第4話 僕のいけないところ
ゆっくりと、挙動不審にならないように、目立たないように。昇降口にはほとんど人がいないけど、だからこそ僕が目立つかもしれない。自意識を過剰に保って警戒心を宿している方が、今の僕にとってかえって気楽だった。
今日の最後の授業が終わってから少し時間が経っていたため、あちらこちらから部活動に勤しむ声がする。校舎に近い体育館からは、室内シューズが床と擦れる音、そしてボールらしき何かが打ち付けられる連続音が聞こえてくる。遠くからは、甲高い金属音と談笑する声が聞こえてくる。
もしかしたら。いや、僕が僕でなく私だったら、きっとこの音のどれかに混ざっていたはず。スポーツは得意だし、声を張り上げることもできる。
運動だったり、勉強だったり、ノートの端に絵を描いたり、誰に見せるつもりもない文章を書いてみたり、そういった個の時間が大好きだった。だって、これらは僕のことを茶化してこないし、なにより性別がない。
どんなに僕が気持ちを傾け取り組もうとも、これらはいつまでも透明であり続けてくれる。変わることなく、ただ僕の思うがままに付き添ってくれる。
まだ履きなれないローファーを履いて、帰宅後のことを薄っすらと考えながら外に出ようとする。すると離れたところから聞こえる女子たちの話声の中に、さっき聞いたばかりの声が混じっていることに気付いた。
それは秀樹の声だった。僕に話しかけたときと同じように、調子よさげな声でケラケラと笑っている。
気付けば僕は物陰に隠れて、動けなくなってしまっていた。もし秀樹に見つかったら、声をかけられてしまうかもしれない。そうなると、一緒にいる女子たちが余計なことを考えてしまうかもしれない。
そういったことを恐れて顔だけを覗かせていると、三人の女子と並んで歩く秀樹の姿が見えた。三人はそれぞれ、美人で、可愛くて、愛嬌があって、秀樹の隣を歩くのに十分過ぎるほどの顔つきだった。集まるべくして集まった、まさにこの言葉通りの集団だ。
「……は、ははっ」
気付いた時には、僕の口から乾いた笑い声が漏れ出ていた。込み上げたのは憤りなのか、羨望なのか、軽蔑なのか、それともその全てか。全身に鈍い脱力感があることだけが、確かだった。
――あー、やっぱり。秀樹が僕に話しかけてきたのは、僕が女だからなのかもしれない。
一度でもこのような考えが頭に過ってしまうと、途端に鮮烈な悔しさが震えとなって表れてしまう。僕の後ろに校舎ではなく、どこまでも続く舗装された道があれば、今すぐローファーを脱ぎ捨て裸足で駆けだしていた。でも、そんなことはできないから今の僕は震えている。
――もう、図書室に行くのはやめよう。
やっぱり、面白い人は僕自身の目で見定めて、僕から接触を図らないといけないのかもしれない。そうでなければ、相手がどんな理由で僕に接触してきたかがわからない。
透明かどうかの判別は、実体を伴うものしか認識できない僕の目には難しいものだった。と、今日の日記帳に書く文が決まり、ただ秀樹らが通り過ぎていくのを待つ。
――だが、秀樹らの動向を目で追っているのは、僕一人だけではなかった。
「うぅ……」
怯んだ子犬の声のような、か細い声が近くから聞こえてくる。
意識が秀樹らに傾き過ぎていたせいで、僕は昇降口の柱を挟んで隣にいた女子の存在に気付かなかった。それは相手も同じようで、僕が見つめようとも気付く素振りを見せない。
偶然にも、その女子は僕と同じクラスの生徒だった。名前は『有佐途乃香』。この子は愛嬌のある可愛い子だと、僕の中で勝手にそう位置付けられている。
平均よりも少し高い身長に、男子が好きそうな肉付きをしながらもすらっとしたシルエット、そして明るい髪色のボブヘア。柔らかな印象のある目つきと丸顔の相乗効果によって、クラスでは男女関係なく人気のある子だ。
でも、どこか人と話すことに慣れていないような印象を受ける。いつも張り付けたような笑顔を浮かべて、皆が望む反応を実行している。もしかしたら、前にいた学校ではあまり人と話さないタイプだったのかもしれない。
そんな有佐は、今も秀樹に声をかけようか迷っている。けど、声をかけられずにいればいるほど秀樹は遠のいていく。
気付けば僕は、そっと有佐の隣に立っていた。
「話しかけないの?」
「ひゃっ!?わっ、あぁっ、びっくりしたぁ。……えーと」
「ふふっ、ごめんごめん。驚かせちゃって。同じクラスの甘楽だよ」
小さく飛び跳ねた有佐は、突如隣に出現した僕を見て戸惑いを露わにしていた。けど、戸惑っているのは何も驚いただけじゃないと思う。誰ともかかわりを持たないはずの僕が話しかけてきたという事実が、少なからず混じっているはずだ。
僕は有佐の大きな目を見て話を続けた。
「もしかして、僕が話しかけてきたことに驚いてるでしょ。いつもクラスじゃ誰とも話さないからね」
