精霊様の加護 3
*たくさんある作品の中から見つけていただいて、お読みいただきありがとうございます*
私が前世の記憶を思い出したきっかけは、領地に滞在中に領館の敷地内の森にある湖に体を滑らせて落ちたせいだった。
あの日、私がどうやって湖から助け出されたのかは誰も知らないらしい。一緒に湖に来ていたエディお兄様はまだ幼く助け出せるはずもなかった。慌てたお兄様は領館へと戻り侍従達を連れて戻って来たそうだ。
そして、湖に辿り着くまでの間に私は湖から引き上げられていたと聞いた。しかも、私は湖のそばではなく体を横たえても痛くない下草の生えた、柔らかな場所に寝かされていた、とも。
近くに誰かがいたような気配もなく、私を助けてくれた人がいたとしても、私が横たわっていた場所は濡れていたけれど、それ以外の場所は全く濡れていなかったとも聞いた。一体どういうことなのか、全く分からないまま私が湖に落ちた、という事実だけしか分からない状況だったそうだ。
私が湖に落ちたのは六歳の夏だった。そして、私も次の誕生日を迎えれば九歳になる。前世なら小学校三年生という年齢だ。まだ九歳。けれど、この世界では間違いなく九歳という年齢は前世の頃よりも多くの事を貴族は学んでいなくてはいけない時期に入っている。特に伯爵位以上の高位貴族なら、だ。
私は前世の記憶を思い出したことをきっかけに、日記を付けたいと思うようになった。理由は前世の記憶を思い出せた分をノートに書いておきたいと思ったからだ。前世の私をどうしてなのか覚えておかなくてはいけない気がしたから、が正しいのだけれど。
前世の記憶を思い出すまでは学ぶことの意義を理解出来なくて、ただ教えられることを単純に分かるから、出来るから、覚えているだけで、面白いと感じたこともなかったし学びたいという気持ちもあまりなかった。けれど、前世の記憶を思い出したことで、学ぶ意義を理解出来たことや前世で学んだこととの比較が出来ること、また家庭教師から教わること一つ一つが楽しく感じられるようになった。
そのおかげで、日々の学びがとても充実するようになって、家庭教師陣からの評価が「意欲的になり、以前よりも習得することも習熟することも早くなった」とか「以前からも理解度は高いものの、先見性が目立つようになり理解度が更に増した」とか、とにかく褒められることが増えていった。
そうして日記はモンフレール王国や隣国で使われている公用語で書く物と、日本語で書くための日記帳も入手した。日本語で書いておけば、私の記憶のことも誰に知られることもなく安全に残せる。だからこの世界の、このモンフレール王国の公用語もしっかり覚えるのと同時に日本語を思い出して、書くようになった。
些細なこと…例えば、あやめさんの幼い頃にお姉様と大喧嘩をしてしまって、咄嗟に家を飛び出そうとしたのはいいけれど、玄関の扉を開けようとしたところでお母様に襟を掴まれてしまって、家を出られなかったこと、ついでに言えば首が絞まって一瞬意識が飛んだこととか、他にも出かけているお姉様の部屋に入って本を借りようとしたら、借りた本の間に栞代わりに「シャシン」というものが挟まれていたこと。「シャシン」にはあの時期によく見かけたお姉様と同じ学校の方と二人仲良く写し出されていて…実は後にその人とは別れてしまったことや、最終的には時間を置いて、二人がまた付き合うことになってお義兄様になられたこととか、そういう小さく笑ってしまえるようなことを書くことが多かった。
あやめさんという女性は小さなことを楽しく思い出すことが上手な人のようで、どの思い出もホッとするような、和むようなものが多かった。ツラい体験ですら、振り返ればいい経験だったと語ってしまえるくらいには、本当の意味で苦労をしていない人、とも言えるのかもしれない。
§
私が湖に落ちてから三年が経ったこともあり、また領地へ戻ることになった。私の気持ちも湖への恐怖や湖に落ちた事自体への恐怖などを考えてくれた上でのことだ。
お父様もお母様も勿論お兄様達も一緒で、家族揃っての領地へ戻る機会というのでどこか楽し気に準備をしている。
子供達だけ夏の長い期間を領地へ戻るということは毎年のようにあったけれど、今はシトリンお兄様が魔法学院に入学されたこともあり、お父様とお母様が時間を取って家族水入らずでラロック領で過ごすと仰ったからだ。二年後にはエディお兄様も学院に入学予定なのを考えると、王都のお屋敷でお兄様達と一緒に過ごす時間も減るから、この夏だけでもゆっくりしたいね、ということらしい。
