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プロローグ

 西暦三千年、世界は森になっていた。 国家や文化やありとあらゆる人間の作り上げてきたものを森が飲み込んでしまっていた。 過去の千年における異常気象、人口の減少、経済活動の滞り、すべての事象が偶然に重なり合って、現在に至っていた。 そうなってしまったことをどこかの個人やどこかの国家にすべて責任を押し付けることは出来なかった。 なぜならすべての始まりは一つの種であり、そこから広がった自然はすべての人間にとりあえず最初のうちは歓迎されたのだから。 

 その種は芽を出し、あっという間に大きな木となった。 おして心を奪われんばかりの美しい花を咲かせ、そして人間にとって必要なあらゆる栄養素を含んだ実をならせた。 その木は極端な熱さや寒さに抵抗力があり、その根はほんのかすかな湿り気でさえも吸収し、太陽の力を借りて大きく育った。 水のあまりない砂漠地帯はもちろん、水の害で毎年悩まされるような地域では水を体内に貯め、必要以上に人間の居留地に水が流れ込まないようにした。 そんな木を皆はワンダーと呼んだ。 

 一部の人間はそんな木は悪魔の所業だと、他の人々に訴え始めた。 それは当然であった。 どこからやってきたのか、どうしてそんなに生命力が強いのか、なぜ、人々はその実を飽きずに食べ続けられるのか、まったく不思議な存在だったからだ。 その植物が初めて出てきたのは、およそ八割が破壊された南米の森林だった。 その土地にどこからか若い日本人と恐らく南米出身であると思われる女性が小さな家を立て、自給自足の生活を始めた。 時には必要な物を買出しに近くの街にも行ったが、自分たちで作った菜園と近くの森や川からの恵みで生活していた。 その二人がその種をどこで見つけたのか、それとも自身らで改良したのかは分からなかったが、そこで栽培を始めたことだけは確かだった。   

 唯一、交流のあった地元のハンターが一度その実をもらい、それからすぐそばの街に広がっていった。 それはすぐに街で評判となり、その街の名物となり、いろいろな人がやってきて、その実を食し、楽しんだ。 ただし、だれにも種だけは持ち帰らせないようにした。 

 ある日、遠い大陸だか半島から来たという旅行者が来た。 痩せて小柄で威圧感はなかったが何を考えているのか分からないと言った風な輩だった。 その男は世界を旅して商売をしていると会う人々それぞれに言った。 その男の取り扱っていた商品はどんな病気にも効く飲み薬とかどんなところにもかけるペンだとか、物珍しいものばかりで、街の人々もその男の話を興味深く聞いたが、実際、サンプルもなく話だけだったので、まったく信用にかけるものだった。 お金をもらえば次の時に持ってくるというのが男の言い分だったが、誰一人としてその男の言うことをうのみにしたものはいなかった。 

 二、三日、男は街でゆっくりしていたが、商売にならないと思ったか、その街を離れることにした。 宿を出たすぐそばで、数人の子供が例の実を食べていた。 男は小腹が空いていたので、なんとなくその実が気になって子供たちに一つその切り身をもらって食べてみた。 口に入れた途端、甘く深い味が舌先だけでなく体全体に広がった。 おいしすぎて腰をぬかしそうになった。 それと同時に、これは商売になるぞと確信した。 

 男は子供たちにどこで手に入るのかを聞いたが、子供たちは誰にも言ってはいけないと親から言われていたので知らないふりをした。 男は騒ぎを立ててはいけないと思い、いったん街を離れるふりをして、近くの小高い山に上って街を眺めた。 するとおかしなことに気が付いた。 街の中心に高い壁で囲まれた場所があって、何かそこに隠している様だった。 男は焦りは禁物といったん山を降り、隣の大きな町に行った。 そこで一番高い料理店に入り、一番いい女を買い、一晩中その女をむさぼった。 男は冷静になるためにいつもそうした。 