「えーと……その、うん。ちょっと、驚いたっていうか、まだうまく状況がのみこめてなくて……」
僕が目線を合わせようとしても、有佐は視線を泳がせてしまい、動揺を隠せずにいた。こうなるのは仕方のないことだ。僕のいるクラスじゃ、甘楽このはという人間はかかわり方がわからない難解な存在なのだから。
話しかけようにも会話が続かず、自分自身のことを一切語らない。ミステリアスを通り越して不気味な存在というのが、一般的な僕の評価だ。そんな存在に突然声をかけられたら、誰だって驚きを隠せないはず。
「……その、どうして甘楽さんはわたしに声をかけてくれたの?」
その質問には、警戒の意が少なからず込められている気がした。だから僕は無害な存在であることを、声音を和らげることで伝えようとする。
「あぁ、別に大した理由はないよ。ただ、さっきから秀樹のことをずっと見てたから、話しかけたいのかなって」
「あぁ、そういうことだったんだ。その、話しかけようにも古谷くんのまわりに女の子がいっぱいいるから、全然話しかけられなくって……。って、あれっ!?いなくなっちゃった!どこに行ったんだろう……うぅ」
ほんの十数秒間目を離した間に、秀樹たちはどこかへと姿をくらませてしまった。恐らく第一校舎の隣の特別棟に入っていったはずだけど、そこまで追いかけるのは気が引ける。
有佐は形の整った眉を寄せて、秀樹たちがいなくなった方を眺めていた。
「ねぇ、どうして秀樹に話しかけようとしてたの?」
「えーと、その、話すと少し長くなるんだけど……」
「いいよいいよ。僕に聞かせて」
腰に片手を当てながら、有佐の目を真っ直ぐ見上げる。すると有佐は少しの逡巡の後、秀樹に声をかけようとした理由を語ってくれた。
「――ってことがあってね。だから漫画研究部にいる古谷くんにお願いしてみようかなぁって」
「あー、そういうことだったんだね」
有佐から聞いた話を一度、頭の中で整理する。
どうやら有佐は新聞部に所属しているだけではなく、実行委員会という学校行事を取り仕切る組織にも所属しているらしい。そしてその実行委員会というものは常時人不足とのことで、人手を探している最中だという。
「それにしてもひどいね。新聞部は実行委員会に強制参加だなんて」
「うん。わたし、人に話しかけるのが苦手で、でも古谷くんなら大丈夫かなって思ったけど……」
「ふーん。でもさ、どうして男子の秀樹なの?女子に声をかけるのじゃダメなの?」
人に話しかけるのが苦手なら、異性に話しかける方がよっぽど難しいように思える。すると有佐は僕から視線を逸らし、いたたまれなさを含んだぎこちない笑い声をこぼしていた。
「その、わたし、女の子が少し、苦手なんだよね」
「…………」
理由が予想の真後ろ側のものだったあまり、かける言葉が見つからず僕は何も言うことができない。そして、僕は有佐が苦手とする存在そのものであった。また一つ、僕のおかしなところがじくじくと存在感を増していく。
「あぁっ、でも、甘楽さんのことを苦手だって言ってるんじゃないんだよ!甘楽さんはわたしのことを気にかけてくれたから」
「うん、わかってるよ。でも女子が苦手なのはきっと、男子が関係してるんでしょ?例えばそうだね……。とある男子のことが好きな女子がいて、でもその男子は有佐のことが好きで。そしてその女子は有佐の存在を憎んでいた、とか」
「……」
否定もせず、肯定もすることなく、有佐はただ僕の方をパッと振り向いて見ていた。きっと、僕が言ったたとえ話の中に、かつて有佐自身が経験したことがあったのかもしれない。僕だってきっと、過去の嫌な思い出を誰かにほのめかされたら同じように言葉が出てこないはず。
「……甘楽さんは、性別が嫌いなんだよね?」
「うん。大っ嫌い」
「それは、どうして?」
と、ついさっきも秀樹から同じようなことを聞かれたばかりだった。けど、あの時とは違って今の僕には言葉をためらう必要もなかった。
「……そうだね。僕にとっての大好きだっていう言葉の認識が、普通のものと違ったせい、かな」
「……えーと?」
頭を少し傾けて、有佐は可愛い困り顔を僕に披露してくれた。けど、こうなるのも無理はない。直接的な表現を避けてしまうのは、僕に物書きの趣味があって、あえてぼやかした言い方をする方が趣があると思い込んでるせい。これもまた、僕のおかしなところの一つだった。
「ねぇ、有佐。この後少し、僕と散歩しない?――もう少しだけ、有佐と話してみたいなって思ってて」
と、僕は有佐の細い指の先をそっとつまんで語りかけた。僕は君を脅かす存在じゃないと、その心の現れを声音と視線に被せて、僕の体温に預けて有佐に伝えた。
――そう、これが僕のいけないところだった。普通では抱くことのない認識を抱いてしまった人に、興味が尽きないところ。そして、どんな手段を使ってでもその人の内側を知りたいと思ってしまうところ。