第2話 僕の性別がなくなればいいのに
もし、僕が男だったら、女になりたいと思うのだろうか。現に僕は女である自分が嫌いだった。いや、性別のない人間に生まれてきたかったと言うべきなんだろうか。
それか恋愛関係に発展しなさそうな知的生命体になりたい。言葉を話せる猫とかでもいい。とにかく僕という存在が人間との恋愛に発展しないようであればなんでもいい。
僕は他人よりも容姿や声が優れている自覚がある。実際、そのせいで以前は苦労した。僕がひとたび男子に話しかければ、周りがすぐに冷やかしてくる。一部の男子は僕と話しているだけでもじもじしてしまうから余計に。
ただ単純に、その人の内側に興味があるから話しかけているだけなのに、相手が異性というだけで余計な要素がいとも容易く混じってしまう。だから僕は性別が大嫌いなんだ。
でも、残念なことに僕は人間だ。人間は一人だけじゃ子孫を残せない生物であり、男と女という性別がある。でも、男と女で分かれる必要はあったのだろうか?僕は何億年の進化の末に生まれてきた微塵のような存在なのに、性別という概念を作り出した先祖を酷く恨んでいる。
僕の興味が惹かれる人間に共通していることは、性別があるということだ。当然のことだから、普通の人はこのことを共通点だと考えもしない。でも、僕にとってはこの共通点が煩わしい点でもあったからこそ、過剰な意識を傾けることになっている。
久々に僕にあった知り合いは、きっとすぐに僕の変化に気づくことができるはずだ。自慢であり僕の象徴とも呼べた長い髪をバッサリと切ったし、そもそも中学生のころまでは、自分のことを「私」と言っていたのだから。
幸いなことに、この高校には地元の同級生がほとんどいなかった。いたとしても、話したことのない人ばかりだった。だから心置きなくなりたい自分をこの身に宿して生きていけるし、大勢と関わらない環境づくりをすることができた。
「甘楽さん、もしよければ放課後――」
女子グループのリーダー格の子が、話しかけてくる。だが僕は表情を変えずに首を横に振った。
「甘楽さん、それなに読んでるの――」
隣の席の男子が声をかけてくる。だが僕はタイトルを言葉にせず、表紙に指をさして伝えた。
「甘楽さんのウルフカット、すっごく似合って――」
掃除の最中、他の人と会話をしていたはずの女子が僕を巻き込むように声をかけてくる。だが僕は視線だけを送って、軽く頭を下げて遠くを見つめた。
部活に所属しなかったり、カラオケの誘いを断ったり、会話のドッヂボール(僕はひたすら避ける側)をしてみたり。相手が自分に興味をなくすようにと、ひたすら透明な存在であることに努めた。
結果として、僕は見事に目的を達成することができた。誰も僕に挨拶をしてこないし、普段図書室にいる僕に会いに来る人もいないし、好奇の目で見てくることもなくなった。透明だ。僕はやっと、楽しく自由に生きるための準備が整ったと言えるだろう。
誰も僕のタイミング以外で接触してこない、最高の環境がようやく整ったんだ。
「なぁ、甘楽。オレの目には、お前が一人でいるのには理由があると見た。違うか?」
「えっ――」
整えたものをかき乱すことは容易なことである。当たり前のことに気付くまで、そう時間はかからなかった。
僕は今、どんな顔を相手に向けているのだろうか。嫌な顔なのか、それとも驚いた顔なのか、自分でもよくわからない。それよりも、初対面でいきなりお前と言ってくるのはどうなんだろうか。
人のいない放課後の図書室の中、机を指で小突きながら僕に声をかけてきたのは、よりにもよってクラスの中心的存在、しかも男子だった。
まるでアニメのセリフのような言葉をおちゃらけた調子で言ってきたこの人の名前は確か……、
「あぁ、突然声かけたから驚かせちまったか?それとも、オレの名前をまだ覚えてねぇんか?」
「……いや、クラスの全員分覚えてるけど。君の名前は古谷秀樹、でしょ?」
僕がそう言うと、古谷は一瞬驚いたような表情を見せて、僕の隣の席に遠慮もなく腰を掛けた。背が高い男子だ、それに顔もいい。僕が嫌いな要素をこれでもかと詰め込んでる。
「正解だ……。ハッ、やっぱり、甘楽が孤独を選んでいるのは訳アリで正解だな」
「その、どうして?」
古谷は指を一本立てて続けた。
「うーん、そうだなぁ。まず第一に、甘楽は声をかけたオレのことを邪険に扱わなかった。それはオレが言ったことが間違ってなかったからじゃないんか?」
「……うん」
『沈黙は肯定』という言葉が脳裏に過り、僕は認めたくなかったが古谷に正解を伝えた。
古谷はもう一本の指を立てた。
「そして、孤独を選んだ人間は特別な理由がなけりゃ、クラスの全員の名前を覚えるってことは普通しないはずだぜ」
長い脚を組み、整ったきれいな顔に溢れんばかりの自信を浮かべて、古谷は自身の推測を僕に伝えた。