 翌朝、男は例の実を食べたときの高揚感が続いているのを感じた。 眠くて疲れていたのだが、横で寝ていた女を叩き起こしてその体をむさぼりたくなる衝動にかられた。 あの実には何かある、その確信は変わらなかっただけではなく、より強くなっていた。 そのせいか男は必要以上に慎重になっていたので、仲間を呼ぶことにした。 地元の人間を雇った方が早かったのだが、男は同輩のみとその利益を独占したかったので、時間はかかっても同輩を待つことにした。 

 数日して同輩が三人暗闇にまぎれてやってきた。 男は三人にことの次第を告げると、早速身支度をし、例の実のある建物に向かった。 行く途中誰も口を聞かなかったし、どこにも目をやらなかった。 四方を壁に囲まれた建物には入口がなかった。 高さは十メートル以上もあり、尋常の人間では登ることは不可能だった。 そこへ街の住人が籠を持ってやってきた。その住人は顔に鼻を覆うほどのマスクをしていて、建物から少し離れた小屋に入った。 そして十数分後にその住人が籠一杯の例の実を持って出てきた。 男たちは小一時間ほど息をひそめて近くの闇の中に身をかくして、そして誰も人影がなくなった頃を見計らって、小屋に向かった。 小屋には鍵がかかっていたが、三人の一人がそれを器用にはずした。 小屋の床の真ん中に小さな穴があって梯子がかかっていた。 その梯子を下り、短いトンネルを抜け、また別の梯子を登ると、何やらきらきらとした光が差し込んできた。 それと同時にあの甘い香りも鼻腔に忍び込んできた。

 男が梯子を登り地面に這い上がると、そこは思った通り例の四方を壁に囲まれた建物の中だった。 もっとも、出た瞬間はきらきらした光のせいで頭がくらくらして、あたりを見回しても何がなんだかわからなかったが、次第に目が慣れてくると、そこの中心に大きな木がそびえたち、光り輝く実を枝にたくさんならせているのが目に入った。 同輩の三人は地面に登りあがるや否や、いてもたってもいられない様子で、浮足立っていた。 男にしてものどから手が出るほどその実を食したかったが、先の街の男が顔を覆っていたことが何故か気になって近寄ることを躊躇した。 そうこうするうちに同輩の三人のうちの一人がぱっと木に近寄り、実を一つもぎり取った。 その一人が実にかぶりつくと実の汁が飛び散り、より濃厚な甘い香りがぱっと広がった。 

 男はあとの二人に様子を見ようと注意しようとしたが、甘い香りのせいでうまく言葉が出ないほどだった。 すると、他の二人も我慢しきれずにその実をもぎり取り、食べ始めた。 最初に実を食べた同輩は二つ目に手を出していた。 あとの二人もそれに習った。 三人とも何かにとりつかれたように一心不乱に実を食べていた。 男も心を奪われたかのように、一歩一歩実のなる木に近づいていった。 口の中はすでに唾液でいっぱいになっていて、唇の端から流れ出していた。 頭はくらくらというよりもぐらんぐらんと回っていて思考能力がほぼなくなっていた。 

 男は必死に実を食べ続ける同輩たちに目向きもせず、光り輝く木の実へそそくさと歩み寄った。 そして、もうすぐ木の実が手に届くか届かないかのところで何か硬いものにぶつかり、転げそうになった。 ふとほんの少しだけ我に返った男は、その硬いものをにらみつけた。 その硬いものとは小さな木だった。 その姿かたちから見て、真ん中にある大きな木と同じ種に思えた。 まだ低く細い木の枝にはいくつもの小さな芽がはじけんばかりにあった。 男はそんなことはどうでもいいんだよと自分に言い聞かせようとしたが、おかしなことに気づいた。 その若い木はなぜか人の着る洋服を着ていた。 男は実が欲しくて気が狂わんばかりだったが、そのことがやけに気になり始めた。 周りをみるとのいくつか同じような木が人間がやはり洋服を着て立っていた。 なぜ、木にそんな洋服を着せておくのだろうと不思議に思った瞬間、ぞくぞくっと体の心から震えが来た。 手が震え、膝ががくがくし、その上心臓さえもバクバクし始めた。 

