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第十七章 私に関するいくつかの事情 ー 初恋

 ピンクの服、冷たい手、作られた笑顔 

 それらのイメージや感触、つまりそれらに対する私の印象は強い熱によって溶接されたかのように私の心のどこかに鮮明に焼き付いていた。 そして、それらが繋がってある物語、または私の記憶となって時折蘇った。 

 ただ、私の心の中からそれらの印象が消え始めていた。 感覚としてはどこかにあるのだが、思いっきり手を伸ばしても届かない空の星の様なものになっていた。 それははるか遠くから見ればすべて美しく輝き、私の心を暖かくする。 しかし、実際には手に取れない。 そんなものは本当に存在するのか、自分の思い違いなのではないのか、誰かの話を聞いて自分のものと取り違えているのでは・・・

 私は未だに気を失って横になっているグレースの手を取り、両手で軽く握りしめた。 彼女の手をとった瞬間、ひんやりとした皮膚の感覚が私に伝わってきた。

 冷たい手、ピンクの服、作られた笑顔

 ある記憶が私の中で構築されようとしていた。 それはもちろん記憶などではなく私が思い起こしたい物語なのかも知れなかったが、そんなことは関係なかった。 人間は一度しか同じ経験を出来ないのだから、その時の思い出が正しいとか間違っているとかそんなことはあまり意味がない。 それよりもその記憶、または構築された物語から何を得るのか、何を作り出すのか、そう言った方が重要であると私は思った。 

 私はグレースの手を取り、彼女の顔を眺めながら、ある女性のことを思い出した。 それは彼女に似ているようでまったく似ていない女性だった。 もっとも、女性の顔にはそれなりの種の表現があるので、それを私は感じ取ったのに違いない。 それは自身で何かを生み出せる力を持ったものの誇りだった。 

 もちろん、私の心は勝手にその人の顔をグレースに近づけていた。 

 あの人はもう少しまつ毛が長かったかなとか、肌はミルクチョコレートに赤みが混ざったようだったかなとか。 実際、グレースとは似ても似つかない人だった。 

 ただ、私の記憶から消そうとしても決して消せない、消えることのない人だった。 

 そう、私は思い出した。 手に届かないと思われた星に指先が触り、一つの記憶、物語が蘇ってきた。 

 恐らくそれはあまりにも私にとって衝撃的な出来事だったので本当にそんなことが起こったのか信じられなかったのだろうと思う。 ただ私の心の中でそれはゆるぎない真実だった。 

 子供の頃から私は肌で感じる感触が好きだった。 手や指はもちろん、頬や背中やふくらはぎなどにものが触れる感覚が気持ちよかった。 両手を太陽の方に向けて、日の光がじんわりと指先から手のひらへと伝わってくる感じは最高だった。 また、気持ち良くはなかったが、冷たい水に指先を入れるときの恐怖にも似た感触も嫌いではなかった。 

 私の持つ世界との交流とはそういうものだった。 それ以外の方法での交流はあまり好きではなかったというか上手ではなかった。 言語による表現も読む事なら大好きだったのだが、話すことは何か間違っているような気がした。 自分の心を無駄にしているような気さえした。 そんな価値観を共有している人間など他にはいなかった。 いや、もしかしたらいたのかも知れなかったが、それを認めることが恐ろしくてそうしなかっただけかもしれなかった。 

 ただ一人、私のことを理解してくれる人がいた。 その人も同じ感覚を共有していて、それを恐れるようなことはなく、さらにそれを楽しんでいるような感じさえもあった。 

 それは確か私が今現在住んでいるドームに行く前の事だった。 その時の私は体は半分大人になりかけのそれでいて自分では何も出来ない決められない位の年齢だった。 世界のすべてに興味があり、私の心は恐怖と好奇心で満ち溢れていた。 

 その場所に私はどれくらい住んでいたのかはっきりとはわからなかったが、いわゆる思春期の半分以上はそこで過ごした。 

 その建物からは森が見えなかった。 四方が大きな白く高い壁で囲まれて、窓がなかった。 部屋自体は明るく広々として、実際どのくらいの広さだったのかわからないくらいだった。 

 そこでの私は自由だった。 前にいた場所と違い、与えられたものから何をするのではなく、自ら欲するものを選びそしてそれを使って好きなことをした。 

 壁には無数の棚があり、そこからなんでも取り出して好きなことが出来た。 大きな壁は私にとってカンバスの様なものだったので、私はその棚からクレヨンやら絵の具やらマーカーなどを取り出して、自分の好きに描き始めた。

 私は特に何を描こうとした訳ではなく、ただ単に壁を埋め尽くすことだけに執心した。 私は学校で絵の描き方を習ったこともないし、大体学校自体に行ったこともなかった。 世界のどこかに今でもあると言われている過去の芸術の遺産のことなども知らなかった。 私の知っている世界は昔いた部屋と今いる部屋、そして私自身の心の中だけだった。 

