を背負い、私は村を出る。
「さて、次はどこに行くかなー」
まずは町に降りて服をしたためるか。
すると、後ろから「退治屋さん、待ってー!!」と元気な声が響いた。
振り返ると、大きく手を振って追いかけてくる如月くんの姿があった。
「どうしました? そんなに息を切らして……」
「はぁ、はぁ……。文奈の看病が終わったら貴方が村を出ると聞いてたので……その見送りです」
彼はそう言って笑った。
「……そうですか。ありがとうございます」
「いえいえ……それは僕の台詞です。文奈を救ってくれてありがとうございました。これは……ほんのお礼です」
彼はそう言って、紺色の拵えの脇差しを手渡してきた。
「これは?」
「我が家の家宝です。銘は墜馬。心配せずとも、爺から許可は貰っていますので、使い潰すも質に流すも自由にしてください」
如月くんの話を聞きながら、私は鞘から刀を抜いてみた。
刃渡り約三十センチ。反りは殆ど無く直刀に近い。何より目を引くのはその刀身に走る刃文だ。その波は不規則で、まるで生き物のようにも見えた。
「……これは、凄い。もしや、妖刀ですか?」
「えぇ……まぁそんな所です」
私はそれを鞘に収め、風呂敷へ丁寧に包んだ。
「ありがとうございます! 大切にします!」
「いえ、貴方は文奈の……村の恩人ですから。では、僕はこれで失礼します。本当に、ありがとうございました」
彼は深く一礼すると、来た道を駆けていった。
その背中が見えなくなるまで見送り、私は荷物を担ぎ直す。
手に入れたのは金と、妖刀と、少しの感謝。削った寿命に見合う対価だったかは分からない。
けれど、足取りは昨日よりも少しだけ軽い気がした。