僕は思わず古谷の目を見つめてしまった。正直言って、古谷という人間がここまで考えを巡らすことができる人間だとは思わなかった。偏見だけど、こういうチャラチャラした雰囲気の人は頭が悪いイメージがある。まぁ、この学校は頭がいい人じゃないと入れないのだけど。
心の内を見透かされてしまった悔しさと同時に、覚えたことのない高揚感が腹の底から湧いていた。
「……その、古谷が僕に話しかけてきた目的を教えてもらってもいいかな?」
「ん、いいけど。そうだその前に。オレのことは古谷じゃなくて秀樹って呼んでくれ。この学校に双子の妹がいるからさ」
僕は首を縦に振って了解の意を示す。確かに双子を名字で呼んでいるとややこしいことになりかねない。
「それにしても、甘楽って自分のことを僕って言うんだ。初めて知った」
「あぁ、まぁ、うん」
秀樹に余計な詮索をされないように、視線を外して小声で返す。
今のところ、この学校で僕が僕と言っているのは秀樹しか知らないはず。自分のことを語らなければ、主語が僕になることはないのだから。
「女子が僕、かぁ。ははっ、いいね。なんだか物語の登場人物みたいでカッコいい」
「そう?てっきり、変だなって言ってくるのかと……って、何で笑ってるの?」
すると秀樹は一間を置いて小刻みに笑い出した。
「いやぁ、すまんすまん。甘楽って意外とそういうところを気にするんだなって思ったらつい」
「……はぁ。そういうのいいから、僕に話しかけてきた目的を教えて」
僕は気恥ずかしさを誤魔化すように、低い声で秀樹に尋ねた。すると秀樹は僕から視線を外して話を続けた。
「まぁ、声をかけたってことに大した理由はないんさ。ただ、オレと仲が良かったやつと今の甘楽の状況があまりにも似すぎているっていうか、気になったから声をかけただけ」
「……ふーん」
秀樹の友人と、今の僕の状況が似ているから声をかけた。よくわかるようで、わからない理由だった。どんな言葉を返そうか考えていると、図書室内に満ちていた静寂が余計に密度を増しているように思えていやだった。
「ねぇ。その友達は、男子だった?それとも、女子だった?」
僕が時間をかけてひねり出した言葉は、意味不明なもの。でも、秀樹は気にする素振りを見せることはなかった。
「男子だぜ。ハッ、群馬で一番頭がよかったのに、誰もその実力を知らない不思議なやつだ」
と、秀樹はどこかをぼんやりと眺めながら自慢げに語った。声の調子は明るかったものの、どこか寂しさが混じっている。
秀樹の友達は同性の男子であるという点に羨ましさを覚えてしまったのは、きっと僕の中でまだ過去が消化しきれていないから。相手が同性というだけで、僕が抱えるおかしなところはほとんど消えてなくなる。だから羨ましかった。
「やっぱり、こういう質問をしてくるってことは、甘楽は本当に性別が嫌いなんだな。嘘じゃないんだ」
「……うん」
それは低く、落ち着きのある声だった。僕のおかしなところを否定せず、単なる事実として認識してくれている何よりの証拠だった。
「どうして?」
「それは……」
ここまで言いかけておいて、途端に言葉がつっかえてしまった。まだ秀樹は僕のことを知らないし、僕も秀樹のことを知らない。だから言っていいのかわからない。しかも秀樹は男子だ。本当は違った目的で僕に声をかけてきたかもしれない。
すると秀樹は背もたれに背を預けて、顔だけを僕の方に向けてきた。
「ハッ、得体の知れない人間に話すことができないってことはよーくわかった。そんじゃ、オレは部活に戻るとするわ」
「えっ、あぁ、もう行っちゃうんだ」
突然現れたと思ったら、あっという間に帰ろうとするものだから、つい思ってもいない言葉が口から漏れ出てしまった。けど幸いなことに、秀樹は僕の言葉を気に留めていないのか、席を立ち上がって出入り口の方へと歩いていった。
とぼとぼと、ゆっくり歩く秀樹の後姿を目で追ってしまっていた。
「またここに来るから」
「……うん」
後ろを振り返らず、秀樹は軽く手を振って図書室を出ていった。スライド式の扉が閉じてもなお、僕は秀樹がいなくなっていった方を見つめている。
この数分の出来事が、今も頭の中でうまく整理することができていない。僕に興味があるから秀樹は話しかけてきたはずなのに、あっさりと帰ってしまった。話しかけてきた理由を聞き出せたものの、真意がよくわからなかったせいで謎が深まるばかり。
でも、もしかしたら秀樹は僕が面白いと思える人間なのかもしれない。まだ確定していないけど。
僕が人を寄せ付けないためにしていた行為が、かえって大きな釣り針となって秀樹が引っかかってしまった。本当は、僕自身の目で面白い人を見つけて、その人が隠している面白さを僕と二人きりの時に見せてくれるようにしたかったのに。誰もいないところで、僕だけに見せてほしいのに。
けど、この状況は僕が望んでいたものに近しいのかもしれない。ここは基本的に誰も来ないし、秀樹は僕のことを冷やかしに来ている訳ではなさそうだから。