1.6 僕にできることをするだけ
――どうする、どうするべきなんだ!?
捕食者に睨まれた獲物は動けなくなるのか、それとも生の限りを尽くして抗うのか。消えかけていたはずの生存本能が鼓動を即座に速め、選択を迫ろうと僕の思考を圧迫する。
相手は男子、それも背が高く力では到底敵いそうにない。そうとわかれば、僕が有佐のためにできることはただ一つ。
――僕は秀樹の視線を一身に浴びながら、後ろにいる有佐を遮るように一歩前に出た。
「……甘楽さん?」
有佐が小さな声で僕の名を呼ぶ。
「その、僕たちが秀樹らの邪魔をしないように気遣ってたって、そう考えたりはしなかったの?僕たちは尾行なんてしてないし、たまたまここに来たら秀樹がいたってだけ」
斜め上から振り下ろされる視線を突き返し、声音を少し下げて言葉を返す。しかし秀樹は一切動じた様子を見せなかった。
「ハッ、参道の手前からオレのことを尾行してたくせに」
「えっ、気付いてたの?……いや、そうじゃなくって。ここは神社だよ?誰がいつ来ようが、関係ないでしょ」
「関係ないなら何でもしていいってか?」
「いや、そういう意味じゃ……」
向き合わせていた視線を外してしまい、風音だけが言葉を言い返すことができない僕のためにこの場の間を取り持っている。
とっさに動揺を隠そうとするも意味はなく、秀樹の勢いにのまれるばかり。だけどこのまま押し流され続けるわけにはいかない。この先僕が秀樹にどう思われようが、関係ない。だからせめて、今は矛先が有佐に向かないようになんとかして――
「――ふっ、ふふ。あははっ」
「えっ、なに?どうして急に笑って……」
張り詰めていたはずの空気が、吹き出すようにこぼれた秀樹の笑い声によって一瞬にして張り替わった。目元の鋭い威圧的な印象は嘘のように消えて、僕に話しかけてきた時と同じような胡散臭い目つきで僕を見ている。いや、僕らのことをからかい、愉悦を得ているような目だ。
「はぁ――。疲れた疲れた。やっぱり、柄にもないことをするってのは難しいよな」
そう言って秀樹は体を反らして伸びをした。まるで一仕事を終えた後の解放感に浸るように、憎たらしいほど爽やかな顔つきに満足感を浮かべている。
「……どういうこと?さっきまで、怒ってたんじゃないの?」
「ん?あぁ、別になーんにも思ってないけど。ただ、尾行してるのはわかってるぞって二人に言うときに、どんな顔してる方がより驚いてくれるかなぁって。だから怒ったふりをしてたってだけ」
「その、つまり最初っから……」
「最初っから全て、オレの手のひらの上ってわけ。へへへ」
薄汚い小悪党のような調子で優越感に浸った癇に障る笑い声が聞こえてくる。僕が宿していた警戒心はすぐさま消え失せ、それによってぽっかりと空いた感情の空間に虚無感が流れ込む。
「――はぁ。あぁもう、最悪だ」
心底あきれたからか、あるいは緊張から解放されたからか。僕はやり場のない脱力感を思い切り込めた溜め息を吐き捨てて、両手で顔を覆った。
この男、最悪だ。うなだれる僕を見下ろしながら余計にケラケラと笑ってる。僕が有佐のために懸命に振り絞った自己犠牲の勇気すら無駄で、全部秀樹の思惑通りに僕らは揺さぶられていただけだった。
「最低。ほんっとうに、最低。信じられない。どうしたらこんなことができるの?」
「ひひっ、すまんすまん。いやぁ、それにしてもカッコよかったなぁ、甘楽のかばうような立ち振る舞い。有佐もそう思わなかったか?」
「……その、古谷くん。さすがにちょっとやり過ぎだと思うよ?」
「えっ」
有佐の一言によって、秀樹はスンと冷静になったように目を開いた。
「女の子相手に怖い思いをさせちゃダメ、だからね?そのくらいわかるでしょ」
「あー、それはその、ごめんというか、えーと……ごめんなさい」
「わたしはともかく、甘楽さんにもちゃんと謝ってね」
「……はい」
申し訳程度の申し訳なさを張り付けた顔を、秀樹は僕たちそれぞれに向けてくる。有佐は許したかのような優しい面持ちを返したが、僕は強い訴えの念を込めた視線を秀樹に突き付けた。