正直に言うと、私自身は湖に落ちた記憶は全くない。むしろあやめさんが病室で息を引き取るさいの記憶と重なり過ぎて、そちらの印象が強過ぎて、あの日の記憶が消えてしまったらしい。きっと水の中で呼吸が上手くできず苦しかったことと、あやめさんの体がゆっくりと呼吸をやめていく過程が似ていたのだと思う。そのことしか記憶にないのだから、湖を見たはずなのにその事そのものも記憶にない。
そのせいなのか湖を見たはずの私は、領地の湖を見たことのないあやめさんと同様に記憶にない湖に対して恐怖は全くなくて、だから久しぶりに戻るラロック領や領館が楽しみなのだけれど、それを伝えるのはあやめさんのことを話すことにもなってしまうから、だから上手く説明も出来なくて誰にも話せていなかった。
ラロック領に帰る前に、お父様から私付きの専属護衛兼従者という立場の少年と顔合わせがあった。
お父様が私の部屋を訪ねてきたことで、私も初めて知ることとなった。
「アイリス、ちょっといいかい? 紹介したい子がいるんだ」
「はい、お父様」
私にそう声を掛けた後で、お父様は背後に控えている人物に声を掛けた。
「おいで」
「はい、旦那様」
私に紹介したい人間…誰? お父様の背後から姿を現したのは、シトリンお兄様より背の高い少年だった。黒にシルバーのメッシュが左側頭部に入った髪に、やはり黒にシルバーが入った不思議な瞳を持つ少年。日本人だったあやめさんの記憶がある私にとっては、とても親しみやすい色合いだった。
「名前はアシュリーだ。今日からアイリスの護衛兼従者になったから」
「え? 護衛…兼、従者? お父様、どういう…」
うん? どうして護衛? きっと私の顔に思い切り出てたんだろうな。
「アイリスも将来的にはシトリンやエディのように魔法学院に入学する予定だ。学院には従者を連れていくのが当たり前なんだよ。だから、その準備も兼ねてかな。アシュリーもちょうどシトリンと同じく魔法学院に入学したんだよ。ただ、平民だから平民学舎での学びにはなるが、アイリスと一緒に貴族学舎にも通うことになるから、先に学院のことをアシュリーには慣れてもらう必要もあって通ってもらってるよ。だからアシュリーがアイリスの傍にいるのはしばらくは夕方から夜だけになるけど、そこは悪いね」
「…そういう理由だったのですね。お父様、分かりましたわ。お父様が付けてくださった人だから、きっと優秀なのでしょう?」
「そうだよ、魔法制御を誰かから学ぶ機会がなかったそうだが、私と初めて会った時には既に出来ていたからね。だから、アイリスの護衛にもきっと大丈夫だと思って迷わずスカウトしてしまったよ」
「そんなに優秀なら私も安心ですね」
「そこは大丈夫だよ。アシュリーは真面目だしとてもいい子だ。アイリスも安心して守ってもらいなさい」
「はい!」
お父様からアシュリーのことを教えてもらえば、私もそれほどの優秀な人物なら、きっとこの先心強い相手になるのだろうと思えた。
「それじゃ、私はもう行くよ。後は二人でよく話しなさい」
「はい」
そうして、部屋から出ていくお父様を見送った私。そしてお父様に頭を下げて見送るアシュリー。
取り残されたような気分になりながらも、アシュリーと二人になったところで意思の疎通を取らなくちゃ、と思った私はアシュリーに向き直り、改めて挨拶をしたのだった。
「あなた、アシュリーと言うのね。私はアイリス・ラロック。これからよろしくね」
「はい、よろしくお願いいたします」
「ところで、アシュリーは今何歳なの?」
「僕は十四歳ですね。アイリスお嬢様よりも五歳上になります」
「まぁ! シトリンお兄様よりも背が高いと思ったけれど、当然だったのね。まるでお兄様がもう一人増えたようだわ」
「え!? とんでもありません。僕などシトリン様やエドモンド様に並ぶなんてありえません!!」
「そうかしら? これからはお兄様達よりも一緒に過ごすことになるのでしょう? だったら、やっぱりもう一人のお兄様みたいなものだと思うのよね。私が間違った時にはちゃんと叱って欲しいもの」
「僕もまだ勉強しているところなので、お嬢様をいつもお助け出来るとは限りませんが…出来る限り、助言等出来るよう努力致します」
「是非お願いね」
狼狽えてあたふたする様子が少し可愛いな、と思いながらアシュリーと話をしていた。
年上とは言っても、まだ少年だ。体はもう青年と言ってもいいくらいには見えたけれど、よく見れば線も細いし完全には大人になりきれていないのが分かった。
(アシュリーはきっとモテる人なんだろうなぁ)
全く関係ない感想を持ちながら、アシュリーと話をしていた。実際話をしていて、とても話し易くて、一緒にいて楽な人だとも感じていた。だから、仲良くなれるといいな。そんなふうに思う私だった。




