リリカ
サーキスたちの言葉に驚いたリリカは病院から逃げ出していた。
彼女はとぼとぼと街中を歩いていた。良く晴れた昼下がりで人々が道を大勢行き交い、街は活気がみなぎっている。
それと正反対にリリカの気持ちは沈んでいた。
「自分が癌だなんて…」
原発性心臓腫瘍。別名、心臓癌。
心臓は筋肉が伸縮したり、血液を絶えず流し、温度も高いため癌細胞が取り付く島もない。それでも極めてまれだが、心臓に癌はできる。珍しい病気で二千人に一人以下の確率。
看護師の格好のまま着の身着のまま外に出たリリカは道行く人々にチラチラと顔を見られる。
もしかしたら体のどこからか転移して心臓が癌になった悪性心臓腫瘍かもしれない。その場合、発症元を探す必要があるが、心臓は体中に血液を送っているため、癌細胞はあっという間に体全体に広がる。現実的な話、発症元など探せるわけがないし、探しても無駄だ。そして心臓癌の五年生存率はゼロパーセント。
対抗策として手術と化学療法があるが治療法は確立していない。パディの国でもどうにもならないと聞いていた。
どう頑張っても自分は死ぬ。
(他人の珍しい病気に興味本位で勉強になるとか思っていたけど、自分がなってみたらこんな感じなんだ! あたしは患者さんに寄り添ってるって思ってたけど、そうじゃなかった! あたしは自分本位な人間だった。自分は最低な人間だ…。面白くない…。それにもう透視されるのも不愉快よ! 検査のためにもう体の中を視られたくない!)
歩いているとふと本屋が目に入った。自分が毎月買っている雑誌が置いてある。そこで気がついた。自分が今日死んでしまえば、今追っている物語の続きを読むことができなくなるのだ。当たり前の事実を確認してリリカは瞳に小さな涙をためる。
ファナの子供も見ることもできない。人生の続きも見られない。死とはそういう、未来がなくなるものだった。
花壇の前の道端で転んで泣いている子供がいた。自分の心の痛みと比べたらかすり傷にもならない。リリカの気持ちは無意識のうちにやさぐれて行く。
その子供の母親が頭をなでた。羨ましかった。自分もお母さんになりたかった。そんな人生もあったのだと涙を流した。
道行く人々の笑顔が癇に障る。世界が一気に濁って見えるようになった。
リリカはそのまま歩き続けて夕方まで家に帰らなかった。
彼女は病院に帰ると足早に自室に入った。
何をしても怒りと悲しみが止まらない。自分があとわずかしか生きられない世界に復讐したくなる。
心の中に暗黒がうずまく。何かにあたらないと気が済まない。
リリカは花が飾られた花瓶を持ち上げると、床に叩きつけようとした。
「う…」
ギリギリのところでとどまる。花に罪はない。これを割ってしまえば破壊の衝動を抑えられなくなるところだった。部屋の中に目につくタンスも服もベッドも本棚もめちゃくちゃにするところだ。
リリカは花瓶を棚の上に戻した。
今まで患者の気持ちをわかったつもりでいた。患者たちと心を通わせていたつもりだった。が、実際は全くわかっていなかった。
健康な自分が不健康な人間を見下していただけだ。今まで亡くなった患者やパディもこのような沈んだ気持ちだったのだ。
「アルペンローゼさん、ごめんなさい…」
リリカは泣きながら床に就いた。
外が真っ暗になった頃、ドアがノックされた。
「リリカ君、入っていいかい?」
リリカが返事をしぶっていると勝手にパディが部屋に入って来た。ベッドで横になるリリカにパディが優しく言った。
「サーキスたちから聞いた。君の心臓が癌にかかってたなんて…」
どのように言葉をかけていいのかパディは迷っていたが。
「…君がいなければ僕はとっくに死んでいた。生きようとする力もなかった。君を僕より先には死なせない…」