絶対に許さない。でも、有佐に叱られて少しうろたえた秀樹の顔が見れてよかった。今はこれを糧に、憤りを少しずつ鎮めていこう。
「あー、それよりもそうだ。二人とも、オレになにか用があるんだろ?」
「え、まぁ。僕はともかく、有佐はそうなんだけど。それよりも、どうしてそのことを?」
「だって、甘楽も有佐も昇降口でオレのことを話しかけたそうに見てたじゃねぇか」
「……」
言葉を失ったのは、僕だけでなく有佐も同じだった。ついさっきも、秀樹は僕たちが尾行するように後を追っていることに気付いていた。距離を考えれば絶対に気付けないほど離れていた訳ではないが、秀樹は一切気付いた素振りを見せることがなかった。昇降口の前でも、参道のときも。
秀樹は勘の鋭さや、視野の広さ、そして気付かないふりをする技術が卓越しているのだろうか。同じ人間なのかと疑いと不気味さを覚えてしまうほど、僕たちの存在はいとも容易く見透かされていたのだった。
「それで、有佐はオレに話があるんだろ?」
「あぁっ、うん。えーと、実行委員会のことについてなんだけど――」
「――あっ、わりぃ。急用を思い出した!それじゃあまたな!」
「えっ、あれっ!?ちょっと、古谷くーんっ!」
有佐の口から実行委員会という言葉を聞いた瞬間、秀樹は脱兎のごとくその場を足早にあとにした。有佐は追いかけようとするも、すでに秀樹は参道を駆け下りていたため呆然とその後ろ姿を立ち尽くして見ることしかできなかった。
「うぅ……。逃げられちゃった」
「はぁ。なんなんだろうね、あいつ。妙に勘が鋭いっていうか、変な奴っていうか」
「あはは、そうだね。まさか、わたしが見ていたことに気付いてただなんて。なんだか超能力者みたい」
「おまけに無駄な演技力があるっていうか、つかみどころがないせいで怖いんだけど」
図書室にいた僕に声をかけてきたときから、秀樹は普通の人間とは何かが違うのかもしれないと漠然と思っていた。だけど、たった今それが確信に変わった。
秀樹は普通の人間じゃない。もしかしたら、今まで素性を隠しながら生きていた過去があるのかもしれない。あのお調子者のような性格も、本当は違うのかもしれない。
秀樹に対する憤りは本人がいなくなったことでなくなり、今は興味だけが存在感を増している。
「でも、あれって本当に演技だったのかなぁ?」
「まぁ、本人が怒ったふりしてたって言ってたんだから、そうなんじゃない?でもそのせいで僕が余計な気疲れをする羽目になったんだけど……」
「あはは……。でもね、前にわたし、古谷くんが一人で歩いているときに何度か顔を見たときがあったの。そのときいつもみたいな優しい顔じゃなくって、さっきみたいな真剣な顔をしてたんだ」
「へぇ、そうなんだ」
普段、人の顔を見ずに人気のない場所にいる僕にとって、それは初めて知る情報だった。
考えてみれば、一人でいるときでもずっと上機嫌な顔をしている人の方が少なそうだけど、不機嫌さにも似た真剣な表情をしている人も少ない気がする。
有佐が言ったことを踏まえると、秀樹は普段からニタニタとしてそうなのに、一人でいるときは不機嫌そうな冷たい表情をしていることになる。今まで読んできた小説の内容と重ね合わせると、大抵こういった人物は性格に裏があるというのがお決まりだ。
――あぁ、どうしよう。余計に秀樹のことが気になって仕方なくなってきた。
この気持ちをどうしようか。そう思った瞬間、
「あ、そうだ。――ねぇ、有佐」
突発的なひらめきが僕の脳内に浮かび上がり、僕は一歩前に有佐の方へと踏み込んだ。
「うん、どうしたの?甘楽さん」
「さっきの仕返しとしてさ、秀樹の生態観察記録みたいなのをしてみようよ。へへっ、どうかな?面白そうじゃない?」
多分、今の僕は悪い顔をしているかもしれない。でもこういう悪だくみを考えているときが一番楽しいのだから仕方ない。
悪事の提案を突然された有佐は、一瞬固まったように僕を見つめていた。――だが、その口角は次第に上へと吊り上がっていった。