 私は起きると特に何も考えずにその棚に行って、特にどの色を選ぶということもなく、手に取ったクレヨンを使って白い壁を塗り始めた。 初めて選んだ色は偶然かもしれないが緑色だった。 その時はその色が自分にとって意味のあるものだとは思っていなかった。 私はその緑色のクレヨンで線を引き始めた。 できるだけ途切れのないようにそのクレヨンを壁につけたまま私は部屋の中を回った。 すると一つの線が出来上がっていったのだが、私は面白いことに気が付いた。 その壁は一見真っ平のように見えたのだが、線をなかなかまっすぐ同じように引くことが難しかった。 ある時は細くなったり、ある時は少し跳ねたりして、きれいな自分の思い描く線は見えてこなかったのだが、それも私は面白かった。 それで緑のクレヨンが指で持てないほど擦り切れるまで何度も部屋の中を回った。    

 そして、緑が終わると赤、オレンジ、青と言ったように特に意味もなく、同じように線を引いた。 クレヨンに飽きるとそのすぐ隣にあった絵の具を取り出し、そのふたを開け、そのまま壁にこすりつけた。 筆とかヘラなどの他の道具もそこに入っていたのだが、私はそれが道具だと言うことも知らなかったので、何に使うまでもなく、放っておいた。 

 絵の具はそれ自体がおもちゃの様だった。 壁にこすりつけようとチューブの腹を押すと、大量の絵の具が飛び出して、そのまま床に落ちてしまった。 私はそれを出来るだけ丁寧に片手で拾い上げ、壁に押し付けた。 壁にはきれいな緑色の手のひら大の模様が映し出された。 自分の手を見ると、そこにも緑色があった。 手のひらにはまだ濡れた感覚が残っていたので、私はその手を他の何も描かれていない部分にこすりつけた。 すると、流れるようなそんな形が出来た。 それは私の新しい発見であった。 

 それから私はいろいろな色を手に取り、壁に擦り始めた。 どの色とどの色を組み合わせたらきれいに見えるとか、そんなことは毛頭考えていなかった。 色と色が偶然にも重なり、それが新しい色を作り上げる、それが私の発見だったのだが、それ自体私はどうも思わなかった。 それよりも部屋の中をクレヨンよりも早く埋め尽くす方法が出来たので、それが私にとってとてもうれしかった。 

 一日も終わるころ、といっても私には時間の感覚がなかったので、何が一日なのか、いつが昼間でいつが夜なのかさえも知らなかったが、部屋の中がうっすらと暗くなり始めた。 そして、床に光の線が現れ、部屋全体に優しい女性的な声が響いた。

「光をたどり、体をきれいにしなさい。」 

 そうその声は言った。 

 その声は以前ヘッドギアから流れてきた声とは違った。 その声ははっきりと女性だとわかる声だった。 ただ私自身、性に関してあまりはっきりした認識がなかったので、その寛容的な言葉の響きに母性を感じた、と言った方が正確だろう。 それは私がどんなことをしても受け入れると言った慈愛に満ちていた。 

 それゆえ、私はその声の指示に素直に従った。 

 光をたどって歩いて行くと私は一方の壁にたどり着いた。 光はそこで止まっていたが、数秒もしないうちに私の待っている目の前が扉のように横に開いた。 床を見ると光は続いていて、私はまたその光をたどり始めた。 

 今までいた部屋から出ると後ろ手に扉は閉まった。 すると耳に何かが聞こえてきた。 その何かは大きくなったり小さくなったり、いくつかのフレーズを奏でると今度は少し違ったフレーズに代わりまた何回かそれを繰り返した。 それが音楽だと言うことはその時は知らなかった。 のちほど、現在のドームに移り住み始めて、似たようなフレーズをマーケットで聞いて、これは何ですか?と真顔でそこの店員に聞いたら、変な顔をされたことがあった。 すぐ隣で野菜を品定めしていた初老の夫人が私に近寄り、「たぶんモーツァルトじゃないかしら。」と耳打ちした。 その時もモーツァルトと言う言葉自体それが何なのか知らなかった。 それをどうしていいかわからず、調べる手立てはあったのだが、調べないで置いた。 初めて、バーでサミュエルにあった時、彼はヘッドフォンで何かを聞いていた。 私は何の恐れもなくただひたすら純粋に、

