ゆっくり、きれいに
コップを手に取る。そのはずだった。
「……あれ?」
指先は空をつかんだ。テーブルの上にあるはずのコップまで、どうやって手を伸ばせばいいのか、わからない。視界にはちゃんと見えているのに、距離の感覚がうまくつかめない。手をまっすぐに伸ばしたつもりでも、空中をさまよって、ようやくぶつかるようにしてコップに触れる。
「またか……」
深呼吸一つ。コップを両手で包むようにして持ち上げ、口元へ――と、思った瞬間、ガツン。縁が鼻を打った。
「イッ……」
痛みよりも、自分への情けなさで顔をしかめる。
春の終わり、小学五年の大地は、自分の身体が思うように動かせないことに苛立っていた。字を書くのも遅いし、球技も苦手。手を伸ばしてモノをつかむことすら、なぜかいつもズレてしまう。
母は「大地には大地のペースがあるんだよ」と言ってくれるが、クラスの友達が「大地って、スローだよなあ」と笑う声が耳に残っていた。
ある日、放課後に通うことになった「放課後デイサービス」の教室で、大地は一人の女性に出会った。
「こんにちは、大地くん。私は香っていいます。今日は一緒に“切り絵”をやってみようか」
香は柔らかく微笑みながら、一枚の色紙とハサミを差し出してきた。
「……切り絵?」
「うん。線に沿って、ゆっくり切っていくだけ。難しくないよ。集中するって、ちょっと気持ちいいかもしれないよ」
大地はハサミを持つのが少し苦手だった。力加減がわからず、紙がぐしゃっとなったり、線からはみ出してしまったりする。けれど香は、そんなことにはまったく動じない様子で、「ゆっくり、きれいに切るのがコツだよ」と、やさしく促してくれた。
最初の数回、大地はやっぱり線をはみ出した。カーブのところで切れすぎたり、逆に止まってしまったりする。でも香は言った。
「線からはみ出てもいいんだよ。だって、紙は逃げないから。やり直したいときは、また始めたらいいだけ」
その言葉が少し胸に残って、次の週、大地は自分から「またやってみてもいい?」と声をかけた。
香はうれしそうに笑い、今回は「自分で選んでいいよ」と何枚かの図案を並べてくれた。大地はその中から、ふわふわした綿毛のようなタンポポの図案を選んだ。
切り絵を進めるうちに、大地の指先は少しずつ確かさを帯びていった。切る順番を考えるようになり、手の動きと視線の一致に気づき始める。うまくいかない日はあったが、香は「うまくいかないことが大事なんだよ」と言った。
「失敗するってことは、脳が試してるってことだから。大地くんの頭の中の“地図”が、ちょっとずつ広がっていってるんだよ」
切り絵をやるたびに、「自分の手がどこにあるか」「どう動かすとどうなるか」を確かめるような感覚が生まれていった。視線と動きが、少しずつ合ってきた。
ある日、大地はふと気づいた。
朝、台所で。いつもと同じようにコップを取ろうとしたときだった。
「……一発でつかめた?」
驚きと同時に、小さな達成感が胸に灯った。
それからの大地は、放課後の切り絵にどんどん前向きになっていった。
次に挑戦したのは、複雑な羽根を持つ蝶の図案だった。カーブと細い線が絡み合うその図案に、大地は苦戦した。だが、紙を回す角度、ハサミを当てる位置を香と一緒に試行錯誤しながら、少しずつ完成に近づけていった。
「ゆっくりでいい。焦らないで」と香がそっと声をかける。
その声に、大地の呼吸が整い、手の震えが少し和らいだ。
数週間後、地域の福祉施設で開かれる切り絵展に出品してみないかと香が提案してくれた。大地は「えっ」と驚いたものの、心のどこかで少しうれしかった。
選んだ作品は、秋の風景。紅葉した木々と、空を渡る鳥たち。
「大地くんの切り絵、すごくやさしい感じがするんだよ」と香が言った。
展示会当日。自分の名前と共に並ぶ作品を見たとき、大地は不思議な気持ちになった。
(これ……ぼくが作ったんだ)
多くの人が、自分の切り絵の前で足を止めていた。
「色づかいがきれい」「細かいところまで丁寧だね」
そんな言葉が、大地の耳にふわりと届いた。
学校でも、少しずつ変化が現れた。図工の時間、ハサミをうまく使えるようになったと先生が褒めてくれた。体育では、ボールをうまく受け止めることができた。クラスメイトが、「お、ナイスキャッチ!」と声をかけてくれた。
ある日、母と夕食をとっていると、母がふとつぶやいた。
「最近、大地の手つき、すごく自然になったよね」
大地は照れくさそうに笑った。
「切り絵、楽しいんだ。なんか、やってると、自分の手がどこにあるか、わかるようになってきた気がする」
母は優しくうなずいた。
「うん、大地らしくて、いいと思うよ」
ある日、香に聞かれた。
「将来、やってみたいことってある?」
大地は少し考えてから答えた。
「うーん……なんか、手を使って作る仕事とか……いいかも。図案を考えたり、紙でいろいろ作ったりするの、けっこう好き」
「それ、すごく素敵だと思う。大地くんなら、きっと素敵なものが作れるよ」
そう言われて、大地の胸に、小さな灯がともった。
冬の空気が少しずつ近づく中、大地は今日も教室で紙と向き合っている。
ゆっくり、きれいに。
その一手一手が、自分だけの地図を描いていくのだった。