 男はゆっくりと後ろを振り返ると、言葉を失った。 叫ぶこともできなかった。 振り返って男が目にしたものは目から口から芽が生え枝が伸び、足元から根が張っている同輩たちの姿だった。 男は恐怖で指先まで凍り付いたように動かせなかった。 息をすることさえ忘れていた。 逃げたいと必死に思ったが、例の匂いが否応なく鼻腔に響き渡り、全神経を誘った。 その時、男はあの住民が顔を覆っていたことを思い出した。 思いっきり息を吸い込むと肺がきりきりと痛んだ。 重くなった腕を持ち上げ、鼻をつまんだ。 匂いがようやく消え始めた。 それと同時に恐怖心や実に対する好奇心も薄れ始めた。 男は鼻をつまんだまま、足元に一つ転がっていた実を手に取りシャツの胸元に放り込むと後ずさりし、(もと)来た穴の中に転げ落ちるように入り込んだ。

 男は小屋を出て遠くへ遠くへと走った。 何度も何度も胸元の実をほおばりたいと思ったが、必死の思いでとどまった。 小一時間もすると汗が渇ききって、膝ががくがくし、もう一歩も歩けなくなった。 それでも、実に手を出さなかった。 月の明かりの中、男は倒れた。 もう、どうにでもなれと思い、胸元から実を取り出し、それでも用心深くその実のすみをちぎって口の中に放り込んだ。 まるで夢の中のような耽美的な瞬間を体全体で味わった。 同時に口の中に感じた硬いものを吐き出した。 種だった。 黒くて硬いコメ粒ほどの大きさの何の変哲もない種だった。 その時、男は子供たちに分けてもらった実には種がないことを思い出した。 それに気づくと、男は一息にかぶりつきたいのを我慢して、丁寧に種を取りつつ、実を食べた。 取り出した種をシャツのポケットに入れ、そのまま横になり眠り込んだ。 

 翌朝、一番の船で男はしばらくぶりに自分の家に戻ることにした。 もとより故郷を離れることになったのもそこに何もなかったからだった。 そこは砂だらけの土地で夢や希望さえも育つ気配がなかった。 船上、男は自分の持つ種で自分の故郷が緑でいっぱいになることを想像し、わくわくした。 まるで子供の頃に自分は空が飛べるのだと信じていた時のような高揚感を感じていた。 地元の港に着く前の晩に男はある夢を見た。 男は夢の中で妻をもらい、子供に恵まれ、緑のある平和な森で暮らしていた。 ただおかしなことに男の家には外から鍵がかかっており、表に出られなかった。 窓から森を眺めると森の一つ一つの木がいろいろな洋服を着て、例の実をたくさんならしていた。 男は驚愕して声が出なかった。 

 すると彼の妻と子が窓の外で実を今にも手にとって食べようとしていた。 男は叫ぼうにも声が出ず窓を何度も何度も開けようとしても開けられず、妻と子が実を食べようとしているその瞬間を極度のスローモーションで眺めていた。 絶望だけしかなかった。 

 それから、その男が本当に自分の家に戻ったのか、それとも別の場所に行ったのか、誰も知らなかった。 一つだけ確かだったのは、男がどこかに種をまいて、それが広がっていった事だった。 それが林となり森となり、それは人だけではなく、動物や他の植物の存在さえも脅かし始めた。 そしてそのワンダーと呼ばれた木が世界を覆いつくし始めた。 

 実際のところ、どうやってそのワンダーの木が世界中に広まったことについては他にもいくつか説はあったのだが、先の話がもっとも信憑性が高いと思われていた。

 もちろん、その説でさえすべてが本当だったかというとそれは誰にもわからなかった。 その始まりからすでに千年近くの長い時が立ってしまっていたし、その実際の実を見たものも食したものも存在しないと思われていた。 

 理由はいずれにせよ世界は森に包まれていた。 地上がすべて森になってしまったと言った方がいいのかもしれない。 そして、人類はドームと呼ばれる森を見晴らす小山ほどもある人工の建造物の中で暮らし、森との共存を図っていた。


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