「それはモーツァルトかい?」

 と聞いた。 

 サミュエルは何?と言う顔をしてヘッドフォンをはずし、私の耳のそばに近づけた。 

 それは以前スーパーで聞いたような秩序のあるものではなかった。 もっとも無秩序であった訳ではなく、まったく別の次元の激しくそして繊細な秩序がそこに存在した。 

「これはコルトレーンさ。」 

 サミュエルはしばらく私にコルトレーンを聞かせた。 

 その場に二人女性が私たちを囲むように現れて、もっともそこは大人が社交をする場所であったのでそれは至極当然の行為であった。 その二人のうちの一人がこう言った。

「珍しいものを聞いてるわね。」

「わかるのかい?」

「私の父親が聞いていたわ。」

 そして、そのまま二人は気が合ってドリンクを持って別のテーブルに行ってしまった。 その女性はのちに彼の妻になった。 

 私は残された女性と少しだけ話をしたが、その女性は私に興味を失って、すぐにどこかに消えてしまった。 私の心はその時はコルトレーンで満ちていた。 

 いずれにせよ、その扉を開けた瞬間に私はモーツァルトの洗礼を受けた。 扉の向こうは暗闇だった。 床の光はゆっくりとまっすぐな線を描くように輝いた。 私の立っていたのは細長い通路で、すぐ目の前に扉が見えたが、光の線が通路の中ほどで止まった。 

 私は光が止まるのに合わせて立ち止まった。 すると、しゅうっと言う音とともに部屋がきめの細かい蒸気でいっぱいになった。 蒸気は私の肌に吸いついて、そして体全体の汚れを落とし去るかのようにして床に流れ落ちた。 私の着ているものについていた絵の具の汚れも流れ落ちた。 蒸気はむせつくように私の立っていた通路全体を埋め尽くした。 私は何故かのどが渇いて蒸気が水滴になって私の顔に流れているのを受け止めようと口をぱくぱくさせた。 水滴は思うように流れ込んでは来なかったが、水が跳ねて舌にあたり、それをのどに押し込むようにして味わった。

 少しして蒸気の流れるしゅうっと言う音が止まり、そして今度はぶーんと暖かい風が壁全体から私にめがけて吹き付けてきた。 

 濡れた全身はあっという間に乾いた。 私の体に張り付いていたシャツや服もじょじょに離れていった。 やがて暖かい風は弱くなり、そして止まった。

 私は自分の手足、シャツの袖からズボンのかかとの部分まで丁寧に見回した。 私の体全体はすっかりきれいになっていた。 

 床にまた例の光の線が現れ、それに従い前に進んだ。 何歩も歩かないうちに私は新たな扉に付き当たった。 ただ、その扉は私が何もせずに勝手に開いたので、私は何の疑いもなく次の部屋に入った。

 その部屋は私が足を踏み入れる瞬間まで暗闇に包まれていて、私の足が床に触れた途端に至極ゆっくりと蓮の花が朝日にふれて広がるように部屋全体が明るく光を放射し始めた。 それは眩しいというより優しいという感じで私の目に映った。 

 この部屋もまた真っ白であったが、いやな感じはなかった。 かえって昼間ずっといた部屋と一緒だったので安堵感を覚えたくらいだった。 

 その部屋の中央にはちょうど二人位が座れる小さなテーブルに椅子が二つ置いてあった。 テーブルにはすでに食事の用意がしてあった。 小さな皿の上にきらきらと光っている例の実の切り身が置いてあった。 それは私が子供のころから食べなれていたものだったので、それ以外に食べるものを私は知らなかった。 以前にいた場所でも寝る前にその実を一口、二口食べて、それでもう満足で毎晩いい夢を見たような気がする。 

 私はその実をまるで初めて食べるかのようにして食べた。 実際、その実は何度食べても何故か飽きることがなかった。 口に入れた瞬間に広がる甘酸っぱさや舌の上で溶けてしまうような柔らかさ、そしてそのひんやりとしたような感触がのど越しを伝わっていくのだ。 それが何度食べても同じように新鮮に感じられた。 

 食事が終わると座っている椅子が後ろに倒れて、満腹のおなかが気にならなくなった。 私は頭の中で今日一日の作業を繰り返している。 

 緑の世界、赤の世界、黄色の世界

 目を閉じるといろいろな色の世界が頭の中を交錯した。 

 私は何を描こうとしているのか? 

 自身は何の目的もなく、描いていると思っているのだが、そのいろいろな世界がパズルのピースのように組み合わさって何か大きな世界を作り上げているような、そんな気がしてならなかった。 

 いつの間にか部屋は薄暗くなり、私は眠気で意識がぼうっとし始めた。 すると、壁から蚊の鳴くような音量である歌が聞こえてきた。 


 森へ行きましょう 

 深い深い森へ 

 そこはすべての始まり

 そしてすべての答えがあなたを待ち受けている 

 さあ、手をつなぎ

 歌声も高らかに歩きましょう 

 光を求めれば決して迷うことはありません 

 さあ、恐れずに、光の導くままに 

 森へ行きましょう 

 深い深い森の奥底へ


 私にとってそれは至福の時間であった。 目をつぶりながらその歌に心を任せると何故か私は誰かの胸に抱かれ、心地よく寝ているようなそんな気分になった。 その誰かは私の髪をなで、そこに口づけし、私をどこか別の素晴らしい世界にいざなった。 

 このままでずっといられたら

 私は心の中でそう強く願った。 強く、強く願った。


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