そしてパディは意を決して言った。
「君を治す方法が一つだけある。心臓移植だ。誰かから心臓をもらおう。君を救うためなら僕は悪魔にでもなる。僕は君を愛している。リリカ君、結婚してくれ」
「パディ先生…」
「病気の進行を止めるために明日ギル君に君を殺してもらおう…」
リリカはうなずいた。そして二人は大粒の涙を流しながら唇を重ねた。
翌朝、病院の診察室でパディとリリカが並んでギルとサーキスにお互いの気持ちとこれからの決意を語った。
「僕はリリカ君と結婚する。そして絶対に命を助ける。どんなことをしようといとわない。君たちも力を貸して欲しい」
並ぶパディとリリカがすすり泣く。涙が床に落ちるほど号泣しているとおもむろにサーキスの声が漏れ出た。
「ふふっ…」
あろうことか二人をサーキスが笑った。正気とは思えなかった。
「はははは!」
「笑うな!」
それでも笑うことをやめないサーキスに「何がおかしい!」とパディはサーキスの頬に拳を喰らわせる。そして慣れないことをしたパディの方が手首を痛めた。
ギルが平然としてパディの右手に回復呪文を唱えた。それは不可思議で異様な光景だった。
「何なんだ君たちは…」
サーキスがしらっと言う。
「嘘だよ」
「え?」
「リリカが、癌ってのは嘘なんだ」
「はーっ⁉」
「あのね、パディ先生って心臓が治っただろ。リリカと先生の気持ち的な障害って心臓のことで、それが治ったらパディ先生は告白するって思ってたんだ。それをなかなかしないから…。ヘタレな先生に業を煮やしたギルがパディ先生を騙そうってことになったんだ」
ギルが補足する。
「リリカの命がヤバいことになれば、あんたは必ず本音が出るはずと。あんたはびっくりして心臓発作を起こすのではないかという懸念があったが、この医者見習いはたぶん大丈夫だろうとテキトーなオーケーを出した。主治医は選びたいものだな」
「選べないよ…」
リリカは茫然自失という表情が続いている。
「嘘をついてごめんな、リリカ。つらかったろう」
「すまなかったリリカ」
二人はリリカの方だけに頭を下げた。
「でも意気地がないおっさんに背中を押せて俺は満足だぜ。だけど先生、浮気したら俺は許さないよ。アームロックをお見舞いしてやるぜ」
「俺様は十パーセントぐらいの力で殺人パンチを喰らわせてやるぞ。死ぬなよ」
「殺す気満々じゃないか…」
「ふふ…」
やっとリリカの笑顔が見られたところでサーキスが快活に言った。
「ちょうどここになんちゃって牧師さんがいるぜ! 結婚の誓約をやってもらおうぜ!」
「ふむ。俺様は寺院を一軒崩壊させるぐらいのプロフェッショナルだぞ。任せろ」
「じゃあ、頼むよ」
リリカは照れた笑顔でパディを見上げる。
二人はギルの前に並んで厳かに立った。サーキスは少し離れた場所から三人を眺めている。
「これより結婚の誓約を始める。…パディ・ライス、汝は病める時も健やかなる時も、豊かな時も貧しき時も、喜びにつけても悲しみにつけても、生涯の伴侶としてリリカを妻にすることを誓うか?」
「誓います」
「リリカ。汝は…」
「ちょっと待って」
嬉し涙に変わったリリカが一度言葉をさえぎった。
「病める時も健やかなる時もって今までのあたしたちみたいだなって……ははは…」
パディも同意する。
「だよね! 豊かな時は一瞬もなかったけどね! リリカ君…貧乏は続くと思うけど、いいかな…?」
「いいですよ!」
「投げやりだなあ…」
パディたちのやり取りにサーキスが元気よく言った。
「一番厳しい時を乗り越えたんだ! 二人ともこれからの人生は楽勝だぜ!」
「では続けるぞ。リリカ、汝は病める時も健やかなる時も……」
(アルペンローゼさん、ごめんなさい。そちらにはまだ行けそうにもない。あたしはまだまだこちらで頑張るわ!)